四 歓迎行事
シルヴィアが身支度を整え、カー君を連れて宿を出たのは、七時前のことだった。
こんな早朝にも関わらず、大通りでは大勢の市民が行きかっていた。
さすがに店は閉まっているが、あちこちに屋台が出ており、美味しそうな匂いをさせている。
南部の人々は祭り好きである。
この時代は娯楽が少ないということもあって、騒げる機会があれば、存分に楽しもうとするのだ。
赤龍帝リディアが、遠征部隊を伴って帰還するという情報は、すでに知れ渡っていた。
これは単なる交替であったが、細かいことはどうでもいい。
そもそも、この情報を市中に流したのは、リディアの指示であった。
国外へ部隊を派遣するには大金がかかる。
財政に余裕がないのは、国も地方も同じだった。
予算が足りなくなれば、そのしわ寄せがどこに行くのか、馬鹿でも分かることだ。
当然、負担を強いられる市民は不満を募らせていた。
その目先を逸らしてガス抜きを図るのは、支配者の常道である。
市民が早朝から集まっているのは、場所取りのためである。
こうした祭りごとでは、ちょっとした菓子の包みをばら撒くのが恒例だった。
兵士たちが群衆に向けてそれを放り投げると、人々は争って受け取ろうとする。
きれいな色の紙包みの中には、甘い焼き菓子が四、五枚入っているだけで、金額的には微々たるものだ。
ただ、これは〝縁起物〟で、食べると風邪をひかないとされている。
子どもは大喜びするし、大人にとっても運試しなので、誰もが楽しみにしていた。
それと同時に、市民は華やかに着飾ったリディアを見るのが大好きだった。
彼女はもう三十代半ばだったが、いまだに〝姫さま〟と渾名されるほどの人気を保っていた。
小柄で童顔の顔立ちに、南部人の特徴である浅黒い肌をもっている赤龍帝は、市民の自慢の種であった。
実際のリディアは姫君とは正反対で、過激で気の強い性格をしていた。
しかし、市民の前では猫をかぶって愛想を振りまき、人心を掴む努力を怠らなかったのだ。
『よく考えられている……』
人ごみを掻き分けながら、城に向かうシルヴィアには、こうした〝政治〟が透けて見える。
城への出入りを管理する警備兵は、シルヴィアとカー君の姿を見ただけで、身分証も確認せずに通してくれた。
もしカー君が人間化していたら、こうはいかなかっただろう。
城門を潜った二人は、真っ直ぐに中庭に向かった。
すっかり顔馴染みとなった兵士たちが駆け寄ってきて、カー君に飛行用装備の取りつけを始めた。
シルヴィアの方も、用意されていた重い革の飛行服に袖を通す。
そして、いつものように飛行帽と保護眼鏡に手を伸ばすと、手伝ってくれる兵士に止められた。
「中尉殿、今日は顔出しでお願いします。それと、お髪は解いてください」
シルヴィアは長く美しい金髪をしていたが、勤務中は軍の規定どおりに編んで後頭部にまとめていた。
それを解けというのだ。
シルヴィアは小さく溜息をついたが、素直に指示に従った。
その目の前に、肩かけ紐がついた大きな籠が差し出される。
籠の中には、きれいな色紙をリボンで結んだ包みが、ぎっしりと詰められていた。
* *
昨日のことだ。シルヴィアは赤龍帝の留守を預かる副官に面会し、来訪の意図を告げていた。
四帝の副官を務める者は、国家召喚士と決まっている。
彼はエイベル・ルーニーという名で階級は少佐、シルヴィアが魔導院に入る前に卒業している大先輩である。
「用件は承知したが、生憎だったな。
リディア様は三日後にお戻りの予定だが、事情は聞いているか?」
「はい、中庭でマコーミック伍長から、帰還部隊の出迎えだと伺いました。
何でも市中で祝賀行事があるのだとか。どおりで城が慌ただしいはずです」
「うむ、そこまで知っているのなら話が早い。
中尉は赤龍様に教えを乞うべく、リディア様に許可を願い出るのであったな。
であれば、心証をよくしておいた方がいいだろう」
「……ええと、どういう意味でしょうか?」
「我々の仕事を手伝えということだ」
エイベル少佐はにやりと笑った。
彼の説明を要約すると、シルヴィアはリディア率いる帰還部隊の上空を飛んで、歓迎に華を添えろ……ということだった。
「城の者は馴れているが、ほとんどの市民は飛行幻獣を見たことがない。
お前とカーバンクルは、空から菓子をばら撒くのだ。
群衆は驚くと同時に、大喜びするに違いない。これは絶対に盛り上がる演出だ。
リディア様も、シルヴィアの働きに満足されるだろう」
* *
シルヴィアが朝早くから登城したのは、このためであった。
飛行帽やゴーグルを禁じたのも、エイベル少佐の指示である。
シルヴィアは大柄で、派手な顔立ちをした美人なので見栄えがする。
その顔を見せねば意味がないから、帽子やゴーグル、マフラーなどで隠すなど、とんでもないことだ。
結った髪を解かせたのも、金髪が風に靡いた方が盛り上がる、との理由だった。
これは、実際に飛んだことのない、男性の発想であった。
確かに髪をおろした方が、遠目にはきれいだろうが、現実には髪型がぐちゃぐちゃになり、顔に張りついたりすると、前が見えなくなるのだ。
『シルヴィア~!』
彼女が解いた髪に櫛をいれていると、頭の中にカー君の情けない声が響いてきた。
振り返ると、カー君に装着された革ベルトに、兵士たちが紙の造花を飾り付けているところだった。
『あれに乗って飛ぶの?』
シルヴィアはがっくりと肩を落とした。
完全に見世物である。あまりに恥ずかしすぎるではないか?
* *
市街を囲む大城壁の門から、いよいよ赤龍帝と帰還部隊が入ってきた。
隊列を先導する儀仗兵に続き、軍楽隊が軽快な行進曲を吹き鳴らす。
沿道を埋め尽くした市民は早くも興奮し、歓声とともに紙吹雪が舞った。
そして、白馬に乗ったリディアと、誇らしげな顔をした帰還部隊が姿を現すと、さらに熱狂が加速する。
リディアは軍礼服風のドレスを着用していた。
光沢のある白い生地には、無数のスパンコールが縫いつけられ、下半身はボリュームのあるロングスカートである。
部隊全員が大門を潜り終えるたタイミングで、シルヴィアは待機していた上空からカー君を降下させ、隊列の頭上すれすれを追い抜いてみせた。
群衆は誰も上に注意を向けていなかったから、これは完全な不意打ちだった。
女や子どもは甲高い悲鳴を上げ、人々は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
カー君は上昇して大きく回転し、再び隊列の後方に回り込んで、低空飛行を繰り返した。
今度は失速寸前まで速度を落とし、シルヴィアは笑顔を振りまきながら籠に手を入れ、群衆に向けて菓子の包みを投げた。
市民たちも、これがパレードの趣向であることをようやく理解し、たちまち大歓声が沸き上がった。
お祭り好きの南部人にとって、こうした不意打ちは、大いに歓迎されたのだ。
シルヴィアが投げる菓子をめぐって争奪戦が起き、警備に当たる兵はその制止にやっきとなった。
城まで一時間にも満たないパレードは、大成功を収めた。
シルヴィアとカー君も、やんやの大喝采を浴びたのである。
* *
赤龍帝の謁見が叶ったのは、午後になってからであった。
それだけ城内は、ばたばたしていたのだ。
リディアは場所を自身の執務室に指定し、人払いをしてくれた。
「シルヴィア、今日はご苦労じゃったの。
元気そうで何より……ん? 何だ、中尉に昇進したのか」
「はい、お陰さまで」
「それはめでたい」
リディアは普段の軍服姿に戻っていたが、緩くウェーブした黒髪は結わずに垂らしたままだった。
彼女は疲れているはずなのに、そんな兆候は微塵も見せない。
「大体の話は副官から聞いた。
カーバンクルが黒の魔石を食べても、目立った変化が起きないため、ドレイクに問い質したいとのことだったな。
赤城市に飛ぶ途中で、視力の向上が起きたとのことだったが、詳しく事情を申してみよ」
「はい」
シルヴィアは経緯を簡潔に説明したあとで、言いづらそうに付け加えた。
「それともうひとつ。実は今朝になって、とんでもないことが起きまして……」
「ほう、もったいぶるではないか。何が起きた?」
「カー君が人間に変身したのです」
これにはさすがのリディアも驚いた。
「はぁ!? 人化をか……?
確かにある種の幻獣には、人間に化ける能力があると聞いたことはあるが……」
リディアの言うとおりで、過去に妖狐や古狸を召喚した事例では、人間や物体に変身する能力が記録されている。
ただ、この百年以上、そうした幻獣の召喚は起きていないから、これは極めて珍しい現象である。
「ふむ……別にシルヴィアを疑うつもりはないが、実際に見てみたい。
この場でやってみせよ!」
『やっぱりそう来たか!』
シルヴィアは心の中で呻いたが、断ることはできなかった。
「分かりました。ただいま準備をしますので、少々お待ちください」
彼女はそう言うと、傍らに置いていた大きな手さげ鞄に手を伸ばした。
「何じゃ、その荷物は?
そもそも幻獣の変身に、準備が必要なのか?」
「ええ、まぁ……」
シルヴィアは引き攣った笑いを浮かべ、荷物の中から畳んだ白い布を取り出した。
彼女はカー君に「伏せ」を命じると、その身体に広げた布を被せていく。
それは宿から借りてきたシーツで、二人用ベッドで使う大きいサイズのものだった。
「はて、手品でも始めるのか?」
「いえ、見てのとおりカー君は幻獣ですから、衣服を身に着けていません。
この状態で人間になるということは、下着もつけていない裸になるということです。
女性である赤龍帝閣下に、見苦しいものをお見せするのは、少々憚られるのです」
「なっ、なるほど、道理じゃな!」
リディアは口ごもって頬を赤らめた。
彼女もカー君を雄だと認識していたため、人化=男性化だと気づいたのだ。
シルヴィアが、あんなモノを見せまいとするのは、当然の配慮である。
シルヴィアは大きなシーツでカー君を覆うと、二、三歩後ずさった。
「もういいわよ。やってちょうだい」
カー君の大きな体が、空気の抜けた風船のように、いきなり萎んだ。
そして、小さくなった膨らみがもぞもぞと動き、女性が顔を出した。
彼女はシーツを掻き抱いて裸を隠し、その場で立ち上がった。
肩までの黒髪で、そこそこ美しい顔立ちだが、体格だけは立派である。
「何じゃ、女ではないか!?
それならそうと最初から言えばいいじゃろう。私のときめきを返せ!
……ん? 何だかこの女、どことなくシルヴィアに似ていないか?」
「実は、カーバンクルは人間の識別が苦手なのです。
なので、人間になろうとしても、いつも身近にいる私やエイナの真似をするのが、精いっぱいなのだそうです」
「なるほどなぁ……。だが、それなら別に裸を見られていもいいだろう?
ここには女しかおらんのだぞ」
「いえ、いけません! 例え同性でも、はしたないことに変わりありませんから」
「お前、案外固いのだな?」
人化したカー君の裸が、シルヴィアの複写だということは、口が裂けても言えない。
彼女は曖昧な笑みでその場をごまかし、手さげの中から着替えを取り出した。
そしてシーツに潜り込んでカー君の背後に回り、まず下着を穿かせた。
ズロースはともかく、胸を押さえるコルセットは、慣れないカー君ひとりでは着けるのが難しいのだ。
下着をつけたところでようやくシーツを外し、ゆったりとしたワンピースの部屋着を着せる。
靴は〝つっかけ〟しか持ってきていないが、目をつぶるしかない。
リディアは少し顔をしかめ、女体化したカー君に話しかける。
「ふむ。……カーバンクル、人間になるのはどんな気分だ?」
「えーと……尻尾がないので、バランスを取るのが難しいかなぁ。
でも、ちゃんと声を出して喋れるのは、かなり楽ですよ。
念話って精神の集中が必要だから、結構疲れるんですよ」
「ほう、声はシルヴィアにそっくりだな。
それで、そなたが人化をしたのは、今朝のことだったな?
詳しい事情を申してみよ」
カー君は求めにしたがって、簡単な経緯を説明した。
シルヴィアの寝起きが極端に悪く、お尻を引っ叩こうとしたことは秘密だ。
事前にシルヴィアから言い渡されていた、禁則事項である。
シルヴィアもシーツを畳みながら、説明を付け加えた。
「視力向上も人化も、カー君の望みが発現のきっかけとなっています。
両者には明らかな関連があると思うのです。
ドレイク様であれば、この現象を解き明かしてくれるのではないでしょうか?」
リディアは突っ立っているカー君に顔を近づけ、服の上から身体をぺたぺた触っている。
「こ奴、ちょっと胸と尻が大き過ぎるのではないか?
よもや、私に対する挑戦ではあるまいな?」
シルヴィアは肩をすくめ、笑えない冗談をやり過ごした。
「今のところ、女の姿にしかなれないのだとしたら、カー君呼びでは変じゃろう。
人間としての名前は決まっておるのか?」
この質問は盲点であった。
なるほどカー君の見た目は、シルヴィアと同じ若い女性である。
人前で〝君〟呼ばわりしたら、怪しまれるに決まっている。
「それは……考えていませんでした。
今後のことを考えれば、確かに名前は必要ですね。
ええと、カー君……カー、カー、カーミイ、いえ、キャミイにします!
いいわね、カー君? 今からこの姿の時は、あんたのことキャミイって呼ぶから」
カー君もとい、キャミイは微妙な表情を浮かべた。
「僕の意見はきいてくれないの?」
「何よあんた、いい案でもあるっていうの?」
「う~ん……ジークフリードとか? あっ、クリムゾンシャドウなんてのもカッコいいね!」
「どこの厨二病だ!? 却下よ、却下!!」
シルヴィアは思わずキャミイの背中を、平手で叩いた。
カー君の時は遠慮なくグーで殴っていたのに、相手が女性の姿だと、自然にブレーキがかかってしまう。
何だかキャミイと長時間行動をともにすると、ストレスが溜まりそうな予感がして、シルヴィアは微かな不安を覚えた。
もちろんその懸念は、現実のものとなるのである。