八 出航
結局のところ、エイナたちは娼館に対して軍票を切らざるを得なかった。
フォレスター大尉は約束の時間どおりに、娼館の二階から降りてきた。ケルトニアの軍服を着こんだ大柄な体躯は、なかなかに堂々としたものだった。
ただし、その傍らには妖艶な女が寄り添っている。
さすがに昨日のように裸同然の恰好ではなかったが、袖がなく胸元が大胆に開いたブラウスの上に上着を羽織っていた。
上着と言っても、薄手の紗で下が透けて見えるから、動くときわどい胸の谷間や、きれいに処理された脇が丸見えになる。
下は裾がゆったりと膨らんだ異国風の絹のズボンで、光に透けて腰や足の形がはっきりと見える。
いかにも自分の肉体の価値を誇示するような衣装だった。
エイナたちはサーラという遊女の存在から無理やり目をそむけ、軍服姿のフォレスターに対して敬礼をした。
「リスト王国軍参謀本部付け、エイナ・フローリー魔導准尉であります」
「同じく二級召喚士、シルヴィア・グレンダモア准尉であります。
自分たちは王都まで、大尉殿のご案内と身辺警護を申しつかっております。
ご要望があれば、何なりとお申し付けください」
大尉は面倒臭そうに答礼を返した。
「ケルトニア連合王国軍のケネス・フォレスター魔導大尉だ。
俺のことはケニーと呼んでくれていいぞ。その方が落ち着く。
貴官らのことも名前で呼ぶが、それでいいか?」
「私たちに関しては構いませんが、他軍の上官を名前でお呼びするような非礼は致しかねます」
シルヴィアがやや固い声で答えた。
同じ大尉である上司のケイトは名前で呼んでいるので、これは明らかに彼女たちがケネスと距離を置いている証拠である。
売春宿にしけ込んでいた上に、その相方を船旅にまで同行させようとする中年男が、十八歳の娘にどう映るかは自明である。
「まぁ、普通はそうだろうな。分かった、呼び方は好きにしろ。
お前ら、かなり若いが……歳はいくつだ?」
ケネスはシルヴィアの冷たい対応にもくじけなかった。
「二人とも十八歳です」
「任官はいつだ?」
「今年の五月です。大尉殿」
「何だ、本当のひよっこか。それで俺の護衛というのが笑えるな。
シルヴィアは召喚士と言ったな、幻獣を連れているのか?
俺の国には召喚士はいない。幻獣というのも話でしか聞いたことがないんだ」
「この子です」
シルヴィアは軍服の襟から懐に手を突っ込み、カーバンクルを引っ張り出した。
懐に収まって寝ていたのだ。
「あら可愛い」
軍人たちのやり取りには興味を示さなかったサーラが、少女のような声で歓声を上げた。
笑うと案外幼く見える。
「何だ、まるで猫か子狐だな。
幻獣というのは巨大な怪物だと聞いていたが、そいつは何かの役に立つのか?」
相棒を馬鹿にされたシルヴィアの表情が、ますます固くなった。
「幻獣の能力は軍機に属します。いかに大尉殿と言えどもお答えしかねます」
ケネスはおかしそうに鼻息を洩らし、今度はエイナの方を向いた。
「女を連れていくのが気に食わんか?」
「正直に申し上げて、誇り高いケルトニア軍士官の行動としては、いささか品位に欠けるのではないでしょうか」
エイナの答えもそっけないものとなった。ケネスはぼりぼりと頭を掻いた。
「そう言うな。お前ら少しは想像してみろ。俺は一か月も臭くて湿った船底でやることもなく過ごしてきたんだ。
やっと陸に上がれたと思ったのに、また二十日も船に乗らなきゃならん。
少しは気晴らしがあってもいいだろう、なあ?」
彼はそう言って、女を抱き寄せ、服の上から乳房を揉んだ。
サーラは「あん」と小さな声を洩らし、ちらりとエイナたちの方を見た。
唇には笑みが浮かんでいたが、見下したような視線は冷たかった。
「その点は理解しております。
私どもは大尉が王都までの旅を快適に過ごせるよう、最大限の対応をするように指示されております。
そちらの女性の同行に関しては了承し、先ほど経費の支払いを済ませたところです」
「そいつはありがたい。まぁ、よろしく頼むぜ」
大尉は〝にかっ〟と笑ってエイナの肩を叩いた。酒臭い息がして、顔をそむけないよう耐えなければならなかった。
* *
エイナたちはケネスとサーラを外で待たせていた馬車へと案内した。
大尉の荷物は軍人らしく少なかったが、サーラの方は大きな行李で二つもあった。
彼女は一般人である上に女性であるから、これは目をつぶらざるを得ない。
川港には予定どおりに着き、出国審査も問題なく通過できた。
南カシルは王国領ではあるが、極めて高い自治権を持っており、自由都市と呼ぶ者も多い。
海外からの流入者や対岸の北カシル(帝国領)との往来に対しては、規制がほとんどなく、極めて寛容な態度を示していた。
そのため南カシルから出る際には、改めて身分確認が行われ、それが王国にとって実質的な入国審査となっていた。
エイナとシルヴィアは当然として、ケネス大尉にも王国軍から直々に身分証が発行されていたから、審査はあっけなく済んだ。
エイナたちは遊女であるサーラが引っかかるのではないかと心配したが、意外なことに彼女もすんなりと通された。
審査を終え乗船を待つ列に並んでいる間に、エイナはそっと彼女に訊ねてみた。
「サーラさんにとっては突然の話だったのに、よく身分証の発行が間に合いましたね?」
するとサーラは自分の身分証を見せてくれた。
発行元を見ると南カシル自治政府ではなく、そこには黒い龍の印璽とマーク・カニングの署名があった。
驚いているエイナに、彼女は面白そうに教えてくれた。
「お役所にまともに申請したら二日もかかるわ。だから南カシルでは、急な出国の時には〝三つ首の龍〟に頼むのが常識よ。
特に黒船屋は黒龍組の上得意だから、使いを出せばその場で発行してくれるわ」
街を実質的に支配し、治安維持も担っているとはいえ、非合法の犯罪組織が発行した身分証が公式に通用している――エイナは改めて南カシルが異界であると思い知らされるのであった。
「でも黒船屋さんも、よく外へ出してくれましたね」
「ん、どうして?」
「だってサーラさんはその……、つまり生きるためとはいえ、女性として意に添わないお仕事をされているわけでしょう?
黒城市みたいな遥か遠方まで行かせたら、『逃げられるかも』って思わないのでしょうか?」
エイナよりもだいぶ背の高いサーラは、上から顔を覗き込んできた。
そして、人差し指を伸ばしてエイナの鼻の頭をぐいと押した。
「なっ、何をなさるんですか!」
エイナが顔を抑えて抗議の声を上げると、サーラの顔から笑みが消えた。
「失礼なことを言うからよ。
あたしは自分の意思でこの仕事をしているし、誇りも持っているわ」
浅黒いが端正な彼女の顔が、ほんのわずかに歪んだ。
「あたしはね、元は性奴隷だったのよ。十四歳で親に売られ、子どものできない身体にされた。半月も血が止まらなかったわ。
腐った残飯しか与えられず、男のどんな要求にも従う雌豚以下の存在に堕とされたのよ。
十八歳の時に黒船屋に買われて、あたしはやっと人間に戻れた。
きれいな着物を着て、毎日お風呂に入れて、美味しいものを食べさせてもらえる。
お客様はあたしを人として、女として扱ってくれる――あたしに恋焦がれ、愛と賛美の言葉をささやいてくれるの。贈り物もたくさん貰えるのよ。
だから、あたしもお客様に喜んでいただけるよう、精一杯に尽くすの。
それは完全にあたしの意思。誰にも強制されたことはないって誓えるわ。
黒船屋はあたしの家よ。馬鹿にしないでちょうだい!
あたしは逃げようなんて、ただの一度も考えたことはないわ!」
「……それにね」
サーラの顔にふっと笑みが宿り、可愛らしい声音に戻った。
「南カシルで娼館に飼われている女なら、逃げたらどうなるか……よく知っているわ。
たとえ海の向こうに逃げても、必ず黒龍組の追手がかかるの。
実際、酷い扱いをする女郎屋から逃げる馬鹿はいるわ。でも、首を括らない限りは全員捕まる。そして、死んだ方がましだっていう目に遭わされるの。
あたしたちにとっては常識よ」
エイナは何も言えなくなってしまった。
世間知らずの自分が、サーラを売春婦として見下していたことに気づいたのだ。
横にいたシルヴィアにも、この会話は当然聞こえていたはずである。
だが彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、一言も喋らなかった。
* *
ボルゾ川を往来する客船は、乗客定員が七十名ほど、船員は三十名前後(その大半が漕ぎ手である)が乗り組む。川船としては大型の部類と言えよう。
客室は板張りの床に薄い絨毯が敷かれた広間である。乗客は自分のスペースを確保して、雑魚寝をするスタイルとなり、プライバシーはないと言ってよい。
一応、男女を分ける敷居はあるが、男の子が女性部屋で母親と過ごしたり、夫婦や家族が男性部屋で一緒に過ごしても問題ない。
一等船室は同じような広間を衝立で仕切って、五~六人が入れる部屋とした簡易個室である。
そして、特等船室はこれら一般船室とは切り離された完全個室で、通常二人部屋が四室設けられている。
個室は船尾側の一段高い位置にあり、家具が床に固定されていること以外は、一般的な宿の客室と変わらない。
完全にプライバシーが保証されていることと、ベッドで眠れるというのが大きな魅力である。料金は高いが、富裕層からの安定した需要があった。
エイナたちは二人部屋を続きで二室予約していたから、サーラが加わって四人になっても問題はなかった。
当然、ケネスとサーラが同室となり、エイナとシルヴィアが隣の部屋に陣取った。
経費のことを考えれば、彼女たちは二等船室を取るべきなのだが、それでは護衛の役を果たせない。
役得とはいえ、まともな船旅を楽しめそうだと二人は喜び合った。
しかし、それは船が出航して最初の夜を迎えた途端、見事に裏切られることになった。
船内の個室であるから、部屋の壁はそう分厚くはない。
しかも四つある個室は廊下を挟んで二室ずつ配されており、ケネス大尉らとエイナたちの部屋は隣り合っていた。
つまり、大きな声を出すとそれが隣に聞こえてしまうのだ。
川船は安全面から原則夜間航行が禁じられている。
夜の間は最寄りの川港に停泊し、乗客は自由に上陸して温かい食事を摂ったり、シャワーを浴びたりする。
金銭に余裕がある場合には、慣れない板床での就寝を嫌って船宿に泊る者もいた。
停泊してからは出入りする者や、港で買い込んできた酒や食糧で宴会をする乗客もおり、船内はかなり賑やかだった。
しかし、夜が更けるとそれも次第に収まり、静まり返ってくる。
エイナたちは護衛でもあるのでかなり遅くまで起きていたが、日付が変わったところで柔らかなベッドに潜り込んだ。
彼女たちは黒船屋での騒動や、出航の手続きなどで疲れ果てていたが、まったく眠ることができなかった。
隣の部屋からベッドがきしむ音と、サーラのあられもない声が駄々洩れで聞こえてきたからであった。
いくら世間知らずといっても、それがアレの声だということぐらいは分かる。
二人はほぐした紙を耳栓にして詰め、毛布をかぶって目を閉じるしかなかった。
だが、それでも甲高い女の喘ぎ声は耳に入ってくる。
彼女たちだって十八歳で、そうしたことに興味がないと言えば嘘になる。
気がつけば聞こえてくる声に聞き入ってしまい、男女の絡み合う姿が目蓋の裏に浮かび上がってくる。
止めさせるわけにもいかず、彼女たちは悶々と眠れない夜を過ごしたのである。
そして、その声は一晩限りのものではなく、毎晩のように続き、しかも気のせいか日を追うごとに声が大きくなっていくような感じがした。
エイナとシルヴィアは寝不足でくまのできた顔を見合わせるたびに、疲れたように言い合うのだった。
「地獄だわ……」
* *
船の中は火気厳禁である。木造船にとって火は最大の脅威で、万が一にも火災が発生すれば、逃げ場のない船は棺桶と化す。たとえ川に飛び込んでも、流れがあり川幅の広いボルゾ川で岸にたどり着ける確率は低い。
船乗りは別だが、この世界の一般的な民衆に水泳の習慣はなく、泳げる者は少なかったのだ。
ただ、川船でも厨房だけは、例外的に火を使用することが許されていた。
乗客に対して料理を出すことはないのだが、乗組員には賄いを出さなければならない。
特に、激しい肉体労働が課せられている漕ぎ手たちは大喰らいだった。
出されるのは固い黒パンに山羊バター、戻した塩蔵肉が主であるが、野菜がたっぷり入ったスープは欠かせないものだった。
これがなくては、ぼそぼそした黒パンは飲み込めないし、身体にとって野菜は必要だった。外洋船員から吹き込まれた〝壊血病〟に対する恐怖は、想像以上に強かったのだ。
そのためコックを兼任する船員は、細心の注意を払って火を使い、熱いスープを作るのが毎食の決まりとなっていた。
その日もコックのチャーリーは自慢のスープを煮込んでいた。
珪藻土で造られた大きな固定コンロの中では炭が真っ赤に燃え、三十人前が入る大きな深鍋が乗っている。
船が突然揺れることがあるので、鍋は倒れないように天井からも吊られていた。
火を使っている間は絶対に側を離れることができないが、煮込み始めると時々掻き回したり味を調整する以外にすることがない。
スープの匂いにつられて厨房を覗きにくる船員は、コックにとってはありがたい話し相手だった。
「よお、チャーリー。今日のスープは何だい?」
手すきの船員が顔を出した。こうした連中は、その日の献立を確認するのが目的である。
「野菜はいつもどおり、だが今日の肉はウサギだ。それに卵も入る」
「そいつはご馳走だな! 羊肉は臭くていけねえ。その点、ウサギは鶏肉みたいで俺の大好物なんだ。
しかし、何かの祝い事でもあるまいし、どういう風向きだい?」
「いや、それがなぁ……」
チャーリーは口ごもった。
「どうした、何か心配事か?」
「いや、今回は倉庫にネズミがほとんど出ないんだよ。
駄目にされる食糧がなくて予算に余裕が出そうだから、俺もつい浮かれちまってな、川港でウサギ肉を仕入れたんだ」
「何だ、そいつはいいこっちゃないか」
「だが、昔から言うだろう? ネズミは沈む船が分かっていて、事前に逃げ出すって。縁起が悪いじゃねえか」
「馬鹿言え、そいつは迷信だろう。
あの糞いまいましいネズミどもが消えたのなら、それに越したことはねえ。
気にすんなよ」
男はそう言って去っていった。
一人厨房に取り残されたチャーリーは、鍋の蓋を取って出来栄えを確認した。
スープはいい具合に煮えている。
彼は蓋を閉じると息を吐き、独り言をつぶやいた。
「だが、ネズミどもは一体、どこに行っちまったんだ?」




