八 診察室
シルヴィアとキャミイは、オークとの交渉に当たって、第三軍が提示する条件についての説明を受けた。
レクチャーを担当したのは、二人の副官である。
オアシスの防衛を依頼するにしても、それなりの見返りがなくては、オークたちが承諾するわけがないからだ。
南部密林のオーク族は、基本的に人間との接触を避けているが、ごく部分的な交流は存在する。
その相手はルカ大公国の商人たちで、物々交換での交易を行っていた。
オークは狩猟民族であるが、ダウワース王は農耕に力を入れていた。
彼らは数十年も前から原生林を切り拓き、主にイモ類を栽培している。
そのためには、種芋や鉄を使った農具、肥料などが必要で、それを人間の商人から手に入れていたのだ。
オーク側が対価として差し出すのは、大量の鞣した毛皮、そして量は少ないが、貴重な砂金と翡翠である。
密林の奥地を流れる川では、それらが採れるので、彼らは古くから装身具として利用していたのだ。
ただ、その取り引きは、決して公平なものではなかった。
商人たちが提示する交換比率は、明らかにオークの足元を見ていた。
ダウワース王もそれを知っていたが、背に腹は代えられずに、不満を押し殺していた。
こうした情報は、個人的に王と懇意なユニを通して伝えられていた。
赤龍帝が用意した条件は、契約成立時に相当量の必要物資を無償供与し、その後も対等な取り引きを約束するというものであった。
そして、もうひとつの切り札は、医療支援である。
これは、タブ大森林に居住を許されたオーク族に対し、最近始まった援助なのだが、予想外に需要が大きいことが判明したのだ。
オークに医者は存在せず、治療は薬草を調合した生薬と、祈祷に頼っていた。
二か月に一度、診療に赴いているフェイは、オークたちから神のように崇められていた。
一週間の滞在を終えてフェイが帰る際には、余った薬を残していくのだが、彼らはそれと同じ重さの砂金を差し出そうとした。
フェイの派遣は国費で行われているから、彼女はそれを絶対に受け取らず、ますますオークたちの信頼を勝ち得たのである。
彼らは南部密林のオークとは別の部族だが、ダウワース王の末娘が嫁いでいることでも分かるように交流がある。
まず間違いなく医療支援の話は、賢王に届いているはずだった。
そのフェイが南部密林を訪れ、実際に診療を行えば、彼らが継続的な支援を渇望することなど目に見えている。
オークは多産で知られているが、乳幼児の死亡率が極めて高い。
生まれてくる子のほとんどが男児なので、オークの世界では女性がとても大切にされている。
出産時の事故で、母体も失われるようなことがあれば、部族の存続に関わる痛手となる。
フェイはまだ若いが、人間世界でも産科の名医として知られている。
オークたちにとっては、最も必要とされる人材だった。
もちろん、彼女が南部密林のオーク族まで担当することは不可能だ。
しかし、それに代わる産科の専門医を派遣することはできる。
赤龍帝がフェイに目をつけて招聘したのは、まさに慧眼であった。
* *
「こちらからの説明は以上だ。何か質問はあるか?」
「ありません」
シルヴィアは納得をした表情で答えた。
第三軍が用意した条件は、オークの目に魅力的なものとして映るはずだ。
ダウワース王と会えさえすれば、この交渉は容易なものとなるだろう。
「では、明日の朝には出発してもらおう。
まずは、オアシスに展開している、防衛部隊の指揮官、ヤコブ中佐を訪ねてくれ。
彼にはオークによる防衛構想、そしてフェイの派遣は伝えているが、お前たちのことは知らない。
意思の疎通を図り、オークの受け入れ態勢を急がせてくれ」
「そして、ダウワース王との交渉を成功させ、実際にオークの戦士たちを引き連れてオアシスに戻るのじゃ。
引継ぎ自体はヤコブに任せればよいのだが、通訳が必要となれば、目途がつくまでキャミイの手を借りることになるだろうな」
「了解しました」
「うむ。では、さっそくだが、フェイと顔合わせをしてくるがよい。
彼女は軍医殿の診察室にいるはずだ。
エイベル、案内してやれ」
* *
シルヴィアとキャミイは、エイベル少佐の後について、赤城の明るい廊下を歩いていった。
つい先日のトルゴル作戦において、シルヴィアは無理がたたって肺炎で倒れ、マルキス軍医長のもとで数日を過ごしている。
だから、診察室の場所はよく知っている。
ただ、せっかくリディアが副官に案内させると言ってくれたのだ、それを断るのは〝野暮〟というものである。
マルキス・スレイグ軍医長は、第三軍の兵士からは畏敬を込めて〝親爺〟と呼ばれている人物である。
百九十センチ近い上背に、丸太のように太い腕、分厚い胸板をしていて、もう六十歳をとっくに越えているが、腕っぷしで彼に勝てる者はいないと噂されていた。
南部人は浅黒い肌と黒い髪が特徴であるが、マルキスの肌の色はさらに濃い。
それは彼の祖父が、大陸南部から連れてこられた黒人奴隷だったことに由来する。
そうした血筋に対する偏見もなかったわけではないが、現在の彼は名軍医として尊敬を集めている。
シルヴィアたちが医療棟の角を曲がると、見慣れぬ光景が飛び込んできた。
軍医長の診察室の前の廊下に、十数人の兵士たちが列をつくっていたのだ。
いずれも若そうな男性たちである。
現在第三軍はどこにも出動していないので、そうそう怪我人が出るわけはないし、何かの病気が流行しているという話も聞かない。
「少佐殿、あの行列は何でしょうか?」
シルヴィアが首を傾げて訊ねると、エイベルは深い溜息をついた。
「まったく……これだから男どもは!」
彼女はそう吐き捨てると、先頭に並んでいる若い兵士を睨みつけた。
その男は、真新しい三角巾で腕を吊っていた。
「貴様、どうせ模擬戦でわざと受け損ねたんだろう!?
そんなものは唾をつけておけば治る! どけっ、邪魔だ!!」
若い兵士は、少佐で国家召喚士であるエイベルに怒鳴られ、慌てて飛びのいた。確かに怪我人にしては、ずい分と血色がいい。
エイベルは〝ふんっ!〟と鼻を鳴らし、診察室の扉をノックして開けた。
「診察中、失礼します」
彼女は中に入ると、きれいな敬礼を行った。シルヴィアとキャミイもそれに倣う。
「軍医長殿、ノートン医師に面会人を連れて参りました」
背もたれのない回転椅子に腰かけていたマルキスは、じろりと顔を上げたが、〝おや?〟という表情を浮かべた。
「何だ、シルヴィアじゃないか。元気そうだな。
フェイに用事か?」
シルヴィアが肺炎で担ぎ込まれてたのは、先月のことだから、軍医長も当然彼女の顔を覚えている。
エイベルがシルヴィアに代わって答える。
「リディア様のご命令です。ノートン医師の出発が、いよいよ明日と決まりました。
シルヴィア中尉と、このキャミイ准尉が護衛と通訳を務めることになりまして、その顔合わせです」
「そうか、フェイのおかげで楽ができたんだが、もう終わりか……。
まぁ、仕方がないか。
どれ、フェイよ。若造どもの診察はわしがやる。お前は準備があるだろうから、もういい。
打ち合わせには、隣りの部屋を使いなさい」
呼びかけられたフェイは、上半身裸となった若い兵士の腕を掴み、何度か曲げ伸ばししてから顔を覗き込んだ。若者は思わず顔を赤らめた。
「肘の靭帯が伸びていますが、切れてはいないから安心しなさい。
湿布薬を処方しますから、朝晩二回取り替えること。
一週間もすれば、痛みも取れて普通に動かせるようになるはずです」
彼女は若者の裸の胸を掌で撫で、ぴんと勃った小さな乳首を指で弾いた。
「若い女医に身体を触ってもらいたい、という気持ちは分からないではないですが、無茶はやめなさい。いいですね?」
フェイは看護師に処方の指示を出し、服を着せてやるようにと言って、ようやくシルヴィアの方に顔を向けた。
「お待たせしました。
あなた方のことは、リディア様から伺っております。
それ以前に、アスカやジャヤからも聞いていますから、初めて会ったという気がしませんね。
私はフェイ、しがない町医者です。お会いできて光栄ですわ」
彼女は立ち上がり、シルヴィアと握手を交わした。
そして、羽織っていた白衣をふわりと翻し、隣室へ続くドアの方に歩いていった。
その身のこなしは柔軟で、とても印象的だった。
爆発的な筋力を内に秘めながら、音を立てずにしなやかに歩く――変な言い方だが、ネコ科の猛獣のような動きに思えた。
シルヴィアが目でエイベル少佐に許可を求めると、『行ってこい』という感じでうなずいてくれた。
シルヴィアもうなずき返し、「キャミイ、行くわよ」と言って、フェイの後を追った。
キャミイが後ろ手に扉を閉めると、すぐにフェイが近寄ってきた。
そして、「失礼」と断りながら、キャミイの全身を確かめるように、両手で触っていく。
「驚いた……この娘、本当に幻獣なの?
どう見ても人間だわ」
「ええと……その件もお聞きになっているのですか?」
シルヴィアが訊ねると、フェイはこくんとうなずく。
「もし許されるなら、解剖してみたいわ」
物騒なことをつぶやくと、フェイはいきなりキャミイの身体に抱きついた。
そして、〝ふんっ〟と気合を入れて持ち上げようとしたが、キャミイは微動だにしない。
「私、普通の女性よりも力があるつもりなんだけどな。
やっぱり、肉体密度が大きいのね。それなのに、感触は柔らかいのが不思議だわ」
「ああそれ、赤龍の話だと幻術の効果なんだって」
それまでなすがままだったキャミイが、やっと口を開いた。
「それより、ええと……フェイだっけ?」
「これっ、失礼でしょ! ノートン先生って呼びなさい!」
「いいのよ、シルヴィア。二人とも、私のことはフェイと呼んでちょうだい。
幻術って、精神操作の魔法でしょう。視覚だけじゃなくて、触覚も騙せるの?」
「そうみたいだよ。僕にはそんな自覚はないんだけどね。
赤龍に言わせれば、僕らカーバンクルは、生まれた時から強力な幻術を使っているらしいよ。
この身体も、本当はただの土人形なんだって。びっくりしちゃうよね?」
「う~ん、まだ信じられないわ……、見てよこの柔らかさ」
そう言いながら、フェイはキャミイの豊かな胸を揉んでみせた。
「あの、すみませんフェイ先生。そういう行為はちょっと……」
「あら、いいじゃない。女同士だし、服の上からよ?」
「実は、この子の身体って、私の複製品なんです。
だから、そういうことをされると、私が……非常に恥ずかしいのです。
キャミイは何とも思っていないみたいですが」
「ああ、そうなんだ。ごめんごめん」
フェイはキャミイから手を放し、空いているベッドの上に座った。
この部屋は、患者用の病室であったが、今は誰も使っていない。
つまり、診察室に行列を作っていた男性兵士たちには、重傷者がいなかったことになる。
シルヴィアは向かい合うようにベッドに腰かけたが、キャミイはフェイの横に座って、くんくんと彼女の匂いを嗅ぎだした。
「どうしたの? 昨日ちゃんとお風呂に入ったから、臭くないと思うんだけど」
「いやね、フェイって人間にしては、ちょっと変わった匂いがするんだよ。
何て言うか、ちょっとオオカミっぽいの」
「こらっ!」
シルヴィアが慌てて叱ったが、フェイはそれを手で制した。
「へえ、分かるんだ。凄いわ、嗅覚も人間よりいいみたいね。
あなたの言うとおりよ。
私、獣人と人間のハーフなの。ライカンスロープって聞いたことある?
いわゆる人狼ね。アスカから聞いてなかった?」
シルヴィアは驚いて、思わず息を呑んだ。
「いえ、そこまでは……。でも、そうは見えませんけど」
「私がアスカの養女だってことは、知っているんでしょう?」
「はい、それは……」
「私は両親を亡くした孤児だったの。それが南カシルで偶然、アスカに拾われたのよ。
だから名前も、本当はフェイ・ゲイブルなんだけど、今ではノートンの姓を名乗るようになったの。
ほら、アスカって超有名人だから、その方が何かと都合いいのよね」
フェイは目を細めて笑って見せた。
「顔だって、小さいころは毛むくじゃらだったのよ。
大きくなるにつれてだんだん薄くなって、ちょっと産毛が濃い程度になったのは、正直助かったわ。
でもね、今でも背中なんか毛深いし、お尻には短い尻尾だってあるのよ!」
「へえ~、面白い! 見てみたいな!!」
「そお? じゃあ、今度一緒にお風呂に入ろうか?」
キャミイは目をきらきらさせて喰いついたが、シルヴィアは言葉に窮した。
獣人と人間の混血ということは、恐らく筆舌に尽くしがたい辛い経験をしてきたはずだ。
その同情を伝えようと浮かんだ言葉は、すべて薄っぺらいものに思えた。
そこで、シルヴィアは強引に話題を変えた。
「でも、どうして軍医殿の診察を手伝ってらしたのですか?
リディア様の話では、南部密林に赴く準備で忙しくしているって聞きましたけど」
「ああ、準備って言っても、薬や医療器具を揃えることだから、おじさまにお願いしたら、すぐに終わったの。
それより、おじさまから実地指導を受ける方が、私にとっては大切なのよ。
何と言っても、この国で医者をやっていて、おじさまを知らなかったら〝もぐり〟ですもの。
こんな機会、逃すわけにはいかないじゃない?
「ええと、その〝おじさま〟っていうのは……?」
「あら、それも知らなかったの!?
アスカの旦那様がゴードンだってことは、さすがに知っているわよね?」
「はい、それは」
「マルキス軍医長は、ゴードンのお兄様なの。
だから、義理とはいえ、私にとっては伯父に当たるわけよ」
シルヴィアは軽い眩暈を覚えた。
世間はあまりにも狭かったのである。