三 変身
「痛いよぉ、シルヴィア~!」
カー君の情けない声が聞こえ、シルヴィアは反射的に周囲を見回した。
だが窓の鎧戸も閉めたままなので、部屋は真っ暗で彼の姿は確認できなかった。
「どこなの、カー君?」
シルヴィアは押し殺した声で訊ねた。
あまり大声を出して、宿の者に騒ぎを知られるのはまずい……なぜかそんな気がしたのだ。
「ここだよぉ」
その声はすぐ間近、自分が馬乗りになっている相手からのものだ。
だが、シルヴィアはとてつもない違和感に気づいていた。
カー君であれば、頭の中で響くはずなのに、声は耳から入ってきた。
しかも、喋り方こそカー君だが、声音がやけに甲高い。
シルヴィアは後頭部を見せている相手の髪を掴み、無理やり横向きにした。
「えっと……ひょっとして、あんたがカー君なの?」
「そうだよぉ!
僕はシルヴィアを起こそうとしただけなのに、酷いじゃないか。
とにかく、痛いから手を放してくれないかなぁ?」
シルヴィアは、混乱しながら不審者の手を放して、ベッドから降りた。
そして部屋の窓を開け、鎧戸を押し開いた。
冷たい朝の空気とともに、外の明かりが部屋に差し込んでくる。
まだ少し薄暗いが、闇に馴れた目には十分な明るさだった。
乱れたベッドの上では、素っ裸の女が上体を起こし、捻られた手首をさすっていた。
もちろん、こんな女に会うのは初めて……なのだが、妙に懐かしい感じがする。
その原因はすぐに分かった。
ベッドの上で胡坐をかいている姿は、シルヴィアそのものだったのだ。
「どういうことか、説明してちょうだい。
どうしてカー君が人間の、それもあたしの〝そっくりさん〟になっているの?」
寝間着姿のシルヴィアは、ベッドの脇で仁王立ちになり、自分を真似た女を見下ろした。
その睨みつけている険しい表情が、みるみる崩れてきて、頬が赤く染まってくる。
いくら見慣れた自分の身体とはいえ、下着すらつけない裸を見せつけられては、どうしようもなく恥ずかしくなってくるのだ。
「とにかく、まず何か着てちょうだい!
ほら、そこの椅子にのってる着替えを使っていいから」
ベッド脇の椅子の上には、前の晩に用意した部屋着が畳んある。
「え~? 面倒くさいなぁ……」
カー君は四つん這いになってベッドの上を二、三歩動き、着替えに手を伸ばした。
普段が四足歩行だから、その癖が出るのだろう。
しかし、その姿勢だと重い乳房が垂れさがり、動くたびにゆさゆさ揺れるのだ。
シルヴィアは思わず手で顔を覆った。
「馬鹿っ! あっち向いて着替えなさいよ!!」
「もう……注文が多いなぁ」
カー君はぶつくさ言いながらも、四つん這いのままで壁の方に向きを変える。
当然、シルヴィアの眼前には、何も着けていない大きなお尻が突き出されることになった。
「ぎゃーーーっ! ちょっ、あんた! 何を見せんのよ!!」
彼女は悲鳴を上げ、反射的に目の前の尻を引っ叩いた。
小気味のいい音が響き、白いお尻にみるみる赤い手形が浮き上がってくる。
カー君は振り返り、涙目で抗議した。
「痛ーーーい! もう、酷いなぁ!」
だが、その声はシルヴィアの頭の中まで届かなかった。
「待ちなさいよあんた! 何これ!?」
シルヴィアは女カー君のお尻を、両手で鷲掴みにして、左右に押し広げた。
これはもう、同性云々は関係なく、例え自分自身の身体であろうとも、絶対見たくない部分であった。
「なんで何もないのよ!?」
後ろから広げられた股間は、つるんとした肌しか見えず、女ならあってしかるべき〝あれやこれや〟が存在していなかった。
ただし、肛門だけはちゃんとある(それは見たくないので、無理やり意識の外に追いやった)。
「僕は前からそうでしょ? 今さら何言ってんの」
カーバンクルは、動物でいう交尾を行わない。
これは精霊族と妖精族に共通した特徴で、妖精が満月の夜に踊った葉っぱに宿る、朝露の中から生まれてくる……という話は、よく知られていた。
カー君によれば、カーバンクルは満月の夜に、気の合った者同士が身体を寄せあって眠り、同じ夢を見るた時に限り、子どもが生まれるそうなのだ。
身体のどこかから出てくるのではなく、いつの間にか〝そこにいる〟ということらしい。
したがって、カーバンクルには、そもそも生殖器が存在しない。
彼らは生き物の精気を糧に生きているので、水分以外の食事は必要ないが、食べること自体はできる。
(実際、カー君は食べることが好きで、特に甘い物に目がない。)
食べた物が消化されることはなく、ただ水分を吸収した残り滓が排泄されるだけであった。
お尻にある穴からは、余分な水分も排出されるので、それは肛門というより、鳥や爬虫類のような総排出腔と呼ぶべきものだ。
だから、カー君が人間の姿になっただけだとしたら、股間に何もないことは納得できる。
ともあれ、カー君は部屋着(ゆったりとした長めのワンピース)に袖を通し、どうにか目のやり場に困ることはなくなった。
シルヴィアはようやく混乱状態から回復し、状況を理解しようという努力を始めた。
「じゃあ、最初から話して。
一体、何がどうして……こんなことになったの?」
カー君は小首を傾げて考え込む。
シルヴィアそっくりの顔でこれをやられると、むずむずしてどうにも落ち着かない。
彼(彼女か?)はゆっくりと自分の行動を思い返しながら、説明を始めた。
夜が明けてきたので、シルヴィアを起こす必要があったこと。
下宿ならメイドさんが、お尻を引っ叩いて起こしてくれるが、自分の前足ではそれが難しいこと。
それで、『僕が人間だったらいいのに』と思いながら、シルヴィアを起こそうと近づいたこと。
「そうしたら、いつの間にかこうなっていたんだ。
シルヴィアに押さえ込まれて、初めて自分が人間になっているって気づいたの。
僕が一番びっくりしているんだよ」
「そう……」
シルヴィアは親指の爪を嚙みながら、考え込んだ。
昨日の飛行では、カー君がたまたま発見したウサギをよく見ようとして、突然視力の能力向上が起きた。
今回も『人間になりたい』という、単純な願いがきっかけとなって、変身能力が発動したと考えるしかない。
ということは、この二つの能力の根っこは同じ、いずれも黒の魔石の効果なのだろう。
「それにしても、どうしてあたしそっくりの姿になったのかしら。
ねえ、カー君。あんた、人間になりたいと思った時、誰かの姿を思い描いた?」
「そりゃあ、シルヴィアだよ。決まっているじゃん」
「どうして? 別にあたしじゃなくても、誰か他の男の人でもよかったんじゃない?
カーバンクルに雌雄がないことは知っているけど、あんたの普段の喋り方って、割と男っぽいじゃない。
例えばさ、マリウス様とかでもいいわけでしょ?」
「無理だよ。イメージできないもん」
「何でよ? マリウス様とは何度も会っているから、顔は覚えているはずよ?」
「そりゃ、顔はそうだけど。身体はどうするの?
僕、マリウスの裸なんて、見たことないんだよ」
「あっ……!」
突然にシルヴィアは理解した。
当り前だが、カー君は衣服など着ていない。
もし人間に変身できるとして、そのイメージを脳内に描くとしたら、裸の人間でなくてはならない。
彼は召喚されてから、ほとんどすべての時間をシルヴィアとともに過ごしてきた。
だから、シルヴィアの裸体も普通に見ている。
カー君の存在はペットのようなもので、その前で着替えたり、入浴することに抵抗がなかったのだ。
逆にいえば、カー君はシルヴィア以外の人間の裸体を、知らないということになる。
もし変身能力を得たのだとしても、他の人間になりようがないのは自明である。
「あれ? じゃあ、もしかして……」
「どしたの?」
「考えてみれば変なのよ。
あんたの股間がつるぺただったのは、元のカー君がそうだから……って、さっきは思ったの。
でも、それならおっぱいだって、なくてもいいって話になるわよね?
これ単純にあそこがイメージできないから、ごまかしたってことじゃない?」
「そっかぁ……そういえば、シルヴィアのあそこって、ちらっとは見たことあるけど、じっくり観察したことはないもんね」
「じっくり見られてたまるか!
まぁ、何となく変身の仕組みは分かってきたわ。
だったら、身体は無理だとしても、顔だけなら別の人に変えられるんじゃないかしら?
やっぱり、自分そっくりの顔が目の前にいるって、いい気分がしないのよね。
どう、できる?」
「う~ん……結構難しいかも」
「どうしてよ?」
「僕はシルヴィア以外の人間の顔に、あんまり興味ないんだよ。
もし、シルヴィアが犬に変身しようと思ったら、どんなイメージを思い浮かべる?」
「そうね……小さいころに実家で飼っていたペスかしら?」
「そうだよね。自分が飼っていた犬だったら、身体の特徴も詳しく覚えているし、顔の表情なんかも思い出せるよね。
でも、例えばご近所さんで飼っている犬だったら、どう?」
「えっ、それは……ちょっと難しいかな?
顔を見れば区別できるけど、ちゃんとは覚えていないもの」
「僕にとっての人間は、それと同じなんだよ。
ほとんどの人間は区別できないから、視覚よりもむしろ嗅覚に頼っているんだ。
顔だけだって言われても、よほど一緒にいる時間が長くないと、きちんとイメージできないんだよ」
「なるほどね、あんたの言うことは何となく分かるわ。
あっ、でもそれだったら、エイナはどうかしら?
彼女だったら、あたしの次くらい長い時間、一緒にいるわよね?」
「ああ、エイナか……。うん、彼女なら何とかなるかも」
「物は試しだわ。ちょっとやってみなさいよ」
カー君はベッドの上で胡坐かいたまま、目を閉じて集中を始めた。
しばらくすると、その顔の輪郭がぼやけてきた。目を凝らしても、焦点がうまく合わないのだ。
不鮮明な状態でも、変貌が起きていることは分かった。
その中で、最も顕著なのが髪の毛だった。
割と長めの金髪が、ずるずると引っ込んで短くなり、色が黒く変わったのだ。
顔を構成する要素は、それよりも微妙な変化だった。
高い鼻が丸く可愛らしくなり、大きめな唇も小さくすぼまった。
ぼんやりとしていた輪郭が明瞭になってきて、面長だった顔も丸くなった。
部分的な変身が終わり、カー君がぱちりと目を開くと、瞳の色も茶褐色に変わっていた。
ただ、『これがエイナの顔か?』と問われると、どうにも微妙だった。
しいて言えば、シルヴィアとエイナを足して二で割った顔……なのだろうか。
カー君の頭の中では、どうしてもシルヴィアの顔のイメージが強烈で、よく知っているはずのエイナでも、それに引っ張られてしまうようだった。
それでも、鏡に映った自分の顔を見るような違和感は、かなり薄まったといえる。
身体についてはどうしようもないから、取りあえず置いておこう。
「うん、まぁ……初めはそんなものかしらね。
次から変身するときは、この顔でいきましょう!
……って、あんた、元には戻れるの?」
「多分、大丈夫だと思う。戻ろうか?」
「そうね、やっぱり落ち着かないから、お願いするわ」
カー君は再び四つん這いになって、ベッドから降りようとする。
それを見たシルヴィアは、あることに気づいた。
「ちょっと待って、何でベッドがそんなに沈んでいるの?」
カー君がついている手や膝は、不自然なほど深く、マットに潜り込んでいた。
しかも、彼が動くたびに、ベッドの底板がみしみしと悲鳴を上げるのだ。
シルヴィアは、試しにカー君を持ち上げてみようとした。
ベッドの端に腰かけている彼の脇と膝の下に腕を入れ、腰を落として踏ん張ってみる。
もし、見た目どおりだったら、難なく持ち上げられるはずである。
シルヴィアはそれくらい力が強い。
ところが、カー君はびくともしなかった。
ということは、姿が人間サイズになっても、体重自体は元のままなのだ。
恐らく肉体が圧縮されて、中身は鉄のように重くなっているのだろう。
「もういいかな? じゃあ、元に戻ってみるよ」
カー君は立ち上がると、着ていた部屋着をがばっと脱いだ。
下着をつけていない、シルヴィアそっくりの裸体が露わとなり、大きな乳房がぶるんと揺れた。
「なぜ脱ぐ!?」
シルヴィアが顔を背けながら怒鳴る。
「ええ? だって着たまま元に戻ると、服が破けちゃうよ?」
「あっ、そうか! じゃあ、早く戻って。
だけど……、それはそれで困ったことになったわね」
全裸になったカー君は、あっけなく元の姿に戻った。
やはり、慣れない人間形態よりも楽なようで、機嫌がよさそうだった。
もう夜が明けたので、そろそろ登城の支度をしなければならない。
是が非でもカー君を伴って赤龍に会い、この問題について相談しなければならない。
見慣れたカー君を連れて登城すれば、何も問題は起きない。だが、人間化した姿ならどうだろう?
警備の兵に『実はうちの幻獣、人間になれるんですよ』と説明しても、簡単に信じてもらえるとは思えない。
もちろん、目の前で変身させればいいのだが、そうなると必然的に全裸を晒すことになる。
カー君は裸になることに抵抗ないだろうが、シルヴィアはそうはいかない。
自分自身の裸を見られるのと、同じことになってしまうからだ。
警備兵だけではない。リディアの前でも、当然赤龍の前でも、同じことを繰り返す必要があるのだ。
「どうしよう……」
シルヴィアは頭を抱え込んでしまった。