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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第八章 トルゴルの藩王
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十 招待

 帝都ガルムブルグの軍司令部は、いつも人でごった返している。公称百万人の軍を統括する部署であるから、それは当然であった。

 建物内は毎朝清掃されていたが、廊下はあっという間に汚れてしまう。

 地方から上京してきた将校たちの軍靴から、長旅でこびりついた泥や砂が落ちてしまうためだ。


 フェルナンド少佐は、人波を掻き分けながら、そんな廊下を急いでいた。

 彼は長い廊下に並ぶ、似たような扉を横目で確認しながら進んでいき、ある扉の前でぴたりと足を止める。

 その扉にねじ止めされた金具に、彼の名が書かれた木札が差されていたのだ。


 少佐は安堵した表情を浮かべ、扉を開けて中に入った。

 あまり広くない部屋の中には、執務机と椅子、そして簡素ではあるが応接セットが設けられていた。

 彼はコートと軍帽を脱いで、入口脇のポールハンガーに掛け、革張りの椅子にどっかと腰をおろした。


 体重を背もたれに預け、足を伸ばして大きく背伸びをする。

 長時間の乗馬で強張った関節が、ぱきぱきと音を鳴らし、気持ちのよさにつむった目尻に涙が滲ぶ。

 その片目がふいに開かれ、眉間に皺が寄った。

 目の前の机の上に、手紙や書類を入れるトレイがあるのだが、そこに一通の封筒が置かれていたからだ。


 この部屋は、彼のような地方から登ってきた、佐官級の将校のための個室である。

 佐官はかなりの上級将校であるが、巨大な帝国軍にはそれこそ〝ごまん〟といる。

 だから、同じような部屋が数多く用意され、彼らが上京して司令部に滞在する間だけ、個室として提供されるのだ。


 これから使用する部屋なのに、机の上に書類や手紙が置かれているのは、あまりよい兆候ではない。

 少佐は浅く座り直し、トレイから封筒を取り上げた。

 表には宛名として、確かに彼の名が記されていた。

 裏を返すと、赤い蝋の封印が施されている。


 少佐の眉が上がった。その印章には見覚えがある。ビュート侯爵(スチュワート家)のものである。

 嫌な予感はますます強まった。


 少佐の実家はバース侯爵の分家筋で、貴族ではないが、遠戚関係にある。

 士官学校では凡庸な成績で、戦地でもさしたる功績を挙げていない彼が、佐官に昇進してひとかどの役職に就いているのは、すべてそのお陰であった。

 したがって、彼は侯爵(スチュワート中将)に頭が上がらないのだ。


 少佐は机の引き出しからペーパーナイフを取り、封を切った。

 中には一枚の紙片が入っているだけで、開いてみると記された文章も一行だけであった。

 『午後四時に私の部屋に出頭せよ』

 そしてその下には、中将名ではなく、侯爵の署名があった。


 要するに、これは正式な軍務ではない。恩義を忘れていないなら、命令に従えという脅迫である。

 少佐は深い溜息をつき、軍服の内ポケットから懐中時計を引っ張り出した。

 指定の時間までは、あと一時間半余りである。


 彼は使い古された鞄を机に上げ、中から分厚い書類の束を出した。

 中将のもとへ出頭する前に、まずこの報告書を提出しておかねばならない。

 それは、フェルナンドが指揮を執っている、南部戦線の報告書である。


 年に二回、帝都の司令部に赴いて、半年分の戦況を分析した報告書を出すのは、現地指揮官としての義務であった。

 それを出したからといって、内容についての諮問を受けるわけではない。疑義があれば後日問い合わせの書簡が届き、釈明の返信をすればよいのだ。


 あとは新兵や装備の補充、物資の補給について、各部署を回って折衝するのだが、これはついでの用事である。


 こんなことのために年二回、一か月もかけて往復するのだから、非効率極まりない慣習と言える。

 帝国軍は一般に柔軟で合理的な考え方をする――と評されているが、その反面こうした旧弊もあちこちに転がっているのだ。


      *       *


 フェルナンド少佐は四時きっかりに、スチュワート中将の個室の扉を叩いた

 将官の個室は、佐官用とは段違いに広く、調度も豪華である。

 少佐は一歩中に入って扉を閉めると、敬礼をして申告を行った。


「セオドア・フェルナンデス少佐、お呼びにより参上いたしました」

 中将はすぐに立ち上がり、満面に笑みを浮かべて近寄り、少佐の手を取った。


「わしらの間で、そのような挨拶は無用であろう。

 長旅、ご苦労であった。疲れているだろうに、呼び立てして済まなかった。

 まずは座りたまえ」


 手を引かれた少佐は、応接のソファに座らされた。

 向かい側に中将が腰かけると、すかさず副官が淹れたてのコーヒーを、その前に差し出した。


 立ち昇る香りだけで、上物だと分かる。

 任地のトルゴル戦線は西部のような激戦地ではないが、現地司令部は帝国でも辺境と言われる、南部原生林(夜森)の開拓地である。

 補給で送られてくる代用コーヒーとは、雲泥の差であった。


 中将はその高価なコーヒーが、当り前のものであるという顔で、無造作に飲んでから口を開いた。

「最近の戦線の状況はどうだ、順調か?」

「はっ、特に変わりはありません。

 兵の損耗率も想定内の数値に収まっていますし、送り出した兵員の質についても、特に苦情は届いておりません。

 先ほど報告書を総務に提出して参りましたので、詳しくはそれを読んでいただければ……」


「いらんいらん。あんな退屈なものを読まされたら、眩暈めまいを起こしてしまうぞ」

「しかし、総司令の承認をいただかないことには……」


「無論サインはするさ。

 なに、テオ(セオドアの愛称)が作成した報告書なら間違いはない。

 読まずとも、お前の口から変わりないと直接聞いたのだから、それでいいだろう?」


 ウィンクをしてみせたスチュワート中将は、南部方面軍の総司令官である。

 だから親戚の少佐を、現地指揮官に登用できたのだ。


 帝国には東西南北の方面軍があって、最重要なのは西部方面軍、すなわち〝地獄の西部戦線(エウロペ戦線)〟を抱える、帝国最大規模の軍団である。

 次が北方の遊牧民である、アフマド族と対峙する北部方面軍だ。

 これは、農地を広げようとする武装開拓民と、牧草地を守ろうとする騎馬民族との紛争が絶えない地帯で、とにかく国境線が長大なので、動員される兵力も大きかった。


 そして三番手が、リスト王国と対峙する東部方面軍であるが、こちらは前二者と比べるとだいぶ格が落ちる。

 国境線は北部よりもさらに長いが、王国とはまだ国交が保たれているから、あくまで仮想敵国である。

 小規模な紛争が起きることがあっても、本格的な戦争には発展しないから、兵力はそれなりなのに、弱兵と馬鹿にされることが多い。


 最後が南部方面軍だが、その実態はせいぜいが連隊規模(三個大隊)で、とても軍団と呼べるような代物ではなかった。

 一応、相手のトルゴル王国はケルトニア領であるが、旧装備の現地兵との小競り合いが継続しているだけで、双方の戦意は極めて薄弱であった。

 帝国はこの戦線を、新兵に実戦経験を与えるための、最終訓練場と位置づけていた。


 したがって、家柄がよいだけで軍事的には無能なスチュワート中将でも、方面軍の総司令官が務まるのである。

 中将自身も〝お飾り〟の地位に満足し、甘んじていた。それこそが、彼の生存戦略だったのだ。

 そうでなければ、とっくに皇帝によって粛清されていただろう。


「いつもと変わらない――それは非常に結構なことだ。

 だがな、これからは少し状況が変わることになる。

 その前に……中尉、君はしばらく席を外したたまえ」


 中将に命じられた副官は、敬礼をして部屋の外へ出ていった。

 フェルナンド少佐は唾を呑み込み、膝の上の拳を握りしめた。


「では、いよいよトルゴルに本格的な侵攻を行うのですか?」

「うむ、ある意味そういうことになるのだが、侵攻といっても、名目上はあくまで訓練の一環としてもらいたい。

 これは特命であり、作戦は秘密裏に行わねばならないのだ」


「しかし、兵を動かす以上、秘密にはできないでしょう?

 第一、敵地への侵攻となれば、現在の兵力では全然足りません」

「そこは心配するな。増派については手を打ってある。

 少なくとも、現在の倍は確保した。無論、補給も同様だ」


「お言葉ですが、ハイダラバード藩王国の都を落とすには、倍の兵力でも難しいと思います。

 それに我が軍は新兵が主体ですから、かなりの損耗を覚悟しなければなりません」

「いや、目標はアウランではない」


「は? では、ほかにどこを目指すというのですか?」

「侵攻目標は国境を越えた南方約三十キロ、コルドラ大山脈の南端だ」


「……失礼ですが、自分には意図が分かりかねます。

 あの辺りは無人の原生林で、占領したところで軍事的な価値は皆無です。

 しかも、占領地の維持にどれだけの兵力が必要なのか、中将閣下はご理解しておられるのですか?」

「別に維持などしなくともよい。とにかく、目的地に到達すればよいのだ」


「しかし、それでは補給線が寸断されます」

「補給部隊には十分な護衛をつける。それでどうにかなるだろう」


「無茶をおっしゃらないでください。

 一体、その目的地に何があるというのですか?」

「ふむ、それをひと言で説明するのは難しいな……。

 いや、もちろん説明はしよう。ただ、少し長い話になるから、そのつもりで聞いてほしい」


 中将はぬるくなったコーヒーの残りを、一息で飲み干した。


      *       *


 話は一か月ほど前に遡る。


 その日、スチュワート中将はいつもどおりに出勤し、執務机に向かっていた。

 南部方面軍司令官という大層な肩書を持つ彼ではあるが、実態は閑職である。

 決裁が必要な文書は毎日上がってくるものの、枚数はそう多くない。

 そのため、午前中の二時間ですべての仕事は片づいてしまった。


 あとは読書をしたり、最近はまっているクロスワードを解いたりして、退勤時間を待てばよかった。


 やがて午後のお茶の時間となり、出されたお菓子をつまみながら、副官を相手に世間話をしていると、扉をノックする音が響いた。

 中将は首をかしげた。今日は来客の予定など、なかったはずである。


 副官が応対に出たが、すぐに振り返る。

「中将閣下、陛下の侍従殿です」

「何だと? すぐにお通ししろ!」

 入ってきたのは、黒い燕尾服を着た侍従職の男であった。


 皇帝が軍事上の命令を発することは、そう珍しくない。

 ただその場合は、司令部の最高幹部を通じて伝えられるはずだった。

 侍従が直接訪ねてきたということは、奥向きの用事ということにほかならない。


 中将は慌てて立ち上がり、応接へ座るよう促したが、侍従は優雅な仕草でそれを断った。

 彼は表情を変えずに、淡々と用件を告げた。


「陛下からのお言付けでございます。

 スチュワート中将閣下には、本日の晩餐に相伴せよ――とのことでございます」


「私が……でありますか?」

 戸惑う中将に対し、侍従は白髪頭を下げた。


「左様でございます。

 ごく内輪のことにございますれば、気負わずともよいとの仰せです。

 今お召しの軍服のまま、出席されるのがよろしいかと存じます」

「私のほかに、誰か招かれておるのでしょうか?」


「いえ、あくまで内輪の席だと申しました。

 陛下とレイア様のほかは、中将閣下だけと伺っております」

「でっ、ですが……、なぜ私なのでしょう?」


「さて、それは分かりかねます。

 ただ、これは私の推測に過ぎませぬが、陛下から南部戦線について、ご下問があるやもしれません」

「なぜ、侍従殿はそのように思われるのですか?」


「これは異なことを、閣下は南部方面軍の総司令官であらせられます。

 ほかに理由を探す方が難しいと存じますが?

 では、確かにお伝えしましたぞ。

 晩餐は六時からと決まっておりますから、遅れないようにお願いいたします」


 侍従は深々と礼をして去っていった。

 中将はしばらく呆然としていたが、すぐ我に返って副官を怒鳴りつけた。

「中尉、すぐに文書課に行って、過去三年分の報告書を持ってくるのだ! 急げ!!」


 副官が敬礼も忘れて部屋を飛び出していくと、一人残された中将は、部屋の中で往復を繰り返した。まるで動物園のゴリラである。

 彼の顔面は蒼白で、額には脂汗が滲んでいた。

 ビュート侯爵のような名門貴族が、突然皇帝に呼び出される場合、その多くは粛清を意味していた。


 多くの武官が居並ぶ中、陰謀や失態の証拠を突きつけられ、厳しい詰問を受けた挙句に投獄されるのだ。

 そして、その罪を非難する高札が街角に立てられる。

 数日後には広場に断頭台が引き出され、集まった大勢の市民の前で、公開処刑が行われることになる。


 だが、彼には何の心当たりもなかった。

 皇帝に逆らう気など毛頭ないし、職務上の失態も犯していないはずだった。収賄や横領など、自分の首を絞めるような真似は一切していない。

 そのために、名ばかりの無能司令官とそしられながら、あえて閑職に甘んじてきたのだ。


『まさか、誰かの讒言ざんげんか?

 だが、わしに恨みを抱く者など……いや、何人かはいるな。

 くそっ、一体、誰の仕業だ?』

 思考はぐるぐると巡り、結局は渦を巻いて悪い結末へと落ちていった。


 だが、しばらくして、彼はあることに思い至った。

『待てよ、陛下がわしを断罪するつもりなら、なぜレイア様が同席されるのだ?』


 レイアは側室のひとりに過ぎないが、皇帝の寵姫として、後宮で絶大な権力を握っている女性である。


 皇帝にはエメルドラ皇后という正妻がいるが、かなりの年上で、政略結婚という事情もあって、夫婦仲は冷え切っていた。

 二人の間に皇子はいるものの、凡庸な人物で、後継ぎとしてはすでに見限られていた。

 勢い皇帝は側室に手を出すことになるが、その中で彼の愛情を一身に集めたのがレイアである。


 彼女は没落貴族の娘であったが、恐ろしく頭のよい女性で、彼女が産んだ男の子は、二人の長所ばかりを受け継いでいた。

 そのため皇帝は、自ら帝王学を教えるほどこの子の教育に没頭し、特別に可愛がっていた。

 周囲の者は、次の皇帝は決定したも同然と見做し、レイアの地位は盤石となっていた。


 皇帝のレイアへの愛情は、彼女が出産を経てもまったく衰えなかった。

 よほどのことがない限り、夜は彼女と同衾するのが決まりとなっていた。

 それくらい彼女は若く、美しく、そして賢かったのだ。

 そんなにも大切にしている女性を、無慈悲な断罪の場に同席させるとは、考えづらかった。


『これにはきっと、何かの裏があるはずだ。

 これまでの陛下は、わしに虫けらほどの関心も抱いていなかった。

 ということは、レイア様が関係しているに違いない。

 あのお方が賢いことは有名だが、一番恐ろしいのは、諸外国の情報に異常に詳しいことだ。

 後宮から出られぬ身で、どうやって情報を集めているか知らぬが、侍従殿が言うように、わしを呼ぶということはトルゴル絡みに違いない!』


 中将は身震いし、副官が報告書を持ってくるのを、じりじりしながら待ちわびていた。

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