二 寝起き
『どんな調子? 前と変わった感じはするの?』
シルヴィアは眼下を流れ去る地面を眺めながら、頭の中でカー君に問いかけた。
王城の中庭から飛び立って、約三十分。
比較的低空を、ゆったりした速度で飛んでいるので、革の飛行服に当たる春風は柔らかく、ほとんど寒さを感じなかった。
四月中旬は、春撒き小麦の播種の時期である。
広大な農地はすっかり耕され、朝露で湿った黒土が陽光に暖められて、白い水蒸気がたゆたっている。
『う~ん、割といい感じかな?
気のせいかもしれないけど、身体が軽くなった気がする』
カー君の呑気そうな声が返ってくる。
黒の魔石を呑んでからもう三日が経っていたが、カー君にはこれといった変化が表れていない。
しいて言えば、鱗の色であった。
彼の全身は、長くてごわごわした毛に包まれているが、それは細かな鱗の間から生えている。
鱗は褐色で弾力があり、黄色い魔石を摂取してから、まばらに発生してきたものだ。
それが白の魔石の摂取後、全身に広がって、びっしりと皮膚を覆うようになった。
これは空を飛べるようになったことと関係していて、上空の冷たい風を受けても体温を奪われない、鎧のような役割を果たしていた。
『鱗の色が変わっている』
そう報告してきたのは、飛行具の調整を担当している装備課の職員だった。
シルヴィアがカー君の体毛を掻き分けて確認してみると、確かに飴色だった鱗が黒光りしている。
一枚一枚の厚みや固さも増しているが、弾力は失われていない。
調査に当たった審問官は、防御力が向上しているのではないかと推測した。
まずは赤龍からの聞き取りを優先するが、王都に戻ったら、防御力の試験をしてみようという話になっていた。
とにかく目に見える変化は、身体が少し大きくなったことと、この鱗の色くらいであった。
『魔石が偽物……ってことはないわよね?
実際、魔石が隠されていた洞窟は、視覚以外に触覚まで騙す、高度な幻術がかかっていたもの。
千年以上もその効果が続く呪符も魔石も、同じ呪術師が作ったのでしょうから、きっと凄い効果が隠されているに違いないわ……』
シルヴィアはぼんやりと地面を眺めながら、物思いにふけっていた。
『ああ、そう言えば!』
不意打ちのように、カー君の元気な声が響いた。
『何よ!? びっくりするわね』
『ちょっと気持ち悪い』
『どっかで拾い食いでもしたの?』
『そうじゃないよ。ねえ、もっと高く飛んでもいい?』
『そりゃあ、別にいいけど……』
カー君はコウモリのような翼を何度か羽ばたかせ、ぐんと高度を上げた。
たちまち眼下の農地が遠ざかり、小さくなった。
『ああ、やっぱりだ! 眩暈がよくなった』
『さっきから何よ? 分かるように説明して』
『えーとね、多分これ、魔石の効果だと思うんだけど、僕ってば……目がよくなったみたい』
『視力ってこと?』
『うん。さっきまで低空を飛んでしたでしょう?
そしたら、畑の土でにょろにょろしているミミズとか、ダンゴムシとかがはっきり見えて、気持ち悪かったんだよ。
このくらい高いとそれが気にならなくなって、ちょうどいい感じだね』
現在のカー君の高度は、目測で四百メートル以上だ。
上昇前も低空と言っても、百メートル近くあったはずで、しかもかなりの速度で飛んでいる。
その状態で、地面をうごめく虫がはっきり見えるというのは、尋常ではない視力ということになる。
『ねえ、カー君。あんたが見ている景色、あたしの頭の中に映せる?』
『意識の共有をすれば、できるんじゃないかな。
やってみる?』
『お願い!』
シルヴィアは目をきつく閉じた。
召喚士とその幻獣は、深いところで意識がつながっている。
もともとの言語が違うのに念話が成立するのも、普段から意識を同調させているためだ。
シルヴィアは自分を無にして、カー君の意識を手繰り寄せ、その中へ没入していった。
真っ暗な闇の中から強烈な光が生まれ、いきなり彼女の五感を呑み込んだ。
カー君の視覚だけではなく、空気の匂いや風切り音までが、シルヴィアの脳内にどっと流れ込んでくる。
乗り物酔いのようにくらくらとして、吐き気と頭痛がした。
じっとそれに耐えていると、ようやく感覚が安定してきた。
シルヴィアはいま、カー君の目を通して地上を見ている。
カー君の言うとおり、地面がはっきりと視認できる。
掘り起こされた黒土の一粒一粒が、その上を歩くアリの触覚の動きが、絵画のように頭の中に焼き付き、あっという間に流れ去っていく。
あまりに部分的な情報量が多すぎて、全体像がまるで掴めない。
今の高度でこれなのだ、低空を飛んでいた時にどう見えていたか、考えただけでも気持ちが悪い。
視覚情報におぼれかけていると、不意に景色がぼやけ、仕事中の農夫の姿に焦点が合った。
野良着の汚れから、鍬を握るごつごつした手、額に浮かぶ汗粒、耳穴から飛び出している黒い毛、とにかくありとあらゆる情報が押し寄せる。
そして、それが組み合わさって、ひとりの人間の姿を形作っていった。
農夫の姿は十秒以上も捉えられ、そして限界がきて視界から飛び去っていった。
ようやくシルヴィアは気づいた。
自分の脳が、農夫のあらゆる部分情報を統合して、全体を理解したことを。
同時に、農夫に注目していた間、視界に入ってくるほかの情報は、脳が無視をして認識しなかったのだ。
自分が見たいものだけに意識を向けることで、脳がそれ以外を遮断してくれる。
こつさえ掴めば簡単なことだった。人間だって、普段から同じような情報処理をしているのだ。
ただ、今のカー君の視力が、あまりに鮮明であるため、混乱が起きただけである。
しばらくすると、シルヴィアはカー君の〝目の使い方〟にすっかり馴れてきた。
すべてを見ていながら、何も見ないことで全体を把握する。
そして意識を向けた対象だけを、一瞬で脳裏に刻みつける。
シルヴィアを指導してくれたアラン少佐は、その技術を教えようとしたが、カー君の能力不足で叶わなかった。
『なるほど、アラン少佐はロック鳥の目を通して、こんな世界を見ていたんだ……!』
シルヴィアは飛行帽を被った頭を左右に振って、カー君との感覚共有を切り離した。
十分にも満たない時間だったが、脳に痺れるような疲労が蓄積していた。
これは、少しずつ身体を馴らしていく必要がありそうだった。
『それにしてもカー君、いつからこの能力に気づいたの?』
『ついさっき、突然だよ。
地面で動いている物に気がついて、何だろうと思って目を凝らしたら、いきなりよく見えるようになったの。野ウサギだったんだけどね。
そうしたら、もう見え方が元に戻らなくなって、気持ち悪くなったんだ』
『それで高く飛ぼうとしたわけか』
『うん、でももう馴れてきたから、降りてみるね』
カー君は元どおりに、地上百メートルまで高度を落とした。
彼も視力の使い方を会得したらしく、何も問題は起きなかった。
『ねえ、シルヴィア。これが黒の魔石の効果なのかな?』
『多分ね。あたしたち、これまでずっと伝令任務ばかりだったじゃない。
でもこの能力があれば、偵察任務にもつけるはず。今よりもっと、役に立てるようになるのよ!』
『今よりもっと、大変になる――の間違いじゃないの?
だけどさ、魔石の効果が分かったんだから、もう赤龍に会いに行かなくていいんじゃない?』
『そうはいかないわ。これがすべてとは限らないもの』
* *
赤城の中庭に着陸したのは、まだ明るいうちだった。
駆け寄ってきた衛兵は、偶然にもトルゴル作戦の時に世話になった分隊だった。
今回は急ぎの飛行ではないので、途中で十分な休憩も取ったし、凍えるような気温でもない。
カー君の背中から滑り降りると、マコーミック伍長が抱きとめてくれた。
「ありがとう伍長、元気そうで何よりだわ」
「少尉殿こそ……おや、中尉に昇進されたのですか?
これはおめでとうございます」
シルヴィアの真新しい衿章を見た伍長が、嬉しそうに笑いかけた。
彼女はトルゴル作戦の終了後、コルドラ山脈越えという困難な任務をこなした功績で、中尉に昇進していたのだ。
国家召喚士で少尉というのは、地位と不釣り合いに低い階級だったので、名目は何でもよかったのだろう。
召喚士の彼女と違い、一般兵のマコーミックはよほどの奇跡でもない限り、士官にはなれない。
むしろ、伍長という下士官になれただけでも出世した方である。
その彼が、娘ほどの年齢のシルヴィアの中尉昇進を、素直に喜んでくれるのだ。
「さっそくだけど、リディア様(赤龍帝)にご挨拶はできるかしら?」
「それが、残念ながら……」
伍長は済まなさそうに頭を搔いた。
「姫さまは、昨日から出かけられているのです。
現在、我が第三軍が南部街道に出兵していることはご存じですか?」
「ええ、何でもナフ国がオアシスにちょっかいを出してきたとか……」
ナフ国とは、ナサル首長国連邦を構成する国のひとつだが、この十数年で急激に勢力を伸長していた。
そして近年は、盟友のルカ大公国に圧力を加え、衝突を繰り返していた。
そして今年に入ってから、大公国につながる街道の中継基地となる、オアシスへの侵攻を開始したのだ。
南部街道は重要な通商路であるため、黙って見過ごすことはできない。
王国南部を管轄する第三軍は、大隊規模の兵力をオアシスに派遣し、その防衛に当たっていた。
それから三か月が経過したので、交替の部隊が送り込まれた。
第三軍の総指揮官であるリディアは、多くの戦果を挙げた帰還部隊を出迎えるため、国境まで赴いていた。
そして部隊とともに凱旋し、市民の歓迎を受ける予定だったのだ。
「ですから、姫さまのお帰りは三日後になります」
シルヴィアは軽い溜息をついた。
王国を分割統治する四帝は、極めて高度な自治権を持っている。
この程度の動きは、いちいち参謀本部に通知しないから、これは運が悪かったとしか言えない。
シルヴィアは取りあえず、留守を預かる赤龍帝の副官に面会し、来意を説明した上で城を辞した。
副官は赤城内に滞在するよう勧めてくれたが、赤龍帝の許可もなく城内に滞在するのは憚られた。
そのため彼女はこの誘いを固辞し、市内の宿屋に投宿することになった。
宿泊費は後で会計課に請求すれば清算してもらえるが、公費であるから高級宿には泊まれない。
シルヴィアは世慣れたマコーミック伍長に相談し、適当な宿を紹介してもらった。
長時間飛行で疲れていたシルヴィアは、食事を済ませるとシャワーも浴びずに爆睡した。
思わぬ休日となった翌日は、元気いっぱいで観光とショッピングにいそしんだ。
赤城市はサラーム教文化が色濃く残るエキゾチックな街で、シルヴィアはカー君と一緒に、子どものようにはしゃぎまくった。
* *
かくして、あっという間に三日目となった。
ベッドの脇で寝そべっていたカー君は、まだ暗いうちに目を覚ました。
軽い伸びとともに大きな欠伸をすると、シルヴィアの寝顔を覗き込む。
今日は朝一番で赤城に登城し、赤龍帝の帰還を出迎えなければならない。
昨夜のうちに宿の清算は済ませてあるから、できるだけ早く身支度を済ませて出なければならない。
軽い鼾をかいて、幸せそうな寝顔を見せているシルヴィアに、カー君は深い溜息をついた。
シルヴィアの寝起きの悪さは折り紙つきなのだ。
下宿先のファン・パッセル家であれば、メイドさんが彼女を起こしてくれる。
同家では〝シルヴィア番〟が決まっていて、メイドの中でもとびきり腕っぷしの強いおばちゃんが担当となるのだ。
彼女を起こす手順は決まっている。
① 「朝ですよ、起きてください」と優しく声をかける。
② 肩を揺すり、耳元で大声を出す。
③ 毛布を引っぱがす。
④ 寝巻を下げて尻を出し、平手で叩く。
もちろん、①~③でシルヴィアが起きることはなく、最終手段が取られるのが常である。
彼女は日ごろから鍛えているので、身体は筋肉質でほとんど贅肉がない。
ただし、豊満な乳房と安産型の大きなお尻にだけは、たっぷりと脂肪がついている。
メイドさんはその丸くて白いお尻を〝パァーーン!〟と小気味いい音を立てて引っ叩くのだ。
一発で起きればよいのだが、大抵は渾身の平手を二、三発喰らい、真っ赤な手形をもらうことになる。
それは、普段からお世話をしているメイドだからこそ、許されることだった。
さすがに宿の従業員に、シルヴィアの生尻を見せるわけにはいかない。
今この時、彼女を起こす任務は、カー君に委ねられているのだ。
彼は自分の前足を見て、再び溜息をついた。
短いが頑丈な鈎爪と固い肉球のあるこの前足では、メイドさんのような見事な平手打ちを再現できないだろう。
『ああ、僕が人間だったら、ちゃんとシルヴィアを起こしてあげられるのに!
お尻を齧ったら、やっぱり怒るよなぁ……。歯形が残るし、血だって出るかもだし。
でも、起こさないと遅刻しちゃうし……」
* *
シルヴィアは、魔導院で十二年間の長きにわたり、首席を譲らなかった才女である。
それは勉学だけではなく、軍事教練でも同様であった。
教練の主体は、剣術、槍術、弓術、格闘術といった武術である。
もちろん、軍に入隊後も、実戦経験豊富な教官を相手とした、鍛錬を欠かしたことはない。
武術も達人の域に達すると、〝殺気〟を察知することができる。
それは眠っている時でも同様で、むしろ眠っている時ほど、身体は自然に反応するものである。
今朝のシルヴィアが、まさにその状態であった。
彼女は殺気を感じた瞬間、伸びてきた何者かの手首を取って関節を極めた。
同時に右手が枕の下に潜り込み、ユニのナガサを引き抜いていた。
関節を極めた左手を引っ張り込むと、身体をベッドの上で回転させ、長い脚を相手の身体にからませる。
この時には、シルヴィアの意識は完全に覚醒していた。
誰かに寝込みを襲われたのは明らかである。
彼女は寝巻のまま、ベッドの上に押さえつけた人物の背に馬乗りとなった。
部屋は暗くて不審者の顔は見えないが、相手が素っ裸だということは分かった。
物盗りではなく、強姦目的か、あるいはその両方か……。シルヴィアの頭が怒りで熱く燃えた。
部屋の鍵は内側からかけてある。窓も閉まったままだ。
一体どこから侵入した? 第一、カー君は何をやっているのだ?
「カー君、どこなの!?」
シルヴィアは押し殺した声を出したが、頭の中に返事は返ってこない。
その代わりに、押さえつけた犯人が、苦しそうな呻き声を上げた。
シルヴィアは左手首をねじり上げたまま、ナガサを相手の首筋に突きつけた。
「下手に動くと頸動脈を断ち切るぞ!
言え! 何者だ!?」