二十 黒幕
辺境伯が霧谷屋敷に帰ってきたのは、当初の予定どおりの一週間後であった。
セドリックやシルヴィア、そして使用人たちが出迎える前で、馬車から降りてきたのは伯爵とミーナだけである。
家の者たちに対し、伯爵はイレーネが家庭教師として復帰すること、それが五日後であると宣言した。
イレーネを敬愛していたセドリックは、父親に抱きついて喜びを爆発させた。
「僕は信じていました! 父上なら、必ず先生を連れ戻してくれるって!!」
使用人たちも皆イレーネを好いていたので、笑顔で父子の抱擁を見守っている。
シルヴィアも同様だったが、どこか〝蚊帳の外〟の気分を味わっていた。
ともあれ、これで家庭教師の後継者問題も無事解決され、彼女も安心して通常業務に戻れるというものである。
この日を境に、霧谷屋敷の雰囲気は一変した。
誰もが晴れやかな表情で、欠けていた家族の一員を迎える準備に勤しんでいた。
中でもセドリックのはしゃぎようは、見ていて微笑ましいものだった。
伯爵に随行したミーナが、使用人仲間から注目を浴びたのは当然である。
彼女はメイドとしての仕事に戻ると、さっそく先輩に腕を掴まれ、メイドたちが集結していた小部屋に連れ込まれた。
そして、半年以上ぎくしゃくしていた伯爵とイレーネの仲が、どうやって元の鞘に収まったのかを説明させられたのだ。
「伯爵様からは口止めされていたのですが……、仕方ありませんね。
いいですか、ここだけの話ですよ」
ミーナの前置きに、年上のメイドたちが一斉にうなずいた。
もちろん、その〝ここだけの話〟は、あっという間に男性使用人たちにも伝わり、誰もが知るところとなった。
特に、伯爵が巨大な薔薇の花束を抱え、イレーネのアパートに向かうくだりは大いに受け、しばらくお茶うけ話として楽しまれることとなった。
その一方、シルヴィアはまだ〝お客様〟扱いだったので、メイドたちも噂話を洩らすような無作法をしなかった。
シルヴィアはイレーネが使っていた部屋を明け渡し、客用寝室の一つ(小さい方)に移っていた。
屋敷内の各部屋は伯爵の書斎を除き、朝のうちにメイドが掃除をする。
掃除は体力がある若手のメイドの担当で、三日後にミーナがシルヴィアの部屋の当番となった。
その日の朝、ミーナがノックをして扉を開けると、いきなり腕を掴まれて引っ張り込まれた。シルヴィアが待ち構えていたのだ。
シルヴィアは悪役顔でにやりと笑い、後ろ手に扉を閉めて鍵をかけた。
『若いメイドが手籠めにされるって、こんな感じなのかしら?』
そんな不謹慎なことを思いながらも、ミーナは慌てなかった。これはもう帰ってきた当日に経験したことである。
それよりも、客室の様子に驚いた。
シルヴィアは大雑把な性格で、部屋を散らかしていることが多い。
世話をされることに慣れている貴族には、そう珍しいことではない。
ところが今日に限っては、掃除したてのようにきれいに片づいていたのだ。
シルヴィア得意げに説明する。
「どうかしら、今日は早起きして自分で掃除をしたの。カー君の抜け毛一本たりとも落ちていないわよ」
「お掃除されたのは、見れば分かります。
でもシルヴィア様、どうやって起きたのですか?」
シルヴィアの朝寝坊は、すでに屋敷内で有名であった。
彼女は朝食に遅刻するぎりぎりまで寝ていて、特別腕っぷしの強いメイドが専属係となって、叩き起こすのが日常となっていたのだ。
自分から早起きしたと言われても、とても信じられない。
「ふふふ、あたしに抜かりはないわ。今朝はカー君に起こしてもらったのよ」
ミーナはその苦労を想像し、カー君に心から同情した。
「ええと、まぁ、早起きなのはよいことでございますが……それでは、私の仕事はないということですね?」
「まさか! 何のために私が痛い目にあったと思っているの?
あなたの代わりに掃除をしたんだから、その時間で白城市のことを話してもらうわ」
シルヴィアはミーナの腕を掴み、無理やり豪華な客用椅子に座らせた。
そしてメイドが逃亡しないよう前に立ち、腕組みをして彼女を見下ろした。
「あの、お話しするのは構いませんが、これでは落ち着きません。
どうかシルヴィア様もお座りください」
「あたしはこれでいいの! いいから話して」
シルヴィアが立ったままなのは、座ると痛いからである。
ミーナは知らないが、彼女のお尻にはカー君の歯形がついていて、血が滲んでいたのだ。
幻獣は「絶対に起こして!」という主人の命令を、忠実に遵守したのである。
* *
イレーネは五日後、伯爵が差し向けた馬車に乗ってやってきた。
シルヴィアはイレーネに紹介され、初対面の挨拶を交わしたが、ゆっくりと話をする時間は取れなかった。
イレーネは荷物の片付けで忙しく、シルヴィアにはセドリックの授業があった。
夜は夜で、伯爵が彼女を独占したので、その邪魔はできなかったのだ。
数日が経ち、シルヴィアは家庭教師の引継ぎを名目に、午前の授業を自習にした。
そして、ようやく二人きりになって話すことができた(場所はイレーネの部屋)。
イレーネは女性としては低く落ち着いた声をしており、話し方も穏やかだった。
シルヴィアは彼女を堅苦しい人物だと想像していたが、実際には見た目も物腰も柔らかく、とても女らしい美人であった。
シルヴィアは、イレーネがいない間にセドリックがこなしていた自習ノートや、その後の授業の成果を持ち込み、少年の驚くべき進歩を称賛を込めて説明した。
イレーネはノートの頁をめくっていたが、しばらくして上げた顔には、満足の色が浮かんでいた。
「伯爵様から聞いていたのですが、シルヴィアさんは本当に優秀な方でしたのね。安心しましたわ」
「お褒めにあずかって恐縮です。
私の方こそ、イレーネさんが残された自習用の教材には感心しました。
でも、あなたが辞めて出ていかれたのは、突然だったと聞いています。
よくあれだけの量が用意できましたね?」
イレーネは辞職のことを持ち出され、恥ずかしさに頬を染めた。
「あの時は気が動転していて……セドリックに渡せたのも、ほんのわずかでした。
白城市に帰ってからは後悔の日々で、しばらくはひたすら教材づくりに没頭していました。それができるたびに、霧谷屋敷へ送っていたのです。
お恥ずかしい限りですわ」
「それで、例の事件のことは、伯爵様からお聞き及びでしょうけど、セドリックの魔力の話も?」
「ええ、聞いておりますし、驚きもしました。
それで短い期間ですが、私なりに魔法について調べてみました。
その中には、魔導師の適性について書かれた論文もあったのですが、何から何まで思い当たることばかりです。
あの子のことだから、きっと夢中になるのでしょうね……」
「それは伯爵様も予想されていましたね。
実際、最近は授業の合間の休憩で、セドリックから魔法について質問攻めにあっていて、少々閉口しております」
「もし彼が魔導士を目指すと言い始めたら、多分誰にも止められないでしょう。
そうなると、十二歳で魔導院に行ってしまうということになりますね。正直、寂しいです」
シルヴィアは、うつむくイレーネの肩を優しく撫でた。
「そうだとしても、まだ五年もありますもの。
その間に、思い切り可愛がってあげればいいじゃないですか」
* *
いよいよシルヴィアが屋敷を去る日を前日に控えた午後、彼女の最後の授業が行われた。
しかし、午前中に教えたことの確認が終わると、シルヴィアは教科書を閉じてしまった。
「さて、あたしの授業はこれで終わりです。
最後ですから、少しお話をしましょう」
別れの儀式だと察したのか、セドリックも何も言わずにノートを閉じた。
「明日からは、またイレーネさんが教えることになるのだけど、満足?」
「それは嬉しいですけど、シルヴィア先生とお別れするのも残念です。
先生だって十分〝よい先生〟でしたよ?」
「それはどうも。七歳の男の子にそう言われるのって、複雑な気分だわ。
でもその中身は、十七歳でもおかしくないものね。
あなたは子どもじゃないと思うから聞くけど、イレーネさんとお父様の仲は、この後どうなると思う?」
「そうですね、僕は新年の舞踏会が鍵だと思っています。
そこで父上は、イレーネ先生に求婚するのではないでしょうか?」
「やっぱり、あなたもそう思う?」
「はい。メイドたちも皆、同じ意見でした。
ミーナの話では、白城市を出発する前の日に、父上は半日外出されたそうです。
行く先も言わず、馬車にも乗らずにです。
ミーナは不思議がっていましたが、僕は父上が宝飾店で指輪を発注したのではないか――そう推測しています」
「ありえるわね。
でも、そうなるとイレーネさんは、あなたのお母様になるのよ?」
「いいじゃないですか。父上はまだまだ若いですし、いいかげん結婚すべきです。
イレーネ先生が母上となるなら、僕は大歓迎ですよ」
「なるほどね。それですべてはあなたの思惑どおり、めでたしめでたし……ってわけね」
「はて、何の話でしょう?」
「惚けないでいいわ。
一連の妖精事件、あの脚本はセドリック、あなたが書いたんでしょう?」
セドリックはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「いつ気づいたんですか?」
「確信を持ったのは、ミラージュの告白を聞いた夜よ。
もっとも、その前から疑ってはいたけどね」
「後学のためです。詳しく教えていただけますか?」
「その代わり、あなたも正直に話すのよ」
セドリックは子どもらしい、無邪気な笑顔を見せた。
「ええ、約束しますとも」
* *
「決定的だったのは、脅迫状の件よ。
あなたが三度目の儀式を受けている間、あたしは王都に戻ったでしょう?
実はあの時、伯爵様から脅迫状の一通を借りていったの。
王都であたしが下宿している家主は、超がつくほど有能な女性なのよ。それを渡したら、半日で調べ上げてくれたわ。
あの封筒と便箋は、白城市の老舗文具店のオリジナルで、その店でしか買うことができないってね」
「手紙と便箋は、街道を通りかかった行商人から盗んだ――ミラージュはそう説明したわよね?
そして、手紙の文字はミラージュが見せた幻影だったことにして、手品まで見せてくれた。
いくら辻褄を合わせるためとしても、あれはやり過ぎだったわ」
「幻の文面を見せる。確かに一時的には可能だろうけど、それが何日も続くと思う?
あの夜に行われた種明かしは、あらかじめ白紙の手紙とすり替えた、二重のトリックだったのよ。
ミラージュが捕らえられている以上、それができるのはあなたしかいないわ。
脅迫状を書いたのもあなた。
あなたは伯爵に連れられて、何度か白城市に行っているはずだけど、便箋と封筒はその時、自分のお小遣いで買ったんじゃないの?
あなた、文具を集めるのが好きだものね」
「王都には、ミラージュを従えている召喚士もいてね。あたしはその人にも会ってきたの。
ミラージュを含めた妖精族が服を着ていないのは、自分の姿は隠せても、身に着けた物までは消せないからだって教えてもらったわ。
つまり、あなたが持ち帰った証拠の品を、もしあのミラージュが持ち出したのだとしたら、空中をふわふわ浮いていったことになるわ。
妖精は飛べるけど、それはせいぜい人の背丈程度、速度もゆっくりなんですって。
屋敷内にはメイドさんがいるし、外は村人たちが昼夜警戒している。見つからない方がおかしいわ。
あれも、セドリックが自分で持ち出したんでしょう?」
「それから、あなたは試練の岩の上で、ミラージュに後ろから抱きしめられたのよね?
あたしも王都で、実際にミラージュを抱いてみたわ。
それで分かったんだけど、妖精の肌ざわりっていうか、触れた感触は独特のものだったわ。
どこか現実感が薄いって言ったらいいの? 固い物質じゃなくて、質感のある煙に触るような感じなのよ。
あなたみたいに頭のいい子が、そんな違和感に気づかないはずないわ。
でも、あなたはそんな疑問は口にしなかった」
「他にも、ミラージュが素直に捕まったこととか、肖像画そっくりの女の話とか、いろいろ不審な点があったわ。
でも、どれもこれもセドリックが協力者――いいえ、首謀者だったとしたら、全てが説明できるのよ」
「でも、どうしても分からなかったのが動機よ。
一体、こんな面倒くさいお芝居をして、あなたに何の得があるのか――それがあたしには理解できなかった。
でも、こうして事件が丸く収まってみて、初めて気づいたわ。
すべてはイレーネさんと伯爵様を仲直りさせること。ううん、それ以上に二人の関係を進展させるための、荒療治だったんだって」
* *
シルヴィアの話が終わると、セドリックは小さな拍手を贈った。
「すごいです、シルヴィア先生。よくそこまで分かりましたね!」
「お褒めいただいて恐縮の限りだわ。
そんなことより約束でしょう? どうしてこんなことを思いついたのか、説明してちょうだい」
「もちろんそのつもりですが、このことは――」
「ええ、分かってる。誰にも喋るつもりはないわ。グレンダモア伯爵家の名誉にかけて誓うわ。
もっとも、あたしの上司は別よ。
まぁ、軍としては、このまま丸く収まれば、レテイシア陛下にも影響力を持つ辺境伯に、貸しを作ったことになるわ。
あなたという、有望な魔導士候補も見つけたしね。
これはあくまで家族間の問題。軍が関与する性格のものじゃないわ」
「了解です。ことのきっかけは、極めて単純でした。
霧谷は僕の小さい時からの遊び場です。その日も、ごく普通に谷に降りて歩きながら、父上とイレーネ先生を仲直りさせる方法を考えていました。
気がつくと二重岩のあたりまで来ていて、そこに妖精が現れたのです」
「彼女は僕の頭の中に語りかけてきました。
自分の意思とは無関係に、この世界に飛ばされたこと。
どうにかして帰りたいと、必死にその方法を探ったこと。
月に一度の朔日だけ、生まれ故郷と連絡が取れ、緑龍と交渉ができたこと。
人間の魔力を龍に捧げることで、帰還の手助けを約束してもらったこと。
そして、時々谷に遊びにくる人間の少年――僕が偶然にも、大きな魔力を持っていると知ったことをです」
「ミラージュは僕に懇願しました。
自分が帰るために、どうか魔力を分けて欲しいと」
「僕はもちろん、承知しました。
困っている人を助けるのは、貴族の子として当然の行為ですから。
でも、よくよく聞いてみると、それはかなり難しいことだったのです」
「妖精の話では、緑龍が満足するだけの魔力を捧げるには、僕の魔力の全量ではとても足りないということでした。
全魔力を奪ったら人間は死んでしまうので、そのぎりぎりまで吸った場合、僕の保有魔力でも十二回分が必要なんだそうです。
でも、それだけの魔力を吸われると、人間は極端に消耗するし、完全な回復まで一か月はかかるというのです」
「それでは父上や、屋敷の者に秘密でというわけにはいきません。
最初は単なる親切心でしたが、これは父上とイレーネ先生の件に利用できるんじゃないか――そうひらめいたんです」
「よくよく話してみると、ミラージュは複雑なことを考えるのが得意じゃないようでした。
それで、僕は二か月近くかけて脚本を書きあげ、彼女の役割をじっくりと説明したんです。それはもう、大変でしたよ。
まぁ、おかげで多少の誤差はありましたが、おおむね僕の想定どおり、ことが運びました。
驚いたのは、シルヴィア先生が予想以上に働いてくれたことですよ。
解決まで二、三か月と踏んでいたのですが、まさか半月足らずとは……。
ちょっと悔しい気もしますが、僕としては感謝でしかありません」
少年の賛辞に対し、シルヴィアは肩をすくめるしかなかった。
「それは光栄の極みだわ」
* *
偶然とは恐ろしいもので、その日の夕方にケイト少佐が霧谷屋敷を訪ねてきた。
彼女はセドリックに対して型通りの検査を行ったが、そんなことをするまでもなく、少年の魔力を認めていたようだった。
検査後、伯爵親子とイレーネに対し、セドリックの優れた能力について、丁寧な説明が行われた。
その上でケイトは、国家と軍としては、魔導院への進学を強く推奨すると明言した。
ケイトの手ほどきで魔力を引き出され、実際に魔法(指先に炎を灯す初級魔術)を体験したセドリックは興奮の極みで、今すぐにでも魔導院に入りたいと熱望した。
ケイトは苦笑いを浮かべ、十二歳になるまでにまでに学ぶべき項目と、それに必要な参考書のリストを与え、家族でよくよく話し合うようにと告げた。
ケイトは忙しい身だったので、翌日には王都に戻ることになっていた。
それがシルヴィアの帰還と重なると知ると、彼女は一緒に飛んで帰ると言い出した。
乗ってきた馬は、伯爵家から軍に返してもらえばいい。カー君に乗った方が、丸々二日以上の時間と経費が節約できるからだ。
シルヴィアとしては、上官の要請は拒否できない。
カー君に積む予定だった荷物は陸送することにして、ケイトと二人で飛ぶことになった。
いい迷惑だったのはカー君である。シルヴィアの荷物は三十キロほどだったから、人間二人の方が負担増となるのだ。
シルヴィアが飛行服を着こんでいる間、すでに準備を終えたケイトは、同じく庭で待っているカー君の愚痴の相手になっていた。
「聞いてくださいよ少佐、僕はもともと飛行に適した形態じゃないんです。
シルヴィア一人でも持て余しているのに、二人も乗せて飛ぶなんて、動物虐待だと思いませんか?」
「ごめんなさいね、私が無理を言って……」
「いえいえ、少佐はいいんです。あんまり重くないし。
悪いのはシルヴィアです。
この屋敷の人たちはみんな働き者で、伯爵やセドリックだって朝から武術の稽古をしてるんですよ。
それなのにシルヴィアったら、メイドさんにお尻が腫れあがるまで叩かれないと起きないんです。
そのお陰で、ただでさえ大きなお尻が、ますます逞しく育ってしまいました。想像するだけでも恐ろしいでしょう?」
「えと、あの……カー君?」
「いいえ、この際だから言わせてください!
彼女、自分は家庭教師で働いているって言ってますけど、座っているだけで全然動いていませんから。
僕の体感では、シルヴィアはこの屋敷に来てから、二キロは太ったと踏んでいますね」
「あの、あなたの後ろ……」
「後ろがどうかしたんですか?」
憤然としたカー君が振り返ると、そこには引き攣った笑いを浮かべたシルヴィアが立っていた。
彼女の握りしめた拳が、ぷるぷると震えている。
霧谷屋敷の平和な庭にカーバンクルの絶叫が響き、木立から一斉に小鳥が飛び立っていった。