三十二 秘密
ユニがこの世界を去る二日前のことである。
森の中に見える池のほとりに、ぽつんと建っていた小屋の屋根からは、T字の丸太が突き出していた。
この小屋に関するシルヴィアの記憶は、あまりよいものではない。
それはアラン少佐の大型鳥類幻獣、ロック鳥が人員や物資を運ぶための小屋である。
ロック鳥が掴むための取っ手を除けば、丸太づくりの小屋そのものであった。
シルヴィアは何度かそれに乗って空輸されたことがあったが、乗り心地は最悪であった。
とにかく揺れるのだ。
遥か上空をかなりの速度で飛ぶのから、強風に煽られるのは当然である。
眼下の小屋の周りでは、オオカミたちが上空を見上げ、歓迎をするように遠吠えを響かせていた。
カー君は螺旋を描いて高度を下げ、小屋の傍らに着地した。
慌ただしく固定ベルトを外し、地面に滑り降りたシルヴィアに、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、オオカミたちが集まってくる。
白い毛並みのロキが、彼女の肩にどんと前足をかけて(オオカミたちは後足で立ち上がると、シルヴィアを見下ろすほど大きい)、顔をべろべろ舐めまわしてきたが、彼女はそれを押しのけて小屋へ急いだ。
扉を開けると、固定式の椅子にユニが座っていて、その足元にライガがのんびりと寝そべっている。
「ユニさん! どうしてこんなところに!?」
大声を出すシルヴィアに、ユニは苦笑を浮かべつつ手招きする。
「寒いから閉めてちょうだい。この小屋、暖房がないんだから」
シルヴィアがユニの隣りの席に着くと、彼女はポットから少し温くなったコーヒーを注いでくれた。
「体調はもういいの? 若いからって、あんまり無理をしちゃ駄目よ」
「ご心配をおかけしてすみません。
それより、さっきの続きです。
この小屋があるということは、ロック鳥が運んできたということですよね。
どういうことですか?」
ユニは自分のコーヒーをすすりながら、穏やかな表情で話し始めた。
「あんたがエイナたちのことを報告に来た時、あたしもマリウスの執務室にいたことは覚えているわよね?」
シルヴィアは黙ってうなずいた。
「あの時あたしたち、いい感じでデートの打ち合わせをしていたのよ」
「は?」
「やぁね、そんなに驚かなくてもいいじゃない。
あんただって、あたしとマリウスの噂ぐらい、聞いたことがあるんでしょ?」
「そんなことは……いえ、まぁ……はい」
今でこそ参謀本部のトップを務めるマリウスであるが、そもそも彼が王国に亡命した経緯には、ユニが大きく関わっている。
マリウスはユニを拉致、もしくは殺害するために、帝国からコルドラ大山脈を越えて侵入してきた。
子細は省くが、マリウスは返り討ちにあってユニに捕らえられ、その場で亡命を申し出たのだ。
それ以来、二人はさまざまな任務をともにこなしてきた。
もと敵国人であるマリウスが、王国内で信頼を得ていったのは、そのお陰でもある。
年下の彼はユニに好意を示していたが、ユニの方は軽くあしらっている感じだった。
ユニは辺境に住んでいたし、マリウスは当時の参謀副総長、アリストアの子飼いとして、王都を本拠に活動していた。
だが、ユニが王都を訪れてた際は、一緒に食事や酒を楽しんでいる姿がよく目撃された。
マリウスがアリストアの地位を継いでからは、そうしたことはなくなったが、二人が付き合っているという噂が絶えることはなかった。
「あの日はシルヴィアと同じで、ちょっとした報告をしてたの。
報告自体はすぐに終わったんだけど、久しぶりにご飯を食べようって話になって、どの店にしようかって相談してたの。
そこへシルヴィアが入ってきたってわけ」
「そ、それはその……お邪魔して申し訳ありません」
「いいわよ、あんたが悪いわけじゃないし。
でもね、あたしもシルヴィアの報告を聞いちゃったでしょ? だからレストランでの話題は、その分析に終始したわけ。
その夜は、マリウスの家にお泊りする約束だったのよ。
あたしだって女だから、そういう時は二人の思い出話とかして、いい感じに気分を盛り上げるつもりだったのね」
シルヴィアの顔が、ぼっと火照った。
「え? お泊りって……、つまりその、そういうことですか?」
「そう、ムードも何もあったもんじゃないわ。
ああ、そんな泣きそうな顔しないでよ。ちゃんとやることはやったんだから。
その話はどうでもいいの。
とにかく、あんたの報告を聞いた、マリウスとあたしの意見は一致してたわ。
帝国側の魔導士は、ケルトニアの実験部隊が、王国の魔導士で構成されていることに気づいたに違いない。
その事実は、すぐに帝国の軍首脳部に報告されたはずよ。あいつらの情報伝達網って凄いからね」
ユニの表情が少し厳しくなってきた。
「実を言うとね、あたしは王都を訪れる前、二か月ほど帝国に潜入していたのよ。
目的はいくつかあって、そのひとつがマグス大佐の動向を探ることだったの。
あの女も偉くなったから、情報は簡単に入ってきたわ。彼女、ちょうど西部戦線の視察に出たばかりだったの。
あたしが王国に戻るころには、その視察も終盤で、戦線の最南部に向かっていたはずよ」
「それでね、あたしとマリウスはこう考えたの。
帝国軍は、ケルトニアと王国の共同作戦を絶対に看過しない。
王国魔導士の実力を測ると同時に、禍の芽を叩き潰そうとするに違いないわ。
そのためには、即応機動大隊を動かすのが一番手っ取り早い。
ただ、あの部隊は深刻な局面に投入されているから、急には動かせないの」
「オコナー大佐だって馬鹿じゃないから、そのくらいは読めているはずよ。
彼は国境地帯まで南部方面軍を追いやり、そこをひと叩きしたら、すぐに引きあげるつもりだわ。
ぐずぐずしていると、敵の増援が到着するからね。
でも彼は、マグス大佐が近くにいることまでは知らないわ」
「フランツっていう魔導士は有能らしいから、マグス大佐に直接報告を上げた可能性が高いわ。
あの女は独断で即応機動大隊を動かす権限を持っているし、その行使を躊躇わないでしょうね。
それで、帝国側の動きを確認するため、急遽あたしが派遣されたの。
部隊の指揮権はケルトニアにあるから、推測だけじゃ口出しできないでしょう?」
「幸い、今のところ大規模な部隊の移動は見られないわ。
ただ、司令部周辺は人の目が多いから、オオカミたちもうかつに近づけないの。
あんたたちなら、昼間でも偵察できるんだもの。協力してちょうだい」
シルヴィアは冷めたコーヒーを飲み干し、大きくうなずいた。
「もちろんです。ユニさんのお手伝いができるなんて、光栄です!」
それまで穏やかに話していたユニは、声を一段落として真顔になった。
「あんたも召喚士なんだから、あたしがもう長くないことは分っているわよね?」
シルヴィアは何も言わずに、もう一度うなずいた。
「多分、明後日がぎりぎりだと思う。
その前に、あんたにひとつだけ教えておくわ。カー君のことよ」
「カー君の……ですか?」
「そう。これは蒼龍様や赤龍様から口止めされていたんだけど、あたしが消える前に伝えておきたいの。
カーバンクルっていうのはね……」
ユニが打ち明けた秘密は、衝撃的な事実であった。
シルヴィアはユニが話し終わっても、しばらく言葉が出てこなかった。
「口の軽いあたしに言えた義理じゃないけど、このことはカー君に知らせない方がいいと思うわ。
こんな大それた夢、本当に実現するか分らないんだもの。
でも、あんたはカー君の召喚主として、できるだけのことしてあげなさい」
しばらくの沈黙の後、ようやくシルヴィアが重い口を開いた。
「初めてリディア様に謁見した時、ドレイク様がカー君との面談を所望されました。
でも、いざ会ってみると、その態度はかなり冷ややかに感じました。
それは、このことが関係していたのでしょうか?」
ユニは小さな溜息をついた。
「そうね。龍族がカーバンクルを軽蔑してる……というのは、言葉が過ぎるかしら?
ただ、あまりよく思っていないことは事実よ。
でもグァンダオ様もドレイク様も、種族的な感情は別にして、理性的であろうとしてくださっているわ。
だから、あまり気にしないことね」
「あの、これって、ほかに誰か……」
「蒼龍帝と赤龍帝は、当然知っているわ。
それ以外だとマリウスだけね。彼はシルヴィアに協力してくれるはずよ」
ユニはシルヴィアの肩を、ぽんと叩いた。
「召喚の儀式のことを思い出してみなさい。
あんたは国家召喚士になるって、誰もが信じて疑わなかった。自分自身、そうだったんでしょ?
だけど、実際に召喚したのはカーバンクルで、審問官のお爺ちゃんたちは、あんたを二級召喚士と判定した。
でも、これで分かったんじゃない?
シルヴィアだから、カー君を召喚できたのよ」
* *
シルヴィアと合流するまで、オオカミたちの監視は困難を極めていた。
南部方面軍司令部の警備は、さすがに厳しかった。
日中は司令部からかなり離れた木立に姿を隠し、深夜闇に紛れて近づき、宿舎を嗅ぎまわるのが限界だった。
シルヴィアの参加によって、ようやく昼間の活動――特に北からの移動に使われる街道の偵察が可能となった。
魔導士部隊が攻撃を開始するまで、まだ二日の余裕があったから、もしマグス大佐の到着が間に合いそうだったら、早期に警告して撤退させればよい。
ユニはそう考えていた。
翌日からシルヴィアが偵察を開始し、街道沿いにかなりの距離を飛んだのだが、それらしき部隊の移動は発見できなかった。
つまり、次の日にエイナたちの部隊が国境への攻撃を開始しても、陣地に籠る敵は南部方面軍だけだということになる。
フランツという魔導士は警戒すべきだが、さすがに二度も同じ手を食うことはないだろう。
だが、それはユニとシルヴィアの油断であった。
実はマグス大佐とイアコフの大隊は、ユニよりも前に到着していたのである。
フェルナンド少佐が、昼夜を問わない強行軍で百二十キロ余を踏破し、司令部に帰り着くまで二日かかった。
それよりも遠い地で報告を受けたマグス大佐は、わずか三日で南部方面軍司令部に姿を現したのだ。
密林の林道と、整備された街道という差はあっても、とんでもない速度である。
しかも、マグス大佐が司令部に滞在したのは小一時間に過ぎず、彼女はイアコフの大隊を伴って国境地帯に移動してしまった。
そして陣地の後方にテントを設営し、自ら工兵部隊を指揮して、陣地の強化に当たったのである。
オオカミたちが監視を開始したころには、司令部はもぬけの空であった。
一方、国境地帯を上空から偵察したシルヴィアも、敵に発見されないよう高度を取っていたため、土木作業をしている即応機動部隊と、現地部隊の見分けがつかなかった。
これがロック鳥であったなら、猛禽類の驚異的な視力で判別できたはずである。
エイナたちの攻撃が始まると、万が一の事態に備え、ユニはオオカミたちを率いて、後方から帝国陣地に接近した。
その段階になって、オオカミたちはようやく気づいたのだ。
南部方面軍とは違う臭いのする大集団がいることを――である。
そして、その報告を受けたユニも、単眼鏡で赤毛の女の姿を捉えていた。
シルヴィアは戦況を確認するため、かなりの高度に上がっていたから、ユニはこの事実を知らせることができなかった。
結局、シルヴィアがマグス大佐の存在に気づいたのは、ダムド(局地戦用爆裂魔法)の炸裂が始まってからであった。
シルヴィアは帝国軍に見つからないよう、陣地の後方に大回りしてから高度を下げ、超低空でユニが潜んでいる茂みに突っ込んできた。
すぐにライガに飛び乗ったユニが駆け寄ってきて、まだカー君の背に乗ったままのシルヴィアに怒鳴った。
「あんたは今すぐ参謀本部に飛んで、現状を報告しなさい!
あの魔女が相手となったら、エイナたちが苦戦するのは確実、のんびり空から眺めている余裕なんてないわ!
エイナたちは、あたしとオオカミたちが必ず助けるから!!」
シルヴィアは顔を覆うマフラーを引き下げて叫んだ。
「そういうわけにはいきません!
あたしとカー君も参戦します!!」
だが、ユニはその提案を一蹴した。
「これまでとは相手が違うのよ!
今のカー君じゃ、火球の届く距離に近づく前に、魔法で撃ち落されるわ!!
あたしの言うことを聞きなさい!!」
「だって、ユニさんはもう……!」
シルヴィアの飛行用眼鏡から、涙がぼろぼろと零れ落ちた。
ユニはカー君の首筋を叩き、「いいから行ってちょうだい」とささやいた。
そして、シルヴィアの方を見上げて笑った。
「あたしの死にざまなら、エイナがちゃんと見てくれるわよ。
マリウスに伝えてちょうだい。これまで楽しかったって。
それと、愛しているって!」