十七 見返り
王国の人間、特にシルヴィアのような上流階級に生まれた者は、直接床に座ることに慣れていない。
ましてや、女性が胡坐をかくのは、はしたないことである。
軍に入ると、作戦中は野営が当り前で、椅子などあるわけがない。
辺境生まれのエイナが、まったく気にせずに地面に座るのを、シルヴィアはいつも不思議に思っていた。
いまシルヴィアは、床の上で(敷物はあるが)胡坐をかき、ダウワースと向かい合っている。
それがオークの流儀だとは分かっているが、どうにも落ち着かない。
ダウワースは人間の文化に精通している。
その気になれば人間の客人のため、椅子とテーブルを用意することだってできたはずだ。
交渉においては、心理的に優位を立つ方が主導権を握る。
オークの賢王は、最初の段階からそんなことを考えていたのかもしれない。
彼がいきなり王国側の目的を、すべて説明してみせたことも、相手を呑むための心理戦であった。
シルヴィアは初めこそ驚き、気圧されたが、すぐに相手の意図に気づいた。
彼女はとびきりの愛嬌を総動員して、賢王に笑いかけた。
「困りました。間違えないよう何度も練習しましたのに、私の喋ることがなくなってしまいましたわ。
私、ジャヤから『オークは女性を大事にするの』と聞いていたのに、賢王様は意地悪でいらっしゃいますのね」
ダウワースは苦笑いを浮かべ、片目をつぶってみせた。
「娘の話を持ち出すのは反則だろう?
俺は余計な時間を節約しただけだ。貴国の条件を聞こうではないか」
「はい」
シルヴィアも素直に応じる。最初の切り合いは互角の別れだ。
彼女は軍服の胸ボタンをひとつ外し、内ポケットから油紙の包みを取り出した。
それを床に置き、すっと前に押し出す。
ダウワースはそれを取り上げ、油紙を開いた。
中に入っていたのは、丸められた羊皮紙である。
賢王は封蝋で留められている紐を外し、内容に目を通した。
「塩二百キロ、砂糖五十キロ、胡椒二キロ、各種生薬二駄、鍬先と鎌の刃各二十、槍先三十、鏃五百……。
これは何の目録だ?」
羊皮紙から顔を上げたダウワースが訊ねる。
「オアシスへの出兵に対して、王国が一年間に提供する支援物資の明細です。
派兵期間に応じて案分することになりますが、予想外に早期に撤収した場合でも、最低限この半量は保証いたします」
いずれの品も、オークにとっては必需品のはず。悪い話ではないと存じます」
「ふん……」
王は鼻に皺を寄せた。
「確かにな。だが、我が一族は八千人の大所帯だ。
これしきの量では、とても賄いきれるものではないぞ?」
「当然でしょうね。
ですが、私どもの予算には限りがあります。
そこで、もうひとつの提案です。
無償供与で足りない分は、大公国からではなく、赤城市の商人から買っていただきたいのです。
取引に当たる商人は、組合を通じて管理がなされますから、正当な価格での売買をお約束いたします」
「そうは言っても、大公国に比べて王国は遠い。運送料がかかるのではないか?」
「それは必要経費ですから、当然上乗せされます。
ただそれでも、現在大公国の商人から仕入れている価格より、かなり安くなると思います」
「商人がもたらす情報はどうなのだ?」
ダウワースの疑問に、シルヴィアは含み笑いで応じた。
「よい商人ほどより早く、より正確な情報を持っているものだそうです。
赤城市の商人が、大公国に遅れを取るとは思えません。
それも併せて、賢王様は両者を天秤にかければよろしいのではありませんか?
どちらに転んでも、オークの皆様の損にはならないはずです」」
「お前たちはそれでよいのか?
王国商人が選ばれる保証はないのだぞ」
シルヴィアはにこやかにうなずいた。
「別に私どもは、商人の肩を持つわけではありません。
取引が成立するかどうかは、彼らの器量次第でございます」
「なるほどな……」
ダウワースは顎に手を当てて考え込んだ。
「確かにそれだけを聞けば、こちらに損はないように思われる。
だが、戦士団を派遣する見返りとして、それが十分かどうかは別の話だ。
オアシスの防衛ともなれば、最低でも五十人は必要だろう。
水以外の物資の補給には、同数の人夫が週に三往復することになる。つまり、ほとんど専従に等しくなる。
それに対して、無償支援は必要量のひと月分、それ以上は金を払って買ってくれでは、割に合わんと思わんか?」
「そうでしょうね」
シルヴィアがあっさりと認めた。
「ですから私たちは、交渉の切り札としてフェイを連れてきたのです」
ダウワースはじろりとフェイの表情を窺った。
「つまり、オルグの村と同じことをやるつもりなのか?」
フェイはまったく怯まずに、正面からその視線を受け止め、堂々と答えた。
「さすが賢王様、話が早くて助かります。
私は昨夜、母子の命を救いました。今日も午後からずっと、診療にかかりきりでした。
私の滞在は一週間程度の予定ですが、それだけあれば、村のオークたちは医療のありがたみを痛感するでしょう。
赤龍帝リディア様は、密林のオーク族に対し、定期的な医師派遣の用意があると表明されました」
「それは、オアシスの防衛に当たっている間だけの話……ではあるまいな?」
「もちろん違います。
密林オーク族が、王国第三軍と協力関係を保ってくれるならば、将来にわたって続く話です」
「ふぅむ……」
考え込むダウワースに、フェイは追い討ちをかけた。
「私は外科も内科も診ますが、一番の専門は産科です。
オークにとって、子を産む母親を救うことは、最優先事項ではありませんか?」
さらに彼女は畳みこむ。
「それと昨夜、私は女たちから気になることを聞きました。
この村は、この十数年で空前の繁栄期を迎え、人口も爆発的に増えた。
ですが、最近は人口の増加が頭打ちとなっているそうですね。
女たちの話では、多胎児が激減しているためだとか……。
これは、オルグの村では見られない現象です。もしかすると、未知の感染症かもしれません。
私は医者として、原因調査の必要を感じています!」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
ダウワースは慌てて手を挙げ、フェイを制した。
「くそっ! 女どもの口の軽さは、どうしようもないな。
ああ、いや……、つまりだ!
その原因については、大方見当がついている。
無論、病気などではない。強いて言えば、自然の節理としか説明のしようがない」
「どういう意味でしょう? それでは納得できません!」
「だから、待ってくれと言っているではないか!
これは極めて文化的で、何と言うか、実にデリケートな問題でな。
約束する。後で時間を取ってゆっくりと説明するから、取りあえず今は忘れてくれ!」
ダウワースは大きく咳ばらいをして、態勢を立て直した。
「フェイの言うことは分かる。
俺たちにとって女、なかんずく母親を守ることは、一族の将来に関わる問題だ。
最近になって出産数が減り、人口が微減に転じたことも事実だ。
だからこそ、女や子どもの命を救う医療は確かに欲しい!」
「だが、フェイよ。お前は人間相手に開業しながら、オルグの村の面倒も見ているのであろう?
その上、俺たちまで相手をするのは、さすがに無理な話だ。
その辺はどうなのだ?」
「もちろん、私が診るわけにはまいりません。
ですが、適切な人材に心当たりがあるのです。
私の弟子……と言ってはおこがましいですが、二年前から診療所で働いている若い医師がおります。
いま現在も、私の留守を任せて診療所を切り盛りしていますから、腕は確かです。
彼女もオルグの村へ何度か同行していますし、私同様に片言ならオーク語も話せます。
まだ若いですが、意欲のある娘です。きっとお役に立てるはずです」
だが、ダウワースは懐疑的だった。
「本当に大丈夫なのか?
ジャヤの話では、フェイは二か月に一度、一週間程度の滞在をしているそうだな。
しかし俺たちの部族は、オルグのところとは規模が違う。
もっと頻繁に、長期の滞在をしなければ、とても対応できないはずだ。
その娘は、果たして引き受けてくれるだろうか?」
フェイはにこりと笑った。
「実は、リディア様からお手紙をもらった時、彼女に事情を話して意志を確かめたのです。
彼女は二つ返事で引き受けてくれた上に、数年は通いではなく、この村に常駐してオークの医療に当たるつもりだと言ってくれました。
それだけの覚悟を持った娘ですから、どうかご安心ください」
そして、彼女はもうひとつ付け加えた。
「私はオルグの村で、ある実験をしています。
それは、医療知識を持ったオークを育てることです」
「オークの医者を?」
「いきなりは無理だと思いますが、看護助手だったら何とかなると思うのです。
将来的には人間世界に留学させて、本格的に医師の勉強をさせることだって、不可能ではないと思っています。
オークの中にも、若くて優秀な女性はいます。
そういう子たちに、実際に現場で手伝ってもらいながら、基礎的な知識や技術を教えているのです。
この村でも、同じ試みを始めようと思っています」
「オルグの村でそこまでしていたとは、……驚いたな。
だが、ジャヤの便りには、そんな話、ひと言も書いていなかったぞ?」
フェイは笑い出した。
「それは、自慢するようで恥ずかしかったからではありませんか?
だって私がいない間、オルグの村で傷の手当や投薬をしているのは、ジャヤ自身ですもの」
「そうであったか……」
ダウワースは深い溜息をつき、シルヴィアの方に向き直った。
「お前たちが、そこまで考えてくれているのなら、もはや是非もあるまい。
オアシス派兵の件、賢王の名にかけて承諾した」
「ありがとうございます」
シルヴィアとフェイが同時にオーク式の礼をすると、キャミイが慌ててその真似をした。
彼女は交渉の間中、目をあけながら眠っていたのだ。
* *
交渉が無事決着したことで、場は和やかな雰囲気に包まれていた。
ダウワースが手をぽんぽんと鳴らすと、世話係の女たちが奥から酒と肴を持って現れた。
一同は両国の繁栄を祝して乾杯し、そこからは雑談に移った。
「言うまでもないが、まとまった戦士団の派遣は、俺たちにとっても大事になる。
まずは信頼に足る指揮官、そして戦士の選抜から始まり、武器・装備や糧食の準備もあろう。
出発は急がせるが、三日は待ってもらいたい。
それと、まさかとは思うが……オークと人間の間で、無用の争いは起こるまいな?」
「その心配には及びません。
オアシスの防衛部隊では、オーク戦士団がいつ現れてもいいように、準備を開始しております。
簡易兵舎も監視塔も、即座に明け渡す手筈になっています」
「ならばよい」
賢王は満足げにうなずき、フェイの方を向いた。
「そういえば、我らの村に来てくれるという、その奇特な女史の名前を、まだ聞いていなかったな。
何という名前なのだ?」
訊ねられたフェイの頬が、軽く引き攣った。
「ええと、その……はい。
彼女はオルガ――オルガ・ブラトフという名です。
私は普段、オーリャと呼んでいますが……」
それを聞いたダウワースは驚き、思わず目を瞠った。
「オルガとな?
いやはや、それは……オークそのものの響きだな。
実際、この村にもオルガという名の女がいるぞ」
王の反応は、フェイにとって予想の範囲内である。
オルガという名は、オークによくある名前だったのだ。
フェイが初めて大森林のオーク村にオルガを連れていった時も、その名が大いに話題となったものだ。
そもそも村の族長からして、オルグという一字違いの名であったのだ。
* *
翌朝、フェイが宿舎の入口から顔を出すと、診察を待つオークの行列は、昨日よりさらに増えていた。
昨日も彼女は、半日をかけて治療に当たったのだが、押しかけてきた患者の半分しか診れなかった。
残りの者たちには、翌日に優先して診察する予約券(色紙を小さく切っただけのもの)を渡して帰ってもらったのだ。
彼らはもらった半券を、神から授かった護符のように押し戴いていた。
今日の最前列は、それを握りしめた者で占められていた。
わざわざ早くから並ぶ必要をなくすための券なのだが、オークたちには理解できないのだろう。
何しろ彼らには時間がたっぷりある。
オークは多少の怪我や病気でも、動けるのなら働きに出る。
宿舎の前に並ぶ連中は、働けないのでほかにやることがないのだ。
フェイは溜息をつき、急いで昨日と違う色紙を切って、新しい予約券を作った。
そして、キャミイを呼んで通訳に立ってもらった。
昨日の予約券を持っている者は、これから順番に診察する。
持っていない者には新しい券を配るから、今日は帰って明日また来るように。
――そう伝えたのだ。
そして、昼までかかって昨日の患者を片づけると、午後はキャミイを伴って、村の妊婦を一軒ずつ訪問した。
フェイの噂は、すでに村中に広まっていたので、彼女は下にも置かない歓待を受けた。
彼女は妊婦たちの健康状態を確認して、一人ひとりの名前と状態をカードに書き込んだ。
オークは頑健ではあるが、妊婦たちはそれぞれに悩みを抱えている。
フェイはそれを丁寧に聞き取り、適切なアドバイスを与え、元気づけた。
妊娠中毒症とみられる者も何人かいたが、基本的に妊婦たちに深刻な問題はなかった。
ただ、悪阻に苦しむ妊婦は多く、そうした者には薬を処方した。
これは吐き気を抑え、胃をすっきりさせて食欲を回復させる、いわゆる健胃薬に近いもので、正直に言うと気休めに過ぎないものだった。
ところが、心理的な影響のせいか、これが劇的に効くという評判がたちまち村を駆け巡った。
健診のため家々を回るフェイの後には、妊娠していない女たちがぞろぞろ付きまとい、いくら断っても薬が欲しいと食い下がるのであった。
一方、シルヴィアはすることがなく、閑を持て余していた。
オークの村は広かったが、特に見るべきような名所もない。
言葉も分からないので、話しかけることもできず、彼女は仕方なくぶらぶらと散歩をしていた。
小一時間も歩き回って村の外れに達すると、何やら前方に人だかりが見えた。
何だろうと近づくと、オークの男たちが投石器を使って的当てをしている最中だった。
ただの遊びか練習だろうと思ったのが、それにしては取り囲んでいる男たちの興奮が異様であった。
シルヴィアは、オークたちに混じって見物することにした。
彼女は軽い気持ちで見始めたのだが、それは凄まじい試合であった。