三十四 絶対零度
マグス大佐は足早に後退しながらも、エイナから目を離さなかった。
小柄な彼女の両脇に歩兵がぴたりと寄り添い、腕を取って後ろを向いている彼女をサポートする。
普段の大佐なら、こうした手助けを〝弱者扱い〟だと酷く嫌っていたが、この時はされるままだった。
後方の本隊とはそう離れていたわけではないので、すぐに合流できた。
イアコフは大隊長として陣形の指示を出すとともに、魔導士たちを自分の周りに集合させた。
「これだけ……なのか!」
イアコフは思わず呻いた。
集まってきた魔導士は、六名だけだったのだ。
イアコフの大隊には、彼自身を除いて十二人の魔導士が配属されている。
騎馬隊に一人付けたので(その魔導士がすでに殺害されていることを、イアコフはまだ知らない)、四人がオオカミに殺されたということだ。
戦力の中核となる魔導士のうち三分の一を失ったのでは、再編成が必至となる大打撃である。
イアコフはこちらに背中を向けているマグス大佐に、気の重い状況報告をしようとした。
その瞬間、マグス大佐は振り返り、戦場を圧する大声で怒鳴った。
「総員退避ーーーーっ!」
* *
マグス大佐は、エイナだけを注視していた。
そのすぐ側に立って、派手に魔法を撃ち合っている金髪の女には、まったく注意を払わなかった。
大佐の背後からは、イアコフが部下の魔導士を呼び寄せている声が聞こえてくる。
即応機動大隊に招集されるような魔導士は、経験と実力を兼ね備えた猛者ばかりである。
彼らはもう、それぞれが得意な呪文の詠唱を終えているはずだ。
陣形が整い次第、号令一下で魔法の飽和攻撃が始まり、勝負は決する。
エイナが大魔法を撃とうとも、防御担当の魔導士が結界を張るか、迎撃魔法で撃ち落すかするだろう。
そのエイナが、突然に動いた。
腰を引いて軍服のズボンを脱いだように見えたのだ。
マグス大佐は眉根を寄せ、よく確認しようと目を細めたが、ハッとして背筋を伸ばした。
『あれは見たことがある!』
昨年のリスト王国公式訪問で、謎の襲撃(カメリア少将による茶番)を受けた、石切場でのことだ。
エイナが強力な凍結魔法を撃った時、今と同じように下半身を露出したのだ。
大佐は、それが強力で広範囲であっても、凍結魔法であることには変わりないと思っていた。
だが、後に王国からの脱出に成功し、帰国したカメリアの報告によって、大量の大気が液状化して、地下に流れ込んできたことが報告された。
ただの凍結魔法で、そのような現象が起きるわけがない。
帝国の専門機関である高度魔法研究所は、絶対零度かそれに極めて近い魔法だと分析した。
それは理論上可能であっても、実現は不可能とされていた魔法だった。
人間の身体が、膨大な魔力の負荷に耐えられないからだ。
戦場で鍛え抜かれたマグス大佐の勘が、非常警報を鳴らした。
彼女は総員退避の絶叫に続き、矢継ぎ早に命令を下した。
「全速で塹壕に飛び込め!
そのまま連絡路で第三壕まで避難!!
絶対に頭を上げるな! 振り返るな!!」
「魔導士どもは殿軍を務めよ!
背後にファイアウォールを多重展開!!」
イアコフの部下たちが混乱を起こさず、直ちに指示に従ったのはさすがだった。
塹壕には、オオカミに噛み殺された守備兵が横たわっていたが、彼らは顔色ひとつ変えずに死体を踏みつけた。
第三塹壕に通じる連絡路の前では渋滞が起きたが、入口脇に下士官が立ち、十名が駆け込むたびに後続を止め、少し間を開けてから次の十名を通していった。
こうしたケースでは、恐慌を起こして将棋倒しになるのが一番怖い。
経験豊富な下士官たちは、それをよく心得ていたのだ。
次々に塹壕に飛び込んでいく歩兵たちを横目に、マグス大佐が真っ先にファイアウォールを発動させた。
彼女の後方からは、バキバキという不気味な音を響かせながら、巨大な水蒸気の塊りが迫ってくる。
それを遮るように、巨大な炎の壁が出現したのだ。
それは熟練した魔導士たちですら、見たことのない規模だった。
炎は凄まじい高さに燃え上がり、その場に立ち続けるのが困難なほどの輻射熱が襲ってくる。
マグス大佐は、イアコフと魔導士たちを急かして、自分たちも塹壕に飛び込んだ。
その間に、イアコフが第二のファイアウォールを出現させた。
マグス大佐ほどではないが、その炎も大きく、何より短時間での発動だった。
「イアコフ! お前の隊に風魔法を使える奴はいるか!?」
つかえている歩兵の尻を蹴とばしながら、大佐が喚いた。
「残念ながらおりません! あっ、でも自分はもちろん使えますよ」
「それを早く言え、馬鹿者!
炎の壁は他の連中に任せて、お前は向かい風を吹かせろ、急げ!!」
彼女が風を要求したのは、敵側から強風が襲ってきたからだ。
大佐が発生させた炎の壁は風で大きく靡き、さっきまで立っていた地表に、ばらばらと雨が降ってきて、白い蒸気を上げた。
塹壕の前に積み上げた土嚢にも雨は当たり、分厚い麻の袋にぼつぼつと穴を開けていく。
「魔導士ども、何をしている! 詠唱を急げ!
あの雨に当たったら死ぬぞ!!」
イアコフが風魔法の準備のため、せっかく発生させた炎の壁を消したので、一枚となった炎の壁を跳び越して、液体窒素の雨がどんどん吹きつけてくる。
それは塹壕の中まで飛び込んできて、運悪く露出した肌に当たった者の悲鳴が、あちこちから上がった。
ようやく呪文詠唱を終えたイアコフ隊の魔導士が、炎の壁の多重展開を始めた。
わずかに遅れてイアコフの風魔法も発動し、壕内への雨がようやく止んだ。
後方連絡用の縦壕へ、歩兵の移動が終わったのを確認すると、大佐たちもその後に続いた。
細い通路は渋滞していて、じりじりするほど進まない。
だがそれは、避難兵の間隔が詰まるのを、下士官たちが鬼の形相で許さなかったからだ。
最後尾の大佐たちは、何度も後方を振り返った。
敵魔導士の魔力放出はまだ続いているらしく、その証拠に真っ白な死の世界はゆっくりと広がり、迫ってくる。
次々に出現する炎の壁は、あっという間に消されていき、ひとつの壁が稼げる時間は五秒に満たなかった。
「貴様、もっと強い風を起こせんのか!?
こっちが押されているぞ!!」
マグス大佐が腹を立てて、イアコフの脛を軍靴で蹴った。
「痛てて、無茶言わないでください。
相手も万能型のようですが、恐らく基調が風系魔導士なんですよ。
自分にはこれが精一杯です」
マグス大佐は怒ったが、イアコフの対抗魔法はそれなりの効果を示していた。
大佐も参加するファイアウォールが、ぎりぎりで冷気を防いでいたのも、帝国兵の命を救った。
大佐は炎の壁への魔力供給を続けながら、エイナの化け物じみた魔力量に舌を巻いていた。
これだけの超絶魔法を、あの女は数十秒も持続させていたのだ。
こんな馬鹿げた魔力量に、人間の肉体が耐えられるわけがない。
マグス大佐の爆裂魔法も、同じ理由で実現不可能と見做されていた。
彼女はその課題を解決するために、七つの魔法陣を体外に出現させ、それぞれに大量の魔力を封入する方法を編み出した。
最終的に魔法陣の魔力を連動させ、途方もない威力の巨大魔法を実現させるのだ。
そういえば、エイナがズボンを下ろすような仕草をした後に、彼女の身体は光ってよく見えなくなったな……。
大佐は自らの記憶を反芻していた。
魔力の放出に発光現象を伴うのは、別に珍しいことではない。
だが、あの輝きで目が眩む一瞬、魔法陣らしきものが見えたのは、気のせいだったのだろうか?
大佐は視力がよくないので自信はないが、そうだとすれば、この巨大魔法にもある程度の説明がつく。
だが、空中に魔法陣を実体化させる技術は、彼女が血を吐くような努力を続け、数年がかりで会得したものである。
現在に至るまで、爆裂魔法を成功させた人物が、大佐以外に二人しか現れていないのが、その困難さを証明している。
二十歳そこそこの小便臭い小娘にそれができるとは、とても信じられなかった。
「大佐殿、第三塹壕です」
耳元でイアコフの甘い声がささやき、彼女は物思いから我に返った。
塹壕両翼に展開した歩兵たちは、すでに協力して土壁をよじ登り、安全な後方に向けて避難を開始していた。
これだけ距離(第二塹壕とは二百メートル近く離れている)なら、速度の遅い冷気の浸食に追いつかれる恐れはない。
だからといって、体制を立て直して反撃に転ずるのは不可能だった。
後方に広がる真っ白な氷原は、いまだに絶対零度に近い、凄まじい極低温を保持している。
そこに近づくのは、文字どおり自殺行為である。
もとの状態に戻るには、最低でも三、四時間は必要だろう。
それまで敵魔導士が、大人しく待っていてくれるはずがない。
ユニとオオカミの介入がなければ、帝国側は戦力差で圧倒していたのである。
敵が撤退するのは自明の理であった。
塹壕から脱出したマグス大佐は、もう誰もいなくなった第三塹壕を振り返った。
こちらでも、オオカミに急襲された守備兵の死骸が散らばっていた。
結局、今回の戦いで最大の被害を受けたのは、南部方面軍だったのだ。
イアコフの大隊の死者は二十名ほどで、その程度の損害は西部戦線なら珍しくない。
問題は戦力の中核となる、魔導士の犠牲が大きかったことだ。
それもこれも、あの忌々しいユニとオオカミのせいだ。
逆にいえば、王国魔導士の攻撃による死者は皆無であり、彼らが差し迫った脅威ではないということも判明した(エイナは別問題だ)。
今回の敵の動きは、ケルトニアにとっては魔導士部隊の運用実験であり、リスト王国は自国魔導士の経験値上げを意図したのだろう。
だからこそ、南部方面という楽な戦場を選んだのであって、帝国側の即応機動大隊投入は、想定外の事態であったに違いない。
即応機動大隊は、単に魔導士が多いという単純なものではない。
さまざまな兵科が有機的な連係を持つことにより、規模に数倍する突破力と機動力を実現し、なおかつ長期の単独行動を可能とするのが特徴である。
ケルトニア、ましてや王国がこのノウハウを会得するまでは、まだ十年以上の月日が必要だろう。
王国の魔導士に対する評価は、まだまだ経験不足と断定せざるを得ない。
戦場で使い物になるまでには、ケルトニア以上に時間がかかりそうだった。
ただし、エイナという化け物に関しては、これまで以上の情報収集が必要となろう。
マグス大佐はそのように判断し、イアコフの大隊は西部戦線に戻すことを決意した。
彼の大隊は思わぬ貧乏くじを引いた格好だが、まだ若いイアコフには、いい勉強になったことだろう。
南部方面軍の無能な司令官(スチュワート中将)が、どういう目的でトルゴルへの浸透を命じたのかは、フランツ中尉への聞き取りで、おおよそ把握できた。
大佐には興味のないことであったが、中央の将官の弱味を握ったことは収獲である。
マグス大佐自身も帝都に戻り、この事件を報告する必要があった。
恐らく帰還して数日以内に、皇帝陛下から夕食の誘いがあるだろう。
そして陛下とレイア妃は、彼女の話を大いに面白がるに違いない。
イアコフに促され、用意された馬に跨った彼女は、もう一度後方を振り返った。
真っ白な氷原の向こうには、もう人影は見当たらなかった。
「ユニの山刀、拾っておけばよかったな……」
「何かおっしゃいましたか?」
同じく馬に跨ったイアコフが、怪訝そうな顔で訊ねた。
「いや、独り言だ。気にするな」
マグス大佐は低い声でつぶやくと、馬の腹を軽く蹴った。
* *
しばらくの間、魔力放出を続けたのち、エイナは魔法を解除した。
魔力切れを起こしそうになったのだ。
彼女は膝まで降ろしていたズボンをそそくさと引き上げ、傍らのノーマに声をかけた。
「もう魔法を解除していいぞ。それと、こっちを向くのも許可する」
「何ですか、あの魔法は! ただの凍結魔法じゃないですよね!?
雲もないのに、地表近くで雨が降るって、どういうことですか!!」
ノーマは堰を切ったように、エイナに質問を浴びせかけてきた。
だが、エイナは何も答えない。
今回の魔法は、これまでより威力が格段に増していた。
それなのに、身体への負担はずっと軽かったのだ。
絶対零度魔法を使うと、内臓を手で絞られるようにきりきりして、同時にずしんと重い痛み襲ってくる。
まるで生理が一番重い時の感じである。
魔力貯蔵庫である子宮から、直に魔力を放出するだから、それは仕方のないことだ――彼女はそう諦めていた。
それが今回は、『ちょと鈍い痛みを感じるかな?』と首を傾げる程度であった。
そして、下腹部に浮き出た魔法陣と、そこから分離して宙を浮遊したもうひとつの魔法陣。
どちらも初めての現象である。
『何が違ったのだろう?』
彼女は自問していた。
仲間の命を救うため、必死であったことは間違いない。
呪文の構文に変化はない。むしろ、集中力は乱れていた方だ。
目の前で見たユニとライガの消滅。
そして、群れのオオカミたちとの別れ、ユニの伝言。
いずれもエイナの感情を激しく揺さぶり、特に母に関する情報は、彼女を動揺させた。
精神状態はぼろぼろで、感情が身体を突き破りそうな感じだった。
魔法の呪文を詠唱する時には、集中力が重要だ。
それは、魔導院で最初に教えられる、魔法の基本である。
感情を乱さず、ただひたすら魔法に集中しなければ、高度な魔法ほど失敗するものだ。
「小隊長殿?」
ふと気がつくと、ノーマが心配そうな表情で、エイナの顔を覗き込んでいた。
「ああ、すまん。
魔力が枯渇しそうで、少しぼおっとしていた」
エイナは首を何度か振り、氷に覆われた荒れ地を見渡した。
帝国軍は塹壕に飛び込み、すでに第三塹壕まで撤退していた。
もう仲間のもとに戻るべきであった。
エイナはノーマの肩をぽんと叩いた。
「お前はよくやった。
詠唱時間を稼いでくれたのもそうだが、風魔法がなければ、私たちが真っ先に凍っていただろう。
何か褒美をやらないといけないな」
ノーマははじけるような笑顔で元気に答えた。
「では、あのシャツをください! 宝物にします」
エイナは堪らずに吹き出した。
「分かったわかった。だが、頼むから洗濯だけはしてくれよ」