十九 試合
シルヴィアが引きずられていったのは、投石の開始線の前だった。
そこまで来て、オークたちはようやく腕を放してくれた。
そして彼らは、彼女の目の前に投石器を差し出した。
思わずオークの顔を見上げると、彼らは笑顔でうんうんとうなずき、シルヴィアの右手に丸めた革紐を押しつけてくる。
さらに、左手には弾となる石を渡すと、遠くに見える的を指さした。
もはや彼らの意図は明確である。シルヴィアにも試技をしろと促しているのだ。
当然、彼女は首をぶんぶんと左右に振って、これを拒否した。
投石器の存在は知っているが、生まれてこの方使ったことはないのだ。
しかし、オークたちは全力で断ろうとするシルヴィアを、なだめるように話しかけてくる。
『まぁまぁ、そんなに謙遜しなくてもいいじゃないか。
ちょっとでいいんだ、やってみせてくれよ』
そう言っているのが、丸分かりである。
(シルヴィアは、自分がオーク語を理解しているのではないか……と疑い始めていた。)
オークたちは、次に周囲の観客たちの方を指さした。
シルヴィアが後ろを振り返ると、いつの間にか、帰りかけていた観衆の大多数が戻ってきていた。
全員が期待を込めた目で、シルヴィアのことを見つめている。
何度も説明したように、もともと投石器の扱いをオークたちに教えたのは、人間であるゴードンであった。
まだ二十年も経っていないから、壮年者の多くは、その時のことを覚えている。
彼らにとって、ユニ、ゴードン、アスカの三人は、オークたちを率いてゴブリンの大軍勢を打ち破った英雄である。
そして、投石器によって、その後の大繁栄をもたらしてくれた大恩人でもあった。
オークは文字を持たないから、この大戦争は壮大な詩歌に編まれ、若い世代に伝えられてきた。
こうした場合、登場人物がより英雄的で、感動的に歌われるのはお約束である。
実際の記憶を持つ大人たちは、自分の思い出をより誇大に語り、子どもたちはそれを頭から信じ込んだ。
そのため、密林のオーク族の間では、人間とは軍神に近い存在として認知されていたのだ。
当然、彼らが熱中する投石器の腕前も、オークを遥かに凌ぐと信じられていた。
確かにゴードンは、当時のオークの誰よりも上手かった。
だが、オークたちはその後長年の切磋琢磨で、めきめきと腕を上げた。
恐らく、今回の競技会で優勝したウルンギが相手では、ゴードンでも歯が立たないだろう。
シルヴィアこそいい迷惑である。
オークたちは、シルヴィアが投石の達人であり、その模範演技を披露してくれるのだと、無邪気に信じ切っている。
千人に近い大群衆のきらきらとした瞳が、その期待の大きさを物語っていた。
万事休すであった。言葉が通じないオークたちに、シルヴィアの弁明は通じない。
娯楽に飢えているオークたちにとって、めったにお目にかかれない見世物である。
もう『できません』で済まされる雰囲気ではなかったのだ。
シルヴィアは覚悟を決めた。こうなったら、試技を行うしかない。
もちろん初心者の彼女が、その期待に応えることは不可能だ。
おそらく大恥をかくことになるだろう。
オークたちには気の毒だが、その残酷な現実を見せつけて、納得させるしかないのだ。
取りあえず、渡された投石器に手を通してみる。
革紐の片方の端は輪になっていて、まずそこに右手を入れてみる。
オーク用なので、輪が緩すぎるのではないかと思ったが、手首を通すとちゃんと具合よく締められるように調節できる。
もう片方の端は、小さな結び目となっていて、これを右手で握り込む。
中央の幅広い革に石をセットして、だらんと垂らせば、あとは振り回すだけである。
競技をずっと見ていたから、何となくやり方は分かる。
まずは身体の右側で回し始め、ある程度勢いがついたところで、今度は頭上で回転させる。
問題は、どうやって狙いをつけ、どのタイミングで手を離すかだ。
こればかりは実際にやってみて、感覚を掴むしかない。
シルヴィアは頭上でひゅんひゅんと音を立て、十分に遠心力をつけてから、思い切って手を離した。
自分でも驚いたことに、石は勢いよく前方に飛んでいってくれた。
だが、石は十メートルほど先で地面に激突し、土にめり込んで終わりとなった。
見守っていた群衆からは、驚きと失望の溜息が洩れた。
彼らは、シルヴィアがよもや失敗するとは思ってもいなかったのだ。
彼女の周囲にいたオークたちも、同じ反応だった。
『なぁに、いきなりのことで勘が鈍っているんだ。気にしないで続けてくれ』
彼らは笑顔のまま、そんなことを言っていたのだろう。続いて石を二つ手渡してきた。
毒を喰らわば皿までである。シルヴィアは続けざまに第二投、第三投と試技を行った。
二投目は明後日の方向に弧を描いて飛び、三投目は足元に叩きつけることになった。
結局、最初の一投が一番ましだったことになる。
ここまでくると、観客にもシルヴィアがずぶの素人であることが理解されてきた。
それと同時に、失望の溜息に代わって、嘲笑がさざ波のように広がっていく。
覚悟はしていたものの、シルヴィアにとっては相当の屈辱である。
「だから、私は初心だって言ったでしょ!」
彼女は顔を真っ赤にしてそう言い放つと、手首から投石器を外して、近くにいたオークに向けて放り投げた。
軍人が武具を粗末に扱うのは、どう考えても誉められたことではない。
だが、シルヴィアはまだ若かった。覚悟をしていたはずなのに、実際に嘲笑を受けてみると、彼女のプライドがいたく傷ついたのだ。
投げつけられた革紐を片手で受け止めたのは、競技の優勝者のウルンギであった。
彼は苦笑いを浮かべてシルヴィアに近づき、何事か話しかけてきた。
恐らく、彼女の敬意を欠いた行いを、やんわりとたしなめたのだろう。
だが、その顔に浮かんでいた〝憐み〟が、感情的となったシルヴィアに火をつけた。
自分が悪いと自覚しているだけに、行き場をなくした怒りと恥ずかしさが暴発したのだ。
何としてもこの恥辱を雪がなくては、自尊心が保てそうにない。
彼女は周囲を見回し、近くの地面に立っている棒に目を止めた。
この村には、戦士と呼ばれる階級が存在している。
オークは基本的に戦闘民族なので、いざ戦いとなれば、若い男はすべて参戦する。
だが、戦闘のない平常時であっても、村の治安を守り、外敵の侵入に警戒する者が必要であった。
それが戦士である。
戦士階級のオークを見分けるのは簡単だった。
彼らは武器として、槍を持っているのだ。
オークの武器は一般的に棍棒で、狩りに赴く男たちが槍を手にすることはない。
全金属製の剣と違い、槍はオークの技術レベルでも製作できる。
刃のついた鉄製の槍先は大公国からの輸入して、それなりの数を確保しているが、平常時には必要としない(かえって危険だ)。
だから、村内を巡廻する戦士は、穂先のない槍(実質的には棒)を常に持ち歩いている。
この競技会に参加した者たちにも、戦士階級がかなり含まれていたと思われる。
優勝者のウルンギ自身も、戦士団の幹部であった。
彼らは一時、競技に興じるため、身分の象徴でもある槍を地面に突き刺しておいたのだ。
シルヴィアはそこに歩み寄ると、二本の槍を引き抜いた。
そして戻ってくると、一本をウルンギの方へ放り投げた。
ぱしっと受け取ったウルンギは、訳が分からない表情をしている。
シルヴィアはにやりと笑うと、槍を頭上に構えた。〝火の構え〟とも呼ばれる、上段の型である。
ひゅんひゅんと風切音を立てて槍を回すと、支点を首、肩、脇と移しながら回転させていく。
これは槍術の演武で披露される技術で、実用的な意味はないが、見た目だけは派手である。
実際、見物している観客からは、『おおぅっ!』という感嘆の声が洩れた。
彼女は肩と胴を使って槍をX字に振り回した後、いきなり腰を落とし、槍を小脇に抱え込んだ。
そして大きく一歩を踏み出すと、槍先を蛇のように繰り出し、ウルンギの喉元に突きつけたのだ。
ぎょっとしてたじろぐウルンギに向かって、シルヴィアは左手を差し出し、くいくいと指先で招く。
『かかってこい』という、明らかな挑発の仕草だ。
要するに、投石でかかされた恥を得意な武術で返そうという、きわめて子どもっぽい行為である。
そんなことはシルヴィアだって分かっているが、それが止められないのが、彼女の若さである。
彼女の露骨な行為に、観客たちもその意図を察したが、これが予想外に盛り上がった。
オークは短気で熱くなりやすい民族なので、こうした展開は大好物なのだ。
挑発された方のウルンギも、不敵な笑みを浮かべて槍を構えた。
彼は部族で最強と目される戦士であるから、挑まれた戦いから逃げる、という選択肢は存在しない。
シルヴィアの周りにいたほかのオークたちは、さっとその場を下がって、試合を行える十分な空間を確保した。
審判役は必要なかった。すでに二人の気合は十分に高まっており、ちょっとしたきっかけで戦いが始まりそうだった。
感情の赴くままに戦いを挑んだシルヴィアであったが、いざ槍を構えて対峙すると、途端に冷静になる。
予想していたことだったが、ウルンギの構えは正統な教育を受けた彼女からすると、お粗末なものであった。
型も何もなく、ただ漫然と構えているだけだ。
だが、いざ打ち込もうとすると、意外に隙がない。
これはウルンギが積んできた、経験の賜物であろう。
長引いて体力勝負になれば、シルヴィアに勝目がないのは、最初から分かっている。
彼女は果敢に攻撃に出た。
相手の顔面、喉元、鳩尾、股間と、次々に目標を変えながら、槍先を繰り出していく。
ウルンギはそれらの攻撃を、すべて余裕をもって弾き返した。
それでもシルヴィアは怯まない。
今の攻撃は、ウルンギの反応を見るための試し打ちである。
強くしなる槍の柄を引き戻すと、彼女は本格的な攻撃に出た。
敵との間合いが大きいという、槍の特徴を活かした打撃攻撃である。
槍は近距離兵でありながら、間合いが大きい。
刺突攻撃が脅威であることは言うまでもないが、上や横から叩きつける攻撃も凄まじい威力を有している。
槍の柄には、さまざまな広葉樹が素材として使われるが、いずれも固さと柔軟性を備えている。
長さのある槍をしならせて叩きつけると、木刀の打ち込みを凌駕する威力があった。
実際の戦場では、敵の身体を突き刺すよりも、叩きのめす方が効率的な場合が多い。
だが欠点もある。遠心力を利用するので大振りとなり、防御されやすいのだ。
そして、攻撃する側も態勢を崩しやすく、連続攻撃が難しいということだ。
シルヴィアの槍が、唸りを上げてウルンギの頭部を襲う。
まともに当たれば、頭蓋骨が粉砕されるだろうが、彼女は何も手加減しなかった。
それだけ、ウルンギの実力を認めていたのだ。
相手は当然、槍でこれを防ぐ。
しかし、シルヴィアもそれは織り込み済みである。
弾かれた反動を利用して素早く槍を引くと、大きく踏み込んで連続した突きに移行する。
最初の刺突攻撃で、ウルンギの反応は把握した。
今度は、急所というよりも、相手が受けづらい個所を狙った。
具体的には、利き腕の肩や脇の辺りである。
槍は長さがある分、手元に近いほど攻撃を払うのが難しく、対応も遅れがちとなる。
案の定、相手の防御が間に合わず、肩のつけ根に槍の先端が突き刺さった。
もし、穂先がついていれば、背中側まで貫通していただろう。
ウルンギは堪らず後退したが、シルヴィアは追撃を止めない。
二歩、三歩とさらに踏み込み、目にもとまらぬ速さで突きを繰り出す。
肩に続き、脇腹と腰のあたりにも、見事な突きが決まった。
普通なら、ここで勝負ありなのだが、この試合には審判がいない。
しかも、ウルンギの全身を覆う分厚い筋肉のせいで、数発の突きを受けても、相手はまだまだ元気だった。
再び肩口を狙って突き出される槍を、彼は身体を捻ってぎりぎりで躱した。
シルヴィアの態勢が泳いだところで、ウルンギは猛烈な反撃に出た。
オークの膂力、背筋力がなければ実現しない、態勢を無視した方向からの一撃だった。
〝ぶんっ!〟という物騒な音を立て、横殴りに襲ってくる攻撃を、シルヴィアは槍を盾にして受け止めた。
だが、それでも相手の槍は弾けない。
それどころか、防いだ槍ごと、強引に身体が持っていかれる。
そのまま薙ぎ倒されずに、どうにか踏ん張れたのは、鍛錬の賜物である。
槍を地面に突き立て、どうにか体勢を立て直したシルヴィアは、信じられないものを見た。
ウルンギが大きく引いた槍を背中に回し、反対側から抱えて大きく回転させたのだ。
それは試合前に、挑発のためシルヴィアが見せた演武の応用だった。
彼はあの一瞬で、その技を盗み取っていたのだ。
さっきとは反対方向から襲ってくる攻撃に、シルヴィアの対応がわずかに遅れた。
彼女はどうにか攻撃を受け止めようとしたが、槍を持ち替える暇がなく、片手での防御となった。
オークの体重が乗った攻撃が、それで防ぎきれるはずもなく、彼女の槍は大きく撥ね上げられた。
がら空きになった脇腹に、槍が叩き込まれようとした刹那、シルヴィアは槍から手を離し、下方に向け肘を打ちおろした。
その上腕に、ウルンギの槍がまともに叩きつけられ、今度こそシルヴィアは吹っ飛ばされた。
片手であっても、相手の攻撃をいったん槍で受けたこと、肉のない脇腹ではなく、しっかりと筋肉がついている上腕部で受けたことが幸いした。
また、無理に踏ん張らずに、素直に吹っ飛んだことで、衝撃もわずかに逃すことができた。
シルヴィアは反射的に腕を振ってみたが、問題なく動かせる。骨は折れていないようだ。
倒れたシルヴィアは、ごろりと横に回転する。
空いた地面に、ウルンギの槍が深々と突き刺さった。間一髪である。
彼女は自分の槍を右手で掴むと、残る左手でウルンギの槍を掴んだ。
彼の槍は、地面に深く刺さり過ぎたことで、引き抜くのに手間取っていた。
強引に引き戻される槍の助けを借りて、シルヴィアはばね仕掛けのように立ち上がった。
槍を引いたばかりのウルンギに、すかさず下方からの鋭い突きを入れた。
彼女の槍先は、見事にウルンギの脇の下に吸い込まれた。
筋肉のない弱い分をしたたかに突かれたことで、彼は思わず槍を取り落とした。
シルヴィアは追撃に移ろうとしたが、その前にウルンギが後方に大きく飛び下がった。
落とした槍は拾わず、そのまま地面に転がったままである。
シルヴィアが呆気に取られていると、オークはどっかと地面に腰をおろした。
そして、胡坐をかいた両膝に手を突くと、深々と頭を下げた。
ウルンギは自らの負けを認めたのだ。
ややあって、その意味を理解したシルヴィアも、へなへなとその場に座り込んだ。
彼女は自分もウルンギと同じ姿勢をとり、頭を下げ返した。
シルヴィアももう限界で、これ以上は戦えないと、素直に認めたのである。
実際、さっき打たれた右の上腕部は腫れあがり、ずきずきとした激痛が続いている。
右手はぶるぶると震え、半ば感覚がなくなって槍を握るのもやっとだった。
最後の突きを放てたのは、奇跡としか言いようがない。
互いに頭を下げ合う二人に、息を呑んで見守っていた観衆の中から、ぱちぱちとまばらな拍手が聞こえてきた。
それはさざ波のように広がっていき、やがて大波となって、二人を包み込んでいった。