三十 鷹の目
「来たぞ……」
ジャミラが声を潜めると、各隊長たちは一斉に身を前に乗り出す。
盆上の空気が再び揺らめき、水の表面から白い蒸気が上がる。
『待たせたな、お嬢』
聞き覚えのあるしわがれ声が響いた。先ほど姿を現した呪術師の声だ。
だが、それは声だけで、姿はない。
その代わりに浮かび上がったのは、まるで箱庭のような光景だった。
褐色の荒れ果てた地面の中央に、小さな水溜りが陽ざしを受け、きらきらと光っている。
その周囲だけに緑が広がり、荒涼とした風景に彩りを与えていた。
『これが上空から見た、オアシスの姿じゃよ』
呪術師の声が、ご親切にも解説をしてくれる。
「これで、どのくらいの高度なのですか?」
アシッドが覗き込みながら訊ねる。
『二千メートルほどじゃな。どれ、もう少し近づけよう』
操られている鳥が高度を落としたのだろう。ぐんぐんとオアシスが拡大され、細部が鮮明になってくる。
近くを通る街道、水辺の西側で馬を休めている商人たちの姿。
反対の東側には、細長い小屋の屋根がいくつも並んでいる。どうやら、王国軍の兵舎らしい。
さらに鳥の視点は拡大されていき、小屋の周囲で動いている人物の様子まで、はっきり確認できるようになった。
真上から見ているので顔は分からず、被っている軍帽と、軍服姿の肩や腕しか見えない。
これらは王国第三軍から派遣された、防衛部隊に違いない。
ただ、彼らが出入りしているのは兵舎ではなく、褐色の四角い布である。
上からの視点だと立体感に欠けるので、それがテントを上から見た姿だと気づくのに、しばらく時間がかかった。
兵舎の周りで動いているのは、兵士とは体格も服装も異なる者たちだった。
よく見ると、ぼさぼさの乱れた髪の両側から、垂れた耳が出ている。
簡素な服には袖がなく、肩から剥き出しの太い腕が出ている。
「なるほど、これがオークか……。
確かに大きいが、そう化け物じみているわけでもないな」
ジャミラが感想を洩らすと、周りの隊長たちからも、「いかにも」といった同意の声が上がった。
ナフの民が持つオークのイメージは、子どものころに見た絵本や紙芝居によって形作られていた。
それは人間の数倍もある巨体で、ラクダをひと呑みにする怪物だった。
だが、上からの視点では背の高さが分からず、人間よりも幅や厚みがある……程度の違いである。
オークたちは荷車を曳き、積んでいる桶を降ろしては運び、何かの作業をしている。
王国の兵士たちの方は、逆に荷物をまとめて、荷馬車に積み込んでいるように見える。
「王国の連中は、撤収準備をしているようだな。
オークの方は、何をしているのか……よく分からんな。
ここはもういい。塹壕の方を見せられるか?」
『もう少し東じゃな? ちょいと待て』
浮かんでいる景色がふっと乱れ、緑の塊りが横に流れてから、再び映像が安定した。
緑地帯と砂漠の境目辺りに、屈折して掘られた塹壕が見える。
その中には、やはり蓬髪の頭と大柄な肉体を持つ、オークが散開していた。
数は十人に満たず、予想外に少ない。
その理由はすぐに分かった。
塹壕の先には馬防柵が並んでいて、さらにその外側に、二十人近いオークが集まっていたのだ。
そこには、ラクダの死体がいくつも転がっており、オークたちは手分けして、それを解体していたのだ。
傍らには何台もの荷車が止められ、オークたちは手際よく、桶に肉や内臓を詰めては積み込んでいた。
全滅した十人隊のラクダであることは、説明されずとも分かった。
少し離れた場所には大きな穴が掘られ、切断されたラクダの頭や脚、肉を削ぎ取られた骨など、無残な残骸が捨てられていた。
そしてその隙間から、並べられた人間の死体がはっきりと見えた。
『まぁ、人間よりはラクダの方が美味いだろうからな。
いや、王国軍と協力するから気を遣ったのか……、とにかく、死んだ兵どもは喰われなかったようじゃ』
しんと静まり返るテントの中に、感情のない呪術の言葉だけが、虚しく流れた。
戦友の死――それ自体はまぁ、仕方がない。彼らが勇敢に戦い、天に召されたのは、神の思し召しだろう。
彼らが埋葬されたのも、よしとしよう。
だが、その上に動物の残骸をぶち撒け、死者の尊厳を穢すとは何事か?
隊長たちがわなわなと身体を震わせ、オークへの怒りを露わにしたのは当然である。
『どうじゃ、こんなものでよかったかな?』
呪術師はのんびりとした口調で、ジャミラに確認を求めた。
「ああ。今のところは十分だが、当分の間は監視を続けてくれ。
何か判明したことや異変があれば、すぐに私に報せるように」
彼女がそう応じると、水盆の上に浮かんでいた映像は、ふっと消えてしまった。
ジャミラは、隊長たちを見回すと、大声で気合をかけた。
「いつまで下を向いている!? オークが恐ろしくて、玉が縮み上がったか!?
それでも貴様らは男か? サラームの戦士か!?
それとも、ただの臆病者か!?」
隊長たちは顔を上げ、激しく胸を叩き、口々に叫んだ。
「我らは復讐者! 神に誓って死を恐れぬ者!!」
その表情を見て、ジャミラはにやりと笑った。
「ふん、やっと目を覚ましたか? その意気はいいが、復讐などは認めんぞ。
アシッド!」
「はっ!」
百人長が背筋を伸ばした。
「私は都に帰り、陛下にことの次第を報告せねばならん。
クサイ十人長は証人として連れていくが、構わんな?」
「問題ありません!」
「貴様らはオークの情報を集めろ。
奴らの最大攻撃範囲、投石命中率、夜間の対応力、どんなことでもよい。
ただし、これまで以上に距離を取り、警戒を怠るな。無駄な犠牲は許さん!
都に戻り次第、交代の部隊を差し向ける。それまでは現有の戦力で挑発と観察を続けろ!
オークどもに決して楽をさせるな!!」
「了解しました!」
「よし、私はこれから敵の確認に向かう。都に帰るのはそれからだ」
「それは危険すぎます!」
「馬鹿か、お前は?
さっき、鷹の目の映像を見ただろう。あんなもので、実際の感覚が掴めるものか!
自分の目で確かめず、兄王陛下に報告などできるか!」
「では、お供いたします」
「無用! 私の部下だけで十分だ」
「いや、しかし! そんなわけには……」
「くどい! 人が多くては、いかに私といえども守り切れん。
私に余計な負担を強いるな!」
ジャミラは片膝をついて席を立った。
アシッドと隊長たちも、慌ててそれに倣う。
立ち上がったアシッドは、自分がジャミラの顔を見上げていることに気づき、軽く狼狽えた。
彼は百七十センチ台後半だから、背が低い方ではない。
それなのに、アシッドの目の前にあるのはジャミラの赤い唇で、彼女の目を見るためには、顎を上げねばならなかったのだ。
肩幅も、男である彼と遜色ない。
アシッドは生まれてこの方、これほど大きな女を見たことがなかったのだ。
* *
「どういうこと?
何でそんな面白いことがあったのに、あたしを起こさなかったの!?」
キャミイは思わず耳を押さえ、顔をしかめた。
シルヴィアは怒ると声がいつもより甲高くなる。キャミイは耳がいいので、余計にきんきんと頭に響くのだ。
「何でって、僕が起こそうとしても、シルヴィアが目を覚まさないからでしょ?」
「だったら! いつもどおりにお尻を叩けばいいじゃない!?」
「叩いたさ。でも、それでも君は起きなかった。逆に僕の手の方が、痛くて腫れちゃったんだけど?
もう、どんだけお尻の皮が厚いんだか……」
キャミイは呆れた声とともに、深い溜息をついた。
「第一、相手が襲ってくるなんて、僕だって知らなかったんだから、文句言わないの!
それより、事情は説明したんだから、もうヤコブ中佐のとこに行かなくちゃ」
シルヴィアはぶつぶつ言いながら、朝食の皿を片付け始めた。
夜明けの襲撃があった後、ヤコブ中佐とウルンギ、そしてキャミイとアドも兵舎に戻ってきた。
ウルンギには、やることが山ほどあった。
敵の置き土産である十頭のラクダは、すでに塹壕のオークたちが解体作業を始めていた。
彼らは全員が狩りのベテランであるから、獲物の解体などお手の物である。
敵兵の死体や、解体で出る残骸を埋めるための穴も、彼らによって掘られていた。
半日当番の後、深夜に交代したオークたちは、まだ兵舎で寝こけていたが、帰ってきたウルンギは全員を叩き起こした。
ぶつくさ文句を垂れて起きてきた彼らだったが、ウルンギがラクダという獲物が、一度に十頭も獲れたことを報せると、眠気も吹っ飛んだ。
オークの食欲の前では、睡眠など二の次なのだ。
彼らはアドを通訳に立て、人間たちから数台の荷車と、ありったけの桶を借りた。
食糧庫からは、塩の詰まった袋も運び出された。
そして、解体が始まっている現地に荷車を押していき、切り出された肉や内臓の塊りを桶に入れ、宿舎へのピストン輸送を開始した。
人間たちは荷車を曳くのに、馬を使うよう勧めてくれたが、オークには牛馬を使役する習慣がないので、すべては彼ら自身の労力で賄った。
運ばれてきた肉は、さらに細かく切り分けられた。
今日、明日で食べてしまう分は、日の当たらない食糧倉庫の中に運び込み、それ以外の肉はたっぷりの塩を擦り込んでから、再び桶に詰めていく。
これらは明日到着予定の、輸送隊に渡すことになるが、恐らく一度では運びきれないだろう。
これほど大量の肉など見たことはなく、受け取った村がお祭り騒ぎとなるのが、目に見えるようだった。
生肉の方は、人間たちにもお裾分けをしたが、彼らは遠慮深いのか、ほんのわずかしか受け取ってくれなかった。
実際には、人間側も丸一頭分の肉を受け取ったので、百人でも十分過ぎる量だった。
人間とオークでは、食べる量が全然違うので、この辺は感覚的なずれだった。
もちろん、塩蔵作業と並行して、さっそく生肉が焼かれていた。
これは彼らの朝食でもあるし、塹壕で頑張っている仲間たちにも届けなくてはならない。
早朝から額に玉の汗をかき、働き続けるオークの表情は喜びに満ちていて、あちこちで陽気な冗談が飛び交っていた。
一方、人間たちの側も忙しさでは負けていなかった。
オークたちが最初の襲撃を難なく撃退したことで、ヤコブ中佐が抱えていた懸念も消えた。
彼は明日早朝、オアシスから出立することを決め、それを部下全員に伝えたのだ。
すでに塹壕の防御はオークたちに引き継いでいたから、第三軍の兵士たちは休暇状態にあった。
最初こそ、オアシスで釣りや水遊びを興じたりもしたが、すぐに飽きてしまった。
意外なことに、兵たちはそんな遊びより、オークたちと交流することに興味を示した。
ヤコブ中佐の用事がなければ、キャミイは気軽に通訳をしてくれたし、アドも兵士たちから可愛がられていたので、いつもくっついてきた。
二人の通訳を介し、人間とオークたちは互いの文化を教え合った。
特に、オークたちに教わった投石器による的当ては、兵士たちの間で流行し、オークたちとの対抗試合は大いに盛り上がった。
そんな楽しみもあったが、基本的には彼らは暇を持て余していた。
そこに、指揮官から帰還命令が発せられたのである。
兵士たちが喜び、勇んで準備に取りかかったのは言うまでもない。
ばたばたと帰還が決まったことで、ヤコブ中佐とウルンギは、最終の打ち合わせを行うことになった。
細かい段取りの再確認はもちろんだが、何よりも明け方の戦闘に関する評価が必要だった。
キャミイとアドが通訳として呼ばれたのは当然であり、重要な連絡係であるシルヴィアの参加も要請されたのだ。
* *
『俺の部下たちはどうだった?
忌憚のない意見を聞かせてくれ』
いつもの士官用宿舎に四人が揃うと、ウルンギが口火を切った。
「率直に言って、予想以上に落ち着いていたし、統制が取れていたと思う」
ヤコブ中佐が即座に応じた。
「これはお世辞ではない。
そして白状するが……私が今まで帰郷を引き延ばし、敵の襲撃を待っていたのは、ある懸念があったからだった。
それは、いざ戦闘が始まった場合、オークたちが興奮のあまり暴走するのではないか――というものだ。
私はその……オークはもっと感情的な種族ではないかと、疑っていたのだ。
その懸念が払拭できなければ、オアシスを完全に任すことはできないと思っていた。
今の私は、自らの不明を恥じている。このとおり、詫びさせてくれ」
中佐はそう言うと、ウルンギに向かって深々と頭を下げた。
『頭を上げてくれ、中佐。
オークが頭に血が上りやすい種族だというのは、別に間違っていない。
実を言うとな、俺も自分の部下が上出来だったことに、ちょっとばかり驚いている』
二人の目が合い、朗らかな笑いが起こった。
『それで、生け捕った捕虜からは、何か聞き出せたのか?』
「ああ、あの火と毒煙を出す矢のことだが、案外素直に吐いてくれた。
やはりあれは、開発されたばかりの実験兵器だそうだ。
本国から送られてきたのは、現場で見つかった二十本ですべてらしい」
『このオアシスは、王国と大公国を結ぶ生命線だ。それは俺も理解している。
だが、ナフ国にとっては、さほど重要な目標ではないのだろう?
そんなところに、数が限られるような新兵器を寄こすのは、妙ではないのか?』
「あの兵器は、塹壕のような陣地に射ち込んでこそ効果がある。
奴らの主戦場は、開けた砂漠だ。ここ以外に使える場所がなかったんだろう。
あそこまで無謀に突っ込んできたのは、頭でっかちなせいで、よほど近寄らないと命中させられないためらしい」
『奴らの不幸は、相手がオークだったということか?』
「そういうことだな。
恐らく警戒して、同じ攻撃は繰り返さないだろう」
『他には何か?』
「いや、取りあえずはそれだけだ。
白状するが、私は尋問が苦手なのだ。あとは赤城市に連行して、専門家に任せるよ」
ヤコブ中佐は、軽く肩をすくめてみせた。
彼の判断は、ほんの小さな躓きだった。
捕虜となった敵兵は、無駄になった新兵器に関してべらべら白状することで、最も重要な情報を隠し切ったのである。
それは、ナフ首長国の全軍を率いる、ジャミラ将軍が来ているという事実だった。