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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第八章 トルゴルの藩王
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一 円形闘技場

「大王様のお成りである!」


 重々しい声がこだますると、居並ぶ家臣たちが一斉に面を伏せた。

 色とりどりの花で飾られた石門ゲートから、白いトーブをまとい、頭に黒いターバンを巻いた男が現れた。


 夏の陽ざしに照らされた通路には、真っ赤な絨毯が敷かれていた。

 彼はそれの上を大股で歩き、貴賓席に据えられた、天蓋付きの豪華な椅子に腰をおろす。

 美しい女官たちがその両側にはべり、氷の入った冷たい果実酒と、ナツメヤシの砂糖漬けの壺を差し出した。

 筋骨隆々とした黒い肌の奴隷が、クジャクの羽根で飾られた大きなうちわをゆっくりと扇ぎ、生ぬるい風を送る。


 巨大な円形闘技場コロッセオは石造りで、一万人を超す収容能力があったが、今日は観客の姿がなく、がらんとしていた。

 ここでは毎日のように試合が開催され、娯楽に飢えた民衆で埋め尽くされるから、それは一種異様な光景だった。


 場内は黒土を入れて適度に締めた上、細かな砂が撒かれ、そこで奴隷剣闘士たちの闘いが行われる。


 下履きだけで素手の殴り合いもあれば、あらゆる武器・防具が許された試合もあった。

 連戦不敗の強者は猛獣、時には異形の怪物を相手にすることもあったし、余興として怪物同士の闘いもあった。


 市民の間で特に人気だったのは、女剣闘士アマゾネス同士の試合で、この場合は盾以外の防具の着用が許されない。

 彼女たちは男と同じ下帯だけの姿を強制され、その全身には香油が塗られた。

 てらてらと光る乳房を揺らしながら、女同士が血まみれになって殺し合う光景に、民衆は熱狂するのであった。


 すべての試合で公営の賭けが行われていたから、観客は闘いの結末を食い入るように見守った。

 試合はどちらかが死ぬまで終わらず、勝者は相手の首を刎ねて高々と掲げることで決着とされた。


 ひとつの試合が終わると、すぐに敗者の屍が片付けられ、血で汚れた地面は、きれいな砂が撒かれて清められる。

 そして、次の殺し合いが始まるのである。


 だが、この日の闘技場には砂が撒かれず、黒土が剥き出しになっていた。

 その代わりに、土の上には白い石灰で、奇怪な模様が描かれていた。

 それは直径百メートルにも及ぶ、巨大な魔法陣であった。

 何重もの円に幾何学模様が重なり、その隙間に解読不能の文字が書き込まれている。


 そして魔法陣の中央には、何故か大きな鉄の鍋が据えられていた。

 鉄鍋は石組みのかまどに乗せられていたが、中には何も入れられていない。

 逆に竈の方には薪がくべられ、勢いよく炎が上がっている。

 当然のように、鍋底は真っ赤に焼けていた。


 天蓋つきの椅子の前に文官が進み出て、うやうやしく膝をつく。

「用意が整いましてございます」


「では、始めよ」

 大王は鷹揚おうようにうなずいた。その動きで、ターバンの羽根飾りが揺れる。

 黒いターバンが許されるのは、偉大なる預言者の直系子孫のみである。

 彼こそは世界の半分を支配する、真の大王であった。


でませいっ!」

 武官の大音声が再び響き、銅鑼どらが何度も打ち鳴らされた。


 いつもなら剣闘士や猛獣、怪物が登場する入場口に姿を見せたのは、木の手枷をはめられ、足に鎖で鉄球がつけられた奴隷たちだった。

 それが東西双方の入口から、ぞろぞろと入ってくる。


 奴隷たちは全員、白い頭巾を被せられていた。

 年齢や性別はさまざまで、中には十歳くらいの子どももいたし、腰の曲がった老人の姿もあった。

 頭巾以外は何も身に着けない裸体で、しかも全身の体毛がきれいに剃られている。

 行列の両脇について彼らを追い立てるのは、兜の面頬を下ろし、抜き身の槍を手にした兵士たちだった。


 奴隷の行列は闘技場の中央まで進むと、竈を中心に蛇がとぐろを巻くように並ばせられた。

 十分もしないうちに、巨大な魔法陣は裸の奴隷で埋め尽くされ、地面の模様も見えなくなってしまった。

 その数を確認するのは難しかったが、少なく見積もっても千人を超していたであろう。


 奴隷の整列が完了すると、兵士たちはその周囲を取り囲んで槍の穂先を向けた。

 奴隷たちが魔法陣の外に出ないためである。


 再び銅鑼が鳴り響くと同時に、東西南北の魔法陣の外周に、黒い布を頭から被った老人が、唐突に出現した。

 彼らはどの入口からも入ってこなかった。まるで、地の底から湧き出したように、そこに出現したのだ。

 兵士たちはあらかじめ段取りを知らされていたが、それでもこの手品じみた登場の仕方に驚き、気味が悪そうに後ずさった。


 貴賓席の大王は、ひじ掛けに頬杖をつき、砂糖漬けをくちゃくちゃと噛みながら、面白そうにその様子を眺めていた。

「まだ始まらぬのか?」


 大王はだるそうな声音で、傍らの文官に訊ねた。

 文官は頭を下げ、焦ったように弁明する。

「いえ、もう始まっておりますれば、今しばらくお待ちください」


 貴賓席からは何事も起こらず、ただ時が経過しているように見えたのだ。

 だが、四方の外周に立った老人たちは、周囲に聞こえないかすれた声で、長々とした呪文を唱えていたのだ。


 文官が闘技場の方に祈るような視線を向けると、その思いが通じたのか、魔法陣の中に変化が起きた。

 黒衣の老人の近くにいた奴隷が、次々と気を失ったように、その場に崩れ落ちたのだ。

 その現象は、一滴の雫によって発生した波紋のように、魔法陣の中心に向けて広がっていく。

 そして一分も経たないうちに、すべての奴隷が折り重なって倒れたのである。


 奇怪なことが起きたのは、その直後であった。

 倒れた奴隷たちの身体から、いく筋もの赤い滴りが浮き上がってきたのだ。

 これが上下逆なら理解できる。彼らが何らかの原因で傷つき、流血しているに違いない。

 それなのに、無数の血の筋が上に向かって流れるとは、まったくもって理不尽極まりない。


 兵士たちは唖然として、その異様な光景を見守るしかなかった。

 奴隷の身体から吸い上げられた血の筋は、やがて一つの塊りとなり、ぐるぐると回転を始めた。


 奴隷それぞれの上にできた千個の血塊は、ゆらゆらと魔法陣の中央に吸い寄せられていった。

 そして、真っ赤に焼け爛れた鉄鍋の上空で合体し、巨大な血の球体に成長したのである。


 貴賓席の武官・文官たちは身を乗り出し、女たちは思わず顔を覆った。

 大王もぽかんと口を開け、砂糖漬けに伸ばした右手が、女官の乳首を摘まんでいることにも気づかなかった。


 巨大な血の塊りは、しばらく鍋の上でぐるぐる回転していたが、突然糸が切れたように落下した。

 焼けた鉄鍋に触れた血液は瞬時に沸騰し、立ち昇る大量の水蒸気が、一切の視界を遮ってしまった。


 すかさず無風だった闘技場にさっと風が吹き込み、その湯気を吹き飛ばした。

 偶然にしては都合よすぎる。これも何か怪しげな術なのだろうか。


 風に吹き飛ばされた水蒸気は貴賓席にまで運ばれ、むっとする熱気と、吐き気を催すさびのような臭気に包まれた。

 男たちはどうにかそれに耐えたが、女官の数人がうずくまり、その場で胃の内容物をぶちまける醜態をさらした。


 鍋で煮えたぎる赤黒い液体は、水分をどんどん蒸発させ、溶岩のようにどろどろになっていった。

 最初は鍋一杯だった血液も量が減ったことで、貴賓席からは見えにくくなった。

 このまま煮詰まってしまい、やがては焦げついて炭になってしまうだろう――誰もがそう思った。


 だが実際には、粘性を増した血液がまるで水銀のような塊りとなって、鍋の底を円を描いて踊り始めたのだ。

 その色も暗赤色から次第に黒みを増し、やがて艶々と輝きを放つ漆黒となっていった。

 体積は依然として減り続け、それとともに軟体から固体へと変化し、完全な球形に近づいていった。


 竈の焚木がやがて燃え尽きると、真っ赤に焼けていた鉄鍋も、本来の色を取り戻した。

 鍋底をくるくる転がっていた黒い球体も、その動きを止めて静止した。

 黒衣の老人の指示で、数人の兵士が奴隷の死骸を踏みつけて竈に近づいていった。

 長い柄のしゃもじを持った一人が脚立に上がり、まだ熱い鍋底から黒い球を掬いあげた。


 こうした動きは貴賓席からも見えたものの、何を取り出したのかは遠すぎて見えなかった。

 大王は近侍する文官に不満をぶつけた。


「何だ、肝心なところが見えないではないか!

 儀式は成功したのか?」


 文官は余裕のある表情で頭を下げた。

 もし失敗していれば、現場の責任者は軒並み首を刎ねられる。闘技場ではパニックが起きていただろう。

 そうなっていないということは、成功した証である。


「ご安心ください。

 ご覧いただいた生贄は王国全土、五十万の奴隷から、呪術師どもが三年をかけてりすぐった千人でございます。

 万が一にも失敗などあり得ません。

 秘宝は熱を冷まして磨かれているのでしょう。すぐに運ばれてくるものと存じます」


 文官の言葉どおりであった。

 闘技場から上がってきた兵士から、美しい宝石箱が届けられ、文官はそれを大王の御前に恭しく捧げた。


 大王が宝石箱の蓋を開けると、赤いベルベッドの中央に、鳩の卵ほどの大きさの黒いたまが収められていた。

 手を伸ばして摘まみ上げると、じんわりと指に熱が伝わってくる。


 その珠には傷ひとつなく、黒オニキスよりも深い闇色に輝いていた。

「ほう……なかなか見事なものだな」

「御意」


 大王は腰に穿いた剣の下げ帯を外し、それを護衛の武官に渡した。

「決めたぞ。これはわが剣の束頭に埋め込むことにする。

 呪術師どもの進言が真実まことなら、余に歯向かう敵をことごとく討ち滅ぼすであろう。

 すみやかに仕上げるよう、職人どもに命じよ!」


「ははっ!」

 大王の周囲にいた者すべてが、声を合わせて平服した。


      *       *


 かくして千人の奴隷を生贄に生み出された黒の宝玉は、大王愛用の半月刀シャムシールの束を飾ることとなった。


 大王の武人としての強さは群を抜いていたが、この剣を手にしてからは、さらに圧倒的なものとなった。

 彼は戦争においては常に先頭に立って切り込み、あらゆる敵を粉砕した。

 多くの英雄、豪傑が大王に一騎打ちを挑んだが、一合と耐え得る者はいなかった。


 大王の剣を受け止めた瞬間、敵将の身体は稲妻によって真っ二つになった。

 宝剣の放つ魔法効果は多彩で、ある時は業火が敵を包んで消し炭にし、またある時は凍りついて粉々に砕けるのだった。


 大王の軍は連戦連勝を続け、彼が築いた王国の版図は、大陸を埋め尽くす勢いで広がっていった。

 この宝剣がある限り大王は無敵であり、王国の繁栄は永遠に続くかと思われた。


 しかし、宝玉のために生贄とされた奴隷たちの怨念は、それを許さなかった。

 彼らはもともと、大王に滅ぼされた国の戦士とその家族であり、二重の恨みを抱いて死んでいったのだ。


 大王には三十人以上の子があった。

 数年後、その王子の一人が、時の宰相と結託して反乱を企てたのである。


 もとより武力で大王に勝てる者はいない。

 王子が選んだ手段は毒殺であった。

 当然であるが、王が口にするものは、すべて事前に毒味が行われていた。

 ただし、その役目は毒に耐性ができぬよう、毎日違う人間に替えられていた。しかも、毒味で食するのはすべて料理の一口で、全てを平らげるわけではない。


 王子はそこに目をつけ、すぐには効果を表さない量の砒素ひそを、毎日の食事に混入させたのだ。

 半年も経たないうちに大王の体調に異変が表れ、医師によって慢性の砒素中毒だと判断された時には、もはや手遅れの状態となっていた。


 大王は衰弱して、馬に乗ることはおろか、満足に剣を振るうこともままならなくなった。

 王子はこの機を逃さず挙兵し、一気に王宮に乱入したが、大王は秘密の抜け道を使って逃れた後だった。


 王宮を掌握した反乱軍は、すぐさま追手をかけた。

 王国全土に容赦のない捜索がかかったが、ようとして大王の消息は知れなかった。


 結局、史上稀にみる大王国は、各地を治めていた王子たちが、それぞれ建国して分裂し、果てしない抗争の挙句に滅び去った。


 分裂した王国のうち真っ先に滅亡したのは、皮肉なことに大王を毒殺した王子の国であった。

 彼の国は〝父王の敵〟という名分のもと、周辺の兄弟たちに攻め込まれたのだ。


 数年前まで世界一の栄華を誇った王都は、徹底的な破壊を受けて跡形もなくなった。

 あの儀式が行われた、円形闘技場コロッセオもその対象であった。

 荒廃した都の跡には、逃げ出した市民の一部が戻り、再び町が興されたが、そこにかつての繁栄が戻ることはなかった。


 ただその町では、いつしかある噂話がささやかれるようになった。


 ――大王は森の奥の洞窟に逃れ、そこで死んだ。

 だが、彼は死の直前、毒の回った身体に残った力を振り絞り、愛用の宝剣を洞窟の奥の岩に突き刺した。

 そして「この剣を抜いた者は、世界を手にするであろう」と言い残し、息絶えた。

 大王の死後、付き従った側近たちが試みても、誰も剣を抜くことができなかった。


 そして、今でもその洞窟には、岩に根元まで突き刺さった剣がそのままとなっており、束頭の黒い宝玉が怪しく光っているのだという。

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― 新着の感想 ―
劇場とかの後日談があると思っていたので違う作品読んだのかと思いました.......
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