十八 土魔導士
エイナは吸血鬼の血のせいで、人並外れた優れた視力を持っている。
谷底を近づいてくる帝国部隊の表情が、単眼鏡なしでもはっきりと視認できた。
先頭に立っている指揮官らしい男は、落ち着きなく視線を周囲に向けている。
その隣りを歩いている将校は、軍服に短い肩マントが付いており、ひと目で魔導士だと分かる。
『やはりあいつだ!』
その顔を見た瞬間、こめかみからどくどくという鼓動が響いてきた。
タブ大森林での死闘から三か月も経っていないのだ、忘れるわけがなかった。
東部にいた彼が、なぜトルゴルに現れたのか――もう、考えている余裕はなかった。敵は目印となっている岩の脇を通り過ぎたのだ。
「魔法防御を解除!
予定は変更する! 総員、敵の先頭にありったけの魔法をぶち込め!!」
エイナが立ち上がって怒鳴った。
事前の打合せでは、第二小隊は敵の最後尾に魔法を撃ち込み、退路を断つ段取りである。
だが、相手の正体を知った今となっては、敵魔導士を優先して叩くべきであった。
部下たちは、驚きながらも指揮官の命令に従った。
突き出された彼らの手の先から、白光が軌跡を描いて眼下の谷底に吸い込まれていく。
次の瞬間、地面がぐらりと揺れた。
エイナたちは足をすくわれ、思わず手や膝をついた。
そこから、びりびりと振動が伝わってくる。
下腹に響く重低音とともに、敵隊列の前の地面が盛り上がり、あっという間に土の壁が出現した。
谷の深さは五、六メートルほどあったが、土壁はそれを埋め尽くして聳え立った。
それだけではない。壁は左右に広がっていき、エイナたちの目の前にも、高さ二メートルを超える土の障壁が立ちはだかった。
頭を揺さぶる激しい揺れは、ようやく収まった。
第二小隊の攻撃魔法は、分厚い壁に当たって爆散してしまった。
部下たちは突然の出来事に呆然としていたが、敵の手の内を知っているエイナの立ち直りは早かった。
「落ち着け、これは土系魔法だ!
ミハイルは対物理防御を最大出力で展開しろ! ゴーレムが来るぞ!!」
エイナの叫び声が聞こえたのか、目の前の土壁に変化が表れた。
壁といっても、泥と岩石、それに地表から剥ぎ取られたハイマツの集合体である。
でこぼこの土肌からは、じゅくじゅくと茶色い泥水が染み出している。
普通なら自重で崩れてしまうところを、魔力が重力を制御し、土砂を引きつけて高さを維持しているのだ。
その醜い表面に、ぼこりと大きな膨らみが生じた。
そして、卵の殻を破るようにして、不格好な土人形が這い出してきた。
子どもほどの大きさで、手足の短いずんぐりとした体型である。
大きな頭には、丸い穴のような目と真っ直ぐな口が線引かれていた。
出現したゴーレムは三体だけで、意外に素早い動きでこちらに向かってきた。
しかし、すぐにミハイルが張った防御障壁に行く手を阻まれた。
彼らは見えない空気の壁に取りつき、短い両手をばたばた振り回して殴りかかる。
「ゴーレムは放っておけ、どうせ破壊してもすぐに再生する。
それより、敵前の壁を破壊するぞ!
私が表面を凍らせたら、ファイアボールを叩き込め!
結界内で水蒸気爆発を起こし、壁を吹き飛ばしてやる!!」
辺境の森林で戦った時には、エイナは全力の絶対零度魔法で壁を破壊するしかなかった。
だが、今は彼女ひとりではなく、頼もしい部下たちがいた。
通常の攻撃魔法を集中すれば、十分に突破できるはずだ。
エイナが手を伸ばし、溜め込んだ魔力を放出した。
巨大な土壁の基部が、たちまち真っ白に凍りつき、もうもうと白い蒸気が上がる。
すかさず部下たちがファイアボールを撃ち込むと、次々と爆発が起こった。
直径数メートルの結界の中で、炎の龍が荒れ狂う。
凍った水分が、超高熱で一気に気化して膨張する。
それは強固な結界によって出口を失い、内部の気圧を急激に上昇させた。
ファイアボールの魔法効果は、十秒足らずで切れる。
炎と同時に結界が消滅すると、数千度に熱せられた超高圧の空気が轟音を上げて爆散し、土壁の土砂を吹き飛ばした。
弾丸となった小石は、谷の上にいるエイナたちにまで飛んできたが、すべて防御障壁に当たって弾き飛ばされた。
障壁にへばりついているゴーレムにも、無数の石礫がめり込んだが、痛みを感じない彼らは平然としている。
爆発が起きた土壁の基部からは、大量の土砂が抉り取られていた。
反対側にいる第一小隊もエイナたちの攻撃を見て、その意図を察知した。
彼らは即座に反応して同じ攻撃を仕掛け、大穴をさらに拡大させた。
第二小隊がさらに追撃を行えば、分厚い壁にトンネルが開通するはずである。
エイナは呪文を唱えながら、頭の片隅で辺境での戦いを思い起こしていた。
あの時もし、今のように仲間の魔導士がいたら、ケヴィンを死なせずに済んだかもしれない……。
その思いが、彼女の心臓をきゅうっと締め上げた。
実際には、エイナが敵魔導士と戦っていた時には、部下はもう死んでいた。そんなことはエイナだって分かっている。
それでも、彼女は自分を責めずにはいられなかった。
――余計なことを考えている間に、呪文の詠唱が終わった。
『この一撃で終わりにする!』
彼女は唇をぎりっと噛み、右手を伸ばした。
その時である。エイナの足元が、突然ずるっと横にずれた。
さっきの縦揺れのような振動とは、明らかに違う動きだった。
彼女は足をすくわれて尻餅をつき、顔をしかめながら周囲を確認した。
部下たちも倒れていたが、怪我をしている様子はなかった。
ケネス中尉は片膝をつき、ミハイルの衿を掴んで引っ張り上げている。
「おい、覚悟を決めろ!
最後まで魔力を絞り出せ、絶対に魔法を解くんじゃねえぞ!!」
その間にも、地面はずるずると動き続けていたが、エイナはそれとは別の奇妙な感覚に気づいた。
シルヴィアと一緒にカー君に乗って空を飛んだ時のことだ。
カー君が水平飛行中に翼をたたんで、すっと高度を落とすと、一瞬重力が消える。
あの時に味わった、下腹部がくすぐったくなるような感覚である。
気のせいかと思ったが、そうではなかった。
エイナの身体が地面から離れ、ゆっくりと浮き上がったのだ。
慌てて周りを見ると、ケネス中尉や部下たちも、同じように宙に浮いている。
そして、次第にミハイルの方へと引き寄せられていった。
やがて小隊の七人はひと塊りになって、地上から数メートルの高さまで浮きあがった。
エイナは肩が触れあっている、ケネスの耳元にささやいた。
「大尉殿、これは……どういう現象ですか?」
「単純なことだ。地面が動いているせいで、防御魔法が排除対象だと判断したってことよ」
対物理防御は、結界外からの物理的な刺激を、すべて遮断する魔法である。
ただその対象は、ある程度の質量と運動エネルギーを持った物体に限られる。
防御結界は術者の身体を中心とした、一定範囲の球体であるから、当然、地面の下にも効果範囲が及ぶ。
地面は動かないから、結界は素通りすることになり、術者は立っていられる。同様に、建物も効果対象とならないので、家の中でも移動ができる。
また、結界は空気も通す。風は運動エネルギーを持っているが、質量が小さいので無視されるのだ。
だが今は、地面そのものがずれて動いている。
防御結界は、これを排除対象だと判定したわけだが、押しのけるには相手の質量が大き過ぎる。
したがって結界そのものが、地面から浮き上がったのである。
「えと、あのっ、理屈は分かるんですが、どうして地面が動いているんですか?」
「馬鹿かお前? 敵野郎の魔法に決まっているだろう!
地滑りを起こしやがったんだよ!」
「そんな、地表全体を動かすなんて……!
あの壁なんかより、遥かに大質量ですよ!?」
「ああ、普通ならば無理だな。だが、考えてみろ。ここは斜面だ。
表土は重力に逆らって、どうにか踏みとどまっているに過ぎん。きっかけさえあれば、簡単に滑り出すんだよ」
「大丈夫なんでしょうか?」
「今のところはな。
敵は俺たちを麓まで押し流して、その間に逃げるつもりだろうが――。
糞ったれ! 野郎、やりやがったな!!」
突然、ケネスが吠えた。
その視線は、すぐ近くに聳える土壁に向けられている。
エイナも反射的に、その方向を見た。
巨大な土壁が崩壊を始めている! 敵魔導士が、魔法を解除したのだ。
魔力によって無理やり積み上げられていた、膨大な質量の土砂は、重力に身を任せて流れ出した。
彼らはゆっくりとずれ始めた薄い表土に、勢いをつけて圧しかかったのだ。
穏やかな地滑りは、大規模な山津波となって牙を剥いた。
エイナたちは防御結界ごと、大量の土砂に呑み込まれ、なすすべなく押し流されていった。
* *
フェルナンド少佐と帝国兵は、事前に何の説明も受けていなかった。
とにかく、地響きとともに突然目の前に巨大な壁が現れ、その後は向こう側で何が起きているのか、さっぱり分からなかった。
ただひとり、状況を把握していたのがフランツ魔導中尉である。
彼は魔法を発動させる直前、呪符の束を投げつけて、壁の中にゴーレムの核を紛れさせた。
呪符は周囲の土砂を材料にしてゴーレムを形成し、谷の両側の壁から吐き出したのだ。
ゴーレムは敵魔導士を攻撃をするというより、情報収集の役割を担っていた。
彼らの顔に開いた二つの丸い穴ぼこは、フランツの目となって敵の映像を送ってくれた。
その結果、フランツが脳裏で目にしたのは、驚くべき事実であった。
二手に分かれている敵は、右手側が八人、左手が七人である。
ひとりを除いて、全員がケルトニア軍の軍服を着用している。
それ自体は驚くようなことではない。
トルゴルに魔導士がいるということは、ケルトニアが援軍として送り込んだとしか考えられないからである。
問題はその人数だった。
ゴーレムは魔法生物であるから、魔力には敏感に反応する。
フランツに送られてくる彼らの感覚では、軍服姿の全員が強い魔力を帯びていた。
つまり、敵は十四人の魔導士で編成された部隊だということになる。
黄金よりも貴重な魔導士を、それだけ贅沢に集めた部隊など、魔法先進国である帝国でも滅多に聞かない。
それが許されるのは、最近各戦線で猛威を振るっている、即応機動大隊くらいである。
帝国以上に魔導士不足で悩んでいるケルトニアが、そんな部隊をトルゴルのような僻地に送るはずがない。
第二の問題は、その顔ぶれだった。
敵魔導士の多くは二十歳そこそこの若者だったが、指揮官らしい上級将校は、そこそこの年齢である。
右手の部隊にいる初老の士官の軍服には、大佐の徽章が光っていた。
魔導大佐といえば大物もいいところである。最低でも師団長クラスの幹部将校が、わずか二個小隊の指揮を執っているということだ。
これは異常事態と言わねばならない。
もう一方の指揮官は大尉であったが、フランツはその顔に見覚えがあった。
西部戦線で何度か渡り合った魔導士で、かなりの強敵であった。確か、フォレスターといったはずだ。
あの男の実力なら、中隊長どころか、大隊を指揮していてもおかしくはない。
そして、さらなる大問題である。
若い魔導士の中にも、知った顔があった。
しかも、その女はリスト王国の魔導士で、つい数か月前に戦ったばかりである。
女はまだ若いが、大気を液状化させるほど非常識な凍結魔法を操る化け物だった。
彼女は王国を公式訪問していたマグス大佐の護衛を務め、あのカーン少将とも互角に渡り合ったと聞く。
フランツの実力をもってしても、引き分けに持ち込むのがやっとであった。
ということは、エイナ以外の若い魔導士たちも、リスト王国人である可能性が高い。
それがケルトニアの制服を着用して、ケルトニアの大物魔導士官の指揮下に入っている。
これは、とんでもない情報だった。
勘のいいフランツは、もう気づいていた。
今回のくだらない作戦は、軍高官の出世欲によって企てられたものだろう。
フェルナンド少佐は、そこに巻き込まれた憐れな犠牲者に過ぎない。
だが、こんな辺境の山の中で、フランツは宝石以上の情報を手に入れた。
瓢箪から駒とは、まさにこのことである。
彼は高揚感に包まれていたが、敵の中でひとりだけ軍服を着ていない男が、藩王だと知ったら、さらに興奮したに違いない。
相手は防御魔法を展開して、ゴーレムの攻撃を防ぎつつ、巨大な壁に向かって攻撃を集中させてきた。
それは、想定内の事態である。
壁が攻撃を食い止めている間に、フランツは次の魔法の詠唱に入った。
地滑りを起こす魔法――それは、山という地形を活かした、土系魔導士ならではの戦法である。
巨大な土壁を現出させる魔法同様、膨大な魔力を消費するが、地形がそれを手助けしてくれるのだ。
フランツは魔法を発動すると同時に、壁に送り込んでいた魔力を遮断した。
地響きを立て、目の前の壁が崩壊を始めると、帝国兵たちは狼狽えて後ずさった。
だが、壁は彼らの方ではなく、山の麓に向けて崩れていった。
壁が消滅したことで、帝国兵の視界がようやく戻ってきた。
彼らが見たのは、土石流ですべてが押し流された、荒涼とした世界だった。
「殺ったのか?」
少佐が震える手で、フランツの腕を掴んだ。
「いえ、このくらいで死んでくれるなら、世話はありません。
奴らは土砂に埋まっていますが、防御魔法のお陰で健在です。
もっとも、出るまでには相当苦労するでしょうがね」
「そうか、埋まっているのか。でっ、では、早くとどめを刺すのだ!」
だが、フランツは首を横に振った。
「自分にはもう、そんな魔力は残っていません。
それより、せっかく時間が稼げたのです。迂回して山を下り、できるだけ早く逃げましょう」
「う、うむ。それもそうだな。一刻も早く部隊と合流して撤収するのだ」
「お言葉ですが、恐らく留守部隊は壊滅しているでしょうな」
「馬鹿を言うな! 大隊規模の戦力が、そう簡単にやられるか」
「やられますな。敵は十五人の魔導士ですぜ?
対魔導士兵器のない一般兵が、適うわけないでしょう。
いいですか、敵魔導士が穴の中で冬眠している間に、とっとと逃げるんです!」
「じゅっ、十五人だとぉ!?」
「ああ、そういやまだ言ってませんでしたね」
フランツはぺろりと舌を出してみせたが、全然可愛くは見えなかった。