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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第九章 能力発現
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十六 交渉

 人間の客人のために、オークたちは宿舎を用意してくれていた。

 フェイとキャミイがオーク女と一緒に行ってしまったので、シルヴィアはその建物に引き揚げた。

 もう時刻は夜の十時を回っていて、普段ならとっくに寝ている時間である。


 フェイのことは気になったが、出産についての知識がなく、オーク語の分からない彼女が付いていっても、邪魔になるだけだから仕方ない。

 その日は朝早くから歩きどおしだったし、宴会で多少の酒を入れた酔いもあった。

 宿舎の土間の上には敷物が敷かれ、奥の方には乾いたわらの塊りが、ベッド代わりに用意されている。


 シルヴィアは制服を脱いで、寝間着を兼ねた楽な部屋着に着替え、お日様の香りのする藁の中に潜り込んだ。

 たちまち睡魔が襲ってきて、ものの十秒も経たないうちに、彼女は寝息を立てていた。


 シルヴィアが目を覚ましたのは、頬に冷気を感じたからだった。

 彼女は寝起きが悪いことで有名だったが、さすがにオークの村だという緊張感があったのだろう。

 低血圧でぼんやりする頭で見回すと、宿舎の中は薄っすら明るくなっていた。


 掘立小屋の扉は木製ではなく、蔦で編んだ暖簾のれん状の垂れ幕である。

 それを持ち上げて、フェイとキャミイが入ってきたのだ。

 隙間から覗く外は薄いもやが立ち込め、そこからシルヴィアが感じた早朝の冷気が吹き込んできた。


「あら、起こしちゃったかしら? ごめんなさいね」

 肩から背嚢を下ろしながら、フェイが謝った。

 逆光で彼女の表情はよく見えなかったが、声の調子だけで疲労が伝わってくる。


 フェイは手早く服を脱いで下着姿になると、シルヴィアの隣りに倒れ込んだ。

「ごめん、私ちょっと眠るわ。昼になったら起こしてちょうだい」

 彼女はそう言うと、あっという間に眠りに落ちてしまった。


 一方、キャミイの方は、まったく元気であった。

 カーバンクルは精霊族で、その肉体は仮初かりそめのゴーレムだから、眠りを必要としないし、疲労もほとんど感じないのだ。


「おお、シルヴィアがひとりで起きている!

 何かの奇跡?」

「うるさいわね!」


 シルヴィアはフェイを起こさないよう、もそもそと寝床を這い出し、土間の中央に切られた囲炉裏いろりに屈みこんだ。

 ここは南国とはいえ、さすがに朝は肌寒い。


 囲炉裏にくべられていた焚き木は、すっかり白い灰となっていたが、火箸でおきを掘り起こす。

 新しい焚き木から細い枝を選んでその上に置き、ふうふう息を吹きかけると、ぱっと燃え上がった。


 灰には丸いかめが据えられていて、中を覗き込むと減ってはいたが、まだ熱いお湯が入っていた。

 シルヴィアは自分の荷物の中からコーヒー(油紙で粉薬のように包んだもの)を探し出し、携帯用の濾し器に入れ、熱湯を柄杓で注いだ。

 たちまちコーヒーの香りが周囲に漂い、床に置いたカップに黒い液体が溜まっていく。


『悪魔のように黒く、地獄のように熱い』

 どこかの詩人が例えた目覚ましを、ふうふうしながら飲んでいるうちに、次第に頭がはっきりしてきた。

 シルヴィアは素焼きのカップで両手を温めながら、のんびり火の番をしているキャミイに目を向けた。


「それで、オークの母親と赤ちゃんはどうなったの?」

「どっちも助かったよ」

 キャミイはあっさりと答えた。


「まぁ、言葉では簡単に聞こえるだろうけど、実際は大変だったんだよ。

 シルヴィアが来なくて正解だったね。

 あれは、かなりその……グロテスクな光景だったからね」


 キャミイは昨夜あったことを、淡々と話し出した。

 お産があった家には、多くの女たちが集まっていた。

 オークには医者がいないから、出産のときには経験者の女たちが集まって、介助をすることになっている。


 だが、多少の経験があったとしても、彼女たちに医学知識があるわけではない。

 案内されたフェイが飛び込んできた時には、産婦を囲んだ女たちが泣きながら祈りを捧げている状態だった。

 産婦の股間からは出血が止まらず、敷かれた藁は血と汚物で黒く染まっていた。


 産み落とされた赤子は、泣き声ひとつ上げず、冷たくなりかけていた。

 女たちは、赤子の喉に絡まっていたへその緒は取り除いたものの、あとは身体を布で包み、頬を叩くことしかできないでいた。


 フェイはオーク女たちを押しのけると、まず赤子の蘇生に取りかかった。

 彼女は躊躇ためらわずに嬰児の小さな口と鼻に唇をつけると、詰まっている血と羊水を吸い出した。

 べっと床に粘液を吐き出すと、すぐさま胸に指先を当て、心臓マッサージを始める。

 一、二、三、一、二、三と繰り返すと再び口を覆い、今度は息を吹き込む。


 これを数度繰り返すと、突然赤子は小さく咳き込み、元気な泣き声を上げた。

 見守っていたオーク女たちが、一斉に歓喜の声を上げると、フェイは嬰児を彼女たちに押しつけ、へその緒を紐で縛って切るように指示をした。

(もちろん、キャミイが通訳を務めている。)


 そして、彼女は母体の手当に取りかかった。

 どくどくと血が溢れている陰部に手を突っ込むと、出産したばかりの膣はフェイの手首まで簡単に呑み込んだ。


 弛緩して開いたままの子宮口から指を入れ、手探りで出血個所を圧迫する。

 子宮の収縮が不十分で、剥がれた胎盤の傷跡が塞がっていないのだ。

 それを感触だけで探り当てるのは、経験の賜物であった。


 ただひたすら傷口を抑えるという、医学とは言えない原始的な対処法であったが、それだけに効果的であった。

 ありがたいことに、数分で産婦の出血は止まり、取りあえずの危機は去った。

 しかし、産婦はあまりにも血を失い過ぎていて、予断を許さない状況である。


 フェイは産婦の膣に腕を突っ込んだまま、自分の荷物から子宮を収縮させる生薬を出すよう指示を出した。

 そして、それをお湯で解き、口移しで産婦に飲ませるよう、キャミイを通してオーク女に命じる。

 この薬は効き目が穏やかで、気休め程度でしかないが、ないよりはましであった。


 フェイのつたないオーク語では、こうした指示を理解させるのに苦労するのだが、キャミイの通訳のお陰で連携はスムーズだった。

 オルグの村では、この役目はジャヤが担っていてくれたのだ。


 フェイは汚れた敷き藁を取り替えさせ、女たちが沸かしていたお湯でさらしを絞り、産婦の身体を丁寧に拭き清めてあげた。

 オーク女たちは、フェイの鮮やかな手並みにすっかり畏敬の念を抱いており、彼女の出す指示が神のお告げであるかように従ってくれた。

 フェイもお湯で手を洗い、赤ちゃんの状態を確かめてから、改めて薬の調合に取りかかった。


 ようやく落ち着いて産婦を観察すると、オーク女にしては小柄で、年齢も若そうに見えた。


『ハハオヤ、トシ、イクツダ?』

 フェイがオーク語で訊ねると、介助の女たちは十五歳だと答えた。

 彼女は去年結婚したばかりで、これが初めての出産だという。


 フェイは少し顔をしかめた。あまりに若い年齢での出産は褒められることではない。

 身体が十分に成長していないことも、出血量のことを考えると心配だった。

 それでも、オルグの村で多くの出産に立ち合ったことで、彼女はオークの信じがたい頑健さをよく知っていた。


 人間ならば、とっくに死んでいるところだが、産婦の呼吸や心音は実際に安定している。

 フェイは造血効果と、滋養強壮の効果がある薬を三日分調合すると、それを煎じて食事後に与えるよう、キャミイに通訳させた。


 一時間ほど様子を観察していると、若い母親は意識を取り戻した。

 キャミイの通訳でいくつか質問してみると、受け答えもしっかりしている。

 彼女は自分の子がどうなったか酷く心配し、布にくるまった赤子を渡されると、ようやく安心した。

 赤子は母親に抱かれると、すぐに乳房に吸いつき、無事に初乳を飲むこともできた。


 どうやらもう大丈夫……フェイはそう判断し、オークの女衆に簡単な注意事項を与えると、治療道具や薬を片付け始めた。

 女たちは『フェイに礼をしなければならない』と言い張ったが、彼女はキャミイを介して丁重に断った。

 そして、『ワタシ、カエル』と言って、産屋を出ようとした。


 だが、オークの女たちはフェイに縋りつき、外に出ることを許してくれなかった。

 彼女たちは何かを必死で訴えてくるが、早口過ぎてフェイには聞き取れない。

 フェイは困った顔でキャミイに助けを求めた。

「悪いけどまた通訳お願い。今度は何て言ってるの?」


 キャミイは気の毒そうな笑みを浮かべていた。

「えーとね、フェイに診てほしい妊婦が、まだいるんだって。

 ひとりは逆子っぽいって言ってる。

 もうひとりは頭痛と眩暈めまい、それと全身のむくみが酷いそうだよ」


 キャミイは苦笑いを浮かべながら、しまったばかりの聴診器を取り出した。


      *       *


 フェイが目を覚ましたのは、お昼時を少し過ぎたころだった。


 彼女は藁塗れのまま伸びをして、寝床から出てきた。

 床の上には、大きな葉っぱにのせられた昼食が、手つかずで残されていた。

 昨夜も世話係を務めてくれた、オークの少女が運んできたものである。


 下着姿のフェイが大きく欠伸あくびをすると、お腹がぐうと鳴った。

 彼女は自分が出した音に吹き出すと、「顔を洗ってくるわ」と言って、宿舎の隅に置いてある、大きな水甕みずがめの方に向かった。

 シルヴィアとキャミイがその後ろ姿を見送ると、短めのズロースの腰のあたりに穴が開いていて、そこから飛び出した小さな尻尾が、ぴょこぴょこ動いている。


 戻ってきたフェイは、さっそく用意された昼食にかぶりついたが、ふと顔を上げた。

 彼女が食べている姿を見守っているシルヴィアの表情が、どこか妙なのだ。

 何だか悪戯が見つかった子どものような、ばつの悪い顔をして、フェイの顔色を窺っている。


「のうがしたご(どうかしたの)?」

 フェイが口に食べ物を詰め込んだまま訊ねても、シルヴィアは曖昧な笑みを浮かべて答えなかった。


 昼食を食べ終え、シルヴィアが淹れてくれたお茶を飲み終えると、フェイは再び伸びをして立ち上がった。

 そして、相変わらず下着姿のままで入口に向かい、長暖簾のような扉の隙間から顔を出した。

 シルヴィアが「あっ!」と小さな叫び声を上げたが、間に合わなかった。


 宿舎の外には、ずらりとオークたちの行列ができていた。

 ざっと見た感じで、三十人近くは並んでいただろう。

 フェイが顔を出すと、手持無沙汰で待っていたオークたちは一斉に顔を上げ、ぱあっと表情を明るくした。実に素直な感情表現である。


 シュミーズ姿の上半身を見られたフェイは慌てて顔を引っ込め、シルヴィアに訊ねた。

「何、あれ?」


「ええと……昨夜のことが村中に広まったらしくて、もう三時間も前からこうして並んでいるんです。

 その、フェイさんに診察してもらいたいって……」


      *       *


 この日はシルヴィアたちの本来の目的である、特使としての交渉に臨む予定であった。

 ただ、フェイが明け方まで産婦の診療に当たったことや、村人が治療を希望したことは、当然ダウワースの耳に入ったのだろう。

 王からの呼び出しがあったのは、夕食時になってからであった。


 招かれたのは昨日と同じ大きな建物で、王国で言えば迎賓館のような役割らしい。

 案内されて中に入ると、すでに彼女たちの料理が席に並んでいる。

(キャミイだけは、甘い果実にたっぷりの蜂蜜をかけたものが出された。)


 シルヴィアたちが丸く編んだ敷物の上に胡坐あぐらで座ると、挨拶を前にまず賢王が深々と頭を下げた。

「話は聞いた。昨夜はロロアと赤子の命を救ってくれたそうだな。

 あいつは俺の姪っ子の娘でな。礼を言わせてくれ」


 王が言ったロロアというのは、昨夜フェイが助けた母親のことらしい。

 昨日もダウワースは、シルヴィアたちがオルグの村の娘を救ったことに礼を言ったから、その再現であった。


 フェイは「いえ、これは私の仕事ですから」と言って特別な反応を示さず、賢王もそれ以上こだわらなかった。

 何か察するものがあったに違いない。


「さて、今日はお前たちの本来の役目に関する話だ。

 赤龍帝が特使を派遣したということは、オアシスの件だと俺は睨んでいるが、違うか?」


 これは、すでに昨日の段階で王自身が匂わせていたから、特に驚きはない。

「いえ、そのとおりです。さすがは賢王様、感服いたしました」

 シルヴィアは当たり障りのない返しをした上で、ひとつの疑問を呈した。


「ですが、なぜそのように推察されたのでしょう?

 街道は森から離れていますし、オアシスはさらにその西側に広がっています。

 密林のオーク族は、王国との約定で街道には近づけないはず。

 オアシスをめぐる状況を把握するのは、かなり難しいのでは……」


 ダウワースは顎を触りながらうなずいた。

「ああ、そうだな。

 約束は順守している。俺たちは一切、森から出ていない。

 だからといって、人間たちの情勢に無関心だというわけではない。

 その気になれば、探る手段などいくらでもある」

「大公国の商人から……ですか?」


「ほう、察しがいいな。

 奴らは利益を得るためだったら、呆れるくらいに工夫を凝らす。

 最も効果的なのは、売り込む商品に〝情報〟という付加価値をつけることだ」

「なるほど、それで……」

 シルヴィアが感じていた疑問が、ひとつ解けた。


「そういうことだ。

 大公国の商人が、我々オークとの取引において、不当に利益を貪っていることは承知している。

 それについては、もちろん不満がある。

 だが、それを許しているのは、彼らが国内外の情勢に関し適切な分析を行い、それを我らに提供してくれるからだ。

 残念な話だが、オークには成し得ない能力だ」


 王は溜息をついて話を続けた。

「首長国連邦のナフ国が、最近オアシスに手を出すようになり、王国がその防衛のため派兵していることは承知している。

 南の大公国は国力に見劣りがする。そんな余裕がないことは明らかだ。

 だから、同盟国であるリストがその役割を買って出るのは、ごく自然なことだ。

 とはいっても、遠方の王国にとって、その負担は軽いものではないだろう」


「だから、我々密林オークの戦力に目をつけた……それは理解できる。

 お前たちが一週間もかけるのと違い、こちらは一日でオアシスに到達できる。

 派兵は一度で済んでも、それを支える物資の搬送は、数日おきに必要となるはずだ」


 膝の上で、賢王の人差し指が、とんとんとリズミカルに上下する。

「王国にとっては、人も経費も失うことなくオアシスの防衛が実現できる。

 実に都合のよい話だ」


 彼の指の動きが、ぱたりと止まった。

「だが、それはお前たちの立場で見た場合の話だろう?

 俺たちオークには何の利点もなく、あるのはリスクだけだ」


 賢王はじろりとシルヴィアを見据えた。

「率直に言おう、見返りは何だ?」

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