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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第二章 ケルトニアの魔導士
30/379

六 黒船屋

 少し時間を前後するが、港で馬車を雇った時にはちょっとしたトラブルがあった。

 エイナが「どなたか、浜通りまでやってください」と声をかけた時のことだ。

 シルヴィアは勝手に遊んでいるカーバンクルを連れ戻しにその場を離れた。


 赤ら顔の中年男が、手にしていたカードを投げ捨てて立ち上がった。

「おお、別嬪の軍人さんとは今日はとことん運がいいぜ!

 今、馬車を回しますから、少々お待ちくだせえ」


「あっ、ジムてめえっ、勝ち逃げする気か!」

「置きゃあがれ(ふざけるな)! お客さんが目に入らねえのか、このすっとこどっこい!」

 ジムと呼ばれた男は啖呵を切ると、これ見よがしに尻の埃をはたいて馬の方に駆けていった。


 シルヴィアが戻ってくるのを待つ間に、御者は行先を訊ねた。

「それで、浜通りのどこへ遣ったらよろしいんで?」


 エイナが静かに答えた。

「黒龍組の事務所前まで」


 途端に男の表情が凍りついた。

 愛想のよかった笑顔が、疑いと警戒の表情に変わった。


「軍人さん、面倒を起こす気なら今すぐ降りてくんな。

 この街じゃ〝三つ首の龍〟に睨まれたら商売ができなくなるんだ。

 金の問題じゃねえってことは、分かってくれるだろう?」


 ドスの利いた声に、エイナは怯まなかった。

「心配しなくていいです。別に殴り込みに行くわけじゃありませんから。

 カニングさんとは、ちょっとした知り合いなんです。

 遊びに来いって言われていたから顔を出すだけで、あなたに迷惑はかけません」


 男の強面が一瞬緩んだ。

「カニングさんの知り合いだって?

 俺をからかっているんだったら、いくら軍人さんでも……」

「嘘じゃないです。私たち、昨日は〝花屋敷〟にいたんですから」


「花屋敷に……!

 明らかに余所者であるエイナたちが、土地のものしか知らない符丁を口にしたことで、馬丁の疑いがわずかに薄れた。

 同時に、もしこの娘たちが本当にカニングの知己ちきであった場合の損得勘定が、男の頭の中で駆け巡った。


「ようがす。その代わり、酒手は弾んでくだせえよ」

 ちょうどシルヴィアがカー君を抱きかかえて戻ってきたので、男は御者席に上るため踏み台に足をかけた。


      *       *


 再び馬車の中の話に戻る。

 エイナは「偉い人に教えてもらえばいい」と言い出したのだが、その意味が理解できなかった。


「ちょっとエイナ、何を言ってるの?」

「この馬車は黒龍組の事務所に向かっているの。

 あたしはカニングさんに会って、助けてもらえるようお願いするつもりよ」


「はぁ! どういうこと?」

「どうもこうもないわ。

 フォレスター大尉は浜通りの盛り場にいる可能性が高いのよね。

 宿の女将さんが言ってたでしょう? 浜通りで困ったことが起きたら、そこを縄張りにしている黒龍組の人を頼れって。

 あたし、最初はお金を払って組の人から情報を買おうと思ってたの。

 でも考えてみたら、カー君が言ったとおりよ。一番偉いカニングさんに頼む方が早くて確実だと思わない?」


「それはそうかもしれないけど……。

 でも、ケイト大尉にバレたら……冗談じゃなく殺されるわよ?」

「バレなきゃいいのよ。

 ケイト先生はお屋敷にいるんだから、カニングさんが黙っていてくれさえすれば、分かりっこないわ」


「だっ……大丈夫かしら」

 強気で楽天的なシルヴィアが、めずらしく不安を露わにする。それくらい、ケイトの脅しは迫力があったのだ。


      *       *


 馬車は二十分ほどで目的地に着いた。

 黒龍組の組事務所は浜通りの繁華街にあったが、看板も何もなく、一見すると空き家のように見えた。

 右隣には高級そうな娼館、左には大きな居酒屋が建っているが、まだ昼前だから両方ともひっそりとしていた。

 そして、それ以上に組事務所からは不気味な静けさが漂っていた。


「お嬢さん方、着きましたぜ」

 馬丁が御者席から降り、扉の前に踏み台を置いて声をかけた。

 扉が開き、乗った順番とは反対にまずシルヴィアが外に出て、続いてエイナが降り立った。


「ご苦労様」

 エイナが男の手に銅貨を六枚握らせた。港からの距離は短く、相場の運賃は銅貨三枚である。

 男はぴょこんと頭を下げると、小声でささやいた。


「誰もいねえように見えますが、ここに着いた時からあっしらは見られておりやす。

 カニングの旦那には、よしなにお伝えくだせえ」

 彼はそう言い残すと、そそくさと御者台に戻って馬に鞭をくれた。


      *       *


 飾り気のない無骨な扉は、ノックをしても返事がなかった。

 エイナとシルヴィアは顔を見合わせてうなずくと、思い切って扉を開けた。

 いきなり襲ってきたのは、むせるような異臭だった。

 煙草と焼酎の残り香を黴臭くて湿っぽい空気でかきまぜたような、吐き気を催す臭いである。


 煙草の煙で薄暗い部屋全体が霞んでいるように見える。

 テーブルにはいかにも(・・・・)といった風体の男たちが、だらしなく座って肘をついていた。

 卓上には汚れたカードとチップ、吸い殻が山となった灰皿、飲みかけの焼酎のコップが雑然と置かれていた。


 男の一人が脂まみれの長髪をかき上げて振り返った。

 ねぶるような視線が、シルヴィアの胸から腰へとゆっくりと上下する。

「よう、女の軍人さんとは珍しいな。

 女郎屋で小遣い稼ぎをしたいっていうのなら、いい店を紹介してやるぜ」


 周囲の男たちが下卑た笑い声を上げ、エイナには理解できない卑猥な冗談を口走った。

 エイナは内心怖くて堪らなかったが、勇気を振り絞って声を出そうとした。

 だが、その彼女を押しのけてシルヴィアがぐいと前に出た。


 彼女は腕を組み、傲慢な態度で男たちを見下ろした。

「あんたたちみたいな下っ端に用はないの。

 私たちはカニングさんに会いに来たのよ」


 カニングの名を出された途端に、男たちの表情が一変した。

「何だぁ? このアマ、ふざけたことを抜かすと犯すぞ!」


「あら、聞こえなかった?

 カニングさんはいるの、いないの?

 いるんだったらシルヴィアとエイナが遊びに来たって伝えてちょうだい」

 ひるむことなく男たちを睨みつけるシルヴィアに、男たちはとまどいの表情を浮かべた。

 ひょっとしたら、この娘たちは本当に組長の知り合いかもしれず、もしそうなら下手は打てない。


「ちょっ、ちょっと待っててくれ。今、確認してくる」

 男はそう言うと、二階へ上がっていった。

 一分も立たずに男は戻ってきたが、その態度は一変していた。


「お客人、大変失礼しやした。組長がお会いになるそうです」

 男はぴょこりと頭を下げ、二人を階段の方へいざなった。


 二階へ上がると、階下とは空気からして違っていた。

 窓が開け放たれ、薄い刺繡のカーテンが潮の香りがする浜風をはらんで膨らんでいる。


 分厚いマホガニーの扉を男がノックして「お客人をお連れしました」と声をかけた。


「入れ」

 くぐもった声が聞こえ、男が扉を開けて深く頭を下げた。

 どうぞお入りくださいという意味だ。


 エイナたちが中に入ると、背後で静かに扉が閉められた。

 部屋の中は階下の荒廃した雰囲気とは対照的に、きちんと整頓され、上質で落ち着いた雰囲気に満ち溢れていた。

 調度品もごく趣味のよいもので、どことなくカニング邸を思い起こさせた。


 机に向かっていたカニングは読書中だったのか、分厚い書籍から顔を上げた。

「昨日の今日とは思わなかったな。まぁ、よく来た、座れ」


 彼はそう言って、目で応接セットの方を示した。

 二人がソファに腰をかけると身体が半分あまりも沈み込み、ゆっくりと反発して浮かび上がった。

 重厚な革の感触とあいまって、よほど高級な品だということが分かる。


 カニングも向かい側に腰を下ろしたが、その際にひどく顔をしかめた。

「いててて……くそっ、歳は取りたくないものだな」

「腰を痛めておられるのですか?」

 エイナが心配そうに訊ねた。


「ああ? いや、こいつはケイトのせいだ。気にしなくていい」

 ぶっきらぼうな返事に、エイナとシルヴィアは顔を見合わせた。

夜も(・・)お世話するの』

 ケイトがささやいた低い声が脳裏に甦り、二人はもじもじと太腿を擦り合わせた。


「それで、ケルトニア人の出迎えは無事済ませたのか?

 確か船は昨日入港したはずだが」

「そうなんです……」


 カニングがケルトニア船の入港を知っていたことに少し驚きながら、二人は事情を打ち明けた。

 油断をして昨日一日街を見物して過ごし、今日港に行ってみたら後の祭りだったことをである。

 間抜けな話だったが、今さら恥ずかしがっても仕方がない。


 カニングは肩を震わせて笑い声を上げた。

「そいつは……いい勉強になったな。

 それで、魔導士の行方が分からなくて泣きついてきたってわけか」

「面目ありませんが、そのとおりです。

 フォレスター大尉はこの浜通りで遊んでいるものと思われます。

 カニングさん――というか、黒龍組だったら彼の居所が掴めるのではないでしょうか?」


「その見返りは何だ?」

 カニングの低い声には、思わず身震いするほどの迫力があった。


「何を……差し出せばよいのでしょうか?

 私たちは必要経費のほかに、何も持っていないのです。

 後払いでよければ、参謀本部に交渉してみます」


「やくざ者の世界には〝後払い〟って言葉はないんだ。よく覚えておけ。

 そしてお前たちは、ちゃんと差し出すものを持っている。それも自覚するんだな」

「どういう意味でしょうか?」


「その身体だよ。二人とも立派なもんだ。

 どうだ、情報と引き換えに差し出す覚悟はあるかい?」


 エイナとシルヴィアは息を呑んだ。

「そんなことは――」

 言いかけたエイナの口が塞がれた、シルヴィアの手だ。


「今回の失態は、すべて私の油断と我儘から起きたことです。私でよければ、好きにして構いません。

 ですが、エイナに責任はありません。彼女には手を出さないでください」

 シルヴィアの顔色は青ざめていたが、きっぱりと言い切った。


 カニングは愉快そうに笑った。

「いい覚悟だ。それは結構だが、自分を安く売るのは馬鹿のすることだってことも覚えておけ。

 ――いいか、お前たちはケイトの部下で教え子だ。あいつに免じて貸しにしておいてやる。

 この事務所を出て南へ五十メートルほど行くと、黒船屋という大きな女郎屋がある。

 ケルトニアの魔導士は昨日そこに入ったまま、まだ出てきていない。居続けするつもりなんだろう」


「え? じゃあ、カニングさんは最初から知っていて……」

「まぁな。ケイトに感謝しな。あれでちゃんと心配しているんだ」

 彼は縞ベストのポケットからカードを取り出し、そこにさらさらとサインをした。


「黒船屋に行ったら、これを宿の者に見せてやれ。魔導士のしけ込んだ部屋に案内してくれるだろう」


      *       *


 黒船屋という娼館は木造の総二階建て、かなり高級そうな雰囲気が漂う建物だった。

 昼間であるから客の出入りはなく、店先はひっそりとしていた。

 店の前には水が打たれて埃が立たないようにしてあるし、建物はたった今拭き上げたような艶があった。

 開いている扉から中に入ると、若い男が戸惑った表情を浮かべて寄ってきた。


「何か御用でしょうか?」

「ここに投宿しているケネス・フォレスターという方に用があります。

 案内していただけませんか?」

 シルヴィアがそう言って、エイナに目くばせをする。


 エイナはさっき預かったカードを差し出した。

 白い紙に黒い龍の紋章が印刷されているだけのカードで、そこにカニングのサインがしてあった。

 意外にきれいな筆跡だった。


 若者はそれを見るなり顔色を変えた。

「しょ、少々お待ちください。主人を呼んでまいります」


 男が引っ込んで少しすると、七十代と思しき老女が奥から出てきた。彼女がこの娼館の主人らしい。

 歳は取っているが、身なりはこざっぱりとしており、背筋がしゃんと伸びている。

 彼女はエイナたちを上から下まで品定めをすると、やや迷惑そうな表情を浮かべた。


「お嬢さん方、うちは浜通りでも格式の高い店なんだ。本当ならお客さんの邪魔は御法度なんだがねぇ。

 組長さんの紹介なら仕方がない。付いておいで」

 それだけ言うと、もう振り返らずにすたすたと歩き始める。

 エイナたちは慌ててその後を追った。


 二階に上がり廊下をしばらく進むと、老女はある扉の前で立ち止まった。

 白い漆喰の壁に、彫刻が施された優雅な扉が嵌まっている。

 彼女は真鍮のノッカーに手をかけ、こつこつと鳴らした。ごく控えめな音だったが、しばらくすると扉が小さく開いた。


 姿を現したのは、薄衣をまとった若い女だった。

 帯をしていないため前が開いたままで、重そうな乳房や形のよいへそ、そして形よく整えられた陰毛まで丸見えになっていた。


「悪いねサーラ。あんたのお客さんを訪ねてきた人がいるんだ。

 ええと……」

 館の主人は問うような目をエイナたちに向けた。


「王国軍からお迎えにあがりました、ブレンダモア准尉並びにフローリー准尉です。

 フォレスター大尉にお取次ぎ願います」


 二人はサーラと呼ばれた女に対して敬礼をした。

 ほとんど裸の相手に、どう接していいか分からなかったのだ。


「ちょっと待ってて」

 女は物憂げな仕草で扉を閉めた。自堕落な姿と不釣り合いなほど、高くて可愛らし声だった。


 しばらくして扉が大きく開いた。

 そこに立っていたのは大柄な中年男である。上半身は裸で、逞しい胸と割れた腹筋が露わになっている。

 下はズボン姿だが、足は裸足であった。


「何だ、もう来たのか。

 普通は気を遣って予定日まで遠慮するだろう……が、まぁ女ならしょうがないか。

 川船の予約は取ったのか?」

「あ、いえ。まだです」


 フォレスター大尉はぼりぼりと頭を掻いた。

「馬鹿か、お前ら。

 だったら今すぐ行って、明日の便の席を確保してこい。一番上等の個室にするんだぞ。

 その時刻に合わせて出発するから、予約が取れたら時間を報せてよこせ。

 分かったら明日、改めて迎えに来い、俺は忙しいんだ」


 男は寄り添っていた女をぐいと抱き寄せ、これ見よがしに口づけをした。

 右手は剥き出しになった乳房をまさぐっている。

 女が艶めかしい声を洩らしながら、エイナたちの目の前で扉をぱたんと閉めた。


 女主人が溜め息をついて振り返った。

「そういうわけさ。

 あんたたちは言われたとおりに船の予約を取っておいで。早くしないと満席になっちまうよ。

 お客さんには、あたしの方から時間を伝えといてあげるよ」


 老女はそう言うと、二人の尻をぱんぱんと叩いた。

「用が済んだらとっとと帰れ」と言わんばかりだった。

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