十一 南部密林
意外な成り行きに呆けているシルヴィアを、若い兵士が両側から支えて、見物の輪の中に引っ張り込む。
その助けは正直ありがたかった。
膝ががくがくと笑って、上手く歩けなかったのだ。
キャミイの対戦相手が替わっただけだというのに、見物する兵士たちの興奮は、異様なまでに盛り上がっていた。
シルヴィアは肩を貸してくれた兵に礼を言うと、小声で訊ねた。
「ヤコブ中佐殿はその……、お強いのですか?」
すると、兵士はぽかんとして口を開け、それが〝信じられない〟という表情に変わった。
「中尉殿はご存じないのですか!?
中佐殿は、王国でも五本の指に数えられる剣士ですよ! もちろん、第三軍で敵う者など誰もおりません。
最近では、戯れで立ち合うことすら稀です。
その試合をこの目で見られるなんて、何という幸運でしょう!」
今度はシルヴィアが驚く番であった。
中佐の身長は百六十センチの半ば、男性としては低い方だ。
確かに腕や足は太くがっしりしているが、腹も出ていて機敏に動けるようには見えなかった。
そんな中佐が、第三軍随一の剣の遣い手だというのだ。
素人のはずのキャミイと互角だったことで、シルヴィアのプライドはいたく傷つけられていた。
だが、彼女はシルヴィアを映した鏡のような存在である。ならば、自分がどこまで中佐に通じるのか、この試合で推し量れることになる。
それに何と言っても、キャミイはカー君である。心情的に応援せざるを得ない。
シルヴィアの思いをよそに、キャミイは意外なほど落ち着いていた。
「お相手いただけるのは、光栄であります」
彼女はそう言うと、すっと木刀を正眼に構えた。
シルヴィアを相手にした時と、何も変わらなかった。
一方のヤコブ中佐も同じ正眼で相対したが、キャミイよりもさらに肩の力が抜けているように見える。
審判には、中尉の徽章をつけた士官(中隊長だろうか?)が立った。
「はじめ!」
中尉が声をかけ、歓声を上げていた観客が、水を打ったように静まり返った。
だが、対峙する二人はなかなか動かない。
「どうした、好きに打ち込んでよいのだぞ?」
ヤコブがのんびりとした声をかけた。
返ってきたのは、意外な言葉だった。
「中佐殿は……幻術をお使いになっているのですか?」
ヤコブは怪訝な表情を浮かべた。
「はて、これは異なことを言う。
私には、魔法の才能などないと思うぞ。それ故に剣技を磨いてきたのだからな」
しかし、キャミイは首を左右に振った。
「ですが、自分には中佐殿が大きく見えます。
気をしっかり持っていないと、頭から呑み込まれそうな気分です。
これが幻術でないのなら、自分の感覚が狂ったのでしょうか?」
「ほう……」
「打ち込みたくても、身体がそれを拒否します。
死ぬと分かっていて、崖から飛び出す馬鹿はいないですからね」
「それが分かるというのは、見どころのある証拠だな。
分かった。では、こちらから参ろう」
ヤコブ中佐はそう言うと、すっと前に出てキャミイの肩口に向けた一撃を放った。
観客の兵士たちには、緩慢で軽い攻撃に見えたことだろう。
だが、中佐を凝視していたシルヴィアには、彼が左右どちらの足を出したのかも分からなかった。
気がついたら、両者の距離が詰まっていたのだ。
剣筋もまったく追えなかった。
どこから剣が出たのだ?
自分だったら、反応できただろうか?
周囲でどよめいている兵士たちは、この凄さを理解しているのだろうか?
シルヴィアの頭は疑問だらけで、眩暈がするほどだった。
それほどの攻撃だったのに、キャミイはぎりぎりで中佐の剣を受けた。
いかにも窮屈そうな態勢だったが、〝とにかく間に合った〟という感じである。
キャミイの顔には驚愕の表情が浮かんでいる。
ただ、その理由はシルヴィアとは違う。彼女には中佐の動きが見えていたし、剣の軌道も追えていた。
それなのに、身体の反応が遅れたのだ。
一方、攻撃をしかけたヤコブ中佐の顔にも、意外そうな表情が浮かんでいた。
彼は彼で、キャミイには受けられまいと考えていたのだ。
だからこそ、相手が怪我をしないように、手加減をしたのだ。
中佐は素早く剣を引いて手首を返すと、がら空きとなった反対側の胴を狙う。
剣先が最小半径の弧を描き、キャミイの脇腹に吸い込まれた。
キャミイはネコのように身体をねじり、どうにか剣を合わせたが、大きく態勢を崩した。
がくんと前につんのめり、たたらを踏んで頭から中佐に向かって突っ込んだ。
だが、そこにはもう誰もいない。
中佐は身体を入れ替え、目の前に差し出されたキャミイの頭を、こつんと木刀で叩いた。
キャミイは顔から地面に突っ込み、ぶさまにうつ伏せに倒れた。
彼女はすぐに上体を起こしたが、立ち上がることなく、その場に平伏した。
「参りました!」
あまりにも早く、あっけない決着である。
それでも、見守っていた兵士たちは大歓声を上げた。
中佐はキャミイのもとに歩み寄ると、腕を取って立たせた。
キャミイは泥だらけになった顔を、軍服の袖で拭いながら、小さな声で礼を言った。
「まさか、初撃を受けられるとは思わなかったが、二撃まで防いだのは、もっと驚いたぞ。
准尉は恐ろしく目がいいのだな? それに反応が早いし、体幹もしっかりしている。
ノートン医師の護衛として、十分な力を持っていることは、私が保証しよう」
「お気遣いはやめてください。
自分は人間を甘く見ていました。いま、それを痛感しております」
「世辞ではない。お前は強くなるぞ。
オークの国から戻ったら、また稽古をつけてやろう」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
二人は作法どおりに距離を取り、剣を収めて一礼をした。
周囲からは、やんやの喝采が起き、審判役の士官が双方から木剣を受け取った。
ヤコブ中佐は、観衆に混じっていたシルヴィアを呼び寄せた。
そして、キャミイとともに並ばせると、一歩前に出た。
「傾聴!!」
すかさず士官が声を張り上げる。
見物の兵たちは、その場で気をつけの姿勢を取った。
「思わぬ余興が先になったが、諸君に客人を紹介しよう」
中佐のやや低めのバリトンは、水辺の草原によく響き渡った。
「グレンダモア中尉については、皆も見知っておろう。
中尉はノートン医師を赤城市よりお連れするとともに、そのまま護衛として密林に向かうこととなっている。
そしてもうひとり、いま私と立ち合ったキャミイ・グレンダモア准尉もこれに同行する。
姓を聞いて分かるとおり、准尉はシルヴィア中尉のいとこに当たる。
准尉が第三軍に配属されたのは、リディア様による特例措置である」
中佐は兵士たちを見回すと、こほんと咳ばらいをした。
「諸君も知っておろうが、リディア様はこのオアシスの防衛を、南部密林のオーク族に嘱託するご意向である。
その交渉は、ノートン医師とこの二人に任されているが、オーク族との円滑な交代は、我々に課せられた責務である。
オークたちの中には、中原語を理解する者もいるが、十分なものではないと聞く。
このキャミイ准尉はオークと会話ができ、通訳に当たる予定となっているのだ」
おおっというどよめきが起きた。
それが静まるのを待って、中佐は再び口を開いた。
「出立は明朝五時、かねて選抜した小隊は、オーク族と接触するまでの護衛につく。
残る諸君は吉報を待つとともに、ナフ国襲撃に対する警戒を絶対に怠るな!
以上、解散!!」
ざっという音とともに、全員が見事な敬礼を示してみせた。
* *
季節は春であるが、岩石砂漠であるハラル海には四季が存在しない。
年に二回、計四か月の雨季と、それ以外の乾季があるだけだ。
雨季になると文字どおり雨が降り続き、ワジと呼ばれる涸れ川が濁流となり、氾濫原に無数の湖沼が出現する。
そして、雨季の後半から爆発的に発生する草原を求め、サラーム教徒の遊牧民が大移動を始めるのだ。
今の時期はまだ乾季が続いているから、天候に関しては心配がいらなかった。
シルヴィアたちのいるオアシスは、南部街道の西側にあり、逆に密林は東の先に広がっている。
街道からの距離は三キロほどである。
南部密林は亜熱帯多雨林で、広葉樹を主体とした比較的樹高の抑えられた原生林が、遥か数百キロ先の東海岸まで続いている。
極端に異なる気候地域が隣接しているのは不思議だが、学者によればきちんとした理由があるのだという。
両地域は数千年にわたる静かな戦いを続けており、現在は南部密林の方が優勢で、じわじわと勢力を広げているらしい。
ルカ大公国が成立した約三百年以上の昔には、密林は街道から五キロ近く離れていたそうだ。
フェイ、シルヴィア、キャミイの三人、そして護衛の一個小隊は、予定どおり朝の五時にオアシスを出発した。
密林までは馬に騎乗したが、そこからは徒歩となる。
ただ、医療品やダウワース王への献上品などの荷物は、小隊の兵士たちが背負ってくれたので、女性たちの負担は軽かった。
森へ分け入ると、たちまち進行速度が落ちる。
深い下草、露出した木の根、垂れさがる蔦などで、歩きにくいことこの上ない。
一応、ユニが作成した地図の写しはあるのだが、そもそも道がないのだから、あまり役には立たなかった。
とにかく、大雑把に西に向かえば、必ずオークの支配地域にぶつかる。
あとは、向こうに見つけてもらえばいいいのだ。
密林に入って約二時間、距離にして二キロ半ほど進んだところで、キャミイが一行を制止した。
彼女は人間に変身しているので、嗅覚や聴覚を飛躍的に向上させる能力は使えない。
ただし、もともとのカーバンクルが備えている感覚の鋭さは、そのまま受け継いでいたため、風にのった微かな異臭に気づいたのだ。
「オークなの?」
シルヴィアが小声で訊ねると、キャミイはこくんとうなずいた。
「全部で……五人かな?
オークは体臭が強いから、分かりやすくて助かるよ」
「ユニさんの報告書では、国境線はまだずっと先のはずだけど……。
それで、向こうはあたしたちに気づいているのかしら?」
「臭いだけじゃ、そこまでは分からないよ。
でも、森は彼らの縄張りだから、見つかったと思った方がいいね。
いきなり攻撃はしかけてこないと思うけど、一応警戒して」
戦闘における王国軍の標準防具は、兜、鎧、盾の全てが革製である。
もちろん一定の防御力はあるが、それよりも機動力を重視した装備で、多くの国々が採用している兵装である。
しかし、一行はあえて鉄製の兜を装着し、金属盾も用意していた。
オークの攻撃方法は、こん棒による近接打撃が有名であるが、この南部密林のオーク族は、投石器という飛び道具を使うのだ。
これは現在でも一部の国の軍で使われている武器で、熟練した使い手にかかると恐ろしい威力を発揮する。
投石器をオークたちにもたらしたのは、約十五年前にユニと同行したゴードン(当時は傭兵だった)である。
オークは人間より腕が長く膂力も優れているため、投石器とは実に相性がよかった。
適当な石ころと布さえあれば、簡単に作ることができることも、オークに向いている。
実際、ゴードンがその使用法とコツを指導したところ、オークたちの腕は短期間で驚くほど上達した。
彼らはこの新しい道具に夢中になった。
ユニたちが立ち去っても、投石器への熱中は継続していた。
彼らは一種の娯楽として、練習や試合を欠かさなかったが、その成果は意外な方向へ表れた。
それは狩りの成功率が、格段に向上したことであった。
オークは基本的に狩猟民族であるが、狩りが下手なことで知られていた。
それは彼らの体臭が強く、獲物である動物たちに接近する前に気づかれ、逃げられてしまうからであった。
オークたちも日に何度も水浴びすることで対策を取っていたのだが、投石器はすべての問題を解決してくれた。
臭いを覚られない遠距離から獲物を攻撃し、ほぼ一撃で仕留めることができたのだ。
おかげで、不安定だったオークの食糧事情は劇的に向上し、結果的に人口の増加をもたらしたのである。
ともあれ、そんな物騒な武器を持っているオークに接近するのに、革の兜や盾の装備では、あまりに危険だったのだ。
シルヴィアの指示で、一行は鉄の盾を構え、フェイを守るように囲んで、慎重に進んだ。
先頭に立つのはキャミイ、その後にシルヴィアが続き、二人はすでに抜剣していた。
そのキャミイの目の前の木の幹に、ゴンッという音を立て、拳大の石が突然めり込んだ。
不意を突かれたわけではない。キャミイは石の軌道から、それが手前の木を狙った〝脅し〟であることを見抜いたのだ。
キャミイとシルヴィアは目でうなずきあい、隠れることなく樹木の前に進み出た。
そして、地面に盾を捨て、剣を突き刺すと、両手をゆっくりと上げた。
しばらくそのまま待っていると、十数メートル離れた木の陰から、二人のオークがゆっくりと姿を現した。
キャミイが五人と言っていたから、残る三人はいつでも投石できるように隠れているのだろう。
オークは二人とも、二メートル近い堂々たる体格をしていた。
手には彼らのシンボルともいえる、木の根から作った重そうなこん棒が握られている。
オークたちは値踏みをするようにキャミイたちを睨みつけ、さらに接近してきた。
そして、三メートルほどの距離で立ち止まると、耳障りな声を張り上げた。
それは、酷く聞き取りづらいが、明らかな人間の言葉、大陸で広く使われている中原語であった。
「ココ、オークノクニ。ニンゲン、カエレ!」