一 円形闘技場
「大王様のお成りである!」
重々しい声がこだますると、居並ぶ家臣たちが一斉に面を伏せた。
色とりどりの花で飾られた石門から、白いトーブをまとい、頭に黒いターバンを巻いた男が現れた。
夏の陽ざしに照らされた通路には、真っ赤な絨毯が敷かれていた。
彼はそれの上を大股で歩き、貴賓席に据えられた、天蓋付きの豪華な椅子に腰をおろす。
美しい女官たちがその両側にはべり、氷の入った冷たい果実酒と、ナツメヤシの砂糖漬けの壺を差し出した。
筋骨隆々とした黒い肌の奴隷が、クジャクの羽根で飾られた大きなうちわをゆっくりと扇ぎ、生ぬるい風を送る。
巨大な円形闘技場は石造りで、一万人を超す収容能力があったが、今日は観客の姿がなく、がらんとしていた。
ここでは毎日のように試合が開催され、娯楽に飢えた民衆で埋め尽くされるから、それは一種異様な光景だった。
場内は黒土を入れて適度に締めた上、細かな砂が撒かれ、そこで奴隷剣闘士たちの闘いが行われる。
下履きだけで素手の殴り合いもあれば、あらゆる武器・防具が許された試合もあった。
連戦不敗の強者は猛獣、時には異形の怪物を相手にすることもあったし、余興として怪物同士の闘いもあった。
市民の間で特に人気だったのは、女剣闘士同士の試合で、この場合は盾以外の防具の着用が許されない。
彼女たちは男と同じ下帯だけの姿を強制され、その全身には香油が塗られた。
てらてらと光る乳房を揺らしながら、女同士が血まみれになって殺し合う光景に、民衆は熱狂するのであった。
すべての試合で公営の賭けが行われていたから、観客は闘いの結末を食い入るように見守った。
試合はどちらかが死ぬまで終わらず、勝者は相手の首を刎ねて高々と掲げることで決着とされた。
ひとつの試合が終わると、すぐに敗者の屍が片付けられ、血で汚れた地面は、きれいな砂が撒かれて清められる。
そして、次の殺し合いが始まるのである。
だが、この日の闘技場には砂が撒かれず、黒土が剥き出しになっていた。
その代わりに、土の上には白い石灰で、奇怪な模様が描かれていた。
それは直径百メートルにも及ぶ、巨大な魔法陣であった。
何重もの円に幾何学模様が重なり、その隙間に解読不能の文字が書き込まれている。
そして魔法陣の中央には、何故か大きな鉄の鍋が据えられていた。
鉄鍋は石組みの竈に乗せられていたが、中には何も入れられていない。
逆に竈の方には薪がくべられ、勢いよく炎が上がっている。
当然のように、鍋底は真っ赤に焼けていた。
天蓋つきの椅子の前に文官が進み出て、恭しく膝をつく。
「用意が整いましてございます」
「では、始めよ」
大王は鷹揚にうなずいた。その動きで、ターバンの羽根飾りが揺れる。
黒いターバンが許されるのは、偉大なる預言者の直系子孫のみである。
彼こそは世界の半分を支配する、真の大王であった。
「出でませいっ!」
武官の大音声が再び響き、銅鑼が何度も打ち鳴らされた。
いつもなら剣闘士や猛獣、怪物が登場する入場口に姿を見せたのは、木の手枷をはめられ、足に鎖で鉄球がつけられた奴隷たちだった。
それが東西双方の入口から、ぞろぞろと入ってくる。
奴隷たちは全員、白い頭巾を被せられていた。
年齢や性別はさまざまで、中には十歳くらいの子どももいたし、腰の曲がった老人の姿もあった。
頭巾以外は何も身に着けない裸体で、しかも全身の体毛がきれいに剃られている。
行列の両脇について彼らを追い立てるのは、兜の面頬を下ろし、抜き身の槍を手にした兵士たちだった。
奴隷の行列は闘技場の中央まで進むと、竈を中心に蛇がとぐろを巻くように並ばせられた。
十分もしないうちに、巨大な魔法陣は裸の奴隷で埋め尽くされ、地面の模様も見えなくなってしまった。
その数を確認するのは難しかったが、少なく見積もっても千人を超していたであろう。
奴隷の整列が完了すると、兵士たちはその周囲を取り囲んで槍の穂先を向けた。
奴隷たちが魔法陣の外に出ないためである。
再び銅鑼が鳴り響くと同時に、東西南北の魔法陣の外周に、黒い布を頭から被った老人が、唐突に出現した。
彼らはどの入口からも入ってこなかった。まるで、地の底から湧き出したように、そこに出現したのだ。
兵士たちはあらかじめ段取りを知らされていたが、それでもこの手品じみた登場の仕方に驚き、気味が悪そうに後ずさった。
貴賓席の大王は、ひじ掛けに頬杖をつき、砂糖漬けをくちゃくちゃと噛みながら、面白そうにその様子を眺めていた。
「まだ始まらぬのか?」
大王は気怠そうな声音で、傍らの文官に訊ねた。
文官は頭を下げ、焦ったように弁明する。
「いえ、もう始まっておりますれば、今しばらくお待ちください」
貴賓席からは何事も起こらず、ただ時が経過しているように見えたのだ。
だが、四方の外周に立った老人たちは、周囲に聞こえない掠れた声で、長々とした呪文を唱えていたのだ。
文官が闘技場の方に祈るような視線を向けると、その思いが通じたのか、魔法陣の中に変化が起きた。
黒衣の老人の近くにいた奴隷が、次々と気を失ったように、その場に崩れ落ちたのだ。
その現象は、一滴の雫によって発生した波紋のように、魔法陣の中心に向けて広がっていく。
そして一分も経たないうちに、すべての奴隷が折り重なって倒れたのである。
奇怪なことが起きたのは、その直後であった。
倒れた奴隷たちの身体から、いく筋もの赤い滴りが浮き上がってきたのだ。
これが上下逆なら理解できる。彼らが何らかの原因で傷つき、流血しているに違いない。
それなのに、無数の血の筋が上に向かって流れるとは、まったくもって理不尽極まりない。
兵士たちは唖然として、その異様な光景を見守るしかなかった。
奴隷の身体から吸い上げられた血の筋は、やがて一つの塊りとなり、ぐるぐると回転を始めた。
奴隷それぞれの上にできた千個の血塊は、ゆらゆらと魔法陣の中央に吸い寄せられていった。
そして、真っ赤に焼け爛れた鉄鍋の上空で合体し、巨大な血の球体に成長したのである。
貴賓席の武官・文官たちは身を乗り出し、女たちは思わず顔を覆った。
大王もぽかんと口を開け、砂糖漬けに伸ばした右手が、女官の乳首を摘まんでいることにも気づかなかった。
巨大な血の塊りは、しばらく鍋の上でぐるぐる回転していたが、突然糸が切れたように落下した。
焼けた鉄鍋に触れた血液は瞬時に沸騰し、立ち昇る大量の水蒸気が、一切の視界を遮ってしまった。
すかさず無風だった闘技場にさっと風が吹き込み、その湯気を吹き飛ばした。
偶然にしては都合よすぎる。これも何か怪しげな術なのだろうか。
風に吹き飛ばされた水蒸気は貴賓席にまで運ばれ、むっとする熱気と、吐き気を催す錆のような臭気に包まれた。
男たちはどうにかそれに耐えたが、女官の数人がうずくまり、その場で胃の内容物をぶちまける醜態をさらした。
鍋で煮えたぎる赤黒い液体は、水分をどんどん蒸発させ、溶岩のようにどろどろになっていった。
最初は鍋一杯だった血液も量が減ったことで、貴賓席からは見えにくくなった。
このまま煮詰まってしまい、やがては焦げついて炭になってしまうだろう――誰もがそう思った。
だが実際には、粘性を増した血液がまるで水銀のような塊りとなって、鍋の底を円を描いて踊り始めたのだ。
その色も暗赤色から次第に黒みを増し、やがて艶々と輝きを放つ漆黒となっていった。
体積は依然として減り続け、それとともに軟体から固体へと変化し、完全な球形に近づいていった。
竈の焚木がやがて燃え尽きると、真っ赤に焼けていた鉄鍋も、本来の色を取り戻した。
鍋底をくるくる転がっていた黒い球体も、その動きを止めて静止した。
黒衣の老人の指示で、数人の兵士が奴隷の死骸を踏みつけて竈に近づいていった。
長い柄のしゃもじを持った一人が脚立に上がり、まだ熱い鍋底から黒い球を掬いあげた。
こうした動きは貴賓席からも見えたものの、何を取り出したのかは遠すぎて見えなかった。
大王は近侍する文官に不満をぶつけた。
「何だ、肝心なところが見えないではないか!
儀式は成功したのか?」
文官は余裕のある表情で頭を下げた。
もし失敗していれば、現場の責任者は軒並み首を刎ねられる。闘技場ではパニックが起きていただろう。
そうなっていないということは、成功した証である。
「ご安心ください。
ご覧いただいた生贄は王国全土、五十万の奴隷から、呪術師どもが三年をかけて選りすぐった千人でございます。
万が一にも失敗などあり得ません。
秘宝は熱を冷まして磨かれているのでしょう。すぐに運ばれてくるものと存じます」
文官の言葉どおりであった。
闘技場から上がってきた兵士から、美しい宝石箱が届けられ、文官はそれを大王の御前に恭しく捧げた。
大王が宝石箱の蓋を開けると、赤いベルベッドの中央に、鳩の卵ほどの大きさの黒い珠が収められていた。
手を伸ばして摘まみ上げると、じんわりと指に熱が伝わってくる。
その珠には傷ひとつなく、黒オニキスよりも深い闇色に輝いていた。
「ほう……なかなか見事なものだな」
「御意」
大王は腰に穿いた剣の下げ帯を外し、それを護衛の武官に渡した。
「決めたぞ。これはわが剣の束頭に埋め込むことにする。
呪術師どもの進言が真実なら、余に歯向かう敵をことごとく討ち滅ぼすであろう。
速やかに仕上げるよう、職人どもに命じよ!」
「ははっ!」
大王の周囲にいた者すべてが、声を合わせて平服した。
* *
かくして千人の奴隷を生贄に生み出された黒の宝玉は、大王愛用の半月刀の束を飾ることとなった。
大王の武人としての強さは群を抜いていたが、この剣を手にしてからは、さらに圧倒的なものとなった。
彼は戦争においては常に先頭に立って切り込み、あらゆる敵を粉砕した。
多くの英雄、豪傑が大王に一騎打ちを挑んだが、一合と耐え得る者はいなかった。
大王の剣を受け止めた瞬間、敵将の身体は稲妻によって真っ二つになった。
宝剣の放つ魔法効果は多彩で、ある時は業火が敵を包んで消し炭にし、またある時は凍りついて粉々に砕けるのだった。
大王の軍は連戦連勝を続け、彼が築いた王国の版図は、大陸を埋め尽くす勢いで広がっていった。
この宝剣がある限り大王は無敵であり、王国の繁栄は永遠に続くかと思われた。
しかし、宝玉のために生贄とされた奴隷たちの怨念は、それを許さなかった。
彼らはもともと、大王に滅ぼされた国の戦士とその家族であり、二重の恨みを抱いて死んでいったのだ。
大王には三十人以上の子があった。
数年後、その王子の一人が、時の宰相と結託して反乱を企てたのである。
もとより武力で大王に勝てる者はいない。
王子が選んだ手段は毒殺であった。
当然であるが、王が口にするものは、すべて事前に毒味が行われていた。
ただし、その役目は毒に耐性ができぬよう、毎日違う人間に替えられていた。しかも、毒味で食するのはすべて料理の一口で、全てを平らげるわけではない。
王子はそこに目をつけ、すぐには効果を表さない量の砒素を、毎日の食事に混入させたのだ。
半年も経たないうちに大王の体調に異変が表れ、医師によって慢性の砒素中毒だと判断された時には、もはや手遅れの状態となっていた。
大王は衰弱して、馬に乗ることはおろか、満足に剣を振るうこともままならなくなった。
王子はこの機を逃さず挙兵し、一気に王宮に乱入したが、大王は秘密の抜け道を使って逃れた後だった。
王宮を掌握した反乱軍は、すぐさま追手をかけた。
王国全土に容赦のない捜索がかかったが、杳として大王の消息は知れなかった。
結局、史上稀にみる大王国は、各地を治めていた王子たちが、それぞれ建国して分裂し、果てしない抗争の挙句に滅び去った。
分裂した王国のうち真っ先に滅亡したのは、皮肉なことに大王を毒殺した王子の国であった。
彼の国は〝父王の敵〟という名分のもと、周辺の兄弟たちに攻め込まれたのだ。
数年前まで世界一の栄華を誇った王都は、徹底的な破壊を受けて跡形もなくなった。
あの儀式が行われた、円形闘技場もその対象であった。
荒廃した都の跡には、逃げ出した市民の一部が戻り、再び町が興されたが、そこにかつての繁栄が戻ることはなかった。
ただその町では、いつしかある噂話がささやかれるようになった。
――大王は森の奥の洞窟に逃れ、そこで死んだ。
だが、彼は死の直前、毒の回った身体に残った力を振り絞り、愛用の宝剣を洞窟の奥の岩に突き刺した。
そして「この剣を抜いた者は、世界を手にするであろう」と言い残し、息絶えた。
大王の死後、付き従った側近たちが試みても、誰も剣を抜くことができなかった。
そして、今でもその洞窟には、岩に根元まで突き刺さった剣がそのままとなっており、束頭の黒い宝玉が怪しく光っているのだという。