三十 決闘
ユニとオオカミたちは帝国軍陣地の後方から忍び寄り、第三塹壕に飛び込んだ。
ここには新兵揃いの南部方面軍の中でも、訓練校を出て配属されたばかりの、三十名余りが待機していた。
彼ら自身、戦闘に参加するとは思っていなかったし、マグス大佐からも「勉強だ」と言われたので、気楽に前方の戦況を覗いていた。
そこにいきなり巨大なオオカミの群れが飛び込んできたのだ。
驚きと恐怖で硬直する兵士たちを、オオカミたちは容赦なく蹴散らし、噛み殺していった。
恐慌に陥った新兵たちは、武器を放り投げて逃げ出した。
彼らは塹壕の両端に殺到し、そこから地上に這い出て宿舎に駆け込み、閉じ籠ったまま震えていた。
オオカミたちは守備兵が逃げ去ったことを確認すると、追いかけずに第二塹壕に連絡する縦溝に侵入した。
第二塹壕に配備されていたのは、やはり南部方面軍の兵士、六十名ほどだったが、後方の塹壕で起きた騒ぎには、まったく気づいていなかった。
彼らも目の前で起きている出来事――単身で向かってきたケルトニアの将校と、伝説的な英雄であるマグス大佐の対決に、夢中になっていたのである。
当然、オオカミたちの不意打ちにはまったく対処できず、塹壕の中では一方的な殺戮が繰り広げられた。
彼らが抵抗できなかったことはある程度仕方がないが、少なくとも塹壕の前に展開している、イアコフ大佐の部下たちに、襲撃の事実を知らせて警告すべきであった。
それなのに南部方面軍の兵士たちは、第三塹壕の新入りたちと同じ行動しか取れなかった。
ただ悲鳴を上げながら、狭い塹壕の端の方へと我先に逃げ出したのである。
即応機動大隊の歩兵たちは騒ぎに気づいたものの、それが襲撃であるとは思わなかった。
様子を見るために駆け寄ってきた兵士は、飛び出してきた巨大な獣に驚き、その場にへたりこんだ。
オオカミは穴の中から次々に跳躍し、隊列の中へと突っ込んでいった。
これで混乱するな、と言う方が無理である。
着地点にいた兵士は、一瞬で喉笛を食い破られ、悲鳴の代わりに血飛沫を上げて絶命した。
群れの中にはただ一頭、人間の女を背にのせていたオオカミがいた。
そのオオカミは薙ぎ倒した兵士の身体を踏みつけ、再び大きく跳躍してマグス大佐の方へと向かっていった。
他のオオカミたちはその場に留まり、兵士たちを襲い続けた。
彼らは素早く位置を変えながら、肩に短いマントを着けている者を見つけては飛びかかった。
黒い短マントは、魔導士の印である。
オオカミたちが手当たり次第に暴れているのではなく、明確な目的を持っているのは明らかだった。
だが、皮肉なことにこの行動こそが、兵を混乱から立ち直らせた。
戦場における魔導士は、攻防のかなめである。
そのため経験を積んだ者の意識には、命に代えても〝魔導士を守る〟という鉄則が、自然に刷り込まれる。
「魔導士殿を守れーーーっ!」
各小隊の指揮官が怒鳴るれば、それ以上の指示は不要であった。
兵士たちは雷に打たれたように、反射的な行動を起こすのだ。
彼らは一番近くにいる魔導士のもとに集まり、その周囲を取り囲むようにして、円周防御態勢を取った。
乱れ切った隊列が、たちまち魔導士を中心にした、いくつもの小集団を形成した。
魔導士に背を向けた兵士は、槍先を連ねてオオカミを牽制する。
その円陣の中では、さらに数人の兵士が魔導士を守っていた。
彼らは携帯弩を構え、的の大きなオオカミを狙う。
射手は狂ったように射ちまくり、予備の矢がなくなると、盾役の兵士の腰から抜き取った。
いくら動きが敏捷でも、至近距離で発射された矢を避けるのは難しい。
オオカミたちの身体には、何本もの短い矢が突き刺さり、その毛皮を血で濡らしていった。
それでもオオカミは怯まなかった。突き出される槍先を素早くかいくぐり、柄に噛みついて敵を引っ張り出さそうとする。
円陣から引っこ抜かれた兵士は、あっという間に噛み殺された。
兵たちに守られた各魔導士は、必死で呪文を唱え、次々に防御障壁を展開していった。
ここまで入り乱れてしまうと、攻撃魔法は使えない。誤爆の危険以上に、自分たちが魔法の巻き添えになる恐れがあるからだ。
防御結界に包まれた兵士たちは、息をするのを思いだしたように、大きく肩を上下させていた。
彼らの周囲には、何人もの仲間の死体が無残な姿をさらしていた。
喰いちぎられた頭があちこちに転がり、うつろに開いた眼球は砂にまみれている。
すべての魔導士が防御魔法を発動させると、もうオオカミには攻撃手段がない。
帝国兵は打ち合わせでもしたように、移動を開始した。
ばらばらだった集団が集まり、ひとつの大きな円周防御陣を構築したのだ。
その中心に入ったひとつ部隊の魔導士は、防御魔法を解除した。
護衛の兵士たちは槍を上に向け、跳躍して襲ってくるオオカミに備え、射手は再び矢を放った。
周囲からは、安全な防御結界を自ら抜け出し、続々と増援の兵士が参加してくる。
誰が指揮したわけでもないのに、これだけの動きが取れたのである。
第二即応機動大隊の兵士と魔導士たちが、いかに鍛えられていたかの証拠であった。
そして、全体の中心に位置する魔導士は、いよいよ攻撃魔法の呪文を唱え始めた。
* *
第二塹壕からオオカミたちが飛び出し、帝国軍に大混乱が起こっても、エイナたちは異変に気づかなかった。
背後から轟音を立てて騎馬隊が迫ってくるのだから、当り前である。
彼らの背後で立ちはだかっていたニコライの防御障壁は、二手に分かれた騎馬隊に避けられて、何の役にも立たなかった。
「ちいっ!」
エイナたちと並走するケネス中尉は、振り向きざまに腕を振るった。
たちまち後方に炎の壁が発生し、追ってくる騎馬隊の姿を掻き消した。
敵魔導士の対魔法結界によって、炎が無効化されることなど承知の上だ。
だが、馬にはそんなことは分らない。恐怖で棹立ちになるかもしれなかった。
ケネスの淡い期待は、あっさりと裏切られた。
炎を目前にしても、馬は少しも速度を緩めなかったのだ。
彼らの軍馬もまた、爆炎だらけの戦場を駆け抜けてきた、歴戦の強者であった。
「くそっ!」
ケネスは唾を吐いた。横を見ても、まだ土壁は十メートル近く続いている。
絶望にかられて前に向き直った途端、彼は反射的に姿勢を低くした。
何かが凄い勢いですれ違っていったのだ。
次の瞬間、背後で甲高い馬の嘶きが響いた。
「何だ!?」
ケネスがもう一度振り返ると、騎馬隊の先頭の馬が二頭、棹立ちとなっていた。
その太い首には、巨大なオオカミが牙を立ててぶらさがっている。
そしてその頭上を、真っ白な毛並みのオオカミが、高々と飛び越えていた。
先頭が急停止したため、後続の騎馬は止まり切れずに追突し、四、五頭が倒れて乗り手は地面に叩きつけられた。
その内のひとりが、魔導士だった。
白いオオカミは落馬した魔導士の上に着地し、一瞬でその頭を喰いちぎった。
オオカミは勢いよく首を振り上げ、咥えた頭部を後方に放り投げた。
それはケネスの足元まで、ごろごろと地面を転がってきた。
馬の嘶きによって、王国の魔導士たちも異変に気づき、足を止めた。
彼らは荒い息をつきながら、背後で起きている混乱を呆然と眺めていた。
どこから現れたのか、三頭の巨大なオオカミが、騎馬隊を蹂躙しているのだ。
後続の馬はオオカミの姿を前にパニックを起こし、全速で逃げ去ってしまった。
転倒した馬も、もがきながら起き上がり、主人を見捨ててその後を追った。
残された騎兵は馬を失い、なす術なくオオカミの顎の犠牲となった。
王国の魔導士たちは、何が起きたのか理解できていなかった。
化け物のようなオオカミが敵を襲っているのは分かるが、それが味方であるという確信までは持たない。
その中で、エイナとケネスだけが状況を把握していた。
ケネスは駆け寄ってきたエイナに確かめる。
「ありゃあ、ユニのオオカミだな?」
「はい、ジェシカとシェンカ、それにロキです。
向こうを見てください! 帝国の本隊を他のオオカミたちが襲っているようです。
ユニさんもいるのではないでしょうか?」
「そのようだな」
ケネスは振り返った。
「おい、お前ら集合! あのオオカミはユニっていう召喚士の幻獣だ!
俺たちを襲うことはないから安心しろ!!」
魔導士たちに怒鳴るケネスに、エイナが心配そうに訊ねる。
「騎馬隊の大半は無傷です。馬が落ち着いたら、また戻ってくるかもしれません」
「それなら心配いらん。そこに転がっている首は、敵の魔導士だ。
もうオオカミがいなくても、俺たちだけで簡単に勝てる」
魔導士たちが集まってきた。まだ呼吸が荒いままである。
同時に、騎兵の始末をつけたオオカミたちも、血まみれの口から舌をだらりと垂らして、のそのそと歩いてくる。
ロキが尻尾を振りながら、エイナの股間に鼻面を突っ込んできた。
軍服のズボンが、敵兵の血で黒く汚れた。
エイナはしゃがんでロキの頭を抱えて撫でながら、ケネスを見上げた。
「私はロキを連れて、オコナー大佐殿を救出に行きます。
中尉殿は、みんなと〝あれ〟をどうにかしてください」
「あれ……だと?」
ケネスはエイナの指さす方向を見た。
それは目前に迫る土壁の終点だった。そこを回り込めば、味方のいるトルゴル側に戻ることができる。
だが、その壁一面に丸い膨らみが生じていて、そこから背の低い土人形がぼとぼと地面に落ちていた。
壁から産み落とされた人形は、ゆっくりと起き上がってこちらに向かって歩き出した。
「フランツという魔導士が仕込んだゴーレムです。
我々が壁を迂回して逃げることに備えていたんでしょう。
奴らはジェシカとシェンカに壊してもらいます。
中に埋まっている呪符が露出したら、魔法の炎で焼いてください。
そうしないと、破壊してもまた再生してきます」
「分かった……が、お前、どうやってオオカミに命令を伝えるんだ?
ユニじゃなきゃ、話ができんのだろう?」
エイナはにこりと笑った。
「この子たちは頭がいいんです。みんなこの世界で生まれたから、人間の言葉にも慣れています。。
ね、あんたたち、私の言うこと、分かるよね?」
三頭のオオカミたちは、尻尾を振ってうなずいてみせた。
ケネスは〝ひゅう〟と口笛を吹いた。
「お前ひとりで大丈夫か?」
「いえ、ノーマも連れていきます」
エイナは慣れた仕草でロキに跨ると、ノーマを呼んだ。
「お前の手助けが必要だ。私と一緒に来い」
ノーマは、ぱっと顔を輝かせた。
だが、エイナの真似をして、ロキに乗ろうとしても、うまく登れない。
馬と違って鞍も鐙もないのだから無理もない。
彼女はエイナの助言でロキの毛並みを掴み、ケネスに大きなお尻を押してもらって、どうにか跨ることができた。
「私の腹に手を回して、しっかりしがみつけ。
膝でオオカミの胴を挟みこむのを忘れるな!」
ノーマは嬉々として命令に従ったが、前に回された彼女の手を、エイナはぴしゃりと叩いた。
「こら、どこを触っている!」
* *
混乱する歩兵たちの中から飛び出したライガは、マグス大佐に向けて猛然と走り出した。
さすがのイアコフでも、呪文が間に合わない。
「マグス大佐殿をお守りせよ!」
イアコフが指示を出す前に、オコナーを包囲していた小隊の指揮官が叫んだ。
歩兵たちはひとりを残し、すばやくマグス大佐の前に槍衾を作った。
だが、ユニを乗せたライガは、その二メートルも手前で地面を踏み切った。
勢いをつけたオオカミは大跳躍をみせ、歩兵の頭上を跳び越す。
兵たちはとっさに槍を突きあげたが、それでも届かない高さだった。
ライガはマグス大佐をも跳び越して、背後に着地しても止まらなかった。
彼はオコナー大佐に槍を突きつけていた兵士に、頭から突っ込んだのだ。
オオカミたちは牛や馬よりも大きいが、重さは劣る。
そうはいっても、ライガの体重は四百キロを超す。
そんな怪物の突進をまともに受けた人間が、無事であるはずがない。
兵士の槍は分厚い毛皮に弾かれ、身体は数メートルも吹っ飛んだ。
彼は背中から地面に叩きつけられ、後頭部をしたたかに打って意識を失った。
ライガは呆然としているオコナー大佐の襟首を咥えると、ずるずるとその場から引きずっていく。
十分に距離を取ったと考えたライガは、そこに大佐を置き去りにして、引き返してきた。
その背中に乗っていたはずの、ユニの姿は消えていた。
* *
「ユニ! また貴様かぁーーーっ!!」
マグス大佐が吼えた瞬間、ユニを乗せたオオカミは宙に舞った。
その影が頭上を通過した瞬間に、大佐は長剣を頭上に突きあげた。
乾いた音を立てて、剣の方向がわずかに逸らされた。
青い火花を上げ、ナガサ(山刀)が長剣の刃をこすりながら落ちてきた。
剣を握る指が落ちる寸前で、隊さは力任せに剣を振り払った。
同時にユニの踵が頭上に落ちてくる。
大佐はこれも身体を捻って躱し、分厚いブーツの底は彼女の肩を浅く打つだけであった。
着地したユニは、そのまま身体を反転させて回し蹴りを放った。
側頭部を襲う蹴りを、大佐は首をすくめてやり過ごし、バランスを崩したユニの背中に剣を突き立てる。
しかし、刺し貫いた手応えはない。
ユニは地面に飛び込むように転がり、距離をとって素早く立ち上がった。
「があーーーーーーっ!!」
獣のような咆哮をあげ、大佐が飛び込んでいく。
脇を締め、大振りをしない袈裟切りが肩口を襲った。
ユニは逃げようとせず、逆に身体を投げ出すように距離を詰め、二本のナガサで大佐の斬撃を受け止めた。
両者の顔の至近で刃と刃が激しく打ち合わされ、毀れた金属片が飛ぶ。
それがユニの頬をかすめ、線のような傷口から玉の血が吹き出た。
「大佐殿をお助けしろ!」
オオカミに跳び越された歩兵たちは、慌ててユニを取り囲む。
その瞬間、マグス大佐が悪鬼のような凄まじい表情で怒鳴った。
「手を出した奴は殺す!
これは私の獲物だ!!」