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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第九章 能力発現
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二十九 呪術師

 自分の前に置かれた盆に水を張ると、ジャミラは摘んでいた呪符をそっと浸した。

 しばらく水面に浮かんでいた札は、やがて水を吸って静かに沈んでいく。

 アシッドをはじめとする隊長たちは、息を呑んで見守っていた。


 すると、透明だった水がさっと白濁し、表面から白い水蒸気が立ち上った。

 ゆらゆらと空気が揺らぎ、水蒸気の中に小さな人型が浮かび上がってくる。


「おお!」

 見つめる者たちの間から、抑えきれないざわめきが起きる。


 それは、まるで砂漠に現れる蜃気楼のようで、最初こそ不明瞭な幻影だったが、やがて信じられないくらいに鮮明な像を結んだ。

 サラーム教国の女性たちが着るような、頭から全身を覆う真っ黒な衣装。

 顔は見えないが、肩幅の広さや全体の雰囲気から、何とはなしに男性ではないかという印象を受ける。


 水盆の上に浮かぶ黒ずくめの人物は、ジャミラを見上げ、しわがれた声を発した。

「これはこれは……お嬢、ずいぶんと久しいのぉ。

 せっかく授けた呪符なのだぞ? たまには顔を見せるのが礼儀というもの、何とも不義理な娘じゃ。

 それで、何用じゃ?」


 喉に引っかかるようなかすれた声、いかにも年長者のような口調、……そしてジャミラを〝お嬢〟と呼んだことからも、何となく正体が窺えた。


「ジャミラ様、それはその、……もしかして、名のある呪術師様ではありませんか?」

 横に座るアシッドが恐るおそる訊ねると、ジャミラは笑みを浮かべたままうなずく。


「いかにも。私の母方、アドナム族に仕える〝力ある呪術師〟だ」


      *       *


 サラーム教国において、呪術師というのは身近な存在である。

 大きな街は当然として、かなり辺鄙な地方であっても、ある程度の集落であれば、呪術師がひとりくらいは住んでいる。

 ただしその実態は、土着のまじない師、あるいは占い師に近い存在であった。


 帝国やケルトニアなどと違い、まともな知識と技術をもった医師は、よほどの大都会でない限りはいない。

 大多数の庶民は、病気になれば呪術師を頼る。


 彼らは求めに応じて祈祷を行うが、もちろんそれは気休めに過ぎない。

 ただ、呪術師たちは民間療法に通じており、薬草の知識も持っていたから、それなりに役に立っていた。


 それ以外にも彼らは、失せ物の方角や恋の行方を占ったり、憎む相手を呪うといった、かなり怪しげなことを生計たつきにしていたのである。


 だからといって、呪術がまったくの偽物かというと、そんなことはない。

 民間の呪術師であっても、ある程度の呪術を学んでいることは多い。

 ただ、彼らは凡人の域を出なかったことで、早々に夢を諦めた脱落者に過ぎないということだ。


 ごく一部、天賦の才に恵まれた者は、高名な師のもとで過酷な修行を積み、真の呪術師の道を歩んだ。

 そうした者たちは〝力ある呪術師〟と呼ばれ、特別の存在として認知されていた。


 呪術も魔法も源流は同じで、古代にエルフが人間に伝えたものである。

 魔法は主として、地火風水の四大精霊の力を借りるのに対し、呪術は闇が力の源である。

 闇の力は強力である反面、油断すると術者を闇に引きずり込もうとする特性がある。

 世界でも魔法が発展している帝国で、暗黒魔術を禁忌としている理由でもある。


 このため、力ある呪術師を目指す者は、強靭な精神力を持つと同時に、極度に禁欲的であらねばならなかった。


 人間が持つ三大欲求は、食欲、性欲、睡眠欲だとよく言われる。

 あるいは、これらの生に関わる根源的な欲求を、生理的欲求にまとめ、これに安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求などを加えた五大欲求という考え方もある。


 呪術師を目指す者は、これらの欲求を捨て去ることを求められた。

 生き物なら不可能と思われる要求を、心の強さだけで乗り越えてこそ、力ある呪術師になれる……それが、サラーム教圏における、呪術師の到達点であった。

 当り前の話だが、本当にこれを成し遂げる者など、ほとんどいない。


 だが、それは〝ほとんど〟であって、皆無ではない。

 数百万人にひとりの確率ではあるが、それを達成したのが〝力ある呪術師〟なのである。


 彼らは人界とは隔絶された地で、ごく少数の高弟のみを側近として、隠遁生活を送っていた。

 ただし、たったひとつだけ、彼らが手放さなかった、どうしようもない欲求があった。

 それは、あくなき知識欲であった。


 あらゆる欲望を手放しても、この世の真理と魔法の深淵を覗きたい……という欲求だけは、持ち続けていたのだ。

 その結果、何が起きたかといえば、〝知識の奪い合い〟であった。

 古今東西の魔導書を読み漁り、あらゆる師に学んだ後、どこに知識を求めればよいのか?


 答えは単純であった。

『自分以外の〝力ある呪術師〟から、知識を奪えばいい』のである。

 彼らは厳重な結界を張った奥地に引き籠りながら、隙あらば他の力ある呪術師を探り出し、恐ろしい呪いで殺害して知識を奪うのだ。


 こうして力ある呪術師は、人の世と隔絶された世界に生きていた。

 実際に庶民と関わっている呪術師は、闇の片鱗を覗いただけの素人である。


 では、本当に力ある呪術師が、誰とも関わらなかったかといえば、そうでもない。

 彼らは孤高でありながら、俗世に溢れるあらゆる情報を蒐集しなければならなかった。


 遺跡から発掘された古代の呪術書や、伝説の呪術師が書き残した文献が、商人たちの手によって市場に出ることもある。

 これを入手するには、相応の対価が必要だから、金を稼ぐ必要もあった。


 これらの矛盾する課題を解消するには、権力を利用するのが、最も効率的であった。

 そのため、力ある呪術師は各国の王に近づいた。

 世俗の人間が繰り広げる、欲望にまみれた戦争に手を貸すのは業腹であったが、自らの目的を達成するには、目をつぶらなくてはならない。


 呪術師は自分の力を分け与えることで、王から大金をせしめた。

 王の領内に持ち込まれる貴重な遺物や文献は、優先的に押さえられる。

 遠い北の大国で発展している、魔法に関する情報も、王の権力を借りれば入手できた。


 こうした呪術師と王の関係は、詳細はともかくとして、世間的にもよく知られていた。

 ナフをはじめとする、ナサル首長国連邦を構成する五大国は、当然のようにそれぞれの呪術師を抱えていた。

 それらの力ある呪術師たちは、闇の世界の頂点に立つ、ほんのひと握りの者たちであった。


 だが、これまた当り前の話だが、そこまでには至らない段階の呪術師も存在する。

 呪術を操る強大な力と、海のように深い知識を蓄えていながら、いま一歩頂点には及ばない……そんな者たちは、誰を頼ったのだろうか?

 その答えが、各首長国を構成する有力部族長であった。


 ナフ国に限ったことではないが、サラーム教圏の国々の基礎をなすのは、血縁に支えられた部族集団である。

 砂漠の民の生計は、農耕よりも遊牧によって支えられている。

 家畜の数が増えれば増えるほど、広大な占有牧地が必要となる。

 それはどの部族も同じだから、勢い縄張りを巡る争いが多発した。


 小部族同士、どちらかが滅亡するまで殺し合うのは愚の骨頂であった。

 彼らは縁戚関係のある部族同士で協力関係を結び、その規模の優劣をもって無駄な争いを避けてきた。

 そうした合従連衡の結果が、首長国という、サラーム独自の国家形態を生み出したのだ。


 首長国の王が力ある呪術師と結びつくのは当然であったが、各地方には、国を構成する有力部族の存在がある。

 王専属の呪術師には及ばない者たちは、こうした有力部族の長と結びつき、その実力を蓄えていたのだ。


 国の王となった者にとって、後継ぎを残すのは、極めて重大な役割であった。

 部族連合が肥大化し、首長国が打ち立てられると、最初の王は国内最有力の部族から選出される。

 当然その妃も、最大部族の中でも最有力の部族(この辺がややこしい)から選ばれた。


 ただし、これでうまくいけばいいが、そうは問屋が卸さないのが人間の面白いところである。

 一見すると、男尊女卑の社会に見えるサラーム教国は、意外なことに合理的な能力主義なのだ。

 これまで何度も説明したが、彼らの戦いでは、指揮官が先頭に立って斬り込まなければならない。


 指揮能力や判断能力はもちろんだが、単純な武力こそがものを言う世界だった。

 そして、その戦いで命を落とす確率も高かった。


 だから王を継ぐ者は、強く賢ければ男女の別など、どうでもよかったのだ。

 ナフ国でいえば、前王のナイラがその好例であるが、その後を継いだ実弟のサリド王は、武力を放棄し政治力に特化した異質な存在であった。

 サリドが王として認められたのは、兄を慕うジャミラという武闘派の妹がいたおかげなのである。

 つまり、ナフの民はこの兄妹を、セットと捉えて王に戴いたのだ。


 さて、前女王のナイラと現王のサリドは、先々代の正室の子である。

 これに対して、軍を掌握する妹のジャミラは、側室(それも第三位)の子であった。


 王の夫人となる女性の順位は、出身部族のそれに準ずる。

 ジャミラの母は、ナフ首長国を構成する三番手の部族の出身だった。


 だが、正室の子のうち、もっとも王としての評価が高かったナイラが戦場に散り、末弟のサリドは病弱である。

 サリドはまだ子を成していないので、もし彼が早世したら、ジャミラがナフ国の新女王となるだろう。

 つまり、国内最大部族の純血が絶え、母系が第三位のアドナム族に取って代わられることを意味するのだ。


 アドナム族が、この状況に注目しないわけがない。

 特にジャミラは、全軍を率いる女将軍として、敵のただ中に斬り込むことが義務づけられている。

 もし、彼女があっぱれ名誉の戦死を遂げたりすれば、一族の栄華もまた夢と散るのである。


 だからアドナムの族長は、彼女を是が非でも守らなければならなかった。

 彼らも国内有数の部族として、力ある呪術師に準じた実力者と協力関係を結んでいた。


 この呪術師(名をイスハークという)は、どういうわけか、ジャミラがまだ幼児のうちから彼女を異様に可愛がっていた。

 そして、彼女の伯父である族長に対し、『この子はいずれナフの女王となり、一族の誉れとなるであろう』と予言したのである。


 ずいぶんと話が長くなったが、力ある呪術師の力を借りられるのは王だけの特権である。

 王ではないジャミラが、私的に呪術師を使役するのは、極めて異例のことなのだ。


      *       *


 ジャミラは宙に浮かぶ呪術師に向け、顔をしかめてみせた。

「その〝お嬢〟というのは、いい加減止めろと言っているだろう!

 世間では私を、ナイラ姉様の再来と呼んでいるのだぞ?

 少しは威厳というものを考えろ!」


 だが、フードを深く被った呪術師は、〝ほっほっほ〟と軽く笑い飛ばした。

「わしの膝の上で小便を洩らし、その股ぐらを拭ってやった恩をお忘れか?

 ……まぁ、よい。この呪符の効力は、そう長くは続かん。早く用件を申さぬか」


 ジャミラの頬は赤く染まったが、部下たちの手前、平然としなくてはならなかった。

「うむ、少し力を借りたい。

 大公国と北の王国を結ぶ街道のことは、お前も存じておろう?」

「当り前じゃ。あそこの北には、例の遺跡(・・・・)があるからな」


「しっ! 余計なことは申すな!!

 そのオアシスに関する作戦で、私はすぐ近くまで視察に来ている。

 現地兵の報告によれば、王国軍が固めているはずの塹壕に、オークが陣取っているらしい」

「ほう! それは興味深いの」


「で、あろう?

 それで真偽を確認したい。端的に言うと、〝鷹の目〟を使いたい」

「よかろう、わしも見てみたいからな。

 その辺りなら、そうじゃの……十分ほど待て。さすれば――」


 呪術師の声がふっと途切れた。

 同時に、水面上に浮かんでいた姿も掻き消え、立ち上る水蒸気も、空気の揺らぎも、すべてが消え失せた。


「どっ、どうされたのですか!?」

 慌てたアシッドが訊ねたが、ジャミラは悠然として笑みを浮かべたままだった。


「なぁに、用件は伝わったのだから、心配することはない。

 単なる時間切れだ。呪符の効果が尽きたに過ぎん」


 車座となった各隊長は、水盆の上の空間を、呆然として見つめ続けていた。

 彼らは、自分が目にした光景が信じられなかったのだ。


 サラーム教圏の国々での遠距離通信は、いまだに伝書鳩に頼っている。

 その点では、ルカ大公国も同様である。


 これが北のリスト王国ともなれば、ロック鳥やカー君のような飛行幻獣を利用する手段を持っている。

 さらに、帝国やケルトニアでは、通信魔導士による即時通信網が構築されていた。


 隊長たちも、そうした情報は知っていた。

 だが、自分たちの国に、それよりも遥かに優れた方法が存在するとは、まったく知らなかったのだ。


 何しろ、目の前に遠い場所にいる相手が現れ、直接対面で話ができるのである。

 これを当り前のように使いこなしているジャミラが、いかに強大な権力を持っているのか、改めて感心するしかない。


「呪術師殿とのお話では、〝鷹の目〟を使うとありました。

 もしかして、鷹に敵の様子を偵察させるという、あれ(・・)のことでしょうか?」


 ジャミラはうなずいた。

「さすがに百人長ともなると、それを知っているか。

 いかにも、呪術師が鷹を乗っ取り、その目を借りて敵陣をつぶさに知るという呪術だ。

 私の呪術師は十分と言っていたから、間もなく水盆の上に、塹壕の像が浮かび上がるはずだ」

「ですが、呪符の効果は切れてしまったのでは?

 あっ、そうか! また新しい呪符を使うのですね?」


「そんなことはしなくてよい。

 さっきの通信で、ここの座標は呪術師に知れたからな。

 あとは向こうが勝手に映像を送ってくる」

「なるほど……便利なものでございますね。

 それと、もうひとつ、伺ってもよろしいですか?」


「言ってみろ、何でも好きに訊いていいぞ」

 ジャミラは上機嫌であった。


 現地部隊が多くの部下を失ったことに対する怒りは消え去り、王国がオークを使役しているかもしれないという、興味深い情報を手に入れたのだ。

 単なる状況確認のための視察で、予想外の成果が得られそうである。機嫌を直さざるを得ないではないか。


「さきほど、呪術師殿が言っていた〝お嬢〟というのは……?」


 その途端、ぱしん! という、乾いた音が響いた。

 ジャミラが手にしていた閉じた扇子で、アシッドの額を引っぱたいたのだ。


 彼女は怖い目で百人長を睨みつけ、どすの利いた低い声を出した。

「忘れろ!」

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