二十二 サリド王
釣鐘型の窓から爽やかな風が吹き込んできて、その男は顔を上げた。
扉を通して、微かに足音が聞こえてきたためだ。
秀でた額に高い鼻、その周りに蓄えられた髭は薄い。
顔色は青白く、あまり健康的には見えなかったが、美男ではある。
年齢はもう三十代なのだが、顔には幼さを残していて、青年といってよい見た目であった。
書き物をしていた手を休め、じっと入口の方に目を遣っていると、年輩の男が入ってきた。
トーブと呼ばれる、白い民族衣装を着て、頭には格子模様のスカーフを被り、黒い組紐で留めている。
「陛下、失礼いたします」
「ターヒルか、何用だ?」
下問を受けた男は、両腕を重ねて上げ、頭を垂れた。
「ジャミラ様がお戻りに――」
「兄上!」
まだ口上を言い終わらない男を片腕で押しのけ、大柄な女がずかずか入ってきた。
この国の女性は、アバヤと呼ばれる黒い衣装を着て、顔もスカーフで隠すのだが、彼女は男と同じ白いトーブを身にまとっていた。
しかもスカーフをつけず、豊かな黒髪をこれ見よがしに靡かせていた。
普通なら不信心者として摘発され、広場で民衆から石を投げられるような恰好である。
だが、例え異端審問官であっても、彼女を咎めようとする馬鹿はいないだろう。
そんなことをすれば、あっという間に首を刎ねられるのがオチである。
彼女こそ、ナフ国全軍を統率する女将軍にして王妹、ジャミラであった。
つまり、ジャミラに「兄上」と呼ばれた男は、サリド王ということになる。
ジャミラはまったく遠慮することなく、王のもとへと近づいていく。
大股で歩くたびに、豊かな乳房がゆさゆさと上下するのが、トーブの上からも丸分かりであった。
彼女はサリド王の椅子の背を掴むと、ぐいと後ろに引いた。
そして机との間に空いた隙間に大きな尻を滑り込ませ、王の膝の上に腰かけるや、その頭を抱きしめた。
「よさんかジャミラ、重い! というか、息ができんぞ。
私には、妹の乳を吸うような趣味はないと、何度言ったら分かるのだ!?」
だが、ジャミラはなかなか王の頭を放さない。
抱え込んだ頭に屈みこみ、香油のよい匂いがする髪の毛を嗅ぎまわっている。
王の頬には、ぴんと立った乳首の感触が、薄い布越しに感じられた。
十分に兄の匂いを堪能したのか、ジャミラはようやく王を解放した。
王の側近であるターヒルが、彼女のために椅子を運んできた。
「いい加減になさいませ、ジャミラ様! はしたのうございますぞ。
それに、いくらご兄妹とはいえ、王に無礼でありましょう」
ターヒルは小言を忘れなかったが、『どうせ無駄だ』という、諦めきった表情が浮かんでいる。
ジャミラは確かにサリドの妹ではあるが、母は違う。
前国王の長姉ナイラやサリドが正室の子であるのに対し、ジャミラの母は第三夫人、すなわち妾腹の娘である。
従ってサリドとは別々に育ち、幼いころでもあまり遊んだ記憶がない。
だが、彼女は〝ナイラの再来〟と呼ばれるほどの女傑であった。
体格も女としては大柄で、生まれつき虚弱な王よりも、頭ひとつ分は背が高い。
しかも、妹には違いないが、年齢はサリドと同じである。
ジャミラはターヒルが持ってきた椅子を引き寄せ、背もたれを前に跨るように腰を下ろした。
ゆったりとしたトーブで覆われてはいるが、当然、股を大きく開く恰好となる。
例え男であっても、王族には許されない粗野な仕草である。
「ずい分と機嫌がよさそうだな、何かいいことでもあったのか?
今回の遠征は、単なる威力偵察だったはずだが……」
「そうです。ですが、思わぬ獲物が引っかかりました」
「ほう?」
「縦深偵察は問題なく終わったのですが、帰還の途中で五十人余りの武装集団を発見しました」
「どこでだ?」
「国境に近い、アジュマーン平原です」
「あそこは先の休戦で、非武装を条件として設けられた、緩衝地帯のはずだぞ?」
「はい。ですから、武装しているのは明らかな協定違反です。
まったく、アフラマの連中は油断も隙もありません」
アフラマとは、ナフの南に隣接する、ナサル首長国連邦を構成する五族国のひとつである。
首長国連邦は軍事同盟国家であるが、彼らが真に団結するのは、対外戦争の場合である。
具体的には西の大国ペルシニアと、東の仇敵ルカ大公国が仮想敵国だ。
それ以外の平時では、互いに領土を巡って紛争を繰り返しており、ナフとアフラマもそうした関係であった。
「五十とは結構な人数だな。ジャミラの手勢は?」
「私以外に十八人でした。機動力を重視した偵察ですから、その辺が限度です」
「お前のことだ、相手が三倍でも突っ込んでいったんだろう?」
「当り前です」
ジャミラが胸を張り、重そうな乳房がぶるんと揺れた。
『妹の部下たちは、よくこれに耐えているものだ』
サリド王は気の毒で仕方がない。彼自身は虚弱な体質のせいか、そうした欲が極端に希薄で、異母妹の豊満な肉体にも、心を動かされなかった。
それがまた、兄を異様に慕うジャミラを燃え上がらせるのだろう
「不意打ちを喰らわせれば、人数の差など意味を成しません。
あっという間に蹴散らし、私も首級を三つ挙げましたので、久しぶりに満足しました」
「それで機嫌がいいのか?」
「まさか。
兄上の手土産にと思い、指揮官を捕虜としたのですが……調べてみるとこの男、カルバ族の族長の息子でした」
「いや、ちょっと待て! カルバといえばカフタンの大部族ではないか。
なぜアフラマとの国境地帯にカフタン人、しかも族長の息子がうろうろしているんだ!?」
カフタンはアフラマのさらに南の国で、ナフとは国境を接していない。
カルバ族はそのカフタン国の北部に蟠踞する一族で、何度も王を輩出した実績を持つ、有力部族であった。
「軽く(嘘だ)尋問してみましたが、さすがに口が堅くて、目的は吐きませんでした。
まずは兄上に報告してから、じっくりと責めてやろうと思っての帰還でございます」
「その判断は賢明だな。
それで、お前自身はどう見ているのだ?」
ジャミラは小首を傾げてみせた。
ナフの女は素肌を隠すことを嗜みとしているので、おしなべて肌が白い。
だが、ジャミラは平気で肌をさらし、ラクダに跨って戦場を駆ける日々を送っているせいで、健康的な小麦色に焼けている。
「カフタンは先年、バドゥル王から代替わりしたばかりです。
アフラマの口車に乗って、我が国とやり合う余裕はないでしょう。
これは恐らく、カルバ族の独断かと存じます。私兵を派遣する見返りに、相当な条件を提示されたのかもしれません。
ただ、それでも二の足を踏んでいる……。
それで族長は息子を派遣して、現地を視察させたのではないでしょうか?」
サリドは軽くうなずいた。ジャミラは戦闘狂の野蛮な女だが、決して馬鹿ではない。
彼女の推測は、恐らく外れてはいまい。
「分かった。捕虜の尋問には、私も立ち合おう。
何にしても、族長の息子はカルバ族を揺さぶる、よい手札になる。壊しては元も子もない」
ジャミラは兄の言葉に、子どものように頬を膨らませてみせた。
「酷いわ、お兄様。私だって、尋問の加減を心得ていますのよ」
「そうか……。
では、ひとつ訊くが、捕えた男は小柄で瘦せ型、色の白い優し気な顔立ちをしていなかったか?」
「まぁ、お兄様ったら凄いです! どうしてそんなことまでご存じなのですか?」
サリドは溜息をついた。
「お前が敵を殺さずに生け捕ったというのは、そういうことであろう?
可愛い妹の性癖に口を出す気はないが、相手が相手だ。少しは控えろ。
とにかく勝手な尋問は許さん。もういいから、下がれ」
ジャミラは椅子から立ち上がると、サリドに向かって顔を突き出し、思いっきり顔をしかめて舌を出した。
そして、くるりと〝回れ右〟をする。
「お兄様のいけず!」
彼女は捨て台詞を残し、大股で扉に向かう。
二人から離れ、慎ましく控えていた側近のターヒルは、振り返ったジャミラの顔を、まともに見る羽目となった。
兄の〝可愛い妹〟という言葉がよほど嬉しかったのか、彼女の頬はだらしなく緩んでいた。
ジャミラは笑いを堪えるターヒルを、すれ違いざまに蹴とばし、扉を開けて外に出ようとする。
それを、サリド王の言葉が引き留めた。
「そうそう、南部の話は分かったが、北のオアシスの件はどうなっているのだ?」
ジャミラは扉の取っ手を握ったまま、兄の方へ振り向いた。
その顔は、引き締まった女将軍の表情を取り戻していた。
「順調です。王国の連中は、財政負担を強いる地味な嫌がらせだと、信じ切っています。
だた、さすがに士気の低下や油断は見られません。
部下たちには〝持久戦〟だと、よくよく言い聞かせておりますから、ご安心ください」
「分かった。しつこいようだが、くれぐれも王国には気づかれるなよ」
ジャミラはこくりとうなずき、王の執務室から出ていった。
* *
オークの村とオアシスとは、直線距離で三十キロ近く離れている。
ろくに道もない密林を掻き分けて進むのだが、オークたちは荷物を背負いながらでも、これを半日で踏破できた。
だが、飛行能力を持つカー君は、同じ距離を一時間ほどで、楽々飛んでしまう。
シルヴィアがオアシス西側に展開する、第三軍の前線基地に到着したのは、まだ朝食前の時間であった。
カー君が着陸すると、すぐに兵士たちが集まってくる。
彼らは飛行用のベルトを外し、シルヴィアが降りるのを手伝ってくれた。
防衛部隊の指揮官であるヤコブ中佐に報せるため、若い兵士が駆け足で指揮所に向かう。
中佐はちょうど遅番(三直と呼ばれる)を終え、交替で戻ってきた隊長たちから報告を受けているところだった。
彼は早々に打ち合わせを切り上げ、五分ほどでやってきた。
「何をやっているのだね、君は?」
シルヴィアは、寝そべっているカー君に寄りかかり、地べたに座って朝食を掻き込んでいた。炊事係に頼み込んで、分けてもらったらしい。
いきなり声をかけられた彼女は、驚いて皿を置いて立ち上がろうとしたが、胸をとんとんと叩きながら、目を白黒させている。
「ああ、構わんから、そのまま食べなさい」
彼はそう言って、シルヴィアの隣りに腰を下ろした。
シルヴィアは口に詰め込んでいた食べ物をどうにか呑み下すと、やっと口をきくことができた。
「もっ、申し訳ありません!
今朝は早くて、自分は朝食を摂る暇がなかったのです。
お腹が空いていたのと、あまりにもいい匂いなもので……つい」
兵士用の糧食であるから、大したご馳走ではない。
だが、ずっとオークの中で過ごしていた彼女は、普通の食べ物に飢えており、調理の匂いに我慢ができなかったのだ。
オークはシルヴィアたちに気を遣い、人間向けに工夫した料理を出してくれたが、所詮はオーク料理である。
彼らの料理は、焼くか煮るかした肉の塊りが中心で、パンのような主食となる穀類がない。
野菜もほとんど出ず、野生の果実が添えられる程度だったから、脂っぽくて胸焼けしやすい。
一番の問題は味付けで、すべてが薄い塩味だった。胡椒が振ってあれば、贅沢な方である。
オークには〝ソース〟という概念がないので、一日で味に飽きてしまうのだ。
皿に残ったシチューを、黒パンでこそぎ集め、もぐもぐと食べているシルヴィアを、ヤコブ中佐は苦笑いを浮かべて眺めていた。
「その様子だと、緊急事態が起きた……というわけではなさそうだな。
交渉は順調だったのか?」
シルヴィアはパンの塊りを、熱いコーヒーで流し込んで、小さなげっぷをした。
上級士官の前で、これは恥ずかしい。
彼女は顔を赤くしながら、何もなかったという顔で、交渉の結果を報告した。
「はい、ダウワース王は派兵を快諾してくれました。
実は今朝の六時に、オーク戦士団、六十余名が村を出発しています。
彼らの足なら、おそらく夕方の四時から五時あたりで到着するかと。
自分は一報を入れるため、ひと足先に飛んでまいりました」
「それはご苦労であった。
この後、指令所で詳しい話を聞こう。その上で、各部隊指揮官を集めた入念な打ち合わせが必要となろう。
それには、オークたちの正確な到着時刻が知りたいところだな」
「午後に何度か偵察飛行をするつもりです。
そうすれば、彼らがいつ、どこから出てくるか、見極められるはずです。
一応、事前に打ち合わせはしてきたのですが、オークたちは地図を持たないので、彼ら自身、森から出る地点を把握していないのです」
「分かった。オークの姿は、できれば商人たちに見せたくない。
早めに街道の往来を、規制しなければならないな」
「自分も彼らが森を出る直前に、キャミイとともに出迎えるつもりでいます」
「オークの側にもその……、指揮官的な人物がいるのであろうな?」
「はい。ウルンギ殿という王の親戚筋です。
実力はもちろんですが、非常に人望もあって、信頼に足る人物ですね」
「〝信頼に足るオーク〟か……。そんなことは考えもしなかったよ。
頭が固くなった年寄りには、意識改革が必要というわけだな。
よかろう、では、来たまえ!」
中佐は立ち上がり、ぱんぱんとズボンの砂を払った。