十 手合わせ
「いや、あんた何言ってんの?」
シルヴィアは心底呆れたような表情を見せた。
「キャミイは人間の姿になれたばっかりで、剣なんか握ったこともないのよね。
そんなど素人があたしと立ち合いなんて、できるわけがないでしょう?
怪我をするのがオチよ」
だが、キャミイは自信満々だった。
「シルヴィアは怠惰な性格だけど、武術の鍛錬に関しては真面目だよね?
そういう点では、僕は君を尊敬しているんだ」
* *
キャミイの言うとおりである。
シルヴィアは魔導院の十二年間で、あらゆる分野で首席を維持して卒業した。
当然、その中には武術(剣術、槍術、弓術と格闘術)も含まれている。
努力を惜しまない彼女は、男女の対格差が際立ってくる十代後半になっても、それを跳ね返せるだけの技術と体力を堅持していた。
だが、軍に入隊すると、その自信は木端微塵に打ち砕かれた。
軍には実戦経験を積んだ猛者がごろごろしており、彼らに稽古を願い出ると、シルヴィアは赤子のように負かされた。
経験に裏打ちされた技術面については、まだ納得できた。
しかし、彼女が悔し涙を流したのは、圧倒的な体力差だった。
シルヴィアは身長が百八十センチに近く、女性としては極めて恵まれた体格を誇っていた。
毎日の鍛錬で尻と乳房を除けば無駄な脂肪がなく、筋肉の鎧に包まれていると言って過言ではない。
筋肉量が多いので、同じ背格好の女性より体重があった(具体的な数字は禁則事項だ)。
魔導院時代、同年代の男子はまだ成長の途上で、背だけが伸びてひょろりとした印象だった。
それに対して、訓練の相手を引き受けてくれた先輩士官は、腕も足も丸太のように太く、圧倒的な厚みを誇っていた。
最初のうちはまったく勝負にならず、男たちの打ち込みを受けただけで、剣を取り落としたこともあった。
負けず嫌いの彼女はそれが悔しくて、仕事の合い間に時間を見つけては、技術の向上に努め、それは現在に至るまで続けられていた。
まだ先輩たちには勝てないが、ちゃんと勝負になっており、時には彼らを追い詰めることもできるようになっていた。
初めて時間いっぱいまで戦い抜けた時は、稽古相手を務めてくれた先輩が、手放しでシルヴィアの成長を褒めてくれた。
シルヴィアは嬉しさのあまり、その先輩に抱き着いて泣き崩れたものだから、見物していた他の士官から口笛が吹かれ、いまだに揶揄いのネタにされているくらいだ。
* *
「僕はシルヴィアの稽古の間中、いつも近くから観察していた。他にすることがないからね。
だから剣の構え方、防御や攻撃のタイミングを、全部頭の中に刻み込んでいるんだ。
人間の身体になった今、僕はそれを再現できると思うの。
もちろん、シルヴィアと同じとはいかないだろうけど、少なくとも自分の身を守る程度のことはできるんじゃないかな?
それを確かめてみたいんだよ」
「黙りなさい! 見ていただけで剣が使えるなんて、侮辱以外の何物でもないわ。
馬鹿にするのもいい加減にして!!」
シルヴィアはいきり立ったが、話を聞いていたヤコブ中佐は、大いに興味をそそられたようであった。
「まぁまぁ、落ち着きたまえ、シルヴィア中尉。
人間の姿をしているといっても、キャミイ准尉の本体は幻獣なのだろう?
つまり、我々の常識は通用しないということだ。
それに、現時点での彼女の実力を確認するのは、非常に重要だと私は思う。
中尉の実力なら、准尉の力を測れるのではないかね?」
現地司令官に言われては、シルヴィアとしても納得せざるを得ない。
というより、中佐の説得は筋が通っている。人間ならあり得ないことでも、キャミイは現実にしてしまうかもしれない。
それに、彼女としても人間化したキャミイの力は知りたいところである。
シルヴィアたちは中佐の後に従って、宿舎の士官室から外に出た。
宿舎の周囲には、非番の兵士たちが大勢集まっていた。
兵たちは三交代で警戒を続けているが、明け番になると、食と睡眠以外に楽しみがない。要するに暇なのだ。
長身の金髪美女であるシルヴィアは、一般兵にとって眩しい存在であったし、彼らと同じ制服を着た、謎の女性准尉の正体も知りたかった。
その二人が、彼らの司令官に続いて兵舎から出てきた。しかも、どちらも手に木刀を握っていたのだ。
兵士たちが色めき立ったのは、言うまでもない。
兵舎の周囲には、水辺の草原が広がっている。
試合をする十分な広さがあった。
ヤコブ中佐は兵たちを下がらせると、シルヴィアたちの方を振り返った。
「ここでいいだろう。
私が立ち合いを務めるが、それでいいかね?」
シルヴィアとキャミイは「はい」と答えてうなずくと、木刀を構えて向き合った。
まず、驚いたのはシルヴィアであった。
キャミイの構えがさまになっていたからである。
シルヴィアほどのレベルだと、実際に対峙すれば、実力がある程度把握できる。
キャミイは木刀を正眼に構えていたが、そこには一分の隙もない。
素人ではあり得ないことだ。初めて剣を握る者は構えが落ち着かず、内心の不安が丸分かりになる。
それなのに、シルヴィアに向けられた剣先からは、わずかな動揺すら感じられなかった。
「はじめ!」
審判役のヤコブ中佐が声をかけ、周囲を取り囲んだ兵士たちが、口笛と喝采を浴びせかける。
彼らには詳しい経緯が分からなくても、二人の美人士官による立ち合い稽古が始まることは理解された。
これほど面白い見世物が、あろうはずもない。
開始の合図がかかっても、シルヴィアは躊躇していた。
いくら構えがしっかりしていても、キャミイが完全な素人であることは、彼女が一番よく知っている。
木刀は刃がついていないというだけで、立派な凶器である。
受け損ねれば単なる打撲では済まない。骨折ならば御の字で、頭部を打たれたら死に直結する。
シルヴィアはしばらく呼吸を測った。
「じゃあ、打ち込むわよ」
彼女はそう予告してから、大きな身振りで真正面からの一撃を放った。
初心者でも、簡単に受けられるような、直線的な攻撃である。
当然、キャミイは剣を横にして、シルヴィアの剣を受け止めた。
「!!」
相手を試すため、というより、怪我をさせないための加減をした攻撃であったが、それを受けられたシルヴィアは、反射的に飛び下がった。
打ち込んだ感触が異様だったのだ。
普通なら、相手が剣で受け止めても、こちらの勢いに押されるから、弾力のある手応えが返ってくる。
それが、まるで大きな岩に打ち込んだような、弾き飛ばされる感触を受けたのだ。
しかも、キャミイの動きにはかなりの余裕が見てとれた。
受け太刀に移行する動作も滑らかで、姿勢がまったく乱れない。
シルヴィアは戸惑いながら、今度は打ち込みの速度を上げた連撃を放った。
左右からの素早い攻撃に、キャミイは正確に剣を合わせ、難なく防いで見せた。
そして、剣から受ける感触は、やはり堅い岩のそれで、シルヴィアは木剣を握る手に強い痺れを感じた。
もう間違いはなかった。
キャミイの反応は素人のものではない。
少なくとも、しっかりと基礎訓練を積んだ人間の動きであった。
それは、シルヴィアの常識から大きく外れていたし、十数年の鍛錬を積んできた彼女の努力を嘲笑うものであった。
熱しやすいシルヴィアの頭に血が上った。
三度目の攻撃は手加減を捨てた、まったく容赦のないものとなった。
フェイントをかけ、打ち込みの途中で剣の軌道を変える。
斬ると見せかけて突きに転じ、躱された剣先を腕力で強引に引き戻して、がら空きになった脇腹を襲う。
受けられても刀身を滑らせ、相手の握る手を狙おうともした。
だが、その攻撃のことごとくを、キャミイは余裕をもって防いで見せた。
ここまでくると、もう認めざるを得ない。
彼女はシルヴィアの攻撃を、完全に見切っていたのだ。
再び飛び下がったシルヴィアは、間を置かずに仕掛けた。
それは、火の出るような激しい打ち込みだった。
一見すると、怒りに任せたでたらめな攻撃だったが、逆にシルヴィアは冷静さを取り戻していた。
彼女はあらゆる方向から打ち込みながら、それを受け続けるキャミイの剣さばきを分析していた。
キャミイの動きは基本に忠実で、理に適ったものであった。
それは、これまでシルヴィアの稽古を注意深く観察してきた成果であろう。
息を継がせない攻撃を続けるうちに、シルヴィアはあることに気づいた。
確かにキャミイは基本を身に着けているが、シルヴィアの変則的な動きにまで付いてくる。
彼女は目が抜群によいのだ。
人間ではあり得ない動体視力と、それに対処する判断力、肉体の反応速度がずば抜けている。
この奇妙な違和感は、これが初めてではない。
シルヴィアは魔導院時代、魔法科との合同授業で、エイナと手合わせをした時にも、同じ感覚を味わったのだ。
エイナもまた、人間離れをした目を持っていた。
そのため、本来はかけ離れた技量を持つシルヴィアに、腹立たしいくらいにエイナは食い下がってきた。
ただ、それを考えても、キャミイの場合は極端すぎる。
これは、生まれた時から仮初の肉体を自然に動かしている、カーバンクルの特殊能力なのかもしれない。
二人を輪になって取り囲んでいた第三軍の兵士たちは、息を呑んでこの試合を見守っていた。
始めは野次馬的な興味だったのに、今やすっかり夢中になっていたのだ。
それくらいシルヴィアの攻撃は火が出るほどに激しく、キャミイの正確な受けも見事だった。
もし一瞬でも受け損ねたら、絶対に大怪我を負う。
兵士たちだって日々訓練を受けているから、その程度のことは容易に理解できた。
そう思うと、彼女たちの立ち合いは、背筋に冷や汗が流れるほど危ういものだった。
シルヴィアは三度距離を取ると、肩で息をしながらキャミイに呼びかけた。
「なかなかやるじゃない、言うだけのことはあるわ!
あんたのことは認めてあげる。
でも、一度も打ち込んでこないのはなぜ?
まさか、怖いだなんて言わないわよね!?」
それは見え透いた挑発だった。
言われたキャミイの方は、まったく息を乱していない。
そして、不敵な笑みを浮かべた。
「それもそうだね。
身体の動かし方もかなり分かってきたし、試してみようかな。
シルヴィアは強いから、遠慮しなくていいよね?」
キャミイはそう言うや否や、猛然とシルヴィアに襲いかかった。
その攻撃は、多彩で華やかなものであった。
まるで、それまで受けてきたシルヴィアの攻撃を、そっくりそのまま再現しているようだ。
太刀筋が自在に変化し、あらゆる方向からシルヴィアの身体を襲う。
剣戟の強さ、引き戻しの素早さ、そしてフェイントを交えた打ち込みのタイミングも見事であった。
見物をしている兵士たちの間から、思わず「ほう……」という感嘆の溜息が洩れる。
キャミイの変幻自在な攻撃と、それを完璧に受けとめるシルヴィアの防御は、まさに模範演武というべき見栄えがした。
だが、余裕の表情を浮かべながらも、シルヴィアは必死だった。
キャミイの太刀筋は簡単に見切ることができた。
何と言っても、彼女の剣技はシルヴィアを観察して会得したもの、つまり物真似に過ぎないのだ。
本家本元であるシルヴィアは、余裕で受けることができる。
問題はそんなことではない。
キャミイの打ち込み、その一撃一撃が、あまりに強烈で重かったのだ。
先に述べたように、入隊後にシルヴィアが思い知らされたのは、男女の体格差であった。
身体が大きく体重が乗れば、それだけ剣の重さも増す。
うっかりまともに受ければ、手も腕も痺れて剣を取り落としそうになる。
シルヴィアは嫌というほどその威力を味わっていたから、芯を外して、相手の剣圧を受け流す技術を身につけていた。
それでも、長時間の打ち合いを続ければ、蓄積する疲労は馬鹿にならない。
いつかは疲れ果てて受け損ねる――そんな恐怖が、冷や汗となって腋から流れ落ちてきた。
もはやシルヴィアの肩は大きく上下し、肺はふいごのように息を吐いているというのに、キャミイの方は少しも息を乱していなかった。
元が四メートルの巨体なのだから、これくらいの体力消費は屁でもないらしい。
平然とした顔のキャミイを前にすると、自分のこれまでの努力が馬鹿にされているようで、悔し涙が滲んでくる。
もう一か八かだ。次にキャミイが打ち込んできたら、相打ちを覚悟で反撃をしよう――シルヴィアはそう覚悟を決めた。
そんなことをすれば、お互いに大怪我をすることになるが、もう彼女は目の前の勝負のことしか考えられなくなっていた。
「そこまで!」
シルヴィアが大きく息を吸い込んで止めた瞬間、ヤコブ中佐の低い声が響いだ。
彼女は呆けたような表情で、だらりと木剣を下ろして中佐の顔を見た。
柄を握る手は、痺れてしまって完全に感覚をなくしていた。
荒い息をつくたびに、肺に鋭い痛みが走った。
膝ががくがくと震え、ホッとして洩らした尿の雫が、太腿を伝うのを感じていた。
「実に見事な試合であった。形勢は完全に互角、勝負はこれからである。
だが、これ以上続けては、思わぬ事故が起きる懸念をぬぐい切れない。
我が部下たちに披露する模範試合としては、十分であろう。
よって、私の権限において、この試合は引き分けとする。異論はないな?」
シルヴィアは肩を上下させながら、剣を引いて作法どおりに一礼をした。
キャミイもそれに倣ったが、少し不満そうに中佐の方を見た。
「では、中佐殿。
ぼ……いえ、自分をフェイの護衛として、認めていただけるのでありますか?」
「そうだな。技量はともかくとして、力だけは十分にあるようだ。
オークが相手なら、何も問題はあるまい」
「技量は……足りないのでありますか?」
「ああ。見たところ、准尉の技はすべてシルヴィア中尉の模倣に過ぎん。
だからこそ攻撃を受けきれていたし、勝負が互角に推移したのは、力で勝っていたからだ……と言っても、あまり納得をした顔ではないな?」
ヤコブ中佐は、キャミイの不満を面白がっているように見えた。
彼はシルヴィアの方に歩み寄ると、その手から木刀を取って振り返った。
「では、論より証拠だ。
キャミイ准尉、次は私と立ち合ってみたまえ」
周囲の兵たちから、おおっというどよめきが、一斉に沸き起こった。