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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第八章 トルゴルの藩王
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二十六 色彩の記憶

 午後六時、赤城の中庭では衛兵の交替が行われていた。

 ここからは遅番と呼ばれ、深夜零時までの勤務となる。

 周囲はもうすっかり暗くなっており、王国でも最南部の赤城市とはいえ、かなり冷え込んできた。


 分隊を率いるマコーミック伍長は、槍を腕に抱えて両手をこすり合わせていた。

 中庭の警備は、もちろん侵入者に対する備えもあるが、むしろ不意の伝令に備える意味合いが大きい。

 そう滅多にあることではないが、飛行能力を持つ幻獣が予告なしに着陸してくる場合がある。


 つい先日も、参謀本部付のシルヴィア少尉が立ち寄ったばかりであった。

 その時は伝令任務ではなく、彼ら下っ端の兵士には窺い知れない任務の都合のようだった。

 少尉は驚くべきことに、コルドラ大山脈を越えてきたらしく、着陸した時には寒さと疲労で意識を失っていた。


『若い娘――それも貴族のご令嬢だっていうのに、死ぬような目に遭うほどの任務とはな……」

 年輩の伍長にとって、シルヴィアは自分の子どものような年齢である。

 彼はこすった手で口元を覆い、息を吐いて温めながら、気の毒そうに首を振った。


 その頭上で、いきなり〝ごうっ〟という風音が通り過ぎた。

 それは何度も聞いたことのある、不吉な響きである。


「カーバンクルだ! モーガンは赤龍帝閣下に報告!!

 ネイサンとフィルは明かりを上に向けて合図!」

 伍長は大声で部下たちに指示を出すと同時に、自分も龕灯がんどうを手に取って駆けだした。


 龕灯がんどうは今でいう懐中電灯のようなもので、向けた方向だけを照らす携帯照明である。

 中庭には篝火が焚かれているとはいえ、真っ暗な上空を旋回しているであろうシルヴィア少尉に、安全な着陸場所を誘導しなければならない。

 三人の兵士が十分な距離を取り、明かりを上に向かって振ると、そのちょうど真ん中辺りに有翼の大型獣がふわりと降り立った。


 伍長がすぐさま駆け寄り、固定用のベルトを外しているシルヴィアに向かって声をかけた。

「少尉殿、あなたが先日出発してから、まだ三日ですよ?

 ゆっくり休む暇もなかったでしょうに、参謀本部も人使いが荒いですな!」


 彼は滑り降りてきたシルヴィアを、がっしりと抱きとめた。

 分厚い飛行服の油臭い匂いに混じって、ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。


 シルヴィアは飛行帽と眼鏡を外して伍長に預け、顔に巻いていたマフラーを引き下げた。

「ありがとう、いつものことよ。明日の朝に出発するから、一晩部屋を借りるわ。

 リディア様はまだ執務中かしら? ご挨拶をしなくちゃ」

 彼女はマフラーを伍長に渡し、かじかんだ手から抜き取った分厚い手袋をぽいぽいと放り投げた。


「この時間なら、姫さま(リディアのあだ)は書類の決裁をしているはずです。

 一番嫌いな仕事は、最後に残しておく主義ですからね。

 シルヴィア少尉が来たと知れば、サボる口実ができて大喜びされるでしょう」


 伍長はシルヴィアが脱ぎ捨てた装具を左脇に抱え、右手には重い手荷物を持って先に立った。

「さっき部下を報告にやりました。

 戻ってくるまで、取りあえず我々の控室で暖まってください。

 熱いお茶をお淹れします」

 ヤギの乳で煮だした甘い紅茶は南部の名物で、甘党のシルヴィアの大好物であった。

 彼らの背後では、残った部下がカー君から飛行用のベルトを外そうと奮闘していた。


 十五分後、シルヴィアは赤龍帝の執務室に通された。

 部屋に入ると、リディアは机には向かっておらず、お客を待ちかねた子どものように、扉の前でぴょんぴょん跳ねていた。

 彼女は慌てて敬礼しようとするシルヴィアの手を押さえ、応接の方へ引っ張っていこうとしたが、不意に怪訝な顔をして動きを止めた。


「王都から飛んできたばかりにしては、手が温かいな?」

「は、はぁ。衛兵の控室で少し暖を取らせていただいたせいだと思います」


「大した時間ではあるまい?

 おなごの冷えは、暖炉で暖めたからといって、そう簡単には治るものではないぞ。

 そういえば、そなたの顔も妙に赤い。ちょっと屈んでみよ」


 リディアは赤城市民や兵士から〝姫さま〟と呼ばれるくらいで、童顔で小柄な体躯をしている。

 女性としては長身のシルヴィアは、言われるままに身を屈め、赤龍帝の前に顔を近づけた。

 その頬を、リディアの小さな手が両側から挟んだ。


 赤龍帝の少し浅黒い顔が曇り、眉根に皺が寄った。

 リディアはシルヴィアの頬を挟んだまま、額に自分のおでこをくっつけた。


「そなた、酷い熱だぞ! 自分で気づいていないのか!?

 誰か、誰かおるか!!」

 リディアの叫び声に、即座に扉が開いて警備の兵が顔を出す。


「誰か、軍医せんせいを呼びに行かせろ!

 お前は手伝え! シルヴィアをソファに寝かせるぞ!!」


 突然のことにシルヴィアは狼狽うろたえ、「自分は大丈夫です」と言おうとした。

 だが、身体が宙に浮いたようにふわふわする上に、舌がもつれてうまく喋れなかった。

 そして、不意に目の前が暗くなり、彼女は気を失ってしまった。


      *       *


「総員、突撃!」

 ロジャーの命令に、魔導士たちは集団のまま走り出した。


 帝国兵の姿は見えないが、塹壕に潜んでいるのは明らかだった。

 塹壕がやっかいなのは、敵兵の位置がつかめないことだ。闇雲に魔法を撃ち込んでも、そこに敵がいなくては魔力の無駄使いである。

 防御魔法を展開したままであるから、まずは接近して状況を確かめるべきであった。


 ところが、塹壕の前に積まれた土嚢にまでたどり着き、上から覗き込んでも、中はもぬけの殻だった。

 左右を見渡しても人影は見えない。


 塹壕は真っ直ぐではなく、途中に屈曲部を設けるのが普通である(そこには大型弩砲バリスタが据えられていたが、すでに焼き払われている)。

 だから、その先までは見通せないのだが、敵がいるかどうかは、ある程度雰囲気で分かるものだ。


「ロジャー中尉、敵は第二線に後退したのではないでしょうか?」

 エイナは指揮を任せた先輩に対し、そう自分の意見を述べた。

 塹壕を何重にも構築して、敵の出血を強いながら下がっていく遅滞防御は、もともとケルトニアが編み出した戦術であるが、帝国側もとっくに導入していた。


 通常の陣地では、三重以上の塹壕を掘り、それを縦溝でつないでいる。

 縦溝には要所に仕掛けがあって、後退時に簡単に溝を埋めることができ、追撃されないように工夫されているのだ。


 敵がいないのであれば、すぐに後を追えそうであるが、そう甘くはない。

 塹壕は幅が二、三メートルもあるから簡単には跳び越せないし、渡るための橋もない。

 つまり、それ自体が空堀という、障害物の役目を果たしているのだ。


 だったら、いっそ塹壕の中に入って、反対側によじ登ればよさそうだが、それも危険である。

 塹壕には外に出るための簡易的な梯子があるが、当然敵は退却時に持ち去っている。

 深さ自体は一・三メートルほどだから、複数で協力すれば登るのは難しくない。

 だが、敵に土系の魔導士がいることが問題だった。


 山で大規模な土砂崩れを起こせるのだから、塹壕を崩すことなど容易いだろう。

 その敵が、これまでまったく動きを見せていないのが、かえって怪しい。

 これが罠である可能性は、かなり高かった。


「敵は必ず、何らかの罠を用意しているでしょう。

 自分は当初の計画どおり、やぐらの破壊を優先し、いったん後退すべきと判断します。

 櫓の残骸を持ち帰り、塹壕に渡す板橋を作成して、明日再攻撃する方が確実です」

 エイナはそう主張した。


 これに対し、ロジャーは難しい顔で反論した。

「いや、敵が第二線に後退した以上、もう櫓の破壊に意味はない。

 敵を一兵も倒さないで後退しては、相手の規模も配備状況も不明のままだ。

 少なくとも、今日のうちに第二の塹壕までは進撃を継続すべきだと思う」


 ロジャーとエイナは、同時にケネス大尉の方を見た。

 だが、彼は薄笑いを浮かべて首を振った。


「確かに、俺は最初に方針を示し、深追いはするなと指示した。

 だが、それは最初に戦闘が起こり、一定の戦果を挙げることが前提となっている。

 現状はもうその想定から外れている。判断するのはお前たちだ」


 二人の小隊長は顔を見合わせた。

 今は敵陣の中で、いつまでも議論をしている時間はない。

 ロジャーの決断は早かった。


「では全員の決を取る。

 敵を追って一戦交えようという者、手を挙げろ」

 ロジャーとエイナを除き、第一小隊の四人と第二小隊の三人が、小さく挙手をした。

 第二小隊で反対に回ったのは、ノーマとミハイルだけである。


「よし、決まりだ。

 塹壕は魔法で集めた水を凍結させ、氷で橋を作る。

 行くぞ!」


 第一小隊の魔導士が、土塁を突破した時と同じ魔法で大きな水球を出現させ、それを塹壕に落とすと同時に、エイナが凍結魔法を放った。

 水は瞬時に凍りつき、橋とは呼べないものの、塹壕の中で氷の塊りとなった。

 氷の上部は、地面から三十センチほど下がっているだけで、十分に歩いて渡れる踏み台になってくれた。


 全員が渡り切ったとところで、改めて前進が始まった。

 塹壕の第二線は、わずか三十メートルほど先である。

 土嚢以外に障害物がなかった最初の塹壕と違い、先を尖らせた丸太を×型に組んだ馬房柵や、数メートルの短い土塁が至るところに築かれている。


 第二線こそが本格的な抵抗拠点であることは、誰の目にも明らかであった。

 塹壕の手前に積まれた土嚢の隙間からは、早くも敵の矢がうなりを上げて飛んでくる。

 それらは防御障壁によって弾かれたが、エイナたちに精神的な圧迫を与えるという点では、十分な効果を発揮した。


 魔導士たちは慎重に進みながら、まずは接近の障害となる馬房柵を一掃した。

 強力なファイアボールを撃ち込むまでもないので、ノーマが巨大な竜巻を発生させて空中に巻き上げる。

 竜巻が消え去ると、柵は上空から落下して地面に激突し、ばらばらの丸太に戻った。


「敵の矢が鬱陶うっとうしい。この距離ならファイアウォールが届くだろう。

 サイラス少尉、うまく塹壕に発生させられるか?」

 ファイアウォールは、発生場所を正確に指定するのが難しい魔法だ。

 問いかけられたのは、ロジャーと同じ一期生である。


「そいつは第二小隊が、緒戦でやった手じゃないですか?

 失敗したら後輩に示しがつきませんよ」

 苦笑いする少尉に、ロジャーは「ではやれ」と短く命令する。


 サイラスは事前に詠唱を済ませていたので、すぐに両手を前に伸ばす。

 後は手の先に魔力が十分に溜まれば、短い発動呪文を唱えるだけで、魔法は発動するはずだった。


 敵陣を凝視していたエイナは、無意識につられて先輩の仕草をちらりと見た。

 その一瞬、視界の端で何かが光った気がした。

 背筋に氷のような恐怖が走り、彼女は反射的に怒鳴った。


「カール! 魔法防御をっ!!」


      *       *


 今回の任務のように、王国の軍人が特別な任務に従事した際には、必ず後で報告書の提出が義務付けられている。

 兵士の方でもそれが分かっているから、記憶が薄れないよう、その日のうちにメモや覚書をつけるのが常識である。

 この日の作戦は、任務の佳境ともいうべき内容だったので、参謀本部からは特に詳細な報告が求められた。


 だが後日、その報告書の作成に、エイナはひどく苦労をした。

 あまりにも多くのことが同時に起こり過ぎて、記憶が混濁していたからだった。

 当日に自分がしるしたメモ紙を見ても、さっぱり要領が得ず、時系列もよく分からなかったのだ。


 自分の小隊の部下であるカール少尉に、とっさに対魔法防御の発動を命じたエイナだったが、なぜそのような判断をしたのか、理由がうまく説明できなかった。


 怒鳴られたカールの方も、突然のことに驚いたが、彼も軍人である。

 上官の命令には無条件に従うよう、魔導院の教練の頃から身体に叩き込まれていた。

 だから彼は命令の意味を考えることなく、準備が整っていた対魔法用の防御障壁を発動させた。


 だが、その直後にカールは後悔と疑念に襲われた。

 彼が発生させた防御結界は、その場にいた全員を包み込んだ。

 それは何を意味するか?

 第一小隊の先輩、ニコライ少尉が展開していた、敵の物理的な攻撃を完全に遮断する防御を消滅させたのである。


 術者であるニコライは、即座に自分の魔法が打ち消されたことに気がついた。

「おい、何のつもりだ!?」


 彼がエイナたちに向かって怒鳴りつけたのは、当然のことであった。

 だが、その声は誰にも届かなかった。

 突然、彼らの周囲の地面が爆発し、大量の土砂が上空に向けて吹っ飛ばされたのだ。

 その爆発は凄まじい轟音と地響きを伴い、ニコライの声などあっさりかき消してしまったのだ。


 敵の攻撃が魔法によるものだとは、すぐに分かったが、その効果は凄まじかった。

 カールの対魔結界に入る地面だけが、きれいな円を描いて残され、その外側は深さ三メートルまで吹き飛ばされたのだ。

 結界内の無事な地面も激しい縦揺れを起こし、魔導士たちは全員が立っていられずに、地面に叩きつけられた。


 エイナはカールに防御魔法の発動を命じてからは、呆けたように周囲の激変する状況を眺めていた。

 もちろん、何が起きているかなど、理解できるはずがない。

 それでも、彼女は頭の中で状況を把握しようと努めていた。


『あれ? これって最初の戦いで、第一小隊から同士討ちの攻撃を受けた時と、同じ状況だ……』

『ああそうか、いま覚えている既視感はそのせいか……』

『ううん、そうじゃないわ。これはもっと別の記憶、忘れちゃいけない大事なことの再現のような気がする』

『何だっけ? とってもきれいだったような気がする。私は、その光景に憧れと嫉妬を感じていたはずだった……』


 思考がぐるぐると空回りして、考えがしっかりまとまらない。

 長い時が経ったように思えたが、それは一秒にも満たない、わずかな夢想に過ぎなかった。

 その夢は、身体がふわっと浮き上がり、激しく地面に叩きつけられたことで、あっけなく覚めた。


 エイナはばね仕掛けのように飛び上がり、再び部下に向けて怒鳴った。


「カール! 対魔防御を今すぐ解除しろ!!

 総員、頭上に注意! すぐに土砂が降ってくるぞ!!」

 彼女はそう叫ぶと、必死で呪文の詠唱を始めた。


 エイナは万能型の魔導士なので防御魔法も使えるが、ミハイルほど得意ではない。

 だが、ミハイルはもう魔力が尽きかけているし、後を引き継いだニコライ先輩は魔法を打ち消されたため、再起動には時間がかかる。


 彼女は対物理防御の呪文を、三重詠唱で唱え始めた。

 これまでに三重詠唱を成功させたのは、得意とする凍結魔法の系統だけだったが、間に合わせないと全員が死ぬことになる。


 脇から冷や汗が流れるのが感じられた。

 彼女は夢中で高速詠唱を続け、一か八かで魔力を放出した。

 だが、天はまだエイナを見放さないでいてくれたらしく、どうにか魔法の発動は成功した。


 その数秒後、上空に吹っ飛ばされた膨大な土砂と岩石が、頭上から降り注いできた。直撃を喰らったら、即死するのは間違いない。

 耳をつんざくような轟音で思考が吹き飛ばされ、頭がくらくらした。

 誰もが本能的に頭を抱えてうずくまったが、幸いなことに落下物は、すべて防御結界が弾き飛ばしてくれた。


 結界の周囲は濛々(もうもう)とした土煙に包まれ、視界はまったく利かなかった。

 賭けに勝ったエイナは、膝をついたまま安堵の溜息を洩らした。

 今や彼女ははっきりと思い出していた。


 彼女が視界の端で捉えた光は、一瞬のことだったが、確かに虹色の輝きを放っていた。

 それは遠い北の山中で、一度だけ見たことがある。

 それ以来、エイナの心を捉えて離さない、忘れられない経験だった。


 帝国の魔女、マグス大佐の局地戦用爆裂魔法、ダムド(糞ったれ)を発動する時に現れる、七色の魔法陣が放つ光である。


 すべてを思い出すと同時に、エイナは戦慄した。

 ダムドは一度きりの魔法ではない。ものの三十秒もすれば、次の一撃を出すことができるのだ。


 そして、さっきは彼女たちを救ってくれた、カールの対魔法防御障壁は、エイナ自身の命令で解除されてしまった。

 再起動するには、ある程度の時間がかかる。


 すでに先ほどの初撃から、二十秒は経っているはずだ。

 絶対に間に合わない!


 エイナの心臓を、悪魔の冷たい手が、ぎゅっと握りしめた。

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― 新着の感想 ―
ダムドで爆裂魔法と言われるとどうしても昔懐かしのマンガを思い出しちゃいますねえ
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