二十三 国境線
洞窟を出たエイナたちは、下山してドルゴル藩兵の宿営地を目指すことになった。
シルヴィアは彼らと別れ、いったんリスト王国に戻ると言い、カー君の背中に乗って飛行準備を始めた。
「もう行っちゃうの?」
下から聞こえてくるエイナの声は、いかにも寂しそうだった。
「うん。マリウス様からまめに帰るように言われているからね。
どうせ報告を済ませたら、また戻ってくるわよ」
「でも……遠いわ」
シルヴィアは、分厚い革の飛行服にベルトを装着しながら笑顔を見せた。
「そうでもないのよ。
コルドラ大山脈さえ越えれば、ここって案外近いの。すぐに戻ってくるわ」
実際のところ、トルゴル東端部のこの地から、王国の赤城市までは、わずか一日の飛行距離であった。
赤城市を経由して王都に飛び、マリウスに直接報告しても片道二日である。
エイナたちが陸路と船で一か月もかけたのに比べると、あまりに差があり過ぎた。
もっとも、シルヴィアが最短距離を飛行できるようになったのは、ごく最近のことである。
カー君は、地上の動植物が発する生命エネルギー(精気)を糧に活動している。
それは、後天的に獲得した飛行能力においても同じであった。
コルドラ大山脈は、三千から五千メートル級の高山が連なっている。
そこに棲息できる動植物はごく限られているため、山脈の上空では精気がほとんど供給されない。
そのため、飛べるようになっても、シルヴィアたちは山越えを最初から諦めていた。
ところが、伝令業務で連日酷使されるうちに、カー君は次第に効率的な飛行を学習していった。
彼自身は、その技術的な説明ができなかったが、要するに経験のなせる業である。
シルヴィアとカー君は日々の業務の中で、何度か山の上を飛ぶことに成功し、次第に自信をつけていった。
今回命じられた飛行は、その成長を確認する狙いがあった。
これを達成できれば、彼女たちの行動範囲は格段に広がることになる。
参謀本部の期待は大きかったが、それは決して楽なものではなかった。
真冬に酸素の薄い高々度を飛行することは、カーバンクルよりもシルヴィアにとって、より厳しい試練であった。
彼女が着用する飛行服には、極限状態で使用者を護る魔法が込められていた。
ドワーフたちは、そのことをシルヴィアに教えていなかったが、彼女は否応なしにそれを悟り、感謝することになった。
シルヴィアは、山越えの飛行がいかに過酷であるかを、親友であるエイナにも明かさなかった。
お互いが任務に命を懸けているのである。弱音を吐いて同情されるなど、貴族である彼女のプライドが許さなかった。
午後に山中を飛び立ったシルヴィアは、日が暮れても休むことなく飛び続けた。
翌日の昼前、カーバンクルが赤城に降り立った時には、シルヴィアは意識を失っていた。
落下しなかったのは、身体を支えている何本ものベルトのお陰であった。
軍医の懸命な手当てで目覚めたシルヴィアは、赤龍帝の慰留も聞かずにそのまま王都へと向かった(軍医が激怒したのは言うまでもない)。
シルヴィアが王城の一画にある、参謀本部にたどり着いたのは、もう午後の六時を回った頃だった。
シルヴィアはカー君を従え、ふらふらの状態でマリウスの執務室に向かった。
すでに秘書官は退庁した後だと思っていたが、控室の扉を開けてみると、人懐っこい笑顔を浮かべたエイミーが迎えてくれた。
「あらあら、どうしたのシルヴィア?
あなた、墓場から蘇った死体みたいな顔色をしているわよ!」
エイミーは冷え切ったシルヴィアの手を取って、居心地のいいソファに座らせた。
そして、ちんちんと沸いているお湯で、熱いミルクティーを淹れてくれた。
カー君は赤々と燃える暖炉の前に移動し、その前で気持ちよさそうにうずくまっている。
「マリウス閣下はまだ執務中ですよね?
至急、報告をしたいのですが……」
紫色になった唇で熱いお茶をすすりながら、シルヴィアは秘書官に訴えた。
エイミーは困った顔をして、執務室に通じる扉の方に目を遣った。
「う~ん……それがねぇ、マリウス様は大事なお客様で、誰も通すなって言われているのよ。
もちろん、シルヴィアの様子を見れば、これがただ事でないってことは分かるわ。
でも、私としても、あの二人の邪魔はしたくないのよね……」
軍務に従った要求を婉曲に断られたシルヴィアは、喧嘩腰になって言い返そうとした。
自分とカー君が、死ぬ思いで飛んできたことを、ぬくぬくとした秘書官室で事務をしている彼女に、どうして否定されなければならないのだ!?
だが、口をついて出そうになる罵声を、シルヴィアはどうにか呑み込んだ。
自分があまりに疲労していて、感情的になっていることを自覚していたからだ。
「それほど重要な訪問客なのですか?」
だが、エイミーの返事は要領を得なかった。
「そうねぇ、少なくともマリウス様にとっては重要なんだけど……。
う~ん、でもシルヴィアなら、まぁいいか!
ちょっと待って。お二方に訊いてみるわ」
エイミーは立ちあがり、執務室に通じる扉をノックした。
「どうした?」
分厚い扉を通して返ってきた言葉に、彼女は遠慮がちに報告した。
「シルヴィア少尉が、トルゴルから戻ってまいりました。
マリウス様に至急報告をしたいと……」
少し間があって、マリウスが応じた。
「分かった」
シルヴィアは入室を許可され、マリウスの客人とも会うことになった。
彼女はその人物を見て、聞かれることを躊躇したが、参謀副総長自身が容認しているからには、トルゴルの状況を報告するしかなかった。
話を聞き終えたマリウスは、予想以上に険しい表情になった。
「報告ご苦労であった。山脈越えは支障なかったか?」
「ないと言えば嘘になります。ですが、自分たちは大丈夫です」
「そうか……。ならば明日、トルゴルに飛んでくれ。
引き続き、戦闘への介入は禁止する。
その代わり、できるだけ両軍の情報を収集してほしい。指示は追って出す」
「追って出すって……、どうやって連絡を取るのですか?」
「それは君が考えることではない。もう下がりたまえ。
私の命令が酷であることは分かっている。
今日はもう下宿に帰って、身体を休めることだ。
ファン・パッセル家の料理は絶品だから、元気も出るだろう」
* *
シルヴィアと別れたエイナたちは、特に問題なく山を下った。
上空から観察していたシルヴィアの情報で、土砂崩れの範囲を迂回しても迷うことはなかった。
たどり着いた帝国の陣地跡では、すでに死体の処理も完了しており、トルゴル藩兵たちはこの地に宿営地を移動させていた。
留守居の部隊は藩王の無事の帰還を喜び、心から安堵したようであった。
兵たちに敬愛されている藩王が、伝説の征服王を裏切った長子の子孫であることを、彼らは知らないのだ。
エイナたちは、兵士たちの無邪気な笑顔を複雑な思いで見るしかなかった。
藩王はこれ以上の同行を求めず、王宮に帰ることとなった。
これを一番喜んだのは、前線指揮官のアハド百人長だったに違いない。
藩王はそのまま宿営地で一泊したのち、少数の護衛に護られてアウランへと向かった。
エイナたち魔導士部隊は、帝国軍の占領部隊を駆逐しつつ北上するという方針を固め、翌日から実行に移した。
トルゴル藩兵の大部分がこの作戦に協力し、随行することになった。
その結果は、少なくとも彼らにとっては予想外のものであった。
帝国軍はあらゆる拠点を放棄して、すでに撤退した後であった。
集積されていた物資はすべて焼き払われ、途中にある三つの川に架けられた橋も落とされていた。
斥候を放ち、待ち伏せを警戒しながらであるから、もともと進撃速度は速くない。
それに加えて敵の焦土作戦で、ますます足は遅くなった。
エイナたちの部隊は無抵抗のまま北上を続け、結果として国境までの領土を奪還することに成功した。
ただ、そこに至るまでには十二日も要した。
彼らは帝国軍が切り拓いた軍用道路を利用して進撃してきたが、帝国領へ続く道は土塁によって遮断されていた。
アハド百人長によると、以前にそんなものはなかったという。
土塁は高さ二・五メートルほどの堅固なもので、道路を遮断するだけでなく、森の中まで続いていた。
斥候の報告では、その延長は五百メートルほどで、両端はコの字状に曲がっているということだった。
その背後には、いくつもの櫓が建ち、武装した兵士が警戒を続けている。
どう見ても最近築かれた防御設備だが、それにしてはしっかりとした造りだった。
恐らく、フランツという敵魔導士が、土系魔法で手助けしたのだろう。
前線を本来の国境まで押し戻したことは、トルゴルにとって歓迎すべきことだったが、ケルトニア魔導士部隊には微妙な結果である。
彼らの目的は、あくまで戦場における経験を積むことであるのに、まったく戦闘が起こらなかったからだ。
これまでとは違う敵の備えを前にして、彼らは決断を迫られることになった。
ここで引き下がるか、それとも強行突破して、帝国領にまで踏み込むかだった。
そもそも現在帝国領とされている夜森は、トルゴルの支配地であったはずだ。
国境線も、帝国側が勝手に設定したものに過ぎない。
そういう点では、それを越えて攻め入る大義名分がある。
だがアハド百人長は、これ以上の進撃を望むのなら、協力はできないと明言した。
トルゴルの人間は、極めて現実的であった。
今は魔導士部隊の力を借りて快進撃を続けているが、それがいつまで続くか保証はない。
敵地を占領すれば、それを維持するのはトルゴル側の役目となる。
地方軍に過ぎない藩王国には、それだけの数も力もなかった。
多少の開拓がなされているにしろ、ろくな収量も見込めない土地に兵の命をかけるほど、彼らのプライドは高くなかったのだ。
これに対し、オコナー大佐の主張は対照的であった。
彼の目的は、あくまで王国魔導士の経験値を上げるとともに、それをケルトニアの戦力として利用可能かどうかを見極めることであった。
ここまで逃げ回っていた帝国軍も、さすがに国境を越えて自分たちの司令部にまで敵が迫ってきたら、戦わざるを得ないだろう。
もちろんその分、敵の抵抗が激しいことは百も承知である。
適当なところで兵を引き、さまざまな攻略パターンを試せるなら十分であった。
大佐はトルゴル兵が参戦しないことを承諾し、その代わりに二週間程度の補給を続けてほしいと要請した。
トルゴル側もこれを承諾し、藩王に対しては、この地に帝国に対抗しうる防御陣地の構築を進言すると約束してくれた。
エイナたちは国境の一キロほど手前に宿営地を設け、翌日から敵陣の突破を試みることになった。
トルゴルの百名近い兵は撤退し、アハド百人長を含む十人ほどが、戦況を確認するために残った。
王国の若い魔導士たちは、山で一敗地にまみれた雪辱を期し、戦意を高揚させていた。
この時点で、彼らは帝国側の迎撃態勢を甘く見ていたと言わざるを得ない。
本当の戦争は、これから始まるのである。
* *
前線司令部の大型テントの脇に、真新しい小型テントが建てられ、その前には槍を持った警備兵が配置されていた。
そのテント内では、ひとりの女が簡素な椅子に座り、折りたたみ式のテーブルに向かって、報告書のもととなる覚書を書き綴っていた。
「大佐殿」
テントの分厚い帆布越しに、衛兵のくぐもった声が聞こえてきた。
「何だ?」
「伝令です」
「よし、通せ」
テントの扉を撥ね上げ、若い将校が入ってきた。
まだあどけない表情を残した准尉である。きれいな青い目と、短く刈られた金髪が初々しい。
直立不動で敬礼をする彼は、伝説的な魔導士を前にして、緊張を隠せないようだった。
「何用だ?」
顔を上げた大佐が訊ねても、彼は真っ直ぐ前を向いたまま、目を合わせてこない。
「南部方面軍から、大佐宛の緊急通信が入っております!」
「南部からだと?」
「はっ!」
「見せてみろ」
准尉はぎくしゃくした動きで近寄り、大佐の前に数枚の通信文を差し出した。
彼女が受け取ってみると、汚い殴り書きの文字が連なっている。
通信魔導士が聞き取った内容を書き写したもので、その最初には〝至急・緊急〟という文字があり、大きく丸で囲まれていた。
彼女の大佐という階級は通称のようなもので、実際には中将待遇である。
そうした高官に対しては、きちんと清書された伝文が渡されるものだ。
マグス大佐はテーブルの上から眼鏡を取り上げ、それを鼻の上にかけた。最近老眼が進んできたのだ。
彼女は広大な西部戦線を視察中であったが、それも終わりに近づいていた。
現在は、西部戦線の南端に近い激戦地に滞在していたから、南部方面は近いと言えなくもない。
だが、マグス大佐とは何の接点もない地域である。
そこは辺境で、新兵の実地訓練を行っているのだ。戦闘狂の彼女が、興味を向けるような場所ではなかった。
大佐は眉根に皺をよせ、読みづらい伝文に目を通していった。
その表情が次第に険しくなっていく。
伝文の内容は、以下のようなものだった。
南部戦線において、トルゴル兵に混じってケルトニア軍の制服を着た一団が現れた。
規模は十四人で、その全てが魔導士である。
しかも、指揮官の二人を除く全員が、リスト王国の魔導士と推定される。
その根拠は、情報部所属のフランツ中尉と交戦したエイナ・フローリーが確認されていることである。
ほかの魔導士たちも、彼女と同じ二十歳前後の若者ばかりで、その仲間であろうと類推された。
指揮官と思しき者のひとりは、ケルトニアの有能な魔導将校で、もうひとりも魔力量からして、かなりの大物と推定できる。
ケルトニアの意図は不明であるが、リスト王国と協同で何らかの実験を行っているものと思われる。
当然ながら、この事実は軍司令部に報告し、即応機動大隊の速やかな派遣を要請している。
ただし、急を要することなので、各大隊の指揮を執っているマグス大佐にも、報告するものである。
「ふん、面白い……面白いな!」
マグス大佐の表情に、隠しきれない喜悦の表情が浮かんだ。
彼女は、固まったままの若い士官に声をかけた。
「准尉」
「はっ!」
「通信魔導士をここに連れてこい」