二十六 色彩の記憶
午後六時、赤城の中庭では衛兵の交替が行われていた。
ここからは遅番と呼ばれ、深夜零時までの勤務となる。
周囲はもうすっかり暗くなっており、王国でも最南部の赤城市とはいえ、かなり冷え込んできた。
分隊を率いるマコーミック伍長は、槍を腕に抱えて両手をこすり合わせていた。
中庭の警備は、もちろん侵入者に対する備えもあるが、むしろ不意の伝令に備える意味合いが大きい。
そう滅多にあることではないが、飛行能力を持つ幻獣が予告なしに着陸してくる場合がある。
つい先日も、参謀本部付のシルヴィア少尉が立ち寄ったばかりであった。
その時は伝令任務ではなく、彼ら下っ端の兵士には窺い知れない任務の都合のようだった。
少尉は驚くべきことに、コルドラ大山脈を越えてきたらしく、着陸した時には寒さと疲労で意識を失っていた。
『若い娘――それも貴族のご令嬢だっていうのに、死ぬような目に遭うほどの任務とはな……」
年輩の伍長にとって、シルヴィアは自分の子どものような年齢である。
彼はこすった手で口元を覆い、息を吐いて温めながら、気の毒そうに首を振った。
その頭上で、いきなり〝ごうっ〟という風音が通り過ぎた。
それは何度も聞いたことのある、不吉な響きである。
「カーバンクルだ! モーガンは赤龍帝閣下に報告!!
ネイサンとフィルは明かりを上に向けて合図!」
伍長は大声で部下たちに指示を出すと同時に、自分も龕灯を手に取って駆けだした。
龕灯は今でいう懐中電灯のようなもので、向けた方向だけを照らす携帯照明である。
中庭には篝火が焚かれているとはいえ、真っ暗な上空を旋回しているであろうシルヴィア少尉に、安全な着陸場所を誘導しなければならない。
三人の兵士が十分な距離を取り、明かりを上に向かって振ると、そのちょうど真ん中辺りに有翼の大型獣がふわりと降り立った。
伍長がすぐさま駆け寄り、固定用のベルトを外しているシルヴィアに向かって声をかけた。
「少尉殿、あなたが先日出発してから、まだ三日ですよ?
ゆっくり休む暇もなかったでしょうに、参謀本部も人使いが荒いですな!」
彼は滑り降りてきたシルヴィアを、がっしりと抱きとめた。
分厚い飛行服の油臭い匂いに混じって、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。
シルヴィアは飛行帽と眼鏡を外して伍長に預け、顔に巻いていたマフラーを引き下げた。
「ありがとう、いつものことよ。明日の朝に出発するから、一晩部屋を借りるわ。
リディア様はまだ執務中かしら? ご挨拶をしなくちゃ」
彼女はマフラーを伍長に渡し、かじかんだ手から抜き取った分厚い手袋をぽいぽいと放り投げた。
「この時間なら、姫さま(リディアの渾名)は書類の決裁をしているはずです。
一番嫌いな仕事は、最後に残しておく主義ですからね。
シルヴィア少尉が来たと知れば、サボる口実ができて大喜びされるでしょう」
伍長はシルヴィアが脱ぎ捨てた装具を左脇に抱え、右手には重い手荷物を持って先に立った。
「さっき部下を報告にやりました。
戻ってくるまで、取りあえず我々の控室で暖まってください。
熱いお茶をお淹れします」
ヤギの乳で煮だした甘い紅茶は南部の名物で、甘党のシルヴィアの大好物であった。
彼らの背後では、残った部下がカー君から飛行用のベルトを外そうと奮闘していた。
十五分後、シルヴィアは赤龍帝の執務室に通された。
部屋に入ると、リディアは机には向かっておらず、お客を待ちかねた子どものように、扉の前でぴょんぴょん跳ねていた。
彼女は慌てて敬礼しようとするシルヴィアの手を押さえ、応接の方へ引っ張っていこうとしたが、不意に怪訝な顔をして動きを止めた。
「王都から飛んできたばかりにしては、手が温かいな?」
「は、はぁ。衛兵の控室で少し暖を取らせていただいたせいだと思います」
「大した時間ではあるまい?
おなごの冷えは、暖炉で暖めたからといって、そう簡単には治るものではないぞ。
そういえば、そなたの顔も妙に赤い。ちょっと屈んでみよ」
リディアは赤城市民や兵士から〝姫さま〟と呼ばれるくらいで、童顔で小柄な体躯をしている。
女性としては長身のシルヴィアは、言われるままに身を屈め、赤龍帝の前に顔を近づけた。
その頬を、リディアの小さな手が両側から挟んだ。
赤龍帝の少し浅黒い顔が曇り、眉根に皺が寄った。
リディアはシルヴィアの頬を挟んだまま、額に自分のおでこをくっつけた。
「そなた、酷い熱だぞ! 自分で気づいていないのか!?
誰か、誰かおるか!!」
リディアの叫び声に、即座に扉が開いて警備の兵が顔を出す。
「誰か、軍医を呼びに行かせろ!
お前は手伝え! シルヴィアをソファに寝かせるぞ!!」
突然のことにシルヴィアは狼狽え、「自分は大丈夫です」と言おうとした。
だが、身体が宙に浮いたようにふわふわする上に、舌がもつれてうまく喋れなかった。
そして、不意に目の前が暗くなり、彼女は気を失ってしまった。
* *
「総員、突撃!」
ロジャーの命令に、魔導士たちは集団のまま走り出した。
帝国兵の姿は見えないが、塹壕に潜んでいるのは明らかだった。
塹壕がやっかいなのは、敵兵の位置がつかめないことだ。闇雲に魔法を撃ち込んでも、そこに敵がいなくては魔力の無駄使いである。
防御魔法を展開したままであるから、まずは接近して状況を確かめるべきであった。
ところが、塹壕の前に積まれた土嚢にまでたどり着き、上から覗き込んでも、中はもぬけの殻だった。
左右を見渡しても人影は見えない。
塹壕は真っ直ぐではなく、途中に屈曲部を設けるのが普通である(そこには大型弩砲が据えられていたが、すでに焼き払われている)。
だから、その先までは見通せないのだが、敵がいるかどうかは、ある程度雰囲気で分かるものだ。
「ロジャー中尉、敵は第二線に後退したのではないでしょうか?」
エイナは指揮を任せた先輩に対し、そう自分の意見を述べた。
塹壕を何重にも構築して、敵の出血を強いながら下がっていく遅滞防御は、もともとケルトニアが編み出した戦術であるが、帝国側もとっくに導入していた。
通常の陣地では、三重以上の塹壕を掘り、それを縦溝でつないでいる。
縦溝には要所に仕掛けがあって、後退時に簡単に溝を埋めることができ、追撃されないように工夫されているのだ。
敵がいないのであれば、すぐに後を追えそうであるが、そう甘くはない。
塹壕は幅が二、三メートルもあるから簡単には跳び越せないし、渡るための橋もない。
つまり、それ自体が空堀という、障害物の役目を果たしているのだ。
だったら、いっそ塹壕の中に入って、反対側によじ登ればよさそうだが、それも危険である。
塹壕には外に出るための簡易的な梯子があるが、当然敵は退却時に持ち去っている。
深さ自体は一・三メートルほどだから、複数で協力すれば登るのは難しくない。
だが、敵に土系の魔導士がいることが問題だった。
山で大規模な土砂崩れを起こせるのだから、塹壕を崩すことなど容易いだろう。
その敵が、これまでまったく動きを見せていないのが、かえって怪しい。
これが罠である可能性は、かなり高かった。
「敵は必ず、何らかの罠を用意しているでしょう。
自分は当初の計画どおり、櫓の破壊を優先し、いったん後退すべきと判断します。
櫓の残骸を持ち帰り、塹壕に渡す板橋を作成して、明日再攻撃する方が確実です」
エイナはそう主張した。
これに対し、ロジャーは難しい顔で反論した。
「いや、敵が第二線に後退した以上、もう櫓の破壊に意味はない。
敵を一兵も倒さないで後退しては、相手の規模も配備状況も不明のままだ。
少なくとも、今日のうちに第二の塹壕までは進撃を継続すべきだと思う」
ロジャーとエイナは、同時にケネス大尉の方を見た。
だが、彼は薄笑いを浮かべて首を振った。
「確かに、俺は最初に方針を示し、深追いはするなと指示した。
だが、それは最初に戦闘が起こり、一定の戦果を挙げることが前提となっている。
現状はもうその想定から外れている。判断するのはお前たちだ」
二人の小隊長は顔を見合わせた。
今は敵陣の中で、いつまでも議論をしている時間はない。
ロジャーの決断は早かった。
「では全員の決を取る。
敵を追って一戦交えようという者、手を挙げろ」
ロジャーとエイナを除き、第一小隊の四人と第二小隊の三人が、小さく挙手をした。
第二小隊で反対に回ったのは、ノーマとミハイルだけである。
「よし、決まりだ。
塹壕は魔法で集めた水を凍結させ、氷で橋を作る。
行くぞ!」
第一小隊の魔導士が、土塁を突破した時と同じ魔法で大きな水球を出現させ、それを塹壕に落とすと同時に、エイナが凍結魔法を放った。
水は瞬時に凍りつき、橋とは呼べないものの、塹壕の中で氷の塊りとなった。
氷の上部は、地面から三十センチほど下がっているだけで、十分に歩いて渡れる踏み台になってくれた。
全員が渡り切ったとところで、改めて前進が始まった。
塹壕の第二線は、わずか三十メートルほど先である。
土嚢以外に障害物がなかった最初の塹壕と違い、先を尖らせた丸太を×型に組んだ馬房柵や、数メートルの短い土塁が至るところに築かれている。
第二線こそが本格的な抵抗拠点であることは、誰の目にも明らかであった。
塹壕の手前に積まれた土嚢の隙間からは、早くも敵の矢がうなりを上げて飛んでくる。
それらは防御障壁によって弾かれたが、エイナたちに精神的な圧迫を与えるという点では、十分な効果を発揮した。
魔導士たちは慎重に進みながら、まずは接近の障害となる馬房柵を一掃した。
強力なファイアボールを撃ち込むまでもないので、ノーマが巨大な竜巻を発生させて空中に巻き上げる。
竜巻が消え去ると、柵は上空から落下して地面に激突し、ばらばらの丸太に戻った。
「敵の矢が鬱陶しい。この距離ならファイアウォールが届くだろう。
サイラス少尉、うまく塹壕に発生させられるか?」
ファイアウォールは、発生場所を正確に指定するのが難しい魔法だ。
問いかけられたのは、ロジャーと同じ一期生である。
「そいつは第二小隊が、緒戦でやった手じゃないですか?
失敗したら後輩に示しがつきませんよ」
苦笑いする少尉に、ロジャーは「ではやれ」と短く命令する。
サイラスは事前に詠唱を済ませていたので、すぐに両手を前に伸ばす。
後は手の先に魔力が十分に溜まれば、短い発動呪文を唱えるだけで、魔法は発動するはずだった。
敵陣を凝視していたエイナは、無意識につられて先輩の仕草をちらりと見た。
その一瞬、視界の端で何かが光った気がした。
背筋に氷のような恐怖が走り、彼女は反射的に怒鳴った。
「カール! 魔法防御をっ!!」
* *
今回の任務のように、王国の軍人が特別な任務に従事した際には、必ず後で報告書の提出が義務付けられている。
兵士の方でもそれが分かっているから、記憶が薄れないよう、その日のうちにメモや覚書をつけるのが常識である。
この日の作戦は、任務の佳境ともいうべき内容だったので、参謀本部からは特に詳細な報告が求められた。
だが後日、その報告書の作成に、エイナはひどく苦労をした。
あまりにも多くのことが同時に起こり過ぎて、記憶が混濁していたからだった。
当日に自分が記したメモ紙を見ても、さっぱり要領が得ず、時系列もよく分からなかったのだ。
自分の小隊の部下であるカール少尉に、とっさに対魔法防御の発動を命じたエイナだったが、なぜそのような判断をしたのか、理由がうまく説明できなかった。
怒鳴られたカールの方も、突然のことに驚いたが、彼も軍人である。
上官の命令には無条件に従うよう、魔導院の教練の頃から身体に叩き込まれていた。
だから彼は命令の意味を考えることなく、準備が整っていた対魔法用の防御障壁を発動させた。
だが、その直後にカールは後悔と疑念に襲われた。
彼が発生させた防御結界は、その場にいた全員を包み込んだ。
それは何を意味するか?
第一小隊の先輩、ニコライ少尉が展開していた、敵の物理的な攻撃を完全に遮断する防御を消滅させたのである。
術者であるニコライは、即座に自分の魔法が打ち消されたことに気がついた。
「おい、何のつもりだ!?」
彼がエイナたちに向かって怒鳴りつけたのは、当然のことであった。
だが、その声は誰にも届かなかった。
突然、彼らの周囲の地面が爆発し、大量の土砂が上空に向けて吹っ飛ばされたのだ。
その爆発は凄まじい轟音と地響きを伴い、ニコライの声などあっさりかき消してしまったのだ。
敵の攻撃が魔法によるものだとは、すぐに分かったが、その効果は凄まじかった。
カールの対魔結界に入る地面だけが、きれいな円を描いて残され、その外側は深さ三メートルまで吹き飛ばされたのだ。
結界内の無事な地面も激しい縦揺れを起こし、魔導士たちは全員が立っていられずに、地面に叩きつけられた。
エイナはカールに防御魔法の発動を命じてからは、呆けたように周囲の激変する状況を眺めていた。
もちろん、何が起きているかなど、理解できるはずがない。
それでも、彼女は頭の中で状況を把握しようと努めていた。
『あれ? これって最初の戦いで、第一小隊から同士討ちの攻撃を受けた時と、同じ状況だ……』
『ああそうか、いま覚えている既視感はそのせいか……』
『ううん、そうじゃないわ。これはもっと別の記憶、忘れちゃいけない大事なことの再現のような気がする』
『何だっけ? とってもきれいだったような気がする。私は、その光景に憧れと嫉妬を感じていたはずだった……』
思考がぐるぐると空回りして、考えがしっかりまとまらない。
長い時が経ったように思えたが、それは一秒にも満たない、わずかな夢想に過ぎなかった。
その夢は、身体がふわっと浮き上がり、激しく地面に叩きつけられたことで、あっけなく覚めた。
エイナはばね仕掛けのように飛び上がり、再び部下に向けて怒鳴った。
「カール! 対魔防御を今すぐ解除しろ!!
総員、頭上に注意! すぐに土砂が降ってくるぞ!!」
彼女はそう叫ぶと、必死で呪文の詠唱を始めた。
エイナは万能型の魔導士なので防御魔法も使えるが、ミハイルほど得意ではない。
だが、ミハイルはもう魔力が尽きかけているし、後を引き継いだニコライ先輩は魔法を打ち消されたため、再起動には時間がかかる。
彼女は対物理防御の呪文を、三重詠唱で唱え始めた。
これまでに三重詠唱を成功させたのは、得意とする凍結魔法の系統だけだったが、間に合わせないと全員が死ぬことになる。
脇から冷や汗が流れるのが感じられた。
彼女は夢中で高速詠唱を続け、一か八かで魔力を放出した。
だが、天はまだエイナを見放さないでいてくれたらしく、どうにか魔法の発動は成功した。
その数秒後、上空に吹っ飛ばされた膨大な土砂と岩石が、頭上から降り注いできた。直撃を喰らったら、即死するのは間違いない。
耳をつんざくような轟音で思考が吹き飛ばされ、頭がくらくらした。
誰もが本能的に頭を抱えてうずくまったが、幸いなことに落下物は、すべて防御結界が弾き飛ばしてくれた。
結界の周囲は濛々とした土煙に包まれ、視界はまったく利かなかった。
賭けに勝ったエイナは、膝をついたまま安堵の溜息を洩らした。
今や彼女ははっきりと思い出していた。
彼女が視界の端で捉えた光は、一瞬のことだったが、確かに虹色の輝きを放っていた。
それは遠い北の山中で、一度だけ見たことがある。
それ以来、エイナの心を捉えて離さない、忘れられない経験だった。
帝国の魔女、マグス大佐の局地戦用爆裂魔法、ダムドを発動する時に現れる、七色の魔法陣が放つ光である。
すべてを思い出すと同時に、エイナは戦慄した。
ダムドは一度きりの魔法ではない。ものの三十秒もすれば、次の一撃を出すことができるのだ。
そして、さっきは彼女たちを救ってくれた、カールの対魔法防御障壁は、エイナ自身の命令で解除されてしまった。
再起動するには、ある程度の時間がかかる。
すでに先ほどの初撃から、二十秒は経っているはずだ。
絶対に間に合わない!
エイナの心臓を、悪魔の冷たい手が、ぎゅっと握りしめた。