二十一 秘策
ダウワースがまだ少年のころ、ある呪術師に攫われ、人間の文化と言語を教育された話は有名であった。
これだけ聞けば、呪術師は賢王の恩人である。
だが、実態はそんな甘いものではなかった。
呪術師にとってダウワースは実験動物であり、それ以上の存在ではなかったのだ。
実際に教育に当たったのは、呪術師の高弟たちであった。
彼らはダウワースを狭い牢に閉じ込め、餌と暴力で言葉を教え込んだ。
どうにか意思が通じるようになると、彼はようやく牢から出された。実験動物から奴隷へと昇格したのだ。
そして、さまざまな雑用や力仕事をさせられながら、知識を次々に詰め込まれた。
少しでも理解が追いつかないと、言語に絶する折檻を受けた。
青年になったダウワースは、人間を圧倒する力と体格を手に入れたが、彼らが操る呪術の前では、無力な赤子と変わらなかった。
呪術は闇の力を利用する、いわゆる黒魔術の一種である。
特に精神魔法を得意とし、人や動物の意志を捻じ曲げ、思いのままに操ることができる。
そのため、ダウワースがいくら強くなっても、逆らうことは不可能であった。
呪術師たちはダウワースを獣として見下し、理不尽な虐待を止めなかった。
いくら人の言葉を覚え、教養を身に着けても、それは最後まで変わらなかった。
彼が人間に負けない豊かな感情と、高潔な精神を持っていることに、気づいていたにも関わらずである。
十数年に及ぶ奴隷生活で、最も屈辱的であったのは、繁殖実験であった。
若いダウワースと人間の女奴隷を、呪術師たちの目の前で性交させるのである。
呪術によって支配された女は判断力を失い、とろんとした目でオークを受け入れた。
ダウワースの肉体も、呪術によって増幅された強烈な性欲に突き動かされ、抵抗ができなかった。
彼は女とは違って、かろうじて理性を保っていられた。
それはかえって残酷な結果を生んだ。そこで起きたこと、すべてが脳に刻み込まれたからだ。
彼は奴隷女に泣いて詫びながら、その上で乱暴に腰を振るしかなかったのだ。
ことが終わると術は解かれたが、足をカエルのように開き、焦点の合わない目から涙を零している奴隷女が、哀れでならなかった。
不可抗力とはいえ、これは自分がしでかした行為の結果である。
ダウワースは己の弱さを責め、気が狂いそうな屈辱とともに、呪術師への復讐を誓った。
それから半年後、ダウワースは奴隷女たちの運命を聞かされた。
彼と交わった女たちは、全員が懐妊したが、ことごとく出産時に命を落としたそうだ。
オークの胎児は人間よりも成長が早く、およそ六か月で生まれてくるのだが、身体の大きさが災いして大出血が起こり、母体が耐えきれなかったのだという。
生まれた子の方も半分は死んだが、残りはどうにか生き残った。
呪術師たちはオークの強靭な肉体と、人間の理性を兼ね備えた、新しい人種を期待していたのだが、生まれてきたのは、すべてオークだったそうだ。
この結果を教えてくれた呪術師の高弟は、全身が干乾びたような老人であった。
だが、彼は奴隷女の死を、何の感情も交えずに淡々と語った。
彼ら呪術師にとっては、ダウワースも金で買った奴隷女も、等しく虫けらのような存在だったのだ。
実験は失敗に終わり、幸いなことに二度と繰り返されなかった。
生き延びた赤子は、少なくとも五人いたはずだったが、彼らがその後どうなったかを、知らされることはなかった。
この事件をきっかけに、ダウワースは人が変わったように、積極的に勉学に励むようになった。
踏みにじられた己の誇りと、死んでいった女たちへの贖罪のために、呪術師の支配に対抗する術を、本格的に探し求めたのだ。
呪術師に捕らわれていた時代の、あまりにも辛い経験を、ダウワースは誰にも明かしていなかった。
最も信頼する末娘のジャヤに対しても、そして自らの後継者と期待する甥のウルンギに対してもである。
もちろん、今はこの世界を去った、唯一の人間の友人、ユニも例外ではなかった。
もし、ユニにこの体験を打ち明けていれば、ダウワースは彼女から驚愕の事実を知らされていただろう。
自らが召喚した悪魔に魂を売った、アルケミスという狂教主が、辺境の果てに拓いた村で、オークと人間による繁殖実験を行っていたのだ。
* *
「確かにな……」
ダウワースは苦虫を嚙み潰したような表情となった。
「我が戦士団がオアシスの守りにつけば、ナフ国が事態を重く見る可能性が高い。
ナフのサリド王は智謀に優れ、女将軍のジャミラもなかなかの切れ者だと聞く。
真に力ある呪術師は滅多なことでは動かぬが、王の頼みとあらば力を貸すこともありうる」
シルヴィアも同意した。
「現在オアシスの防衛に当たっているヤコブ中佐は、その事態を恐れていました。
近年、わが王国でも魔導士の配備が進んでいますが、まだ呪術師の精神攻撃に対抗する、有力な手段は見つかっておりません。
オークの戦士は、人間の兵士に五倍する戦力だと言われています。
だからこそ、我々は派兵を要請しているのですが、それが裏目に出るやもしれません」
ダウワースは目を閉じ、しばらくの間黙り込んだ。
ウルンギはそんな王の顔を、少し心配そうに窺っているが、その視線には揺るぎない信頼が籠っていた。
重苦しい沈黙が十数秒続いた後、賢王はぱちりと目を開いた。
「呪術師が前線に出てくることは、まずあり得ない。
ましてやオアシスでの小競り合いは、国の命運を賭けるようなものではないからな。
手を貸すにしても、鳥の目を使った偵察がせいぜいだろう。
ただし、用心は必要だ」
ダウワースはシルヴィアに向けていた視線を、隣りに座る甥の方へと向け、オーク語で訊ねた。
『ウルンギ、お前には呪術師に対抗し得る秘策を授ける。
これは、今まで誰にも明かしてこなかった、俺の生涯をかけた研究成果だ。
もちろん、出し惜しみをしていたわけではない。
これを使いこなすには、誰よりも優れた胆力、鉄のように揺るがぬ意志の力が必要なのだ。
恐らく、この村八千人のオークの中で、お前以外に伝えられる者はいないだろう。
……だが、簡単ではないぞ。覚悟はあるか?』
ウルンギは背筋を伸ばし、王の視線を真っ向から受け止めた。
『伯父貴、いや、我らが賢王よ。
例えこの身が砕けようとも、俺は耐えてみせる!』
キャミイがこの会話を、シルヴィアの耳元でそっと通訳した。
「あの、ダウワース王。
その呪術に対抗する方法は、私たちにも教えていただけるのでしょうか?」
だが、賢王は彼女の願いを鼻で笑い飛ばした。
「馬鹿を言うな! 密林の賢王、畢生の研究だぞ?
どうしても欲しくば、それなりの見返りを用意してから言え。
そうだな、タブ大森林をまるごとよこすというなら、考えてやってもいいぞ!」
* *
密林のオークたちは、ゴブリン戦争以来、久しく実戦を経験していない。
村の若い世代は、当時を懐かしく、そして何より誇らしく語る大人たちを、羨望の眼差しで見ていた。
だから、人間の要請に応じて、オアシスに派兵するというダウワース王の触れは、彼らを熱狂させたのだ。
その夜、ウルンギと数名の戦士団幹部の協議で発表された、六十名ほどの者たちは、友人や家族の祝福に包まれていた。
午前に行われた選抜競技の結果に従えば、その顔ぶれのほとんどが、戦士団を構成する者たちとなってしまう。
しかし、それでは村の治安と防衛を担う者たちを、根こそぎ引き抜いていくこととなる。
そのため、選ばれた者の半分が、戦士団にまだ属していない若者たちとなった。
(その中には、シルヴィアが気にしていたドガも含まれていた。)
十代後半の若者たちは、〝若衆宿〟と呼ばれる大きな建物で、集団生活を送っている。
彼らはそこで村の規律を学び、厳しい上下関係を叩き込まれるのだ。
最も性欲が旺盛な世代を集め、互いに監視させることによって、娘たちの安全を確保するという側面もあった。
(その代わりに若衆宿では、経験豊富な女性たちによる〝適切な指導〟も、公然と行われていた。)
派遣メンバーの発表があった翌日、選ばれた若者は準備に大わらわとなった。
彼らは若衆宿で学んでいるだけでなく、狩りに出て村の食料調達も担っていた。
狩りは五、六名の小集団で行われるので、その再編成も必要となる。
そのため、村全体がざわめいて、落ち着かない雰囲気に包まれていた。
ただし、シルヴィアたち三人の人間には、関係のないことである。
フェイはこの日も妊婦たちの健診と、病人・怪我人の治療で忙しい。
キャミイも通訳として、便利に使われていた。
シルヴィアだけが暇であった。
腫れあがって動かせなかった腕は、湿布のお陰でかなり楽になっていた。
まだ痛みは強いが、腕を吊らなくてもよくなって、利き手で食事を摂ることもできた。
この調子なら、出発となる明日には、カー君にも乗れるようになるだろう。
そう判断した彼女は、ひとりでダウワースのもとを訪ねた。
しかし、王はウルンギと奥に籠っているとのことで、彼女は追い返されてしまった。
応対のオークとともに、ふくよかな女オークが出てきて、かなり聞きやすい中原語で、王の言葉を伝えてくれた。
「今宵もあなた方三人を、夕食にお呼びします。
お話はその時に聞く……との仰せでした」
(シルヴィアは知らなかったが、この女性はダウワース王の次女であった。)
その言葉どおり、夕方になると宿舎に迎えがきて、彼女たちはまたしても、王と会食することとなった。
この夜も王の隣りの席には、ウルンギが並んで座っていた。
人間に配慮した食事が終わると、ダウワース王の方から話を切り出してきた。
「こちらの準備は滞りなく進んでいる。
明日の出発は朝五時と決まった。今の時期なら、四時にはもう明るいからな。
それで、俺に話があったようだが、何だ? 言ってみろ」
シルヴィアは軽くうなずいた。
「はい。私たちの方の、明日の予定についてです」
王は軽く首を傾げた。
「お前たちの?
はて、俺はてっきりウルンギに同行するのと思っていたが、違うのか?」
「フェイはこのまま村に残ります。そうよね?」
フェイは〝当り前だ〟という顔でうなずいた。
「私はまだ、この村の妊婦全員を回り終えていませんし、診療を希望する方々も大勢残しています。
それを放り出して帰るなどと無責任なことが、どうしてできましょう?」
王はウルンギに小声で通訳してから、目を細めて笑ってみせた。
「さすがはアスカ殿の養女であらせられる。
ジャヤがぞっこんになっているのも、無理はないな」
「恐れ入ります。
気になるお産も控えていますから、あと一週間ほど滞在すれば、ひと段落つくと思います。
シルヴィアたちには、その頃に迎えに来てもらうことになっています」
「よかろう。それで、シルヴィアとキャミイはどうなのだ?」
「私たちは、先行してオアシスの守備部隊に、戦士団の出発を報せるつもりです。
オアシスは行き交う商隊で、常に賑わっていますが、いきなり皆さんが現れては、混乱が生じて事故が起こりかねません。
その辺も含めて、万全の受け入れ態勢を要請するつもりです」
「ふむ、それはよいことだが……どうやって我々に先んじるのだ?
キャミイを獣の姿に戻したとしても、密林を走るのは容易ではないぞ?」
「いえ、実は陛下には話しておりませんでしたが、私のカーバンクルは空を飛べるのです」
「ほう……その話、ウルンギに伝えてもよいのか?」
「構いません。ウルンギ殿は賢王様と同じく、信頼に足る人物だと知っておりますから。
ですが、陛下はあまり驚かれないのですね?」
「まぁな、カーバンクルが人間に化けているという話の方が、よほど突拍子もないからな。
そんなことができるなら、空くらい飛べるだろうさ」
ダウワースは笑いながら、長々とした通訳を始めた。
ウルンギは驚愕の声を上げ、その視線は王とキャミイの間を、何度も往復した。
どうやら、キャミイの正体から、順に説明しているようだった。
ウルンギが低い唸って沈黙すると、シルヴィアは言葉を継いだ。
「その件、王とウルンギ殿はよいのですが、他のオークの方々には、くれぐれも内密に願います。
当然、変身は見られたくはありませんので、私とキャミイは戦士団の出発前に村を出て、十分に離れてから飛び立つつもりでいます」
〝見られたくない〟のは本音であった。
何しろ、キャミイがカーバンクルに戻るためには、下着を含めた着ている衣服を、すべて脱がなくてはならないのだ。
「分かった。村の周囲には、至るところで監視の目が光っている。
その者たちには、お前たち二人を見張らず、遠ざかるよう伝えておく」
「ご配慮、痛み入ります」
この後、いくつかの細かい打ち合わせを重ね、三人は王の御前を辞した。
* *
翌朝、まだ薄暗いうちに、シルヴィアはカー君に跨って森を飛び立った。
久しぶりに本来の姿に戻ったカー君は、身体の節々を思いっきり伸ばして、上機嫌だった。
シルヴィアの頭の中に、懐かしい念話の声が響いてくる。
『やっぱり、この身体はいいなぁ!
人間も利点はあるけど、窮屈でいけないよ。
まぁ、シルヴィアたちの肌は弱いから、衣服が必要なのは分かるけど、何なの、あのコルセットって奴!
何であんな苦しいもので、胸を押さえなきゃいけないのさ?』
爽やかな朝の風を感じながら、シルヴィアは苦笑するしかなかった。
「さあ、何ででしょうね?
白状するけど、あたしたちにもよく分からないのよ」