二十六 襲撃
「伝文はあるのか?」
カラスを連れてきた兵士は首を横に振った。
「信書管は空でした」
アシッド百人長は兵士を帰らせ、会議の席に戻った。
「聞いたとおりだ。
明後日、ジャミラ様がお出でになる。
用件が伝えられないということは、恐らく視察であろう」
「明日の襲撃は延期しますか?
視察が目的ならば、ちょうどよい機会ですぞ」
そう提案したのは、二人いる五十人長のひとり、カリムであった。
だが、アシッドは同意しなかった。
「いや、予定どおりでいこう。我々の帰還は明後日の朝だから、十分に間に合うはずだ。
それに、カラスの伝言だけでは、ジャミラ様の予定が分からん。
何しろお忙しいお方だ。聞き取りだけをして、すぐに帰られるやもしれん」
「そういえば、数日前までは、南部の作戦を直接指揮されていたという噂でしたね。
こんな最北の前線まで目を配られるとは……、移動だけでも大変でしょうに」
ひとりの十人長が手を挙げ、発言を求めた。
「それでは、せめて十人隊をひとつ残し、お迎えの準備をさせてはいかがでしょう?
出撃すれば、ここに残るのは数人の怪我人だけとなります。
出迎えに失礼があってはなりません」
「駄目だ。それはジャミラ様が、一番嫌う行為だ。
ありのままで精一杯に尽くせば、あの方はそれで満足されるだろう」
アシッドは部下の意見を一蹴しておきながら、にやりと笑った。
「とは言うものの、俺だってジャミラ様にはいい顔をしたい。
皆も同じ気持ちではないか?」
集まっている隊長たちは、無言のままうなずいた。
ジャミラはナフ国軍の頂点に立つ女だ。
前女王ナイラの〝生まれ変わり〟と称されるほどの女傑で、兵士たちからも絶大な信頼が寄せられている。
そんな彼女が、わざわざ百人隊に過ぎぬアシッドたちを気にかけ、視察に来るというのだ。
何かしら自慢できるような戦果を披露したい……その思いは、全員が共有していることだった。
「しかし我らの役目は、あくまで敵を挑発して消耗させることにあります。
無理攻めをして兵の被害を増やせば、それこそジャミラ様の逆鱗に触れることになりましょうぞ」
カリムが冷静に釘を刺した。
「五十人長の言うとおりだ。
だが、思い出してほしい。先週、都から届いた新兵器のことを。
今こそ、あれを試すべきではないか?」
「おお!」というどよめきが、各隊長たちの間から起きた。
「あれは扱いが難しい。まだ習熟訓練中だということも知っている。
だが、いずれ実戦で試さなければいかん代物だ。
初戦で思うような効果が挙げられなくても、その情報は今後の運用に活かされ、決して無駄にはならん。
成功すればよし、失敗しても言い分は立つのだ。損はあるまい?」
百人長の誘惑に抵抗する者はいなかったが、冷静なカリムは懸念の確認を忘れなかった。
「部下たちの報告では、危険性はやむを得ないとしても、飛距離が問題だと言っております。
効果を上げるためには、敵との距離を詰める必要があると思いますが?」
アシッドは『当然だ』という表情でうなずく。
「熟れた果実を得たくば、木に登ることを恐れるな――だよ。
敵が設置している馬房柵の手前まで接近すれば、有効射程に入ることができるはずだ。
新兵器を試すのは、二つの十人隊に限定する。
それ以外の各隊は、全力で実験隊の援護に当たる……それでよいか?」
「その役目、もちろん私の部下にお与えくださるのでしょうね?」
アシッドは呵呵と笑い飛ばした。
「馬鹿なことを言うな! なぜ実験隊を二つにしたと思う?
ヤイーシュ(もうひとりの五十人長)とカリム、双方で分け合うに決まっているだろう」
十人長たちの間から、和やかな笑い声が起こった。
カリムとヤイーシュの二人は、いずれも有能な五十人長で、部下からの信頼も厚い。
それだけに張り合うことも多く、上に立つアシッドの悩みの種であったのだ。
「新兵器を担当する十人隊の選任は、それぞれの五十人長に一任する。
各人は作戦の変更点を、部下に徹底させよ。
以上、解散!」
立ち上がった隊長たちは、大テントから外に出ていった。
これから各五十人隊で、それぞれ打ち合わせが行われることになろう。
彼らはみな意気込んでおり、威勢のよい声があちこちから上がっていた。
いつもと変わらぬ作戦会議のはずが、ジャミラの視察という吉報がもたらされた。
ここで奮わなければ、サラーム戦士の名折れである。
彼らの表情には、自信と高揚感が溢れていた。そこには敵に対する恐れなど、微塵も感じられない。
その敵が、人間からオークに代わっていたことを、彼らは知らないのだから、当然のことであった。
* *
人間が明け渡した塹壕に、オークたちはすぐに順応した。
防衛のために築かれた陣地であるから、密林の泥に身を潜め、毒虫に集られても身動きできない環境とは段違いである。
心配をした人間の将校が、キャミイを連れて定期的に巡廻しに来たが、どこからも不満の声は出なかった。
キャミイに代わる通訳として、村から王の孫娘であるアドがやってくると、戦士たちの意気はさらに上がった。
もともと女を大切に扱うオークの男たちは、この快活な若い娘(まだ十二歳である)を、蜂蜜に漬けるように甘やかした。
好奇心旺盛なアドは、人間に限らず、とにかく外の世界が楽しくてたまらないらしい。
どこにでも顔を出して、無邪気に質問する少女(といっても、すでに身長百六十センチ、体重は七十キロ近い)は、人間の兵士たちからも可愛がられた。
ある意味で、彼女こそが第三軍防衛部隊から、オークへの偏見を取り除いた存在とも言えるだろう。
それはそれとして、オーク戦士団が自分たちの役目を忘れていない。
塹壕に潜んだオークは、獲物を待ち受ける心構えで、決して警戒を怠らなかった。
南北両端と中央に立つ監視櫓に登る役目は、オークたちには〝名誉職〟と受け取られたらしい。
地上五メートルの高所から、周囲を睥睨する姿は、塹壕の仲間たちから羨望の視線を浴びることになった。
当然、そこで監視に当たるオークは、誇りと優越感に満たされているから、万にひとつも油断することがなかった。
* *
その日の未明、まだ周囲は真っ暗で、東の地平線がわずかに白んできた時刻のことだ。
携帯ランプを手にしたヤコブ中佐と、戦士団長のウルンギは、肩を並べて塹壕内の視察を行っていた。
その後ろには、キャミイとアドが続いていて、時折交わされる二人の会話の通訳に当たっていた。
ヤコブ中佐は、あと数日に迫ってきた撤退までの間、できる限り頻繁に塹壕を視察する覚悟であった。
そして気づいたことがあれば、ウルンギにそれを伝え、二人で対策を検討した。
彼らは互いに相手の能力を認めており、種族や年齢を超えて〝戦友〟と言ってもよい信頼関係を築いていたのだ。
夜明けを迎えようとする時刻は、もっとも襲撃の危険性が高まる。
そのため、二人の指揮官は申し合わせたように塹壕に姿を現し、戦士たちを督励していた。
眠る必要のないキャミイは、そんな時刻でも嫌がらずに付き合ってくれた。
誰かからそれを聞きつけたアドは、すぐに自分も加わるようになった。
『まだ暗いのだ。子どもは寝ていてよいのだぞ』
そう言って追い返そうとしたウルンギに、アドは風船のように頬を膨らませて言い返した。
『それでは〝じいじ(ダウワース)〟に申し開きができません。
この場に立つ以上、アドも戦士のひとりです!』
二人の会話を聞いたヤコブ中佐は、笑ってアドの頭をぽんぽんと叩いた。
(幸いなことに、中佐はアドより少しだけ背が高かった。)
「純粋な興味で訊くのですが、オークには女戦士はいないのですか?」
塹壕を歩きながら、中佐がウルンギに質問する。
『古い英雄譚には存在しますが、それ以外では聞いたことがありませんな。
無論、オークですから、女もそれなりに強いのです。
子と家を守るためには、果敢に敵に立ち向かうでしょう。
ですが、そんな状況を招く以前に、男はすべて戦死しているはずです』
ウルンギは少し考え込みながら、言葉を続けた。
『人間はオークとだいぶ違うようだな。
伯父貴殿から聞いた話では、アスカという人間の女戦士には、村の男の誰も敵わなかったそうだ。
俺も実際にシルヴィアと槍で立ち合ってみたが、体力は別にして、少なくとも技術では負けていた。
女と戦うという体験は、正直に言って実に不思議な感覚であったな』
この点については、中佐としても弁明したいところであった。
心情的には人間の男だって、女を戦わせるのは恥だと思っているのだ。
だが、召喚士や魔導士といった特殊技能は、男女の別なく天から恵まれる。
何なら、大魔導士とされる人物の多くは女なのだ(帝国のサシャやマグス大佐がいい例だ)。
魔法や召喚獣の圧倒的な力を、オークであるウルンギに理解させるのは、かなり難しそうだった。
どうしたものか、中佐が迷っているうちに、ウルンギが何かに気づいた。
『先の方が騒がしい。何かあったのかもしれん』
ウルンギと中佐は同時に走り出した。
歩幅の関係でウルンギが先んじたが、中佐も体つきの割に意外と足が速い。
キャミイとアドは、慌ててその後を追った。
* *
先頭を走るウルンギに向かって、前から走ってくる者がいた。
そのオークはかなり慌てているらしく、自分たちの指揮官に気づかず、横をすり抜けようとした。
その腕を、がしっとウルンギが掴まえる。
『どうした! 何があった!?』
耳元で怒鳴られ、男はようやく相手が誰かを理解した。
『あっ、ウルンギか!?
ああ、いや、俺もよく分からないんだが、櫓の見張りが何かを見つけたらしい。
俺はほかの連中に報せて、北側に集めろと命令されたんだ』
『分かった。お前はその役目を果たせ!』
オーク同士の会話は、キャミイによってヤコブ中佐にも伝えられた。
「前回の襲撃から半月、しかも時刻は払暁だ。これは〝当たり〟かもしれんぞ!」
ウルンギは通訳される前にうなずいた。
もうこの辺は指揮官同士、以心伝心である。
彼らが塹壕の北端に駆けつけると、オークたちはみな塹壕の縁に耳を押し当てていた。
ウルンギがひとりを掴まえて、何があったかを改めて問い質した。
『上で監視していた奴が、地響きに感づいたんです。
地面に耳をつけてみると、確かに動物の群れの足音が、微かですが聞こえます。
敵の襲撃と見て間違いないかと』
『距離と方角は?』
『北からどんどん近づいています。
そろそろ三キロを切るのではないかと……』
オークの視力は人間と大差がない。
それよりは、嗅覚や聴覚の方がよほど優れている。
豚のように垂れた耳は、緊張するとぴんと立って集音器の役割を果たすのだ。
ウルンギは自分も地面に耳をつけ、響いてくる足音を確認すると、すぐさま身を起こした。
『総員、投石器用意! 互いに十分な間隔を取れ!!
引きつけるまで、絶対に早まるな!!』
つい数分前までは真っ暗だった周囲は、薄っすらと明るくなってきた。
塹壕全体に散らばっていたオークたち三十余人は、すべて北側に集まっていた。
彼らは横一列に展開し、石を挟んだ投石器を回し始めた。
ひゅんひゅんと風を切る音が、塹壕の壁に反響して、不気味な唸りを上げた。
* *
塹壕の深さは約一・五メートルだから、オークたちの胸から上は外に出る。
すぐ手前には土嚢が積まれているが、それでも頭が出て、視界を遮られる心配はない。
逆にいえば、敵の攻撃目標となるから、戦士たちは頭に鉄兜を被っていた。
オークには防具を着ける習慣がなく、むしろ臆病者のすることだと、馬鹿にする傾向があった。
ヤコブ中佐がウルンギを説得し、人間用の鉄兜が配られたのだ。
塹壕の手前、二十メートルほど先には、先を尖らせた丸太をX字型に組んだ馬防柵が、地面に埋め込まれている。
通常は敵がそこまで近づくことはなく、もっと離れた地点から矢を射込んでくる。
サラーム教徒の戦士は、馬上弓を得意とする。短弓より少し大きいが、それほど飛距離は出ない。
特に王国側が塹壕に隠れているため、直接射撃ではほぼ効果がない。
したがって、上空に向けた曲射を放ち、上から矢の雨を降らせるのだ。
これを走るラクダの上からやるものだから、命中率は低かった。
ただし、鏃に毒が塗られているので、運悪く当たると酷いことになる。
また、彼らは監視の櫓に向けて、火矢で攻撃することも忘れなかった。
* *
オークたちが迎撃態勢を整える間に、敵の姿がはっきりと見えてきた。
百頭ほどのラクダの群れが、岩石砂漠の中を駆け抜けていく。
群れは長く伸びているが、ラクダがあげる土埃が煙幕となって視界を遮っている。
塹壕からの距離はおよそ六、七十メートルである。
弓の有効射程内ではあるが、時速五十キロほどで移動する目標を正確に射るのは、相当の腕があっても困難だった。
だが、オークたちは自信に溢れていた。
彼らは狩りで十分な経験を積んでいる。動体予測はお手のものだったし、図体の大きなラクダは楽な目標である。
すでに敵は矢を射ち上げ始めている。
オークたちは頭上で投石器を回しながら、攻撃開始の号令を、今や遅しと待ちかねていた。