二十七 敗走
ウルンギは戦士たちに向け、攻撃の号令を出そうと、大きく息を吸い込んだ。
だが、その呼吸がぴたりと止まる。
敵の動きに変化が表れたのだ。
百騎近いラクダの群れから十騎ほどの集団が分離し、進路を変えてこちらに向かってくる。
少し遅れて、もうひとつの集団が後に続いた。
巡航速度で駆け抜けていく本隊と違い、二つの部隊は全速を出していた。
ラクダはその気になれば、かなりの速度(馬とほぼ同じ)を出すことができる。
その無理を強いているということは、危険を覚悟した行動だということだ。
二隊を援護する意図なのか、本隊からの矢の雨が激しくなる。
それでも、オークたちは誰も怯まない。
目を皿のように見開き、頭上で投石器を回転させながら、敵の動きを追う。
彼らは何も命じられなくても、目標を変えて待ち構えていた。
接近してきた部隊は、三十メートルほど先に設置された馬防柵の手前で向きを変え、柵に沿って走り出した。
このくらいの距離になれば、もう敵兵の表情もはっきりと分かる。
それは相手も同様で、立ち上がって塹壕から顔を出しているオークたちを見て、明らかに動揺しているようであった。
その逡巡が、彼らの命取りとなった。
騎手たちは気を取り直し、一斉に弓を構えた。相手が人間であろうがなかろうが、この状況では攻撃以外の選択肢が存在しない。
だが、その前にウルンギの号令が轟き、三十人余の戦士の頭上から、石礫が投擲された。
オークたちは数千人の中から選ばれた、投石の名手である。
いくら動いている目標とはいえ、この距離で外すはずがなかった。
当たったというだけでなく、ほとんどがラクダの頭部に命中した。
ラクダは馬よりも身体が大きく、毛皮も分厚い。
そのため、矢を身体に受けても、容易には倒れないほど頑丈だった。
しかし、勢いのついた岩石が頭部に直撃しては、ひとたまりもなかった。
顎が砕かれ、目が潰れ、聴力を奪われたラクダたちは、悲鳴を上げて次々に倒れていった。
ナフの騎手たちは、地上二メートルもの高さから、岩だらけの堅い地面に叩きつけられた。
骨折で済めば運がいい方で、半数以上が頭を強打して即死するか、脳震盪を起こして昏倒した。ラクダの巨体の下敷きとなって、圧死した者もいた。
遅れて続いてきた二番隊の指揮官(十人長)は、瞬時に判断を下した。
彼はラクダの進路を急角度で変え、全速で馬防柵からの離脱を図った。
オークたちがこれを許すはずがない。
ただ、新たな石を装填して、十分な回転速度を与えるまでには、十数秒を要した。
そのわずかな時間が、二番隊に味方をしてくれた。
オークたちが第二射を放った時には、敵は背中を見せ、ぐんぐん距離を開いているところだった。
狙いが不十分だったこともあり、石礫の多くがラクダの尻に当たり、逆に速度を上げる始末だった。
その代わりに、いくつかの石は騎手を直撃した。
ひとつは後頭部にまともに当たり、頭蓋を粉砕した。
血と脳漿を撒き散らした兵士は、棒切れのように地面に落ち、後続のラクダに踏み潰されてぐちゃぐちゃになった。
他にも二人の兵士が背中に石を受け、背骨と肋骨を砕かれてラクダから落ちた。
オークたちが次の攻撃態勢を整えた時には、生き残った敵は百メートル以上離れており、本隊(彼らも逃走に移っていた)の後を追っていた。
それでも投石器の有効射程内であったが、ウルンギは攻撃を止めさせた。
これからも戦う敵に、最初から手の内を見せ過ぎるのは、得策でないと考えたのだ。
ウルンギとヤコブ中佐は塹壕を出て、倒した敵兵のもとに向かった。
キャミイとアドも後についていく。
オークたちも塹壕から身を乗り出して、続々と外へ出ていった。
彼らの表情は明るく、誇りに満ち溢れていた。
オーク戦士団はひとりの負傷者も出さず、初戦は完勝であった。
馬防柵の外側には、倒れたラクダと人間たちが、呻き声を上げてのたうち回っていた。
オークたちは、まだ息のあるラクダの頭部に、振り上げた棍棒を振り下ろしてとどめを刺した。
獲物を無駄に苦しめるのは、オークたちの趣味ではない。オークは粗暴に見えて、意外に慈悲深いのだ。
ただし、この処置は人間に対しても公平に実施された。
彼らは顔色ひとつ変えずに、ナフ国の兵の頭蓋を叩き潰して回った。
「ああ、ウルンギ殿。済まんが、元気そうな奴をひとり残してくれないか?
捕虜にして尋問したいのだ」
ヤコブ中佐は、目の前で行われる屠殺を止めようとはしなかった。
捕虜はひとりで十分だ。重傷を負った敵兵を治療するのはよいとして、その先はどうなる? 敵に送り届けるのか? 本国まで連れ帰るのか?
答えは自明であった。
『ラクダは話で聞いたことがあるが、見るのは初めてだ。
これは食えるのか?』
「ああ、美味いぞ。特に背中のコブがあるだろう?
あの中は脂が詰まっているのだが、これを炙って食うと、口の中でとろける美味だ」
中佐の説明に、ウルンギは思わず唾を呑み込んだ。
十頭のラクダからは、千キロ以上の肉が採れる。大食漢揃いのオークたちでも食い尽くせる量ではない。
これは、今夜のご馳走であると同時に、戦士団が村に送り出す、最初の贈り物となるだろう。
『敵兵の死体はどうする?』
「どう……とは?」
中佐はウルンギの質問の意味が、よく分からなかった。
『いや、人間の肉はあまり美味くないと聞くが、食えないことはない。
捨てるのはもったいないから、塩漬けにして村に送ろうかと……』
「いやいやいや、それはまずい!」
中佐は慌てて手を振った。
すっかり忘れていたが、オークにとっては人間も獲物の一種だったのだ。
「約束してほしいが、ここでは絶対に人間を食わないでくれ!
オークの諸君がオアシスを防衛することは、往来する商人たちにも知らせなくてはならない。
彼らはそう簡単に、異種族を信頼してくれないだろう。
だが、商人たちとは共存してもらわないと困るのだ。
襲ってくる敵兵を殺すことは一向にかまわんが、その死体は穴を掘って埋めるだけに留めてほしい」
『ああ、それはそうだろうな。配慮が足りなかった。済まん』
二人の通訳を務めるキャミイとアドも、オークによる敵の〝処理〟を目の当たりにしていた。
オークであるアドは、その凄惨な光景に平然としていた。
キャミイも同様である。彼女はカーバンクルであるから、人間に対する特別な思い入れは持ち合わせていない。
もし、この場にシルヴィアがいたら、多分ひと悶着が起きていただろう。
彼女は『面倒なことにならなくてよかった』とさえ思っていた。
「それにしても、この部隊はなぜ、わざわざ近づいてきたのでしょう?」
キャミイは素朴な疑問を中佐にぶつけてみた。
「それは捕虜を尋問すれば分かるだろうが、何らかの目的があったことは間違いないだろうな。
……ん? 何だ、これは」
ヤコブ中佐は、地面に転がっている矢を拾い上げた。
矢の先端、鏃に当たる部分に、陶器の円筒がついている。
通信用の矢文を入れる金属管と少し似ているが、それよりはだいぶ大きい。
よく見ると、地面のあちこちに同じ矢が転がっていた。
中佐は敵の死体の傍らに屈みこみ、腰の矢筒を調べてみた。
中に入っている十数本の矢は、すべて通常の鏃がついている。
彼は辺りを歩き回り、転がっている同じような矢を拾い集めた。
見つかったのは全部で十本。ということは、敵は最初の攻撃だけ、この特殊な矢を使おうとしていたことになる。
中佐は改めて矢を観察してみた。
素焼きの陶器は、そこそこの重さがあった。
肉厚で頑丈な感じがするから、地面に落ちた衝撃程度では割れなかったのだろう。
この中に何が入っているか、気になるところである。
ヤコブ中佐は一本の矢を手に残し、残りはキャミイに預けた。
そして、敵兵の弓を拾って、少し離れた岩に向けて引き絞り、その矢を放ってみた。
矢が岩に当たると、乾いた音がして陶器が割れ、同時に激しい炎が上がった。
岩が燃えるはずがないから、円筒の中身が燃えているのだろう。
割れた衝撃だけで発火するということは、新手の火矢かもしれない。
炎と一緒に、大量の黒い煙も吹き出していた。
それを見ていたウルンギが、突然怒鳴った。
『毒だ! 煙を吸い込むな! 風上に回り込め!!』
彼はアドを脇に抱えると、煙の流れてこない風上へと連れ出した。
中佐とキャミイもそれに続く。
周囲には刺激のある、特徴的な臭気が漂った。
これは硫黄の臭いだ。
硫黄と燐を混ぜて練ったものは、摩擦だけで着火する性質から、付け木として一般でも利用されている。
ただ、発火の危険も高い上に、有毒な煙が出るので、使用量の制限と慎重な扱いが必要だった。
この円筒の中には、硫黄と燐だけでなく、さらに何かが混ぜられているようだった。
その証拠に、うっかり煙を吸ってしまったオークたちは、目から涙を流し、酷い咳に襲われていた。
「なるほど、これを塹壕に射ち込むつもりだったのか……」
ナフの兵士たちが、この特殊な矢を一本ずつしか持っていなかったのは、恐らくまだ量産されていない実験兵器なのだろう。
中佐は知らなかったが、同じような兵器は帝国がすでに実用化しており、対ケルトニアの前線で使用されていた。
それは塹壕に対しても効果を発揮したが、それよりも一般兵士が魔導士に対抗するための兵器として、切り札的に使われていた。
その情報が伝わったのかどうか、いずれにしろナフ国が独自に開発したものなのだろう。
「我々は運がよかったな。
こんなものが使われていたら、死体となって転がっているのは、こちら側だったかもしれんぞ……」
ヤコブ中佐は、自戒するようにつぶやいた。
* *
新兵器を託された二つの十人隊。
そのうち一番隊の十人は、オークたちの投石によって全滅し、間一髪で難を逃れた二番隊も、追撃で三人を失った。
ナフ国がオアシスの襲撃を始めてから四か月、その間に出した死者と捕虜を、たった一度の戦闘で上回ったことになる。
二番隊が退却する本隊に追いついたのは、オアシスから数キロ離れてからだった。
彼らが合流してくると、すぐに指揮官であるアシッドが近づいてきた。
「何があった!? なぜ、一番隊はやられたのだ?」
百人長は、鬼のような表情で問い詰めてきた。
二番隊を率いるクサイ十人長が、青ざめた表情で睨み返した。
「投石器です!
近距離からの集中攻撃で、ラクダが倒されました!!」
「投石だと?」
アシッドは〝信じられない〟といった表情で、目を丸くした。
「王国軍が投石器を使うなんて話、今まで聞いたことがないぞ!
それこそ、百年以上前に廃れた兵器だ。
なぜ、そんなものを持ち出してくる?
というか、あれはそんなに命中率がいいのか!?」
次々に質問を重ねてくるアシッドに、クサイは腹を立てた。
「そんなこと、俺が知るわけないでしょう!
知りたいなら、敵に訊きに行ってください!!
そんなことより、もっと重大な報告があります!」
「これ以上、まだ何か……あるのか?」
「ありますとも!
投石器を使った連中、王国軍ではありませんでした!
いや、そもそも人間ですらなかったのです!!」
「クサイ十人長、お前……何を言っているのだ?
恐怖で錯乱したのか?」
「俺は見たままのことを言っています!」
クサイは怒鳴り続けた。
「塹壕の敵は三十人以上、肩から上がはっきりと視認できました!
これまでの王国軍だったら、土嚢の上に出るのは、せいぜいが鉄兜だったはずです。
どういうことか分かりますか?
敵の全員、身長が二メートルあるってことですよ!!」
十人長は咳き込み、裏返った声でなおも喚き続けた。
「奴らは醜く、下唇からは牙が伸びていました!
耳がブタのように大きくて、だらんと垂れていたのです!
あれは人間じゃない!!
俺が思うに、連中は東の森に棲んでいるという、オークに違いありません!!」
百人長は部下の訴えに、返す言葉が思いつかなかった。
「ま、待て! とにかく少し落ち着くのだ!
今の話は、野営地に帰ってからゆっくり聞こう。
他の部隊長たちと情報を共有し、意見も聞かなければなるまい。
とにかく、先を急ごう!」
アシッドの説得は、問題の先送りに過ぎなかった。
クサイの報告は、あまりに現実離れしていて、自分の中で消化しきれなかったのだ。
だが、十人長は若いが有能な指揮官である。二番隊に抜擢されたことが、それを物語っている。
であるならば、アシッドは彼の報告を咀嚼し、現実的な解釈を加えなくてはならない。
そのための時間が欲しかった。
アシッドはクサイをその場に残し、隊の先頭へと戻った。
とにかく、野営地へ帰りたかったのだ。
百人隊が野営地にたどり着いたのは、まだ朝のうち、八時過ぎのことだった。
各隊長は、酷使したラクダたちに水と餌を与え、休ませるよう兵に指示を出した。
彼らが遅い朝食にありつくのは、その後の話である。
野営地の入口で、部隊がごった返していると、部隊の帰還に気づいた留守番役の傷痍兵が出てきた。
松葉杖を脇に挟んだ男は、百人長を見つけると、足をもつれさせながら駆け寄ってきた。
「アシッド百人長! 先ほど、ジャミラ様がお着きになりました!
今はテントでお休みいただいております。
お早く! お早くお出でください!!」