二十七 絶対魔法
「判断が早いですね。魔法の発動時間も驚くほど短い。
あの黒髪の娘ですか、大佐殿のお気に入りは?」
土塁に穿たれた覗き穴から顔を離した男は、横に立っている赤毛の女に、からかうような口調で訊ねた。
軍帽から零れる金髪の巻き毛が、整った顔立ちの額に垂れている。
「言葉は正確に使え。気に入っているのではない、気にかけているだ。
それに、いい加減〝大佐殿〟は止めろ。お前だって同じ階級だろうに」
赤毛の女の物言いはそっけないが、どこか愛情が滲み出ていた。
軍人なのに、まとめずに伸ばしたままの乱れた赤毛が、ふわふわと冷たい風に揺れている。
「無茶を言わないでください。大佐殿は中将待遇じゃないですか、呼び捨てになんかできませんよ。
それに、いくらアレな性格でも、一応は師匠ですからね」
金髪の男はにこりと微笑んだ。若い娘なら、一発で腰がくだけそうになる、蕩けるような笑顔である。
彼はイアコフ・ホフマン大佐。西部戦線で〝金髪の悪魔〟の名を欲しいままにしている、第二即応機動大隊の指揮官である。
その横の赤毛の女は、今さら説明するまでもない。
〝帝国の魔女〟あるいは〝爆炎の魔導士〟として、あまりにも有名なミア・マグス大佐その人である。
背の低い彼女は、つま先立ちになって、覗き穴からケルトニアの魔導士部隊の様子をじっと窺っている。
「それにしても、あの娘はどうして大佐殿の攻撃に対処できたんでしょうね?
咄嗟の判断にしては、防御魔法の切り替えが早すぎる。
まるで爆裂魔法がくると、最初から知っていたみたいですよ」
「ああ、あのエイナという娘とは、前に一度やり合ったことがある。
その時にダムドを使ったから、覚えていたんだろう」
「ええ~、だって大佐殿が魔法を撃ったのは、この土塁の陰からですよ?
透視能力でもない限り、分からないでしょう」
「しつこい奴だな、そんなことを私が知るか!
次でとどめを刺すぞ!!」
幅五メートル、高さ二・五メートルほどの土塁の裏には、土を固めた階段が築かれ、二人の大佐はその最上段に登っていた。
最初の攻撃から、もう一分近くが経過しており、マグス大佐の両手の先には、すでに十分すぎる魔力が溜まっていた。
彼女の周囲で浮遊する七重の魔法陣が、魔力に反応して明るく輝く。
その光が、覗き穴からわずかに洩れていて、エイナは、その光を見逃さなかったのだ。
大佐はそのことに、まったく気づいていなかった。
どんっ!!
重低音がびりびりと大地を揺らし、衝撃波が分厚い土塁に叩きつけられた。
わずか二、三十メートル先で身動きできないでいる魔導士たちが、凄まじい爆発に巻き込まれ、吹き上げられる膨大な土砂で姿が見えなくなった。
土塁の後方に控えていたイアコフの部下が、すかさず風系魔法を発動させ、上空に強風を送り出した。
そうしておかないと、上空から降ってくる土砂が、こちら側に流される恐れがあった。
マグス大佐のダムド(局地戦用爆裂魔法)は、敵が立つ地面そのものを根こそぎ爆破する。
それだけでも恐ろしい威力なのだが、空高く打ち上げられた膨大な土砂が、広範囲に降り注ぐ二次被害の方が質が悪い。
運よく魔法防御で爆発から逃れたとしても、その後に降り注ぐ岩や土砂が当たれば、脆弱な人間など簡単に死んでしまうのだ。
「あ~あ、全滅ですか……。割とあっけなかったですね」
イアコフがにこにこしながら、さらりと言ってのけた。
だが、マグス大佐は首を横に振った。もじゃもじゃの赤毛が静電気を帯び、ぶわりと広がった。彼女の感情が高まった時の特徴である。
「いや、まだだ。
手応えがおかしい。奴ら、また魔法防御を張ったようだ」
「この短時間でですか?
あらかじめ詠唱を済ませていたなら分かりますが、それは初撃で使い果たしたでしょう。
次の攻撃にまで備えていたとしたら、用心のしすぎですよ」
だが、土埃が薄れてくると、敵の魔導士たちが身を寄せ合っている姿が見えてきた。
確かに敵は、対魔法防御を間に合わせたようである。
イアコフは首を捻りながら、下にいる部下たちに声をかけた。
「誰か矢を撃ち込んでみろ」
数人の兵士が土塁の陰から飛び出し、携帯弩を構えて引き金を落とした。
装填されていた太く短い矢は、ほぼ直線的に飛んでいく。
この距離なら外しようはなく、矢は敵に向かって吸い込まれていった。
だが、それは敵の手前、数メートルの空中で弾き飛ばされ、乾いた音を立てて虚しく地面に転がった。
魔導士が身にまとうマジックシールドなら、身体の直前で矢を防ぐはずだ。
つまり、敵はもう対物理防御の結界を張っているということである。
「おかしいですね。いくら何でも切り替えが早すぎます。
これはどういうことでしょうか?」
イアコフはさすがに驚いたようだった。
だが、一瞬黙り込んだマグス大佐は、手品の種を見破った子どものように、突然笑い出した。
「そうか、そういうことか!
いやいや、そうでなくては出張ってきた甲斐がない!!」
「ええ~っ、意地悪しないで教えてくださいよぉ!」
「昔、一度だけ見たことがある。私が獣人の島に派遣された時のことだ。
その時の部下だった、マリウスという男が、同じ魔法を使ったのだ」
「マリウスって……帝国を裏切って、リスト王国の高官になった魔導士じゃないですか!?」
「そういうことだ。
ケルトニアで同じ魔法を使える奴と言えば……これは、とんでもない大物が釣れたな!
おいフランツ、ちょっと上がってこい」
マグス大佐は振り返り、こちらを見上げているフランツ中尉に声をかけた。
* *
落雷のような轟音とともに、周囲の地面が膨張した。
一度抉られた地面に、降ってきた土砂が溜まっていたのだが、それが再び爆破されたのだ。
エイナは自身の死を覚悟した。わずか二十年の人生、今まで数え切れないことが起きたのに、死ぬときは呆気ないのだな。――それが彼女の実感であった。
『シルヴィアとカー君。ああ、それにロゼッタさんとユニさんにも、ちゃんとお別れをしたかった!』
エイナはそんなことを思いながら、固く目を閉じ、自分の身体がばらばらになる瞬間を待った。
しかしそんな時は、いつまで経ってもやってこなかった。
そういえば、自分が立っている地面も、びりびりと揺れているのに、崩れていく感じがしない。
彼女は恐るおそる目を開けた。
周囲には濛々とした土煙が立ち込めているが、それは半球状の結界に阻まれて中までは入ってこない。
『あれ……?』
エイナの脳裏に素朴な疑問が浮かんだ。
マグス大佐が、ダムドの二次攻撃を行ったのは間違いない。
それは対魔法防御によって、辛くも防がれた。誰が間に合わせたのかは知らないが、それはこの際、大した問題ではない。
だが、彼女の周囲に広がっている結界は、土煙の侵入を防いでいる。
対魔法防御には、そんな能力はない。それは対物理魔法の仕事である。
ということは、ダムドを防いだ術者は攻撃直後にそれを解除し、誰か準備のよい者が、素早く対物理魔法を発動させたということだ。
それはあり得ない。
少なくとも、そんな芸当ができる魔導士など、このメンバーにはいないはずだ。
小隊で最も防御魔法が得意なミハイルだって、これほどの素早い切り替えはできないだろう(そもそも、彼は魔力切れを起こしかけている)。
わけが分からないでいるエイナの肩を、誰かが後ろから掴んだ。
彼女は「きゃっ!」と叫んで、思わず飛び上がる。
「おい、正気に戻れ!
小隊をまとめろ、撤退するぞ!!」
煙草臭い息が鼻腔をくすぐった。それだけでケネス大尉だと分かる。
エイナは即座に振り返った。
「この防御魔法……誰が!?」
「オコナー大佐殿だ!
早くしろ、何でか知らんが、よりにもよって帝国の魔女が出てきやがった!!
俺たちじゃ、とても勝てねえ! とにかく逃げるぞ!!」
納得はできなかったが、まずは命令が優先である。
エイナは自分の小隊を集め、簡単な状況説明をした。
「敵はマグス大佐、この魔法はダムドという爆裂魔法の一種だ。
私にもよく分からないが、オコナー大佐殿が防御してくれているらしい。
帝国の魔女が単独行動しているとは考え難い。形勢は不利、ひとまず撤退するぞ!!」
部下たちは無言でうなずいた。
その間にも、上空から大量の土砂が降り注ぎ、滝のような騒音を立てている。
ロジャーの方も第一小隊を掌握し、オコナーとケネスの前に整列した。
エイナの第二小隊もその横に並ぶと、ロジャーが険しい表情で質問をした。
「大佐殿、この防御魔法は何なのですか?」
それは、まさにエイナが訊こうとしたことである。
それに答えたのは、ケネス大尉だった。
「魔法と物理、両方の攻撃を完全に遮断する、絶対防御魔法だ。
ケルトニアでこれを扱えるのは、大佐殿ただおひとりだ。幸運を感謝しろ!」
「しかし、それでは敵に追撃された場合……」
思わずエイナが口走った。
彼女は万能型の魔導士であり、防御魔法も使える。だから、絶対防御のことは知識としてある。
だが、それはあまりに高度で複雑な呪文である上、発動には多くの条件が必要とされている。
少なくともそれを実現できるのは、攻撃魔法を捨て、防御に特化した魔導士だけのはずだ。
リスト王国では、マリウス参謀副総長が使えると噂されているが、エイナは実際に見たことがない。
ただし、絶対防御はあらゆる攻撃を防ぐ代わりに、大きな欠点を持つ。
あまりにも膨大な魔力を消費するため、持続時間が短いことが第一。
もうひとつは、結界外からの攻撃をすべて防ぐ代わりに、中からも一切攻撃ができないことである。
対物理防御なら、結界内から魔法が自由に撃てる。
対魔法防御であれば、例えば矢を射ることができる。
だが、絶対防御の結界内では、どちらも不可能となるのだ。
つまり敵に追撃され、取り囲まれた場合は、進退窮まるのだ。
そして、いずれは魔力が尽きて防御が霧散してしまう。
「その時は俺が結界の外に出て、お前らを逃がしてやる」
ケネスが『当然だ』とばかりに、さらりと答えた。
「しかし、それは……!」
それは、ケネスが死んで時間を稼ぐという意味である。
「お前らがぐだぐだ心配することじゃねえ!
貴様らは、ケルトニアに雇われた傭兵だ! 黙って命令に従え!!」
ケネスが口元を笑うようにゆがめて怒鳴った。
* *
「ケルトニアの連中、逃げ出しましたね。まぁ、当然の判断ってわけか……。
どうします、大佐殿。騎馬部隊を出しますか?」
「まだそれは早いな。もう少し舞台を楽しもうではないか」
イアコフの提案を退けたマグス大佐は、上機嫌であった。
彼女は根っからの戦闘狂である。戦いは長く激しいほどよく、諦めずに抵抗してくる敵は、絶好の餌であった。
土塁の裏側に設けられた足場に、下からフランツ中尉が登ってきた。
「よう、フランツ。久しぶりだな。
貴様がヘマをやらかして、情報部に飛ばされたという話は聞いていたぞ。そのお前が、どうしてこんな所にいる?」
「大佐殿はきっと面白がると思いますが、話すと長くなります。後にしましょう」
「大佐殿、彼は?」
イアコフがマグス大佐に紹介を求めた。
彼よりも年輩そうだが、初めて見る顔だ。
「ああ、こいつはフランツ・ブルーメ中尉といって、昔、私の部下だった男だ。
お前が副官になるより、何年も前のことだがな。
カメリアと同じで、土系魔導士のくせに攻撃もできる。なかなか使い勝手がいいぞ。お前もそういう奴を育ててみるといい」
フランツはイアコフに向かって敬礼をした。
「ホフマン大佐の勇名はかねがね伺っております。お目にかかれて光栄であります!」
イアコフが答礼を返すのを横目に、マグス大佐はフランツに命じた。
「さっそくだが仕事だ。見てのとおり、敵が逃亡した。
退路を塞いで絶望させてやれ。例の土人形は仕込んでいるか?」
マグス大佐がにやりと笑い、フランツも笑い返す。
「無論であります」
「では、やれ!」
* *
退却を開始したエイナたちだったが、その足取りは捗らない。
彼らの周囲は、マグス大佐のダムドによってすっかり掘り返されていた。
数メートル分の土壌は、ばらばらになって上空に打ち上げられ、それが広範囲に落下した結果、抉られた地面を半分ほども埋めている。
地面はずぶずぶで、一歩ごとに膝のあたりまで沈み込むのだ。
魔導士たちは焦りながら、何度も後方を振り返った。
帝国軍は、彼らの行動を確実に見ているはずだ。当然、逃亡を阻止するために追撃してくるはずである。
ところが、第二線の塹壕からも、あちこちに築かれた土塁の陰からも、一兵も出てこない。
悪戦苦闘しながら十メートルほど進んだところで、ようやく固い地面にたどり着いた。
理由は分からないが、敵は追ってこない。
「よし、ここからは駆け足だ!」
ケネスが号令をかけたところで、いきなり地面がぐらりと揺れた。
彼らはあっという間に足元をすくわれ転倒した。
その目の前で、〝ごごごご……〟という地響きを上げ、地面が盛り上がった。
ダムドのような激しい変化でなく、もっとゆっくりした動きだった。
それは彼らがすでに見たことがある光景だった。
大地を揺るがしながら、もこもことせり上がってくる土壁。
間違いなく、山中でエイナたちを生き埋めにした、敵魔導士の仕業である。
王国の若き魔導士たちが、のろのろと立ち上がると、彼ら越えてきた第一線の塹壕の手前に、絶望的な土壁が出現していた。