五 最初の試練
南カシルの見物は楽しくもあったが、良いことばかりではなかった。
馬車で市街を回っているうちはよかったが、徒歩で下町の目抜き通りを歩き始めると、エイナが疑ったようにシルヴィアが夢中になってしまったのだ。
南カシルは貿易の街であるから、北の帝国、西のケルトニア、南のサラーム教諸国や東沿岸諸国、さらには遥か南方の黒人国家群からも物資が流入していた。
初めて見る異国情緒たっぷりの衣装、華麗な装飾品やかわいい雑貨、物珍しい食材までもが店先に並べられ、大通りは人で溢れかえっていた。
シルヴィアは一軒ごとに呼び込みに捕まって、ほいほいと店の中に付いていってしまう。
店員に商品の説明を求めたり、気に入った服は試着をし、「お似合いです」と散々褒めちぎられていい気になり、挙句の果てに値段交渉まで行った。
結局は買わないのにいい度胸であるが、彼女は実に楽しそうで生き生きとしていた。
エイナには、とてもそんな勇気はない。
どちらかと言えば、路上の屋台から漂ってくる美味しそうな匂いに気を取られ、それはカー君も同意見のようだった。主人から完全に忘れられたカーバンクルはエイナに抱かれていたのだ。
しかし、買い食いに軍の経費を使うわけにはいかない。根が倹約家のエイナは、ただひたすらシルヴィアの後を付いていくしかなったのである。
結局、この日は陽が落ちるまでシルヴィアに引きずり回され、暗くなってから慌てて辻馬車を拾って宿に帰る羽目になった。
まだ興奮覚めやらぬ彼女は、馬車の中でも、あれが欲しかった、次に来た時は絶対に買う! と騒いでいた。
気がついてみれば、二人は昼食を食べることすら忘れていたのだ。
「ねえ、シルヴィア。カー君にご飯をあげなくていいの?
――っていうか、あたしこの子が食事をしているのを見たことがないんだけど、普段は何を食べさせているの?」
「ああ、カー君だったら食べなくて平気なの。たまにお水は飲むけどね」
「えっ? 食べなかったら死んじゃうじゃない!」
「忘れたの? 見た目は獣だけど、この子は精霊族なのよ。
精霊は何かを食べたりしないわ」
「でも動いている以上、何らかのエネルギーは必要なんじゃないの?」
「そりゃそうよ。
精霊族はね、あらゆる生物の精気を吸って生きているの」
「精気?」
「う~ん、実を言うとあたしもよく分かってないんだけど、カー君は周りにいる生き物から、ちょっとずつ元気を吸収しているって言えばいいのかしら?
だから精霊族は生命の豊かな場所、森とか海とかで暮らすことが多いんだって。
逆に砂漠とか雪山なんかだと、生き物が少ないから動きが鈍くなっちゃうそうよ。
まぁ、カー君の場合はあたしが側にいるから、どこだろうと平気なんだけど」
「シルヴィアは精気を吸われても平気なの?」
「全然。精霊はそもそも生物の活動に影響が出るような吸収の仕方はしないし、あたしは特に元気だから、カー君にとってはご馳走なんだって」
* *
翌日(八月五日)、エイナとシルヴィアは辻馬車を拾って南カシルの外洋港へと出かけた。
港は市街南側の外れに位置している。
もとはマールと呼ばれる円形の火口跡に水が溜まった湖だったが、それが海とつながって天然の良港になった――というのが、辻馬車の御者の説明だった。
外洋船は川船とは比べ物にならないほど大型だったから、港や桟橋の規模は大きく、周囲には壮大な倉庫群が建ち並んでいた。
エイナたちにとっては、当然初めて見る光景であった。
特に港に停泊している外洋船は、近くから見上げると圧倒的な迫力があった。
海に浮いている部分だけで、二階建ての建物より遥かに高く、滑らかな舷側は絶壁のように見えた。
二人は口をぽかんと開け、呆気に取られて見入っていた。
一体この巨大な船に何百人の人が乗り込み、どれだけの量の貨物が積まれているのか、想像すらできなかった。
傍らに停泊している船は、もう乗客がすべて降りてしまったのか、今は荷物を揚げ下ろしする沖仲仕(港湾労働者)だけが忙しく働いていた。
シルヴィアは沖仲仕たちを監督している男を見つけ、近寄って声をかけてみた。
「あの、すみません。
私たち、七日に到着するケルトニア船に乗ってくる人を迎えにきたのですが、どの桟橋に着くのか教えていただけませんか?」
男は監督作業に飽きていたのか、快く会話に応じてくれた。
「ああ、それならちょうどあんたたちの目の前だよ。
ケルトニア船はまだ便数が少ないから、ここ一本で用が足りるんだ。
あっちに見える桟橋は、みんな東沿岸諸国の船用だね」
「そうでしたか……。
なるほど、この船が出航した後に、私たちが待っている船が入ってくるわけね」
シルヴィアが〝ふむふむ〟とうなずいていると、男は少し驚いた顔をした。
「お嬢ちゃんたち、何か勘違いしとりゃせんか?
あんたたちの目の前に停泊しているのが、そのケルトニア船だよ」
今度は二人が驚く番だった。
「えっ、でも着くのは七日だって聞いていましたけど」
男はおかしそうに吹き出した。
「そいつはあくまで予定だだろう?
船なんざ、風や波の具合で遅れもすれば、早く着くこともある。ましてやケルトニア船は三千キロの彼方からやってくるんだ。到着予定日は単なる目安に過ぎないさ。
今回はよほど風に恵まれたんだろうな、こいつは昨日着いたばかりだよ」
「じゃあ、乗客は?」
「とっくに降りとるに決まっているだろう」
「ああああ、あたしたち、ケルトニアから乗船してきたケネス・フォレスター大尉という方を迎えに来たんです!
どちらに行かれたか、ご存じありませんか?」
エイナが泡を食って訊ねたが、男は困惑するばかりだった。
「そう言われてもなぁ、俺は入国審査官じゃないし……。
第一、船の乗客がどこへ行くかなんぞ、港じゃいちいち詮索せんのだよ。
昨日の今日だ。そのまま川船に乗っていない限り、まだ南カシルにおるんじゃないのかい?」
「どっ、どうしようシルヴィア!」
「あっ、あたしに分かるわけないじゃない。とにかく探しましょう!」
船が予定どおりに着くとは限らない。
――それは二人も承知していた。
ただ、彼女たちの船に関する知識は、もっぱら川船に限られていた。
ボルゾ川を行き来する貨客船は、比較的運航予定に狂いが少なく、予定日からずれてもせいぜい一日程度だった。
エイナたちは南カシルに着いた時点で、何をさておいても外洋港を訪れ、状況を確認しなければならなかったのだ。
もちろん、外洋船と港の間に通信手段などないが、港には他の船から海の荒れや風向きについての情報が集まってくる。
経験を積んだ者なら、ある程度は到着が早まるか、遅れそうかの予測ができていたはずである。
『フォレスター大尉を探さなくてはならない!』
直情的なシルヴィアは、その思いで頭がいっぱいになった。彼女は街に向けて走り出そうとしたが、足を一歩踏み出しただけで固まってしまった。
探そうにも当てがないのである。
「そうだ! こんな時ユニさんなら、オオカミたちに追跡させたはずだわ。
カー君、あんたフォレスター大尉の匂いを追えない?」
カーバンクルは足元を横切っていたカニの臭いを嗅いでいるところだった。
小さな精霊は迷惑そうに顔を上げた。
『僕、犬じゃない……。でもまぁ、確かに君たち人間よりは鼻が利くけどね。
シルヴィアの頼みなら、やってもいいよ』
「やったわ! じゃあ、さっそくお願い」
『それで、そのケルトニアの魔導士の匂いはどれ?』
「え?」
『え、じゃないよ。どんな匂いか分からなきゃ、いくら精霊だって跡を追えるはずがないでしょ?』
シルヴィアはその場にしゃがみ込んで頭を抱えてしまった。
「くっ……万策尽きたわ!」
エイナは呆れたように溜め息をつき、シルヴィアの襟を掴んで引っ張り上げた。
「シルヴィア、そういう言葉はあと最低三つくらい策を出してから言ってちょうだい。
冷静に考えましょう。相手は国同士の約定で派遣された人物よ。
当然、王国側から迎えがあることも、船が予定より早く着いたことも承知しているはずだわ。
だったら、あたしたちと連絡がつくよう、何らかのメッセージを残していると思わない? 入国者は全員審査を受けるから、審査事務所には名簿もあるはずよ。
伝言を託すなら、きっとそこじゃないかしら」
「そうか……そうよね! よし、行くわよエイナ!」
前向きなシルヴィアは立ち直りが早い。カー君を抱えてさっさと歩き出した。
シルヴィアは入国審査事務所がどこにあるか、知っているのだろうか? エイナは再び盛大な溜め息をつくと、にやにやしている沖仲仕の監督に事務所の場所を訊ねた。
「お嬢ちゃんたち、面白いなぁ」
男は笑いながら反故紙を出して、簡単な地図を書いてくれた。
数歩先で立ち止まっているシルヴィアに追いつくと、彼女はエイナから地図をひったくった。
「遅いわよ、エイナ!」
彼女はそう言うと、振り返らずにずんすんと歩き始めた。きっと赤面した顔を見られたくなかったのだろう。
* *
入国審査事務所と言っても、柵門の傍らに設けられたみすぼらしい小屋に過ぎなかった。
エイナたちが港に入る時、小屋の窓から男が顔を出して「どこへ行くんだい?」と訊ねられたが、彼女たちは門衛の詰所だと思っていた。
この日、二人は軍服を着用していたし、手ぶらだったので「出迎えの下見です」と言うと、すんなり通してくれたのだ。
今は乗降者が途切れているので、中にいた三人の職員は暇そうにしていた。
エイナたちが改めて身分と用件を伝えると、彼らは快く名簿を調べてくれた。
やけに親切なのは、彼女たちが若い娘だったからに違いない。
「ああ、あったあった。ケネス・フォレスター大尉だね。
確かに昨日の午後に入国しているな」
「彼は何か伝言を残していきませんでしたか?」
シルヴィアが勢い込んで訊ねた。
背が高い金髪の美女に間近に迫られた男は、とまどいながらも少し嬉しそうだった。
「いや、摘要欄には特に書かれていないね。
おいエド、この筆跡はお前のだよな。何か覚えているか?」
エドと呼ばれた若い男は名簿を覗き込み、首を捻っていたが、しばらくして思い出したようだった。
「ああ、何だか図体のいいおっさんだったなぁ。
……うん、確か『この街で遊ぶには、どこに行けばいい?』って訊いてたっけ。
多分、船が早く着いたから、その分羽を伸ばすつもりだったんじゃないかな」
「それで、どうお答えになったのですか?」
今度はエイナが丁重に訊ねた。
「とりあえず浜通りの街道沿いなら、いくらでもそういう店があるって教えてやったよ。
それ以外、伝言めいたものはなかったね」
「そうですか……ありがとうございます。
もう一つ、フォレスター大尉の人相風体を教えていただけますか?」
エドは思い出そうと努力をしたようだったが、すぐに諦めて首を振った。
「駄目だ、短い時間で百人以上を相手にするからね。いちいち顔までは覚えていないよ。
さっきも言ったが、体格はかなりよかったと思うよ。服の色は覚えていないなぁ。あ、でも軍服は着ていなかったよ。
年齢は四十代くらいだったかな。髭は生やしていなかった……と思う。
思い出せるのはこのくらいだよ」
これ以上、ここでは情報が得られそうになかった。二人は彼らに礼を言って外に出た。
「相手は浜通りで遊んでいるって分かっただけでも、大きな収穫だったじゃない?
まったく! せっかくの出迎えに伝言も残さずに遊びに行くなんて、外交欠礼にも程があるわ。
あの目抜き通りを片っ端から探していけば、すぐに見つかるわよ」
シルヴィアは自分の手柄であるように胸を張った。
一方のエイナは背を丸めて溜め息をついた。
「ええ、昨日だったらそうでしょうね。でも、今日も遊んでいるかの保証はないわ。
大尉の顔もよくわからない上に、軍服も着ていなかったそうじゃない。
第一、浜通りの街道って、飲み屋と娼館だらけだったでしょ。何百件その手の店があったか覚えてる? 一軒ずつ回っていたら、何日かかることか……。
ねえ、それより辻馬車の馬丁さんたちに訊いてみましょうよ。大尉はきっと馬車を拾ったに違いないわ」
二人は一縷の希望を胸に、港にある辻馬車の溜まり場に足を向けた。
どの道、馬車を雇って浜通りに戻らねばならないことだけは確かだったのだ。
やがて馬車の溜まり場が見えてきた。
今は暇な時間らしく、馬丁たちがカード遊びで賭け事に興じている。
二人は彼らに「昨日、フォレスター大尉という、ケルトニア人を乗せなかったでしょうか?」と訊ね回った。
だが、分かっているのが名前と体格のよい中年男というだけでは、一日に何人もの客を乗せている彼らが思い出せるはずがない。
馬車に乗せるのに、いちいち名前を聞く馬丁はいないだろう。
エイナたちは諦め、一台の馬車を雇って浜通りに向かうよう伝え、馬車に乗り込んだ。
揺れる馬車の中で、エイナはどんよりとした表情を隠そうとしなかった。
「エイナ、悲観的なのは悪い癖よ。きっとどうにかなるわよ」
「そうね、あんたみたいに楽観的になれたら、きっと世の中が楽しいと思えるでしょうね。
カー君の見解は訊いてみたの? 精霊って人間より知恵があるんじゃないかしら」
「あらそうね。忘れてたわ」
エイナは皮肉のつもりで言ったのだが、シルヴィアには通じなかったようだ。
「ねえ、カー君。大尉を探すにはどうしたらいいと思う?」
『んー? シルヴィア困ってるの?』
「そうよ」
『なら、僕の一族に伝わるありがたい格言を教えてあげる。
〝教えて、えろい人〟
これでたいていは解決』
「えろい人? 偉い人の間違いじゃないの」
『そうとも言う』
シルヴィアはカー君の言葉が聞こえないエイナのために通訳をした。
「偉い人に教えてもらえ――だって」
「適切なアドバイスだわ」
エイナは苦笑いを浮かべた。
やがて馬車は南カシルの街中に入った。
街はずれから中心部に向かうにつれ、街道の左右に店が増えてくる。
まだ午前中だというのに、開いている店から酔っぱらった男たちの笑い声が聞こえてくる。人通りもかなり増えてきた。
エイナはいつの間にか黙り込んでいた。うつむいて何かを考えているようだった。
「どうかしたの?」
シルヴィアが声をかけても、彼女は集中して聞こえていないようだった。
「偉い人に教えてもらえ……か」
「エイナ?」
いきなりエイナが顔を上げた。その表情が明るくなっている。
「そうよ! 偉い人に教えてもらえばいいんだわ!」




