三十二 偵察
岩混じりの荒涼とした砂漠の中を、数騎のラクダがゆっくりと進んでいた。
先頭を務めるのは上に立つ者の義務であり、ジャミラも当然のようにそうしていた。
「牧童たちは、いまだに投石器を使っているそうだな。
石はどれほど飛ばせるのだ?」
ジャミラは、少しだけ下がっている部下に訊ねた。
会議の場で盆を持ってきた、シャヒードという男だ。
どうやら彼は、ジャミラの側近という立場らしい。
ナフを含む首長国連邦でも、農耕は重要な産業だが、水の関係で適地は限られている。
それに比べて、圧倒的に広い砂漠地帯では、主として遊牧が行われていた。
砂漠とはいえ、まったく雨が降らないわけではなく、短期間に集中的な豪雨がある。
雨が止んだあとには、一斉に植物が芽を出し、信じられない規模の草原が広がる。
ただし、その奇跡は数週しか続かず、すぐにまた砂漠に戻る。
砂漠の民は、蜃気楼のような草地を追い、ヒツジの群れを連れて移動を繰り返すのだ。
身を護る術を持たない家畜は、肉食動物にとっては恰好の獲物となる。
砂漠にはネコ科の大型猛獣や、オオカミなどの危険な群れが棲息しており、その襲撃は遊牧民の悩みの種だった。
それらを追い払うのに重宝されたのが、投石器であった。
ちなみに、サラーム教国の軍では、馬上弓と半月刀が主力兵器である。
ラクダ騎兵による機動戦を得意とする彼らは、騎乗したままでは使えない投石器に、興味を示さなかった。
「そうですな……。
確かな調査があるわけではありませんが、最大で三百メートルは飛ばせるそうです。
ですが命中精度を考えると、有効射程は二百メートル以内でしょうな」
シャヒードが髭をしごきながら答えた。
彼はジャミラより遥かに小柄だったが、年齢はずっと上のように見える。
「そうか、ではこの辺でちょうどよいか」
ジャミラは手綱を引き、ラクダを止まらせた。
塹壕からの距離は、およそ二百五十メートルというところだろう。
先ほどは小さかったオークの顔が、大きくはっきりと見える。
「オークどもは、少し慌てているようだな。
こちらの目的を測りかねている……といったところか」
オークたちは、十騎に満たない彼女たちを偵察と判断し、取りあえずは追い払うことに決めたようだった。
塹壕から出ているオークの頭上で、次々に投石器が回され始めた。
「ほう、ずいぶんと腕が長いな。
投石にも適しているだろうが、あれは接近戦でも有利だぞ」
「感心している場合ですか。石が飛んできますぞ」
「分かっている。お前たちこそ、あまり私から離れるな。
そろそろ来るぞ!」
ジャミラの声が、鋭さを増した。
攻撃の号令は聴こえなかったが、オークの頭上から黒い粒が一斉に放たれた。
視力のよい砂漠の民でなければ気づけない、芥子粒ほどの大きさである。
それが、あっという間に大きくなって迫ってくる。
だが、ナフの兵士たちは微動だにしない。
逃げる素振りも示さず、顔を庇うことすらしなかった。
ただひとり、ジャミラだけがすっと右腕を上げた。
掌を相手に向け、『止まれ!』と石に命じるような仕草である。
普通なら、何の効果もない無意味な行動である。
だが、驚くべきことが起きた。
およそ三十個近い石礫が、ジャミラたちの目前でぴたりと静止したのだ。
それらは推進力を奪い取られ、ぼとぼとと地面に落ちて転がった。
「驚いたな……」
ジャミラは暴れるラクダを抑え込みながら、ぼそりとつぶやいた。
しかし、言葉とは裏腹に、その表情は平然としている。
「恐ろしいまでの威力と正確さだ。シャヒードはどう見た?」
「はい。どの石も、明らかにラクダの頭を狙っていました。
ただ当てるつもりなら、大きな胴体を狙うべきでしょうに、わざわざ的の小さな頭を狙うとは、よほど腕に自信があるのでしょう。
ジャミラ様が防がなければ、恐らく半分以上が命中していたでしょうな」
側近の言葉に、ジャミラはうなずいた。
「確かめておいてよかったな。
帰ったらアシッドに、三百メートル以上近づくなと忠告してやろう。
しかし、これだけの腕があるなら、なぜアシッドの本隊は無事だったのだ?
奴の話では、本隊の位置は二百メートルを切っていたはずだが……」
「わざと見逃したのでしょうな。
アシッド百人長に、〝二百メートル離れていたら安全〟と誤認させるのが目的でしょう。
何も知らなければ、次の攻撃で彼の百人隊は、大損害を被ったはずです」
しかし、ジャミラは納得しなかった。
「解せぬな。
それほど知恵が回るなら、なぜその前に手の内を明かす?」
シャヒードは『ふむ……』と唸りながら、髭をしごいた。
「アシッド隊の攻撃は、今朝の未明のことです。
いま塹壕の守りについているオークたちは、その時の部隊と異なるのでしょう」
「指揮官の能力にバラつきがある……ということか?」
「御意。すべてのオークが賢い、というわけではありますまい」
「なるほどな……。
おっと、話し込んでいる場合ではなかったな。
目的は達した。引き上げるぞ!」
ジャミラはラクダの向きを変え、踵で腹を蹴った。
塹壕では、オークたちが再び頭上で投石器を回し始めていたのだ。
彼女は部下たちが後に続くのを確認すると、前に向き直った。
ふと気がつくと、手綱を握る右手から、黄色い煙が上がっていた。
「いかん、忘れていた」
ジャミラは慌てて、手を大きく開いた。
彼女の掌には呪符が貼られていて、それがぼろぼろに崩れ、煙を噴き出していたのだ。
「相変わらず酷い臭いだな……」
彼女は顔をしかめ、貼りついた呪符の残骸をはがして捨て去った。
それは、敵の攻撃を防ぐ呪術(魔導士が使う、物理防御魔法のようなもの)を封じた札だった。
オークたちの投石を直前で止められたのは、この呪符のおかげである。
便利なものだが、一度しか使えないのが難点だ。
そして効果を失うと、このように煙を噴いて自己崩壊するのだが、その時に強烈な悪臭を放つ。
ジャミラはその理由を知っていた。
呪符の製法はこうだ。
まず、人間の肌に呪文を刻み込み、生きたままその皮を剥がして、陰干しにする。
材料となる人間は、男と交わったことのない若い娘が最上級とされる。
呪文を刻むインクは、その娘の経血に童貞の精液を混ぜ、煮詰めて作るのだという。
想像しただけでも、反吐が出そうな話だった。
* *
塹壕のオークを率いる指揮官は、少し混乱していた。
彼は敵の小集団を、偵察だろうと判断した。
相手がある程度の距離まで近づいたところで止まり、それ以上動こうとしなかったからだ。
放っておいても実害はなさそうだが、敵の好きなように観察されるというのも業腹だった。
そのため、彼は少し考えただけで、敵を攻撃することにした。
これは彼の部隊にとっての初陣で、朝の連中同様に手柄を上げたい……という、欲も正直あった。
これが人間の軍隊組織であれば、持ち場の交代時に、申し送りがされたはずである。
当然、相手を油断させるため、あえて敵の本隊を攻撃しなかった事実も、きっちりと伝えられただろう。
だが、オーク戦士団は、もっと規律の弱い個の集まりである。
この指揮官が聞かされたのは、輝かしい勝利と戦果の自慢であった。
そのため、例え相手が小人数であろうと、手出しをしないという選択肢は、思い浮かばなかったのだ。
指揮官は塹壕内に伝令を走らせ、一斉攻撃の指示を出した。
二百五十メートルという距離は、かなり難度の高い目標ではある。
だが、相手は挑発するかのように、突っ立ったままで動かない。
これなら、村で遊んでいる的当てと変わりない。
彼と部下たちの腕なら、少なくとも半分は当てられるはずだった。
実際、彼らの攻撃は、指揮官の予想以上の精度で敵を襲った。
それなのに、一頭のラクダも倒れない。これは、信じられないことだった。
オークたちは、それほど視力がよくない。
一般的な人間と同じか、それより少しましな程度だった。
ジャミラたちが相手の表情まで確認できていたというのに、オークたちはそこまで見えていない。
投げた石がちゃんと当たったのかどうかも、よく確認できなかったのだ。
分かったのは、敵兵とラクダが平然と立ち続けていたという現実である。
もちろん、ジャミラが呪符の効果を発動させ、投石をすべて防いだことなど、彼らが知る由もない。
指揮官は、三十発の投石がすべて外れたのだと、無理やり自分に納得させるしかなかった。
頭に血が上った彼は、当然のように再度の攻撃を命じた。
しかし、次の攻撃準備が整う前に、敵は背中を向けて逃げ出してしまった。
相手との距離がどんどん離れる上に、今度は動目標である。
それでも攻撃を強行するほど、この指揮官は愚かではなかった。
敵は倒せなかったが、追い払うことには成功したのだ。
そのちっぽけな戦果で満足するしかない。
指揮官は、自分に言い聞かせることとなった。
『追い払えば十分だろう。
たかが物見、大した敵ではなかったのだ』
当り前の話だが、相手が敵将だと気づいた者は、誰ひとりとしていない。
そもそも、オークたちはジャミラの名前すら知らないのだ。
ただ、この小さな事件は、次の交代後、ウルンギに報告された。
『敵の偵察が現れたが、ちょっと脅かしただけで、尻尾を巻いて逃げやがった』
悔しそうに報告する指揮官に、ウルンギは労いの言葉をかけた。
『そうか、ご苦労だったな』
ただし、彼はそれ以上の詳細までは訊ねなかった。
これを責めるのは、酷というものだろう。
* *
ジャミラが現れた翌日、数人の連絡将校を残し、ヤコブ中佐はオアシスを離れて帰国の途についた。
シルヴィアとキャミイは当分の間、現地に残って様子を見ることになった。
もし、不測の事態が起きた場合、彼女たちなら密林のオーク本村に急報できる。
必要があれば、赤城市の赤龍帝にまで飛ぶことも可能であった。
シルヴィアたちには、伝令以外にも山のような仕事が待っていた。
通訳はもちろんだし、残留した将校とともに、オークたちに軍組織のいろはを叩き込んだり、武芸の稽古をつける必要もあった。
また、日が経つにつれ、オークの存在はオアシスを利用する商人たちに知られていった。
そうなると、彼らの不安や懸念に対応したり、オークとの顔合わせを仲介するという仕事も発生した。
さらに、密林の村に残っていたフェイは、『〇日までには目途をつける』という約束を、あっさり反故にしてくれた。
彼女は毎日のように起きる出産や、急患の対応で忙殺され続け、本当に帰る気があるのかどうかも疑わしく思われた。
その代わりと言っては何だが、ナフ国の襲撃は、めっきりおとなしくなった。
最初の迎撃で受けた損害が効いたのか、敵はすっかり慎重となり、オークの投石が届かない範囲までしか寄ってこなかった。
それはつまり、彼らの矢も塹壕に届かないということである。
だがその一方で、何度か夜襲があったため、気を緩めることはできなかった。
敵はラクダを使わず、暗闇に乗じて徒歩で近づき、いきなり矢を射かけてきた。
オークは夜目が利かないため、これには悩ませられた。
致命傷にはならなかったが、何人かのオークが毒矢を受け、数日寝込む羽目に陥ったのだ。
夜間は馬防柵の近くで、照明のために篝火が焚かれている。
ウルンギは夜襲対策として、これを大幅に増設して対処したのだが、そのための焚き木が不足した。
何十という篝火を一晩中燃やし続けると、とんでもない量の燃料が必要となる。
オアシスの木を伐り倒すわけにもいかず、隊商は嵩張るだけで単価の安い焚き木を扱わなかった。
結局、焚き木の補充は、密林の本村から派遣される輸送隊に頼らざるを得ない。
これは、村のオークたちにとって、大きな負担となった。
実を言うと、八千人規模の村では、食糧と並んで燃料不足が問題となっていたのだ。
オークたちは森に住んでいるのだから、これは矛盾しているように見えるが、そうではない。
森の木を伐っても、生木のままでは薪にならないから、長期の天日乾燥が必要となる。
そのため、毎日の炊事や暖房・照明に使う焚き木は、枯れ木や落ちている枝に頼っていたのだ。
これを拾い集めるのは、子どもの仕事であったが、村の必要量を確保するだけでも大変なのに、オアシスまで運ぶとなると、その負担が重くのしかかった。
この問題は、新村建設への圧力となっていくのであるが、それはまた別の話である。
* *
ヤコブ中佐と第三軍の防衛部隊が去って、一か月が経とうとしていた。
さまざまな問題を内包しつつも、基本的にオアシスの平穏は保たれていた。
オーク戦士団は、それなりにうまくやっており、人間の商人たちはなお彼らを疑いつつも、その実績を評価し、少しずつ信頼が積み上がっていった。
ウルンギは防衛体制が軌道に乗ったと考え、村へ帰る準備を始めていた。
家族から離れている戦士たちを、いつまでもこのままにしておけないので、順次人員を入れ替える必要がある。
何より新村の建設計画を、前に進めなけらばならなかった。
だが、彼の知らないところで、危機は深く静かに近づいていたのである。