三十三 発動
戦いの火ぶたを切ったのはノーマだった。
エイナは呪文の詠唱を続けていたし、味方であるオオカミたちは、彼女たちの前に並んで敵の攻撃を牽制してくれている。
現状で攻撃ができるのは、ノーマだけである。
彼女は得意な風魔法を発動させ、オオカミたちの前を境にして、帝国側にだけ凄まじい強風が吹きつけた。
これは風系の基本魔法で、投入する魔力量によって、強さや範囲が自在に変えられる。
殺傷力は期待できないが、多数の敵を相手にした時には、案外有効な手段であった。
ここは森を切り拓いた荒れ地であるから、地面は剥き出しの土のままで、草も生えていない。
風は乾いた地面から砂や小石を巻き上げて、褐色の砂嵐となって帝国兵に襲いかかった。
マグス大佐を中心とする集団(歩兵一個小隊と二人の大佐、そして補助の魔導士)は、対魔法防御結界に包まれているので、その中では魔法の風は消滅する。
ただ、飛んでくる砂や小石は物理現象なので、防ぎようがないのだ。
顔に当たると結構痛いし、まず目が開けていられない。
帝国兵は腕を上げて目を庇ったが、目隠し状態では移動できない。
逆に、後方で円形陣を組んでいる本隊は、外周を構成する部隊が対物理防御を張っていたから、風はまともに受けるが、砂塵を弾くことができた。
ただし、結界外では砂嵐のような風が荒れ狂っているので、視界が効かないという事実は変わらない。
悲惨なのは、円陣の中心部にいる兵と魔導士だった。
彼らは何の防御も持たず、特に魔導士は反撃に移りたくても、敵を視認できないままでは、攻撃魔法が使えないのだ。
攻撃魔法を放つには、相手との距離や角度、気候条件などを把握して、その数値を呪文に置き換えて組み込む必要がある。
目が明けられない魔導士はそれができないため、完全に攻撃を封じられた状態だった。
そして、ノーマの風魔法にはもうひとつ、敵が展開する魔法防御結界の位置を掴めるという利点があった。
その結果、風が無効化されているのはマグス大佐の一隊だけで、後方の本隊は魔法に対しては無防備だということが明白となった。
ノーマは魔力の放出を続けながら、次の魔法の詠唱を始めていた。
ちらりと横を見ると、エイナは相変わらず呪文を唱え続けている。
彼女はいつもエイナの側にくっついていたので、指揮官の詠唱が段違いに短いことに気づいていた。
それは、エイナが三重詠唱という、高等技術を会得しているという証左であった。
実を言うと、ノーマも三重詠唱を使えたのだ。
同期の誰もそんなことはできない。彼女が卒業したてで任官もしていないのに、今回の魔導士隊に選抜されたのも、それが大きな理由だと自負していた。
その彼女に比べても、エイナの詠唱速度は段違いだった。
それなのに、エイナはずっと詠唱を続けている。
これはきっと、よほど大きな魔法を使おうとしているのだ。
ノーマは憧れの先輩のために、是が非でも時間を稼ごうと決意していた。
彼女は風の魔法を解除すると、敵に反撃の暇を与えず、即座にファイアボールを撃ち込んだ。
何しろ敵本隊は百人近い集団である。どこに着弾しても、二、三十人はまとめて焼き殺せるし、その中には確実に魔導士がいるはずだった。
帝国側もノーマの風魔法を喰らったことで、防御を対魔法用に切り替えようとしていたが、発動までにはあと数分の時間が必要だった。
そんな中、いきなり風が止んだ。
そして、まだ舞い上がっている砂塵を突き破って、光の球が飛び込んできたのだ。
円陣の中央にいた帝国の魔導士は、目標を与えないまま、同じファイアボールを撃った。
そして、手の先から飛び出した光球の軌道を強引に操作して、ぎりぎりノーマの魔法を迎撃することに成功した。
ノーマの魔法が直線的に飛んできたことが、敵にとっては幸運だった。
両者の距離が離れているため、彼女は着弾直前での迎撃に対応できず、回避が間に合わなかったのだ。
二つの魔法は空中で激突し、小さな爆発を起こして瞬時に消滅した。
この後は、壮絶な魔法の撃ち合いとなった。
ノーマと帝国の魔導士は、ほぼ同じタイミングでファイアボールを放ち、相打ちを繰り返した。
彼女が三重詠唱を使って、並みの魔導士では不可能な頻度で攻撃を繰り出しても、相手は正確にそれに合わせてくる。
つまり、敵もエイナと同等の詠唱速度を誇る、手練れということだった。
状況は互角の膠着状態のように思えたが、実際はその真逆であった。
両者が撃ち合いを続けていることで、帝国側には時間がもたらされた。
もうオオカミの群れは去ったから、円陣外周の魔導士たちは、物理防御の結界を解除できた。
彼らは当初の混乱から、やむを得ず魔導士を中心とした小集団に分かれていたが、これで自由に移動して再編成が可能になったのだ。
十数人の塊りは、集合して二、三十人規模の部隊を作り、それを魔導士が対魔法結界でまとめて保護をした。
その結果、四人の魔導士が防御から解放され、彼らは攻撃に参加すべく、一斉に呪文を唱え始めた。
現在、ひとりで敵の魔法を撃ち落している魔導士に加勢すれば、手数で圧倒できる。その時は、あとわずかにまで迫っていた。
* *
「こちらも魔法防御を解除して、攻撃に参加しますか?」
イアコフがマグス大佐に訊ねたが、彼女は乱れた赤毛を揺らして首を振った。
「いや、駄目だ。あのエイナという女が沈黙しているのが不気味だ。
いつ巨大魔法が撃ち込まれても不思議ではない。保険は掛けておいたほうがいいだろう。
それより、お前の部隊との合流を急ごう」
強風とそれに続く魔法の撃ち合いで、後方の本隊が前進を止めたため、マグス大佐たちは自分たちの方から後退を始めた。
五頭のオオカミは間隔を保ったまま、その後を追っていった。
彼らはユニとライガが消滅した地点に達すると、そこに散らばっていた遺品を口々に咥え、エイナの方へ引き返していった。
呪文の詠唱を続けるエイナの頭の中には、その間にもるヨミの優しい声が響いていた。
『あたしには難しくてよく分からないけど、ユニの言葉をそのまま伝えるわ。
この世界は歪んでいる――それは、人間が神と呼んでいる存在の仕業らしいの。
ユニは、この世界は〝神々の実験場〟だって言っていたわ』
『だけど、それはもう限界に近づいているんですって。
この世界は、確かに神々が創ったものかもしれないけど、どうしようもなく〝人間の世界〟なの。
それは、神の力でも変えることはできないそうよ』
『だから、この世界はゆっくりと、少しずつだけど歪みを正そうとして、揺れ戻しが起きているらしいわ。
あと何百年かかるかは分からないけど、エルフもドワーフも、そしてオークやゴブリン、妖精たちまでも、いずれこの世界を去っていく運命なんだって。
彼らは、人間の世界に存在してはならない種族なの。
そして、召喚能力を持つ人間も徐々に数を減らしていって、やがては消滅するだろうって言っていたわ』
エイナの前に、ヨミがゆったりとした歩みで戻ってきて、彼女の足元にユニの上着を置いた。
『これからは、エイナのような人間の魔導士が、世界の主人公になっていくんですって。
でもね、その魔法だって歪みのひとつだから、最後には魔導士も姿を消していくそうよ。
その代わり、これまで不自然に押さえ込まれていた技術が開発され、人間は幻獣にも魔法にも頼らずに生きていくようになる。
だけどその技術は同時に、これまでとは比べ物にならないほどの悲劇と災厄を、呼び寄せてしまうかもしれないそうよ』
突然、ヨミの声がぶちぶちと途切れだした。
『ああ……駄目……だわ! ライ……呼んで……』
目の前に座っていたヨミの姿が、いきなりぶれて不明瞭になった。
そして、優しい〝母さん〟は、音もなく消えてしまった。
エイナの足元に置かれた狩人風の衣服の上に、ミナが咥えてきたユニのズボンを置いた。
ミナはライガとヨミの娘で、ハヤトの妻、そして双子姉妹の母でもある。
『少なくともエイナが生きている時代には、そんな極端なことは起こらないから安心してって、ユニは言っていたわ。
でもこれからは、あんたたち若い者の時代だってことだけは、間違いないそうよ。
頑張んなさい!』
そう言うと、ミナもヨミの後を追うように姿を消した。
トキはユニのブーツを丁寧に揃えて、地面にそっと置いた。
彼もミナと同じライガとヨミの子どもで、身体の大きなオスであったが、とても穏やかな性格をしていた。
『もうひとつ、大事な言伝がある。お前の母親のことだ』
エイナは詠唱を続けながら、目を見開いた。
『お前の母親は、いま帝国の南部に向かっているそうだ。
そこに根を張る、真祖の吸血鬼と決着をつける気らしい。
エイナの母もまた、この世界の歪みを正すための歯車のひとつなんだそうだ。
だが、いくらダンピールとはいえ、真祖と戦うのは分が悪い。
エイナは母親の手助けをするべきだと、ユニは言っていた。
この情報はマリウスにも伝えているそうだ。国に帰ったら、あいつに相談してみるといい』
トキは言い終えると、エイナの胸にどんと前足をかけ、彼女の顔をひと舐めしてから消えていった。
続いてハヤトが、エイナの足元に、咥えてきたナガサをぼとりと落とした。
彼は群れの中ではライガに次ぐ体格を誇るが、気の荒い性格であまり人間と馴れ合うのを好まなかった。
ただ、娘のジェシカとシェンカ姉妹には、でれでれに甘い父親だった。
『どうやら、ライガの野郎と血縁が濃いほど、呼ばれるのが早いらしいな。
このナガサは、シルヴィアに持っていてほしいそうだ。
ドワーフ製だから頑丈で切れ味もいい、何より敵の接近を光って知らせるから、きっと役に立つはずだって言ってたぞ。
それとな、……この際だから言っておく。
俺はユニ以外の人間はあまり好きじゃないが、エイナとシルヴィアは割と好きだったぞ。
じゃあな、もしいつかまた会えたら、耳の後ろを掻いてくれ』
ライガは後足で頭をがりがり掻き、大きな身体を消した。
最後に残ったのは、銀毛の美しいオオカミ、ヨーコであった。
彼女はもともと人間の召喚士だった。転生した姿で、再びこの世界に戻ってきた珍しい例である。
息子のロキの名は、召喚士時代に使役していたオオカミの名前でもあったが、彼女はその記憶を失っている。
ヨーコはもう一本のナガサを咥えてきた。
『これはエイナの分よ。手槍にもできるから、背の低いエイナには使いやすいだろうって。
あたしやゴーマ(マリウスが召喚した火蜥蜴で、元は召喚士)を間近で見ていたせいかしら? ユニは自分がオオカミに生まれ変わっても、必ずこの世界に戻ってくるって、信じ込んでいたわ。
もしそうなっても、あたしみたいに人間時代の記憶は、ほとんど失っていると思うけどね。
でも、本当にもう一度会えたら、素敵よね!』
美しいオオカミは、離れた土壁の前で土人形と戦っている息子のロキの方を見やった。
『ジェシカとシェンカ、それにロキの三頭は、この世界で生まれたから、きっと消えるまで時間がかかると思うわ。
もしエイナがあの子たちと挨拶をしたいのなら、帝国の連中をさっさと片づけることね。
あたしにとって、この世界に戻ったことは、すごくいい思い出になったわ。
何と言っても、お母さんになったんだから!』
ヨーコは誇らしげに遠吠えをあげ、消えていった。
オオカミたちの別れの言葉を聞いたエイナは、堪えきれずに嗚咽を洩らしていた。
そして、ずっと続いていた呪文の詠唱は、いつの間にか止まっていたのである。
彼女はごわごわする軍服の袖で乱暴に涙を拭うと、必死の形相で魔法を繰り出しているノーマに声をかけた。
「さっきの風魔法、もう一度撃てる?」
ノーマは驚いたように振り返った。
「はい、あれだったら大した魔法じゃありませんから、時間はかかりません」
「そう。じゃあ、私が魔法を撃ったら、すぐにそれを使って。そうじゃないと、こっちまで巻き添えを喰うわよ!」
「了解です!」
「それと、もう一つ厳命しておくわ!」
「えと……、何でしょう?」
「たった今からだ。絶対に! 私の方を見るな!!
まっすぐ前を向いて、敵だけを見詰めていろ! いいな!?」
「わっ、わかりまいた!!」
エイナの滅多に見せない怖い表情と口調に、ノーマは思わず噛んでしまった。
ノーマが前を向いたのを確認すると、エイナは無言でズボンに手をかけた。
かちゃかちゃと音をさせてベルトを外すと、思い切って膝まで下ろす。
ズボンだけではなく、その下のズロースも一緒だった。
彼女の白い下腹部には、刺青のような魔法陣が現れ、輝きを放っていた。
今まで何度も絶対零度魔法は撃ってきたが、このようなことは初めてである。
そしてその魔法陣から、もう一つの魔法陣が分離するように浮き上がり、数センチ先の空中で、ゆらゆらと静止した。
下腹部の魔法陣は白く輝いていたが、浮遊するそれは青い光を放っている。
エイナはこの現象の意味が分からずに戸惑っていたが、それを解析している余裕などない。
彼女は魔法を発動させる鍵となる、短い呪文の一節を叫ぶと、子宮に溜め込んでいた膨大な魔力を一気に解放した。
目が眩むような光で視認できないが、すべての分子活動を停止させる、絶対零度の世界が生まれていくのが感じられた。
エイナは魔力の放出を続けながら、横目でノーマを見た。
「早く風魔法を!
冷気が広がったら、一番最初に死ぬのは私たちだぞ!!」
「ひゃいっ!」
ノーマはまた噛んでしまった。