十六 幻影
「あ~、嫌だ嫌だ、何だって俺がこんな目に遭わなけりゃならないんだ!」
きつい斜面を登りながら、フランツ中尉は自分の運命を嘆いていた。
一か月も陸路を旅して、ようやく南部方面軍の司令部にたどり着くた時はよかった。
現地司令官のフェルナンド少佐が、熱烈な歓迎ぶりを見せたからだ。
だが、彼は満面の笑みでフランツの手を握って振り回しながら、こう宣ったのだ。
「よく来てくれた、中尉! 間に合わないのではないかと肝を冷やしたぞ。
もう準備はできているのだ。さっそく出かけよう」
「は? どこへですか?」
「決まっているだろう、最前線だよ。他にどこがある?」
南部方面軍の司令部は、帝国で辺境と呼ばれる夜森の開拓地にある。
そこから三十キロも進めば、トルゴルとの国境である。
前線というのはそこのことなのだろう――フランツはそう軽く考えていた(仮にも情報部なのだから、少しは予習すべきであった)。
フェルナンド少佐は、直衛の二個小隊を率いてすぐさま出陣した。事情を理解していないフランツも、強引に馬に乗せられた。
少佐の部隊が司令部を出たのは、午前十時頃のことである。
その日の午後には、一行は国境地帯に達したが、部隊は構わずに深い森を進み続けた。
最初のうちは道筋のあちこちで、塹壕を掘って守りについている兵の姿が見えた。
それが進むにつれてまばらとなり、やがて味方は見かけなくなった。
部隊がようやく停止したのは日暮れ近くで、少し開けた草地に出たところであった。
そこは物資の集積所で、警備に就いていた兵たちがすぐに駆け寄り、馬の世話に当たってくれた。
「今夜はここで泊りとなる。炊事兵から食事を受け取ったら、寝床を確保したまえ。
明日も早いからな、睡眠は大切だぞ」
早く行けと言わんばかりの少佐に、フランツは食い下がった。
「いやいや、ちょっと待ってください、司令官殿。
自分は着任したばかりで、まだ作戦内容も聞いておりません。
前線というのはどこにあるのですか? 自分は何をすればよいのですか?」
少佐は首を捻った。
「変だな、君は情報部から何も聞いていないのか?」
「何ひとつ。上司に訊ねましたが、課長は『極秘任務で、自分も知らない』と言っていました」
「何だ、ちゃんと知っているじゃないか!」
「司令官殿、自分を揶揄っておられますか?」
「きみの上司はちゃんと説明しているではないか?
これは極秘任務だ。当然、駒に過ぎない君に作戦内容を明かすはずがない。
君も情報部なら、それくらい分かるだろう?」
「で、では、せめて自分の役割くらい、教えてください。
トルゴル軍には魔導士はいないと聞いております。なぜ自分が必要なのですか?」
「うむ。敵に魔導士がいないのは事実だ。だから君に戦闘をさせるつもりはない。
君の仕事は、最前線に着いたら説明するよ。それまでは物見遊山だと思って、気楽に構えたまえ」
「それはどこなのですか?」
「ここから約六十キロほど南下した場所だ。あと丸二日はかかるな」
「ということは、そこまでは南部方面軍が制圧しているということですか?」
無茶苦茶な話であった。
敵陣を百キロ近く侵攻する――もちろん無理を重ねれば、不可能ではないだろう。
だが、それでは補給が続かない。南部方面軍に、そんな広範囲を守備できる兵力などないからだ。
フランツがそれを問うと、司令官は笑って答えた。
「問題はない。要はここのような物資の集積所、あとは水場や渡河地点といった要所さえ守れればいいのだ」
「しかし、それでは補給路が寸断されます」
「そうなったら、また敵を追い払えばよいではないか?
大体、トルゴル軍が領土を取り返したとして、そこに防御の兵を置くと思うか?
君だって道中見てきただろう。ここはただの原生林だぞ。そんな所を守って、どんな得がある?」
『それは帝国軍にこそ、言うべき言葉だろう』
中尉は出かかった言葉を、どうにか呑み込んだ。
こんな森に侵攻して、我々にどんな得があるというのだ?
* *
馬が通れるよう、森の中には細い林道が切り拓かれていたが、悪路には変わりなく、行程はなかなか捗らなかった。
こんな無防備な部隊など、いくらでも不意打ちにできそうなものだった。
しかし実際には、森を延々と南下していっても、トルゴル軍の襲撃は一度もなかった。
同行する他の士官に聞いてみると、敵の攻撃対象は、補給部隊に限定されているという。
帝国側も補給の馬列に手厚い護衛をつけていたので、あまり大きな被害は出ていないそうだ。
せいぜいが荷物を積んだ馬を奪われ、負傷者が何名か出るくらいで、死者が出るような激しい戦闘はないらしい。
四日目になって、ようやく少佐の部隊は〝最前線〟に到着した。
そこは、いかにも急造の陣地といった赴きだった。
兵士たちは塹壕を掘ったり、土嚢に土を詰める作業に追われていて、野ざらしの物資を収容するための小屋も、まだ完成していなかった。
強行軍を強いられてきた部隊には、ようやく休憩が許されたが、フランツはその恩恵にあずかれない。
司令官用の中型テントがで立ち上がると、さっそく呼び出しがかかったのだ。
テントの中には簡易テーブルと折りたたみ椅子が置かれ、そこにフェルナンド少佐と、直衛小隊の指揮官二人が座っていた。
彼らの二個小隊はそれなりの経験を積んだ下士官たちで構成され、普段は新兵の教育係を務めているらしい。
フランツ中尉が椅子に腰をかけると、さっそく会議が始まった。
目の前のテーブルには、手描きの周辺地図が広げられている。
「さて、いよいよ目的地の目前に到達した。
ここまでも大変だったと思うが、あと一息だ。各員一層の奮励を期待するものである」
「ええと、ここが目的地じゃないのですか?」
フランツが手を挙げて不満を洩らした。
「ああ、我々の真の目的地はここだ」
少佐は地図の一点を指さした。
「ここだって……真っ白じゃないですか?」
「山だからな。誰も登ったことはないし、仕方のないことだ」
「山に……登るんですか?」
「そうだ。そしてフランツ中尉、君の役割はこの山中で感知魔法を使い、魔力反応を見つけることにある」
「なるほど、山奥に籠って修行している魔導士がいるのですな……って、紙芝居の虹男かよ!」
「魔導士ではない。魔力反応だと言っただろう? 具体的にいうと、探すのは〝呪符〟だ」
「何で山の中に呪符が……ああクソ! もういいですよ。
それで、この山のどの辺にあるのですか?」
「人の話を聞いていないのか? それを探すのが君の役目だと言っただろう」
「要するに、何も分からないと?」
「いや、そうでもない。恐らく目印があるはずだ。
私の聞いたところでは、洞窟か池か――とにかく、対となる二つの特異な地形があるはずだ。
その中間付近に、その呪符が仕掛けられているらしい」
「要するに、よく分からないということですな」
「何も分らんよりはましだろう?
明日はまず直登して、高所から目印となる地形を探す。
ここから二個中隊を引き抜くから、ヨゼフ中尉の小隊に任せる。
新兵たちには、三日分の水と食料を運ばせるのだ」
ヨゼフと呼ばれた壮年の男は、遠慮がちに質問した。
「三日で見つかりますでしょうか?」
「見つからなければ、いったん戻って補給して、再度調査に赴く。
スミス中尉の小隊は、手分けしてここの新兵たちの指揮に当たれ。絶対にトルゴル兵を近寄らせるな」
* *
かくして、フェルナンド少佐を指揮官とする八十名の軍勢は、翌早朝に陣地背後の山に向かった。
フランツが悪態をつくほど、その道のりは険しいものだった。
道はなく、傾斜はきつい。
山の至るところから、硫黄臭のするガスが吹き出し、高度を稼ぐとあっという間に植物が疎らとなった。
だが、そのおかげで六合目あたりまで登ると、かなり見晴らしが利いた。
少佐の命令で小休止が命じられ、士官たちは単眼鏡を手に、分散して眼下の地形を探った。
そのうちの一人が、二つの洞窟らしきものを見つけた。
少佐は大いに喜び、手近な方の洞窟を目指して下り始めた。
一つ目の洞窟は、かなり大きなものだった。
いわゆる溶岩洞と呼ばれる、火山でよく見る洞窟である。
フランツ中尉が明かり魔法で中を照らし、少佐たちが後に続く。
洞窟の中は砕かれた岩が散乱し、ひどく荒れていた。
あちこちの床に、明らかに人の手になる穴が掘られている。
深さは分からない。そのすべてが埋められていたからだ。
外で待っていた兵たちを呼んで、岩やがれきを取り除かせてみたが、深さは三メートル近くあった。
そして、底が近くなると、朽ちた木の杭とともに、砕けた人骨が無数に出てきた。
フランツが顔をしかめ、穴から上がってきた。
「典型的な落とし穴の罠ですな。
底に先の尖った杭を埋めて、落ちた間抜けは串刺しになるって仕掛けです。
どうやって穴を偽装したのかまでは分かりませんが、後から入った連中が安全のために埋めたんでしょう」
洞窟の奥行きは百メートルちょっとで、そう深いものではなかった。
行き止まりのあたりでは、床や壁が掘られた跡がそこかしこにあり、侵入者が何かを探し回ったことが窺えた。
手掛かりを得たフェルナンド少佐は、意気軒昂であった。
「つまり、この洞窟は目印であると同時に、盗掘者を罠に嵌めるための囮でもあったということだな。
よし、我々は核心に近づきつつある。
今日はこの洞窟で野営して、明日はもう一方の洞窟を目指す。
その途中に、本命の洞窟があるはずだ。フランツ中尉、頼んだぞ!」
* *
翌朝、勇んで出発した一行であったが、上から見るよりも対となる洞窟までは距離があった。
しかも、登りではないものの、急斜面を回り込むのは案外大変で、足を滑らせて滑落する者が続出した。
数時間かかって、ようやく半分ほど進んだところで、フランツが声をあげた。
「司令官殿、魔力反応です!」
「何、本当か!?」
「間違いありません……のですが、呪符にしては反応が強烈ですな。
もっと微弱なものだと思っていたのですが」
「まさか、魔導士ということはないだろうな?」
「それはありません。その、何と言うか……魔力に人間特有の揺らぎがないのです。
もしこれが呪符の反応だとしたら、とんでもなく強力なものですよ。
少なくとも、自分には作れませんね」
「よし、いいぞ! 距離はどれほどだ?」
「このまま進んで、約一キロといったところです」
* *
「このあたりです」
先頭に立っていたフランツが立ち止まり、フェルナンド少佐の方を振り返った。
少佐は周囲を見回したが、困惑した表情を浮かべるだけだった。
荒涼とした光景は何も変わらず、一行の右手には岩だらけの急斜面があるだけだったからだ。
フランツはその岩肌に手を当ててみた。
掌にひんやりとした岩肌の感触がある。何も不審な点はなかった。
少佐も同じように、両手で斜面を探ってみたが、やはりそこには固い岩しかない。
「本当にここで間違いないのか?」
少佐が疑わし気な声を発したのも無理がない。
「ええ。もちろん、感知魔法は精密さを欠きますが、これだけ近づいたら間違えようがないです。
少佐、ちょっとこちらに来てください」
フェルナンドがすぐに身体を寄せてきた。
フランツは岩肌に手を押しつけてから、掌を広げて少佐の顔の前に突き出した。
「何の真似だ?」
「よく見てください。手に砂がついていません」
少佐は慌ててフランツの真似をした。
岩肌に触ると、ざらっとした砂の感触がある。だが、その掌を見詰めても、汗ばんだ皮膚に砂粒がひとつも付いていない。
「どういう……ことなのだ?」
「つまり、こういうことです」
フランツは拳を引いて、思いっきり岩肌に殴りかかった。
少佐は思わず目をつぶった。中尉の拳が裂け、血が噴き出すと思ったのだ。
だが目を開くと、彼は信じがたいものを見た。
フランツの腕が、肩の近くまで岩壁に突き刺さっていたのである。
「幻術の一種なんでしょうが、入口に何らかの抵抗が張ってあります。そこに偽の触覚まで与えるなんて、どれだけ高度な術なのか……正直、理解の範疇を超えていますね」
彼はそう言いながら、ずぼりと岩肌の中に身体をめり込ませ、そのまま姿を消してしまった。
少佐も慌てて後を追った。
幻影の抵抗は、かなりしっかりしていて、少し押したり寄りかかったくらいでは、びくともしない。
だが、覚悟を決めて自分の頭を岩に打ちつけると、あっさりと抵抗が消えた。
おそらく、これは物理的な障壁ではなく、多分に心理的な仕掛けなのだろう。
恐怖を乗り越えてしまえば、自由に出入りできるということだ。
少佐が洞窟の中に入ると、フランツ中尉の明かり魔法によって、内部が煌々と照らされていた。
奥行きは二十メートル足らずだが、横幅が広く天井も高かった。
そして、これが自然の洞窟ではないことが、ひと目でわかった。
壁はほぼ垂直で、床も滑らかで一切の凹凸がない。
しかも、床は油脂で磨かれたように黒光りしていて、魔法の明かりを艶々と反射している。
少佐が振り返ると、入口の周りを部下たちが取り囲み、不思議そうに空間をぺたぺた触っているのが見える。
どうやら、中からだと幻影が作用しないらしい。
外の部下たちは、まだこの仕掛けを理解しておらず、どうやって中に入れるのか分からないでいるようだった。
少佐はずぼりと外に頭を突き出した。
部下たちは「わっ!」と声を上げ、思わず尻餅をつく。
岩壁からいきなり少佐の生首が生えてきたのだから、驚くなという方が無理だった。
「いいか、私が呼ぶまで、お前たちはこのまま待て。
私はフランツ中尉と二人きりで調査する」
彼はそう言うと、再び頭を引っ込めた。
部下たちが慌ててその場所を触っても、そこには岩肌があるだけだった。