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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第八章 トルゴルの藩王
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三十四 絶対零度

 マグス大佐は足早に後退しながらも、エイナから目を離さなかった。

 小柄な彼女の両脇に歩兵がぴたりと寄り添い、腕を取って後ろを向いている彼女をサポートする。

 普段の大佐なら、こうした手助けを〝弱者扱い〟だと酷く嫌っていたが、この時はされるままだった。


 後方の本隊とはそう離れていたわけではないので、すぐに合流できた。

 イアコフは大隊長として陣形の指示を出すとともに、魔導士たちを自分の周りに集合させた。


「これだけ……なのか!」


 イアコフは思わずうめいた。

 集まってきた魔導士は、六名だけだったのだ。


 イアコフの大隊には、彼自身を除いて十二人の魔導士が配属されている。

 騎馬隊に一人付けたので(その魔導士がすでに殺害されていることを、イアコフはまだ知らない)、四人がオオカミに殺されたということだ。


 戦力の中核となる魔導士のうち三分の一を失ったのでは、再編成が必至となる大打撃である。

 イアコフはこちらに背中を向けているマグス大佐に、気の重い状況報告をしようとした。


 その瞬間、マグス大佐は振り返り、戦場を圧する大声で怒鳴った。

「総員退避ーーーーっ!」


      *       *


 マグス大佐は、エイナだけを注視していた。

 そのすぐ側に立って、派手に魔法を撃ち合っている金髪の女には、まったく注意を払わなかった。

 大佐の背後からは、イアコフが部下の魔導士を呼び寄せている声が聞こえてくる。


 即応機動大隊に招集されるような魔導士は、経験と実力を兼ね備えた猛者ばかりである。

 彼らはもう、それぞれが得意な呪文の詠唱を終えているはずだ。

 陣形が整い次第、号令一下で魔法の飽和攻撃が始まり、勝負は決する。

 エイナが大魔法を撃とうとも、防御担当の魔導士が結界を張るか、迎撃魔法で撃ち落すかするだろう。


 そのエイナが、突然に動いた。

 腰を引いて軍服のズボンを脱いだように見えたのだ。

 マグス大佐は眉根を寄せ、よく確認しようと目を細めたが、ハッとして背筋を伸ばした。


『あれは見たことがある!』


 昨年のリスト王国公式訪問で、謎の襲撃(カメリア少将による茶番)を受けた、石切場でのことだ。

 エイナが強力な凍結魔法を撃った時、今と同じように下半身を露出したのだ。

 大佐は、それが強力で広範囲であっても、凍結魔法であることには変わりないと思っていた。


 だが、後に王国からの脱出に成功し、帰国したカメリアの報告によって、大量の大気が液状化して、地下に流れ込んできたことが報告された。

 ただの(・・・)凍結魔法で、そのような現象が起きるわけがない。


 帝国の専門機関である高度魔法研究所は、絶対零度かそれに極めて近い魔法だと分析した。

 それは理論上可能であっても、実現は不可能とされていた魔法だった。

 人間の身体が、膨大な魔力の負荷に耐えられないからだ。


 戦場で鍛え抜かれたマグス大佐の勘が、非常警報を鳴らした。

 彼女は総員退避の絶叫に続き、矢継ぎ早に命令を下した。


「全速で塹壕に飛び込め!

 そのまま連絡路で第三壕まで避難!!

 絶対に頭を上げるな! 振り返るな!!」

「魔導士どもは殿軍しんがりを務めよ!

 背後にファイアウォールを多重展開!!」


 イアコフの部下たちが混乱を起こさず、直ちに指示に従ったのはさすがだった。

 塹壕には、オオカミに噛み殺された守備兵が横たわっていたが、彼らは顔色ひとつ変えずに死体を踏みつけた。


 第三塹壕に通じる連絡路の前では渋滞が起きたが、入口脇に下士官が立ち、十名が駆け込むたびに後続を止め、少し間を開けてから次の十名を通していった。

 こうしたケースでは、恐慌を起こして将棋倒しになるのが一番怖い。

 経験豊富な下士官たちは、それをよく心得ていたのだ。


 次々に塹壕に飛び込んでいく歩兵たちを横目に、マグス大佐が真っ先にファイアウォールを発動させた。

 彼女の後方からは、バキバキという不気味な音を響かせながら、巨大な水蒸気の塊りが迫ってくる。


 それを遮るように、巨大な炎の壁が出現したのだ。

 それは熟練した魔導士たちですら、見たことのない規模だった。

 炎は凄まじい高さに燃え上がり、その場に立ち続けるのが困難なほどの輻射熱が襲ってくる。


 マグス大佐は、イアコフと魔導士たちをかして、自分たちも塹壕に飛び込んだ。

 その間に、イアコフが第二のファイアウォールを出現させた。

 マグス大佐ほどではないが、その炎も大きく、何より短時間での発動だった。


「イアコフ! お前の隊に風魔法を使える奴はいるか!?」

 つかえている歩兵の尻を蹴とばしながら、大佐がわめいた。


「残念ながらおりません! あっ、でも自分はもちろん使えますよ」

「それを早く言え、馬鹿者!

 炎の壁は他の連中に任せて、お前は向かい風を吹かせろ、急げ!!」

 

 彼女が風を要求したのは、敵側から強風が襲ってきたからだ。

 大佐が発生させた炎の壁は風で大きくなびき、さっきまで立っていた地表に、ばらばらと雨が降ってきて、白い蒸気を上げた。

 塹壕の前に積み上げた土嚢にも雨は当たり、分厚い麻の袋にぼつぼつと穴を開けていく。


「魔導士ども、何をしている! 詠唱を急げ!

 あの雨に当たったら死ぬぞ!!」


 イアコフが風魔法の準備のため、せっかく発生させた炎の壁を消したので、一枚となった炎の壁を跳び越して、液体窒素の雨がどんどん吹きつけてくる。

 それは塹壕の中まで飛び込んできて、運悪く露出した肌に当たった者の悲鳴が、あちこちから上がった。


 ようやく呪文詠唱を終えたイアコフ隊の魔導士が、炎の壁の多重展開を始めた。

 わずかに遅れてイアコフの風魔法も発動し、壕内への雨がようやく止んだ。


 後方連絡用の縦壕へ、歩兵の移動が終わったのを確認すると、大佐たちもその後に続いた。

 細い通路は渋滞していて、じりじりするほど進まない。

 だがそれは、避難兵の間隔が詰まるのを、下士官たちが鬼の形相で許さなかったからだ。


 最後尾の大佐たちは、何度も後方を振り返った。

 敵魔導士エイナのことの魔力放出はまだ続いているらしく、その証拠に真っ白な死の世界はゆっくりと広がり、迫ってくる。

 次々に出現する炎の壁は、あっという間に消されていき、ひとつの壁が稼げる時間は五秒に満たなかった。


「貴様、もっと強い風を起こせんのか!?

 こっちが押されているぞ!!」

 マグス大佐が腹を立てて、イアコフの脛を軍靴で蹴った。


てて、無茶言わないでください。

 相手も万能型のようですが、恐らく基調ベースが風系魔導士なんですよ。

 自分にはこれが精一杯です」


 マグス大佐は怒ったが、イアコフの対抗魔法はそれなりの効果を示していた。

 大佐も参加するファイアウォールが、ぎりぎりで冷気を防いでいたのも、帝国兵の命を救った。


 大佐は炎の壁への魔力供給を続けながら、エイナの化け物じみた魔力量に舌を巻いていた。

 これだけの超絶魔法を、あの女は数十秒も持続させていたのだ。

 こんな馬鹿げた魔力量に、人間の肉体が耐えられるわけがない。


 マグス大佐の爆裂魔法も、同じ理由で実現不可能と見做みなされていた。

 彼女はその課題を解決するために、七つの魔法陣を体外に出現させ、それぞれに大量の魔力を封入する方法を編み出した。

 最終的に魔法陣の魔力を連動させ、途方もない威力の巨大魔法を実現させるのだ。


 そういえば、エイナがズボンを下ろすような仕草をした後に、彼女の身体は光ってよく見えなくなったな……。

 大佐は自らの記憶を反芻はんすうしていた。


 魔力の放出に発光現象を伴うのは、別に珍しいことではない。

 だが、あの輝きで目がくらむ一瞬、魔法陣らしきものが見えたのは、気のせいだったのだろうか?

 大佐は視力がよくないので自信はないが、そうだとすれば、この巨大魔法にもある程度の説明がつく。


 だが、空中に魔法陣を実体化させる技術は、彼女が血を吐くような努力を続け、数年がかりで会得したものである。

 現在に至るまで、爆裂魔法を成功させた人物が、大佐以外に二人しか現れていないのが、その困難さを証明している。

 二十歳そこそこの小便臭い小娘にそれができるとは、とても信じられなかった。


「大佐殿、第三塹壕です」

 耳元でイアコフの甘い声がささやき、彼女は物思いから我に返った。


 塹壕両翼に展開した歩兵たちは、すでに協力して土壁をよじ登り、安全な後方に向けて避難を開始していた。

 これだけ距離(第二塹壕とは二百メートル近く離れている)なら、速度の遅い冷気の浸食に追いつかれる恐れはない。


 だからといって、体制を立て直して反撃に転ずるのは不可能だった。

 後方に広がる真っ白な氷原は、いまだに絶対零度に近い、凄まじい極低温を保持している。


 そこに近づくのは、文字どおり自殺行為である。

 もとの状態に戻るには、最低でも三、四時間は必要だろう。

 それまで敵魔導士が、大人しく待っていてくれるはずがない。

 ユニとオオカミの介入がなければ、帝国側は戦力差で圧倒していたのである。

 敵が撤退するのは自明の理であった。


 塹壕から脱出したマグス大佐は、もう誰もいなくなった第三塹壕を振り返った。

 こちらでも、オオカミに急襲された守備兵の死骸が散らばっていた。

 結局、今回の戦いで最大の被害を受けたのは、南部方面軍だったのだ。


 イアコフの大隊の死者は二十名ほどで、その程度の損害は西部戦線なら珍しくない。

 問題は戦力の中核となる、魔導士の犠牲が大きかったことだ。

 それもこれも、あの忌々しいユニとオオカミのせいだ。


 逆にいえば、王国魔導士の攻撃による死者は皆無であり、彼らが差し迫った脅威ではないということも判明した(エイナは別問題だ)。


 今回の敵の動きは、ケルトニアにとっては魔導士部隊の運用実験であり、リスト王国は自国魔導士の経験値上げを意図したのだろう。

 だからこそ、南部方面という楽な戦場を選んだのであって、帝国側の即応機動大隊投入は、想定外の事態であったに違いない。


 即応機動大隊は、単に魔導士が多いという単純なものではない。

 さまざまな兵科が有機的な連係を持つことにより、規模に数倍する突破力と機動力を実現し、なおかつ長期の単独行動を可能とするのが特徴である。

 ケルトニア、ましてや王国がこのノウハウを会得するまでは、まだ十年以上の月日が必要だろう。


 王国の魔導士に対する評価は、まだまだ経験不足と断定せざるを得ない。

 戦場で使い物になるまでには、ケルトニア以上に時間がかかりそうだった。

 ただし、エイナという化け物に関しては、これまで以上の情報収集が必要となろう。


 マグス大佐はそのように判断し、イアコフの大隊は西部戦線に戻すことを決意した。

 彼の大隊は思わぬ貧乏くじを引いた格好だが、まだ若いイアコフには、いい勉強になったことだろう。


 南部方面軍の無能な司令官(スチュワート中将)が、どういう目的でトルゴルへの浸透を命じたのかは、フランツ中尉への聞き取りで、おおよそ把握できた。

 大佐には興味のないことであったが、中央の将官の弱味を握ったことは収獲である。


 マグス大佐自身も帝都に戻り、この事件を報告する必要があった。

 恐らく帰還して数日以内に、皇帝陛下から夕食の誘いがあるだろう。

 そして陛下とレイア妃は、彼女の話を大いに面白がるに違いない。


 イアコフに促され、用意された馬に跨った彼女は、もう一度後方を振り返った。

 真っ白な氷原の向こうには、もう人影は見当たらなかった。


「ユニの山刀、拾っておけばよかったな……」

「何かおっしゃいましたか?」


 同じく馬に跨ったイアコフが、怪訝そうな顔で訊ねた。

「いや、独り言だ。気にするな」


 マグス大佐は低い声でつぶやくと、馬の腹を軽く蹴った。


      *       *


 しばらくの間、魔力放出を続けたのち、エイナは魔法を解除した。

 魔力切れを起こしそうになったのだ。

 彼女は膝まで降ろしていたズボンをそそくさと引き上げ、傍らのノーマに声をかけた。


「もう魔法を解除していいぞ。それと、こっちを向くのも許可する」

「何ですか、あの魔法は! ただの凍結魔法じゃないですよね!?

 雲もないのに、地表近くで雨が降るって、どういうことですか!!」


 ノーマは堰を切ったように、エイナに質問を浴びせかけてきた。

 だが、エイナは何も答えない。


 今回の魔法は、これまでより威力が格段に増していた。

 それなのに、身体への負担はずっと軽かったのだ。


 絶対零度魔法を使うと、内臓を手で絞られるようにきりきりして、同時にずしんと重い痛み襲ってくる。

 まるで生理が一番重い時の感じである。


 魔力貯蔵庫である子宮から、直に魔力を放出するだから、それは仕方のないことだ――彼女はそう諦めていた。

 それが今回は、『ちょとにぶい痛みを感じるかな?』と首をかしげる程度であった。


 そして、下腹部に浮き出た魔法陣と、そこから分離して宙を浮遊したもうひとつの魔法陣。

 どちらも初めての現象である。


『何が違ったのだろう?』

 彼女は自問していた。


 仲間の命を救うため、必死であったことは間違いない。

 呪文の構文に変化はない。むしろ、集中力は乱れていた方だ。


 目の前で見たユニとライガの消滅。

 そして、群れのオオカミたちとの別れ、ユニの伝言。


 いずれもエイナの感情を激しく揺さぶり、特に母に関する情報は、彼女を動揺させた。

 精神状態はぼろぼろで、感情が身体を突き破りそうな感じだった。


 魔法の呪文を詠唱する時には、集中力が重要だ。

 それは、魔導院で最初に教えられる、魔法の基本である。

 感情を乱さず、ただひたすら魔法に集中しなければ、高度な魔法ほど失敗するものだ。


「小隊長殿?」

 ふと気がつくと、ノーマが心配そうな表情で、エイナの顔を覗き込んでいた。


「ああ、すまん。

 魔力が枯渇しそうで、少しぼおっとしていた」


 エイナは首を何度か振り、氷に覆われた荒れ地を見渡した。

 帝国軍は塹壕に飛び込み、すでに第三塹壕まで撤退していた。


 もう仲間のもとに戻るべきであった。


 エイナはノーマの肩をぽんと叩いた。

「お前はよくやった。

 詠唱時間を稼いでくれたのもそうだが、風魔法がなければ、私たちが真っ先に凍っていただろう。

 何か褒美をやらないといけないな」


 ノーマははじけるような笑顔で元気に答えた。

「では、あのシャツをください! 宝物にします」


 エイナは堪らずに吹き出した。


「分かったわかった。だが、頼むから洗濯だけはしてくれよ」

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マグス大佐のモデルがD.Sって事は エイナのモデルはまさかカル=ス?
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