二 使節団
十二月に入ると、参謀本部も何かと慌ただしい雰囲気に包まれる。
王国では新年が年度変わりとなるので、政府機関はどこも決算作業に追われるのだ。
参謀本部の総責任者であるマリウスのもとに集まる、各種報告書や決裁文書は膨大なものとなる。
多忙なマリウスの机には、平常時であっても書類が山積みとなりがちだが、特にこの時期は悲惨な状況に陥りがちだった。
秘書のエイミーが翌日の予定の最終確認をしていると、五時の鐘の音が聞こえてきた。
王城には南北二つの塔があるが、参謀本部はそのうちの南塔に入っている。
どちらの塔にも先端に鐘が吊るされていて、一時間ごとに鳴らされ、城内や王都の市民に時刻を知らせている。
この時代にも時計は存在するが、高価で一般には普及していないのだ。
続き部屋となっているマリウスの執務室からは、もう長い時間物音が聞こえてこず、静まり返っている。
今日は午後から書類処理に専念しているのだが、あの溜まりようでは、半分も片づいていないだろう。
エイミーは椅子の上で背筋を反らし、思いっきり伸びをした。
『きっと今日も遅くまで残られるのでしょうね。
そろそろコーヒーでもお出ししよう』
秘書官室には、来客のために湯沸かし用の暖炉と流しが付属している。
エイミーがひざ掛けを脇に寄せ、立ち上がったタイミングでノックの音がした。
誰かがこの部屋を訪ねてくることは珍しくはない。だが、もう終業時間も近い五時である。
彼女は小首を傾げながら、「どうぞ」と応えた。
「あら、こんな時間にどうしたんですか?」
顔を出したのは顔見知りである。外務部のサミュエル次官だ。
彼は三十代半ばで次官になったやり手で、外務部と軍の連絡・調整役も務めていた。
外交はレテイシア女王の専権分野だった。
方針の決定においては、実務を担当する外務部の意見を求めるし、一応は貴族院にも諮る。
だから独裁というわけではないが、決定権はあくまで女王のものだった。
軍は基本的に外交に口を出さない。
とはいえ、他国――特に帝国とケルトニアという二大国との関係は、軍事上欠くことのできない情報である。
そのため、軍を指揮する参謀本部と外務部は、日ごろから連携を密にしていた。
したがって、マリウスの毎日の予定には、あらかじめサミュエルとの打ち合わせ時間が組み込まれている。
ただ、それは朝一番であって、こんな遅い時間ではない。
次官は済まなそうな表情で、エイミーに懇願した。
「実は、緊急にシルヴィア少尉をお借りしたいのだ。
詳しい事情は明日説明するのだが、その場に少尉を同席させてほしい。
そうすれば、レクチャーの手間を省けるからね。
もちろん、少尉の予約が埋まっていることは承知しているし、調整を強いられる君にも迷惑をかけることになる。
マリウス様には事前に仁義を通しておきたくて、こんな時間に押しかけたのだよ」
「シルヴィア少尉の予定が土壇場で変わるのは、よくあることです。だから気になさらないでください。
少々お待ちください、マリウス様に伺ってまいりますわ」
秘書官はノックをして執務室に入った。
暗くなった部屋で、大きな執務机だけがランプで照らされていた。
机の脇の床には〝既決〟と書かれた箱がいくつも置かれ、そこに山のような書類が積まれていた。
「どうした?」
すぐにマリウスが顔を上げる。
彼の顔が見えるということは、それだけ書類が片づいたという証拠である。
エイミーは内心驚きを禁じ得なかった。一体、どれほど集中して事務処理に当たっていたのだろう?
「サミュエル次官がお見えです。
緊急の用件で、明日シルヴィア少尉を借りたいとのことで、その事情説明をされたいそうです」
「分かった。すぐに通してくれ。
それと、済まんがコーヒーも頼む」
「思いっきり熱くて苦いやつですね?」
エイミーがにこりと切り返す。
マリウスは苦笑いを浮かべ、しっしっと手を振った。
秘書官室に戻ったエイミーと入れ替わりに、サミュエル次官が招き入れられると、彼女はコーヒーの支度に取りかかった。
マリウスの面会者には、身分の高い人物も多いので、コーヒー豆も茶葉も極上品が用意されている。
しかも、それらは元秘書官のロゼッタからの差し入れで、経費節減を推奨する会計課から感謝されていた。
それにも関わらず、エイミーはもう一種類のコーヒーを、切らさないよう購入していた。
コーヒーの木は王国で育たないため、豆は全量が南方からの輸入である。
そのため庶民にとっては贅沢な嗜好品で、質の悪い二等品や代用コーヒー(タンポポの根や大豆が原料)が多く飲まれていた。
エイミーが買っているのもそれなのだが、別に彼女が経費をケチったわけではなく、マリウスの頼みであった。
マリウスは元々帝国の魔導士官で、若いころは過酷な西部戦線で地獄を体験している。
彼は見た目によらずに頑健な身体をしていたが、それでも激務で疲れ切ってしまう時がある。
そんな時は、泥と血にまみれた塹壕で覚えた、ただ苦いだけで火傷しそうに熱いコーヒーが懐かしくなるのだ。
もちろん、そんなものを外務次官には出せないので、カップには別々の粉でコーヒーを淹れ、銀のお盆にのせて執務室に運ぶ。
彼女が中に入ると、応接のソファに座った二人が、ぴたりと話を止めた。
マリウスの顔は、もの凄く不機嫌そうだった。
テーブルの上に受け皿とカップを置いて、エイミーは秘書官室に戻った。
お盆を流しに置いてから自分の席に着き、シルヴィアの予約を確認する。
明日は黒城市への飛行が予定されていたが、幸いさほど重要な案件ではなく、伝書バトでも代用可能であった。
ハトの脚に着ける通信用の管には、薄い専用紙を丸めて入れるのだが、それは広げても便箋一枚分の大きさである。
小さな文字でびっしりと書き込むにしても、伝えられる内容には限界がある。
したがって、伝文を要領よくまとめるのは、かなり面倒で才能が必要な作業であった。
下手をすると、伝文の作成だけで数時間かかることもあるのだ。
だが、これがシルヴィアならば、口頭で説明するだけで済む。
彼女は頭がよく優れた理解力を持っているので、一度のレクチャーで要点を把握してくれる(それ故に便利使いされるのだが)。
申し込んだ参謀からは呪われそうだが、エイミーは容赦なく予約をキャンセルとした。
そして、四角い付箋を一枚はがし、そこに美しい筆致でこう書き込んだ。
『シルヴィア・グレンダモア少尉は、出勤後ただちに首席参謀副総長の執務室に出頭せよ』
後は帰るついでに、南塔の出入りを管理する衛兵に引き継ぎを依頼すればいい。
エイミーの耳に、六時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。
彼女は帰り支度を始めながら、お腹が空いていることを思い出した。
『この間お洋服を買ったから、外食は論外ね。家に帰って何か作るのも面倒だし……。
うん、酒保で我慢しよう。うるさくて煙草臭いけど、適当な男に奢らせればいいわ』
* *
翌朝、参謀副総長の執務室には、マリウスとサミュエル、そしてシルヴィアが顔を合わせていた。
シルヴィアは霧谷屋敷の妖精事件の解決後、参謀本部での通常業務に復帰していた。
〝空飛ぶ伝令〟という任務は肉体的には過酷だが、逆に精神的には楽で、時に退屈ですらあった。
今日は出勤するなり門衛に予定の変更を告げられ、少しわくわくしていた。何か面白そうな事件が起きたのに違いない。
外務部のサミュエル次官は、以前にも仕事で会ったことがある。
マリウスはすでに事情を把握しているらしく、次官はシルヴィアに向かって説明を始めた。
「昨日のことですが、レイテイシア女王陛下から外務部に通達がありました。
〝ケルトニアから使節団が向かっているから、迎える準備をするように〟という内容です。
今の時期、北海は凍っていますから、南回りの陸路を取ったことになります。
つまり使節団がケルトニアを発ったのは一か月も前、当然事前のやり取りがあったはずです。
いつもなら、その段階で陛下からの指示があるのですが、今回はひと言もありませんでした。これは尋常なことではありません」
「なぜ、陛下はそのようなことを?」
シルヴィアが訊ねたのは当然だった。
レテイシア女王は英邁をもって知られる君主である。理由もなく外務部をないがしろにするはずがない。
「恐らくは、情報が洩れることを恐れたのでしょう。
情報部や軍内に対しても、帝国の間諜が手を伸ばしているのは、周知の事実ですから」
「でも、ケルトニアの使節なら、これまでだって何度も来ているはずです。
陛下の通達は、本当にそれで全部なのですか?」
「全部です。これだけでは何も分からないのと一緒ですから、当然うちの部長もすっ飛んでいきましたよ。
ですが、陛下の口は想像以上に重くて、追加の情報は二つだけでした。
一つは使節団の具体的な到着予定で、順調ならあと四日で赤城市に入るだろうということでした」
「そんな……ぎりぎりじゃないですか! あ、だから私を?」
次官はうなずいた。
「そうです。一刻も早く第三軍と赤龍帝に伝えなければ、彼らが恥をかくことになります。
それと、もう一つの情報は、使節団の性格です。
陛下は〝軍事顧問団〟だと明言されました」
「はぁ!?」
シルヴィアの声が思わず裏返った。
「何ですかそれ、わが国はいつからケルトニアの属国に成り下がったのですか!?」
彼女が憤ったのも当然である。
顧問ということは、他国の軍事に口を出すということだ。
そんな屈辱を受け入れれば、自分たちが属国だと認めたことになる。
ここで、マリウスが初めて口を開いた。
「軍事顧問団を迎え入れるとなれば、軍部に事前説明があるべきだろう。
しかし、現在に至るまで、陛下からの説明は一切ない」
「マリウス様は、どうしてそう落ち着いてらっしゃるのですか?」
シルヴィアの怒りが、今度はマリウスの方に向かう。
「シルヴィアこそ落ち着くべきだな。
もし、そんなことが早期に発表されてみろ。
君のように怒り出す者が出てくるのは、目に見えている。
参謀本部は派遣の裏を探ろうと躍起になるし、過激派による反対運動や妨害工策が画策されるだろう。
当然、情報は駄々洩れとなって、帝国に伝わってしまう。
だから、陛下はそんな猶予を与えなかったのだ」
しかし、シルヴィアは納得しない。
「わが軍は陛下の剣であり、盾であることを誓っています。
それを信じられぬと!?」
「それくらい考えられなくては、政治などできないのだよ。
陛下は誇り高いお方だ。ケルトニアの軍門に降る気など、はなからお持ちではない。
危険性を排除するのは別の問題だ。レテイシア様は軍を信じておられる。それなのに、我々が陛下を信じないでどうする?」
「う……」
参謀副総長の冷静な言葉に対し、シルヴィアも黙らざるを得なかった。
「それに、陛下のお考えはある程度推測できる。サミュエル君も私と同意見だった」
「是非、伺わせてください」
「ケルトニアの方でも、わが軍の体制や戦略に口を出す気はないだろう。
現在でも帝国との国交は維持されているし、両国ともすぐに戦争を起こすだけの余力を持っていない。
つまり、大規模に軍を動かすことはあり得ない。ケルトニアもそのくらいは分かっているさ。
彼らが狙っているのは魔導士だろう。
魔導士は戦線の推移を決定づける戦力でありながら、常に不足に悩まされている。
特に魔法戦で押されているケルトニアにとって、事態は深刻なのだ」
「それって、要するに王国から魔導士を引っこ抜くということですか?」
「ほう、さすがに察しがいいな。
表面上は、魔導士養成への協力を提案し、こちらに損はないと思わせる。
そして数年以内には、派遣要請を呑まざるを得ない状況に追い込むつもりなんだろう。
陛下はそれを承知の上で、相手の手土産だけを奪おうとしておられる。
まったく、恐ろしいことをお考えになるね」
「そこで、少尉に依頼する任務だが……」
マリウスの後を、サミュエル次官が引き取った。
「まずは赤龍帝に対し、差し迫った状況を伝えることが第一。
次に今話した、軍と外務部の推測を説明すること。
まぁ、赤龍帝には不要かもしれないがね。いずれにしろ意思統一は必要だ。
そして第三。ケルトニアの使節団を歓待しながら、できるだけ情報を引き出すよう依頼してほしい。
少尉は使節団の到着まで赤城市に留まり、情報が得られ次第、王都に持ち帰ってほしい」
「了解しました。
でも、使節団ともあろう人たちが、簡単に情報を洩らすでしょうか?」
シルヴィアの素朴な疑問に対し、マリウスとサミュエルは顔を見合わせ、いきなり笑い出した。
わけの分からない彼女は、思わずむっとした声を上げる。
「何がおかしいのでしょうか?」
マリウスは目尻の涙を拭って弁明した。
「いやいや、悪かった。
少尉は赤龍帝と話したことがあるかね?」
「はい。西の森(エルフの里)に向かう途中で拝謁しました。
少しだけお話もしましたが、もっぱらカー君のことでした。
帰りにもお会いしましたが、ご挨拶程度です」
「そうか、では知らないのも無理はないな。
世間では蒼龍帝のシド殿を〝悪魔〟と噂するが、なかなかどうして。
赤龍帝のリディア殿も、お姫様の皮を被った〝化け物〟だぞ。
彼女が相手なら、使節だって口を滑らすさ」
シルヴィアの脳裏に、浅黒い肌で少女のような見た目をした、赤龍帝の可愛らしい姿が浮かんだ。
そして口をついて出た言葉は、何とも間の抜けたものとなった。
「はぁ、そんなものですか……」