十二 忖度
翌日、軍司令部に出勤したスチュワート中将は、さっそく行動を起こした。
いつもより一時間も早く執務室に現れた彼に、副官は目を瞠った。
「中尉、フェルナンド少佐の定例報告は、そろそろであったな?
詳しい予定を教えてくれ」
「はい。すでに現地を出発したという報告が届いております。
途中でトラブルがなければ、十一日後に帝都に到着する予定です」
「そうか、あまり時間がないな。
中尉は編成部長の秘書に……ああいや、違うな。相手はオズモンドだ、わしが直接訪ねた方が早い。
よし、わしはこれから編成部へ行ってくる。中尉は補給部のクレメンス中将に、面会を申し入れてるのだ。
今日の午後以降、早ければ早い方がいいと伝えてくれ」
彼は副官に命令を伝えると、足早に執務室を出ていった。
編成部は各現場からの要請を集約し、人員の補充を調整する部署である。
その部長を務めるオズモンド少将は、スチュワートと同期で気の知れた間柄であった。
中将は一階上の編成部に赴き、秘書官室の扉を叩いた。
返事を待たずに入ってきた彼を、女性秘書官が驚いた顔で出迎えた。
「これはスチュワート中将閣下、どうなされました?」
「オズモンドはいるか?」
「は、はい。ただいま執務中でございます」
「そうか。ちと、急ぎの用でな。通してもらうぞ」
「えっ。ですが、午前中の来客はお断りするようにと……」
慌てて止めようとする秘書を、中将は構わず押しのけ、執務室に通じる扉を開けた。
机に書類の山を築き、前かがみで没頭していたオズモンド少将が顔を上げ、鼻にかけていた眼鏡を押し上げた。
「何だ、貴様か」
ずかずか入ってくる中将の背後で、女性秘書が拝むような仕草で何度も頭を下げているのが見えた。
少将は苦笑いを浮かべて、椅子から立ち上がった。
スチュワートは勧められる前に、応接のソファに腰をおろし、貧乏揺すりをしながら少将を待つ。
「何事だ、ずいぶん乱暴だな。仮にも貴族様なのだろう?」
「ちょっと頼みがあってな。あまり時間がないので、無礼は承知の上だ。
貴様とわしの仲ではないか、そう固いことを言うな」
「金なら貸さんぞ?」
「抜かせ。借りたいのは新兵だ」
「ん? 南部方面への補充なら、先月遣ったばかりだぞ。
二個中隊を送ったから、当分持つはずだ」
「それとは別の話だ。三個大隊欲しい、どうにか融通してくれ」
「気でも違ったか?
貴様のところは全部合わせて三個大隊だ。それを倍にしろだと?
そんな大事なら、上から命令があるはずだ。わしは何も聞いとらんぞ」
「正規の命令はない。だからこうして頼みに来たのだ。
貴様の裁量で、内密に増員してもらいたい。
何も一度に寄こせとは言わん。むしろ、月に一個中隊程度が、目立たなくて都合がいい。
一年あれば、それで三個大隊になる。
北部方面に送る新兵を、適当な理由をつけてこっちに回すくらい、貴様ならできるだろう?」
「そんな無茶苦茶が通るわけがないだろう、だから理由を言え!」
「わしが昨夜、皇帝陛下の晩餐に招かれたことは、貴様も聞いておろう?」
「ああ、皆が首を捻っておったぞ」
「いいか、ここだけの話だぞ!
これは陛下のご内意なのだ。それ以上のことを話したら、わしも貴様も断頭台送りになる。だから察してくれ」
「待て、まてまて待て! 本当に陛下のご内意なのか?」
「ああ。でなければ、わしだって横紙を破るような真似はせん。
よくよく考えろ。確かに軍規違反に当たるから、断っても問題ない。
だがそうなれば、貴様は確実に陛下のご不興を買うことになるのだぞ!」
「むう……くどいようだが、本当にご内意なのだな?」
「侯爵の名にかけて誓おう」
「よし、分かった。
ただ、すぐには無理だ。最初の一個中隊を送るまで、ひと月は待ってくれ」
「それで構わん。ただし、一年以内に三個大隊の増派は確約してくれ。
陛下がお待ちになるのは、一年が限界だろう。
それまでに成果を出さないと、文字どおりわしの首が飛ぶ。
同期の貴様だからこそ、ここまで打ち明けたのだ。頼んだぞ!」
中将はオズモンド少将の手を握り、三度大きく振ってから立ち上がった。
秘書官室への扉を開けると、銀のお盆にカップを乗せた秘書官とぶつかりそうになった。
彼女はいきなり出てきた中将に、慌てて口ごもった。
「あっ、あの、せめてコーヒーでもお飲みになってから……」
「それは君と少将で飲めばよい。
秘書官殿には済まないが、私のせいで仕事を増やしてしまったようだ。
少将は君の助けを必要としている。早く行ってやりたまえ」
* *
これ以降も、スチュワート中将は精力的に動き続けた。
補給や装備の手配はもちろん、最終的に倍の兵力を受け入れるのだから、兵舎の増築も必要だった。
それら全てを、軍の命令系統の外で、こっそり進めなければならないのだ。
普通なら、そんな無理は通らない。
だからこそ、中将は各部門のトップと直談判を行ったのだ。
そして、必ずこうささやいた。
「ここだけの話だが、これは陛下のご内意である」
彼らはいずれも将官である。実務も重要であるが、それ以上に政治に気を遣わねばならない。
出世を重ねてきた者たちほど、いかにしてライバルを蹴落とすかが、最大の関心事となる。
だからこそ、中将の〝ご内意〟という言葉は効いた。
皇帝の不興を買うのは、絶対に避けねばならなかった。
名ばかりとはいえ方面総司令の肩書と、ビュート侯爵という権威が、スチュワート中将の言葉に重みを持たせた。
だから、誰一人として、この話を疑わなかったのだ。
事を内々に進めるという条件は、事態の重要度を示唆するものだった。
その代わり、どの部署も対応に時間を要求してきた。
中将の奔走と熱弁によって、一週間ほどでほとんどの準備に目途がついた。
現地指揮官のフェルナンド少佐が帝都に到着したのは、そのすぐ後のことだった。
中将は少佐を呼び出し、トルゴルの勢力圏の原生林に侵攻し、南部の山岳地帯を確保せよと命じた。
さすがに少佐にだけは、これまでの詳しい経緯を打ち明け、成功の暁には彼を今以上の地位に引きあげると約束したのだ。
そして、兵力と補給の手当も万全だと太鼓判を押し、何も心配するなと言い切った。
だが実は、ひとつだけ解決していない問題が残っていた。
それは、魔導士の確保である。
魔導士は極度の人手不足であったから、どこにも予備が存在しなかった。
もともと配属がない南部方面に、新たに魔導士を押し込むには、どこかの戦線から引っこ抜くしかない。
そんなことをすれば、現場の猛反発を喰らうのが目に見えている。
こればかりは、いくらトップの高官でも、いかんともしがたい。
最終的に目的の山地まで侵攻しても、感知魔法を使える魔導士がいなくては、洞窟の位置が特定できない。
作戦はあまり派手には行えないし、戦力の増強にも時間がかかるため、少佐にはじわじわと敵地に浸透するよう言い含め、現地に帰還させた。
一年近くをかける作戦であるから、魔導士の手配はもっと先でもよい。
その後も中将は八方手を尽くしたが、年末に至っても魔導士は見つからないままだった。
現地からは、着実に侵攻が進んでおり、二月末には目的地に達するとの観測が報告されてきた。
もう時間は残されていない。中将は必死で解決策を探った。
そしてある時、彼は突如として天啓を受けた。
『そうか! 身内でどうにかするから難しいのだ。
魔導士を持っているのは、何も軍だけではない。
奴らに借りを作るのは癪だが、背に腹は代えられん!』
決意を固めた中将は、副官に命令を下した。
「中尉、情報部に赴き、部長と面会の約束を取りつけてきたまえ」
情報部は軍から独立した組織で、規模は小さいが自前の戦力を保有していた。
魔導士も少数だが配属されており(通信魔導士は相当数抱えている)、任務の性質上、軍よりは融通が利くはずだった。
予想はしていたが、中将と面談した情報部長はかなりの抵抗をみせた。
リスト王国における魔導士の配備が進み、同国での活動に魔導士の重要性が増している――というのが、その理由である。
部長は『陛下のご内意であれば、考えないでもない』と譲歩の姿勢を見せつつ、その内容を知りたがった。
すでに情報部は、南部方面軍がトルゴルに謎めいた侵攻を開始し、相当範囲を占領していることを察知していた。
そして、そこが軍事的には何の意味も持たない原生林であることに、首を捻っていたのだ。
このため交渉はかなり長引き、とうとう越年してしまった。
中将は粘り強く秘密を守り抜き、最終的には情報部長も渋々要請を受け入れた。
やはり、皇帝の不興を買いたくなかったのだ。
「ちょうど東部に、適任の魔導士がおります。
もともと軍の魔導士官ですから、そちらへ派遣しても支障はないでしょう。
ただ、東部からトルゴル方面に移動させるとなると、準備を含めて一か月は覚悟してもらいますぞ」
「つまり、二月の上旬には現地に着任できるということだな?
それはありがたい。ぎりぎり間に合いそうだ」
* *
再び話はトルゴルに戻る。
藩王への拝謁を終えたエイナたちは、翌日にも前線に向け出発するつもりでいた。
しかし、藩王の同行が決まったことで、その出発は四日も延ばされた。
藩王の宿泊用の豪華な大型テント、その調度品や呆れるほど大量の食料、湯あみ用の風呂と水桶、それらを運ぶ馬車や人夫を集めるためである。
一応、前線までは、樹木を伐採した林道が切り拓かれていたが、これらの大荷物を馬匹で運ぶとなると、一体どれだけの時間を要するのか、考えただけで気が遠くなりそうだった。
同時に、前線の部隊からは急遽指揮官が呼び戻され、現状の確認と作戦計画を立案する会議が行われた。
この会議には、エイナたち魔導士部隊は呼ばれなかった。
王国の魔導士たちは憤ったが、オコナー大佐とケネス大尉は平然としていた。
トルゴル軍としては、よそ者に聞かせたくない話もあるだろう……彼らはそう言って、若い魔導士たちを宥めた。
結局、その会議の終了後に、エイナたちにも現地指揮官からの状況説明の場が設けられ、まるきり無視されたわけではない、ということが分かった。
帝国軍の侵攻部隊は、トルゴル支配地域に入り込んでから、ひたすら南下を続けており、現在は南部の山岳地帯に迫る勢いとのことだった。
現地指揮官は、アハド百人長(大隊長に当たる)という、精悍な顔つきをした男であった。
彼は大きな地図に両軍の駒を置きながら説明したあとで、困惑した表情で付け加えた。
「このままだと、帝国軍は山に突き当りますが、まさか、そのまま山登りをするとも思えません。
本当に敵が何を考えているのか、まったく分からないのです」
「帝国軍の規模はどの程度だ?」
ケネスが百人長に訊ねた。彼は、いわば中隊長なのだが、大隊長相当の指揮官にも、平然とため口をきいていた。
「およそ二百人、これまではせいぜい百人前後でしたから、かなり増強されていますね」
「それで、百人長殿の部隊はどれくらいなのだ?」
「こちらは九十人ほど――当初は百二十人でしたが、この半年でそこまで減りました」
「劣勢というわけか?」
「いえ、損耗率でいえば、敵はこちらの倍以上の損害を出しています。
向こうは新兵ばかりで、我々とは技量も経験も比べ物にならないほど未熟です。
ただ、いくら数を減らしても次々に補充されるので、それに付き合っていられないのです」
「では、今まではどんな戦術を?」
「遅滞防御に徹しています。
我々はいくら敵の侵攻を許しても、痛くも痒くもありません。
私の部隊はできるだけ敵に出血を強い、適宜後退を繰り返しています。
その結果、延びきった補給線を、別の部隊が叩いて敵の体力を削っているのですが、なかなか音を上げてくれないのです」
「状況は理解した。
我々の目的は、敵を圧倒して敗走させることだ。
百人長殿にとっては不満かもしれんが、トルゴル軍にはその後詰を頼みたい」
「こちらの手は借りないと?」
「物は考えようだ。我々は目前の敵を倒すことだけに集中する。
占領地の奪還と、集積された物資の奪取はそちらに任せる。
これまで後退を重ねて消耗してきたのだろう? たまには楽をして、兵にいい思いをさせてやってくれ」
「分かった。藩王国の兵力には、もう余裕がないのだ。正直に言って助かる」
「詳しい作戦と分担は、現地で偵察してから検討しよう」
打ち合わせを終えたアハド百人長は、そのまま馬に乗って部隊の元へと戻った。
残されたエイナたちは、もうすることがない。
一応、状況が事前に知れたのはありがたいが、現場は常に変化している。
このままあと二日、無為に過ごすのは、あまりにもったいなかった。
ところが、翌朝事態は一変する。
突然、宿の前に馬に乗った藩王が現れ、いますぐ出発すると告げたのである。




