十 招待
帝都ガルムブルグの軍司令部は、いつも人でごった返している。公称百万人の軍を統括する部署であるから、それは当然であった。
建物内は毎朝清掃されていたが、廊下はあっという間に汚れてしまう。
地方から上京してきた将校たちの軍靴から、長旅でこびりついた泥や砂が落ちてしまうためだ。
フェルナンド少佐は、人波を掻き分けながら、そんな廊下を急いでいた。
彼は長い廊下に並ぶ、似たような扉を横目で確認しながら進んでいき、ある扉の前でぴたりと足を止める。
その扉にねじ止めされた金具に、彼の名が書かれた木札が差されていたのだ。
少佐は安堵した表情を浮かべ、扉を開けて中に入った。
あまり広くない部屋の中には、執務机と椅子、そして簡素ではあるが応接セットが設けられていた。
彼はコートと軍帽を脱いで、入口脇のポールハンガーに掛け、革張りの椅子にどっかと腰をおろした。
体重を背もたれに預け、足を伸ばして大きく背伸びをする。
長時間の乗馬で強張った関節が、ぱきぱきと音を鳴らし、気持ちのよさにつむった目尻に涙が滲ぶ。
その片目がふいに開かれ、眉間に皺が寄った。
目の前の机の上に、手紙や書類を入れるトレイがあるのだが、そこに一通の封筒が置かれていたからだ。
この部屋は、彼のような地方から登ってきた、佐官級の将校のための個室である。
佐官はかなりの上級将校であるが、巨大な帝国軍にはそれこそ〝ごまん〟といる。
だから、同じような部屋が数多く用意され、彼らが上京して司令部に滞在する間だけ、個室として提供されるのだ。
これから使用する部屋なのに、机の上に書類や手紙が置かれているのは、あまりよい兆候ではない。
少佐は浅く座り直し、トレイから封筒を取り上げた。
表には宛名として、確かに彼の名が記されていた。
裏を返すと、赤い蝋の封印が施されている。
少佐の眉が上がった。その印章には見覚えがある。ビュート侯爵(スチュワート家)のものである。
嫌な予感はますます強まった。
少佐の実家はバース侯爵の分家筋で、貴族ではないが、遠戚関係にある。
士官学校では凡庸な成績で、戦地でもさしたる功績を挙げていない彼が、佐官に昇進してひとかどの役職に就いているのは、すべてそのお陰であった。
したがって、彼は侯爵(スチュワート中将)に頭が上がらないのだ。
少佐は机の引き出しからペーパーナイフを取り、封を切った。
中には一枚の紙片が入っているだけで、開いてみると記された文章も一行だけであった。
『午後四時に私の部屋に出頭せよ』
そしてその下には、中将名ではなく、侯爵の署名があった。
要するに、これは正式な軍務ではない。恩義を忘れていないなら、命令に従えという脅迫である。
少佐は深い溜息をつき、軍服の内ポケットから懐中時計を引っ張り出した。
指定の時間までは、あと一時間半余りである。
彼は使い古された鞄を机に上げ、中から分厚い書類の束を出した。
中将のもとへ出頭する前に、まずこの報告書を提出しておかねばならない。
それは、フェルナンドが指揮を執っている、南部戦線の報告書である。
年に二回、帝都の司令部に赴いて、半年分の戦況を分析した報告書を出すのは、現地指揮官としての義務であった。
それを出したからといって、内容についての諮問を受けるわけではない。疑義があれば後日問い合わせの書簡が届き、釈明の返信をすればよいのだ。
あとは新兵や装備の補充、物資の補給について、各部署を回って折衝するのだが、これはついでの用事である。
こんなことのために年二回、一か月もかけて往復するのだから、非効率極まりない慣習と言える。
帝国軍は一般に柔軟で合理的な考え方をする――と評されているが、その反面こうした旧弊もあちこちに転がっているのだ。
* *
フェルナンド少佐は四時きっかりに、スチュワート中将の個室の扉を叩いた
将官の個室は、佐官用とは段違いに広く、調度も豪華である。
少佐は一歩中に入って扉を閉めると、敬礼をして申告を行った。
「セオドア・フェルナンデス少佐、お呼びにより参上いたしました」
中将はすぐに立ち上がり、満面に笑みを浮かべて近寄り、少佐の手を取った。
「わしらの間で、そのような挨拶は無用であろう。
長旅、ご苦労であった。疲れているだろうに、呼び立てして済まなかった。
まずは座りたまえ」
手を引かれた少佐は、応接のソファに座らされた。
向かい側に中将が腰かけると、すかさず副官が淹れたてのコーヒーを、その前に差し出した。
立ち昇る香りだけで、上物だと分かる。
任地のトルゴル戦線は西部のような激戦地ではないが、現地司令部は帝国でも辺境と言われる、南部原生林(夜森)の開拓地である。
補給で送られてくる代用コーヒーとは、雲泥の差であった。
中将はその高価なコーヒーが、当り前のものであるという顔で、無造作に飲んでから口を開いた。
「最近の戦線の状況はどうだ、順調か?」
「はっ、特に変わりはありません。
兵の損耗率も想定内の数値に収まっていますし、送り出した兵員の質についても、特に苦情は届いておりません。
先ほど報告書を総務に提出して参りましたので、詳しくはそれを読んでいただければ……」
「いらんいらん。あんな退屈なものを読まされたら、眩暈を起こしてしまうぞ」
「しかし、総司令の承認をいただかないことには……」
「無論サインはするさ。
なに、テオ(セオドアの愛称)が作成した報告書なら間違いはない。
読まずとも、お前の口から変わりないと直接聞いたのだから、それでいいだろう?」
ウィンクをしてみせたスチュワート中将は、南部方面軍の総司令官である。
だから親戚の少佐を、現地指揮官に登用できたのだ。
帝国には東西南北の方面軍があって、最重要なのは西部方面軍、すなわち〝地獄の西部戦線(エウロペ戦線)〟を抱える、帝国最大規模の軍団である。
次が北方の遊牧民である、アフマド族と対峙する北部方面軍だ。
これは、農地を広げようとする武装開拓民と、牧草地を守ろうとする騎馬民族との紛争が絶えない地帯で、とにかく国境線が長大なので、動員される兵力も大きかった。
そして三番手が、リスト王国と対峙する東部方面軍であるが、こちらは前二者と比べるとだいぶ格が落ちる。
国境線は北部よりもさらに長いが、王国とはまだ国交が保たれているから、あくまで仮想敵国である。
小規模な紛争が起きることがあっても、本格的な戦争には発展しないから、兵力はそれなりなのに、弱兵と馬鹿にされることが多い。
最後が南部方面軍だが、その実態はせいぜいが連隊規模(三個大隊)で、とても軍団と呼べるような代物ではなかった。
一応、相手のトルゴル王国はケルトニア領であるが、旧装備の現地兵との小競り合いが継続しているだけで、双方の戦意は極めて薄弱であった。
帝国はこの戦線を、新兵に実戦経験を与えるための、最終訓練場と位置づけていた。
したがって、家柄がよいだけで軍事的には無能なスチュワート中将でも、方面軍の総司令官が務まるのである。
中将自身も〝お飾り〟の地位に満足し、甘んじていた。それこそが、彼の生存戦略だったのだ。
そうでなければ、とっくに皇帝によって粛清されていただろう。
「いつもと変わらない――それは非常に結構なことだ。
だがな、これからは少し状況が変わることになる。
その前に……中尉、君はしばらく席を外したたまえ」
中将に命じられた副官は、敬礼をして部屋の外へ出ていった。
フェルナンド少佐は唾を呑み込み、膝の上の拳を握りしめた。
「では、いよいよトルゴルに本格的な侵攻を行うのですか?」
「うむ、ある意味そういうことになるのだが、侵攻といっても、名目上はあくまで訓練の一環としてもらいたい。
これは特命であり、作戦は秘密裏に行わねばならないのだ」
「しかし、兵を動かす以上、秘密にはできないでしょう?
第一、敵地への侵攻となれば、現在の兵力では全然足りません」
「そこは心配するな。増派については手を打ってある。
少なくとも、現在の倍は確保した。無論、補給も同様だ」
「お言葉ですが、ハイダラバード藩王国の都を落とすには、倍の兵力でも難しいと思います。
それに我が軍は新兵が主体ですから、かなりの損耗を覚悟しなければなりません」
「いや、目標はアウランではない」
「は? では、ほかにどこを目指すというのですか?」
「侵攻目標は国境を越えた南方約三十キロ、コルドラ大山脈の南端だ」
「……失礼ですが、自分には意図が分かりかねます。
あの辺りは無人の原生林で、占領したところで軍事的な価値は皆無です。
しかも、占領地の維持にどれだけの兵力が必要なのか、中将閣下はご理解しておられるのですか?」
「別に維持などしなくともよい。とにかく、目的地に到達すればよいのだ」
「しかし、それでは補給線が寸断されます」
「補給部隊には十分な護衛をつける。それでどうにかなるだろう」
「無茶をおっしゃらないでください。
一体、その目的地に何があるというのですか?」
「ふむ、それをひと言で説明するのは難しいな……。
いや、もちろん説明はしよう。ただ、少し長い話になるから、そのつもりで聞いてほしい」
中将はぬるくなったコーヒーの残りを、一息で飲み干した。
* *
話は一か月ほど前に遡る。
その日、スチュワート中将はいつもどおりに出勤し、執務机に向かっていた。
南部方面軍司令官という大層な肩書を持つ彼ではあるが、実態は閑職である。
決裁が必要な文書は毎日上がってくるものの、枚数はそう多くない。
そのため、午前中の二時間ですべての仕事は片づいてしまった。
あとは読書をしたり、最近はまっているクロスワードを解いたりして、退勤時間を待てばよかった。
やがて午後のお茶の時間となり、出されたお菓子をつまみながら、副官を相手に世間話をしていると、扉をノックする音が響いた。
中将は首を傾げた。今日は来客の予定など、なかったはずである。
副官が応対に出たが、すぐに振り返る。
「中将閣下、陛下の侍従殿です」
「何だと? すぐにお通ししろ!」
入ってきたのは、黒い燕尾服を着た侍従職の男であった。
皇帝が軍事上の命令を発することは、そう珍しくない。
ただその場合は、司令部の最高幹部を通じて伝えられるはずだった。
侍従が直接訪ねてきたということは、奥向きの用事ということにほかならない。
中将は慌てて立ち上がり、応接へ座るよう促したが、侍従は優雅な仕草でそれを断った。
彼は表情を変えずに、淡々と用件を告げた。
「陛下からのお言付けでございます。
スチュワート中将閣下には、本日の晩餐に相伴せよ――とのことでございます」
「私が……でありますか?」
戸惑う中将に対し、侍従は白髪頭を下げた。
「左様でございます。
ごく内輪のことにございますれば、気負わずともよいとの仰せです。
今お召しの軍服のまま、出席されるのがよろしいかと存じます」
「私のほかに、誰か招かれておるのでしょうか?」
「いえ、あくまで内輪の席だと申しました。
陛下とレイア様のほかは、中将閣下だけと伺っております」
「でっ、ですが……、なぜ私なのでしょう?」
「さて、それは分かりかねます。
ただ、これは私の推測に過ぎませぬが、陛下から南部戦線について、ご下問があるやもしれません」
「なぜ、侍従殿はそのように思われるのですか?」
「これは異なことを、閣下は南部方面軍の総司令官であらせられます。
ほかに理由を探す方が難しいと存じますが?
では、確かにお伝えしましたぞ。
晩餐は六時からと決まっておりますから、遅れないようにお願いいたします」
侍従は深々と礼をして去っていった。
中将はしばらく呆然としていたが、すぐ我に返って副官を怒鳴りつけた。
「中尉、すぐに文書課に行って、過去三年分の報告書を持ってくるのだ! 急げ!!」
副官が敬礼も忘れて部屋を飛び出していくと、一人残された中将は、部屋の中で往復を繰り返した。まるで動物園のゴリラである。
彼の顔面は蒼白で、額には脂汗が滲んでいた。
ビュート侯爵のような名門貴族が、突然皇帝に呼び出される場合、その多くは粛清を意味していた。
多くの武官が居並ぶ中、陰謀や失態の証拠を突きつけられ、厳しい詰問を受けた挙句に投獄されるのだ。
そして、その罪を非難する高札が街角に立てられる。
数日後には広場に断頭台が引き出され、集まった大勢の市民の前で、公開処刑が行われることになる。
だが、彼には何の心当たりもなかった。
皇帝に逆らう気など毛頭ないし、職務上の失態も犯していないはずだった。収賄や横領など、自分の首を絞めるような真似は一切していない。
そのために、名ばかりの無能司令官と謗られながら、あえて閑職に甘んじてきたのだ。
『まさか、誰かの讒言か?
だが、わしに恨みを抱く者など……いや、何人かはいるな。
くそっ、一体、誰の仕業だ?』
思考はぐるぐると巡り、結局は渦を巻いて悪い結末へと落ちていった。
だが、しばらくして、彼はあることに思い至った。
『待てよ、陛下がわしを断罪するつもりなら、なぜレイア様が同席されるのだ?』
レイアは側室のひとりに過ぎないが、皇帝の寵姫として、後宮で絶大な権力を握っている女性である。
皇帝にはエメルドラ皇后という正妻がいるが、かなりの年上で、政略結婚という事情もあって、夫婦仲は冷え切っていた。
二人の間に皇子はいるものの、凡庸な人物で、後継ぎとしてはすでに見限られていた。
勢い皇帝は側室に手を出すことになるが、その中で彼の愛情を一身に集めたのがレイアである。
彼女は没落貴族の娘であったが、恐ろしく頭のよい女性で、彼女が産んだ男の子は、二人の長所ばかりを受け継いでいた。
そのため皇帝は、自ら帝王学を教えるほどこの子の教育に没頭し、特別に可愛がっていた。
周囲の者は、次の皇帝は決定したも同然と見做し、レイアの地位は盤石となっていた。
皇帝のレイアへの愛情は、彼女が出産を経てもまったく衰えなかった。
よほどのことがない限り、夜は彼女と同衾するのが決まりとなっていた。
それくらい彼女は若く、美しく、そして賢かったのだ。
そんなにも大切にしている女性を、無慈悲な断罪の場に同席させるとは、考えづらかった。
『これにはきっと、何かの裏があるはずだ。
これまでの陛下は、わしに虫けらほどの関心も抱いていなかった。
ということは、レイア様が関係しているに違いない。
あのお方が賢いことは有名だが、一番恐ろしいのは、諸外国の情報に異常に詳しいことだ。
後宮から出られぬ身で、どうやって情報を集めているか知らぬが、侍従殿が言うように、わしを呼ぶということはトルゴル絡みに違いない!』
中将は身震いし、副官が報告書を持ってくるのを、じりじりしながら待ちわびていた。