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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
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十九 仲直り

 扉を通してだから少しくぐもっていたが、辺境伯の低い声音は、イレーネの下腹部にずしんと響いた。

 不意打ちのような刺激に彼女は腰が砕けそうになり、腿をぎゅっと締めてどうにか耐えた。


『どうしよう!』

 頭の中にそんな叫び声が聞こえたが、彼女の手は意志とはお構いなしに内鍵を外していた。


「!」

 勢いよく扉が開けられ、最初に目に飛び込んできたは、真っ赤な塊りだった。

 驚いて後ずさると、ようやくそれが薔薇の花束であることが分かった。

 それにしても、何と大きな花束だろう。濃密な甘い香りが彼女の鼻腔をくすぐり、頭がくらっとする。


 花束はイレーネの手に押しつけられ、彼女は戸惑いながら、両手で胸に抱えた。

 そして、やっと伯爵の顔を見ることができた。

 男らしい太い眉と、優し気な灰色の瞳が、はにかんだように下がっている。


「これはつまり、その……部屋に飾ってはどうかと思ってね。

 突然押しかけて済まないと思うが、その、私を入れてくれないだろうか?」


 イレーネは慌てて振り返り、独り暮らしの部屋の状況を素早く確認する。

 散らかっていないだろうか?

 何か〝はしたない物〟を放置していないだろうか?

 だが、幸いなことに朝の掃除を済ませたばかりで、部屋はきれいに片付いていた。


「あの、どうしてここが?」

「ああ、申し訳ないが、君のお父上を訪ねて事情を話し、教えてもらったのだ」


「そうでしたか、父とお会いになったのですね……。

 とにかくお入りください。狭くて散らかっておりますけど」


 小さなキッチンを通り抜けると、やや広い部屋となる。

 いかにも独身者用といった感じで、その一部屋でリビングと寝室を兼ねているようだった。

 正面に窓、右手には質素なベッドが据えられ、左手にはドレッサーとクローゼット、小さな戸棚と本棚が並んでいる。

 そして中央には丸テーブルと椅子が置かれ、ほかに家具らしきものは見当たらない。


 もちろん応接用のソファなどないから、イレーネは木製の簡素な椅子を勧めるしかない。

 購入する時に『どうせ誰も訪ねてこない、邪魔だから椅子は一脚でいい』と言ったのに、業者が半ば強引に対で置いていったものだ。

 彼女は業者の禿頭を思い浮かべ、彼に感謝の祈りを捧げた。


「今、お茶をお淹れしますわ」

 伯爵が座ったのを確認すると、彼女はそそくさとキッチンに向かった。

 大きな花束は活けるような花瓶がないので、とりあえず桶に水を張って突っ込む。

 お湯はまだ沸いたままだ。手早く皿とカップを出したが、添えるお菓子がないことに気づいた。


『ああ、何てことなの! それに、もっと高い茶葉にすればよかった』

 彼女の頭の中では、後悔の念が渦巻いていた。

 伯爵はきっと私のだらしなさに失望するだろう。そう思うと、恥ずかしさで頬が熱くなった。


 だが、彼女だってもう若い娘ではない。内心の動揺を押し殺し、何食わぬ顔でお茶を出した。

 大人の女性として、ここは穏やかに、余裕をもって話を切り出すべきだと、自分に言い聞かせる。

 だが、口をついて出た言葉は、意思に反した冷たいものだった。

「それで、どういったご用件でしょうか?」


 伯爵は彼女の態度を予想していたのか、あまり気にしなかった。

 しっかりとイレーネの目を見詰め、真剣な表情で語りかけた。


「実は、君に話しておかねばならないことがある。

 君が去った後に、霧谷屋敷に起きた事件のことだ」

「事件……まさか! セドリックの身に何かあったのですか?」

 イレーネの邪念は一掃され、愛する教え子の天使のような顔が浮かぶ。


「有りていに言えばそのとおりだ。

 ただ、安心してもらいたい。息子は無事だし、事件はすでに解決している」

 伯爵の言葉に、イレーネは大きく息を吐いた。

 耳の下からどくどくという鼓動が聴こえる。伯爵に会えた嬉しさで、セドリックを忘れていたのか? と、誰かに責められた気がしたのだ。


「君にとっては、恐らく信じ難い話だとは思う。

 だが、これはすべて実際に起こったことなのだ」


 辺境伯はそう前置きし、イレーネが屋敷を去って間もなく、緑龍に遭遇したところから話し始めた。


 龍からの奇妙な要求と、それを拒否すればセドリックを連れ去ると脅されたこと。

 霧の谷での謎の儀式と、それに付随する不思議な出来事の数々。

 伯爵がその影響力を使って、シルヴィアという国家召喚士を呼び寄せたこと。

 シルヴィアが家庭教師をしながら霧谷の謎を解き明かし、ミラージュという妖精を捕らえたこと。

 妖精の自白によって事件の全容が明かされ、同時にセドリックに魔力があると分かったこと。

 そのセドリックが自分から申し出て、彼女を許し、故郷に帰すと決めたこと。


 伯爵はかなり詳しく説明したので、一時間近い長い話となった。

 確かに信じられない話だったが、伯爵が嘘をついているようには思えなかった。

 とにかく愛するセドリックが無事だったことには安心したし、教え子が妖精に見せた温情には、どこか誇らしい気持ちだった。


 話はこれで終わりではなく、さらに続きがあった。

「ミラージュはとにかく故郷に帰りたいという一心で、入念な準備をしていた。

 そのひとつが、君を屋敷から追い出すことだった」

「私を?」


 伯爵はうなずいた。

「妖精はセドリックの魔力に目をつけ、姿を隠していろいろ探っていたらしい。

 だが、いつも彼と一緒にいる君が、どうにも邪魔だったようだ。

 君は何か感じなかったかね?」

「そう言えば……」


 イレーネは辞める前の一、二か月、確かに奇妙な感覚にとらわれていた。

 誰かにじっと見られているような視線を、何度も感じたのだ。

 もちろん、振り返っても誰もいない。

 伯爵との仲違いが半年に及び、かなり悩んでいた時期だったから、そのせいかとも思っていた。


「ミラージュの話では、君は〝勘がいい〟らしい。

 妖精は認識阻害という術を使っているのだが、君にはそれが効きにくいようなのだ。

 いったん人間が疑いを抱くと、妖精の姿が見えるようになるらしい。

 そこで妖精は、夜ごとに君に怪物の幻影を見せて怖がらせたそうだ」

「はい。その当時は単なる悪夢だと思っていました」


「君があまり怯えないので、ミラージュは君の頭を探り、心の傷を見つけ出した」

「あ! ……まさか」


「心当たりがあるようだね。

 亡くなられたご主人とお子さんが、君をなじり、責めたてたのだろう?

 君が家庭教師を辞めると言って、霧谷屋敷を出ていったのは、そのすぐ後のことだ。

 私が思うに、君は心が不安定になっていたのではないかな?」

「おっしゃるとおりです。そのことはずっと後悔していました。

 でも、だけど――」


 伯爵は掌を彼女の顔に向け、話を遮った。

「言わなくていい。それはきっかけに過ぎず、そもそもの原因が私たちの仲違いにあることは、私にも分かっている。

 君を心ない言葉で傷つけたこと、その謝罪を躊躇ためらったことは、明らかに私の犯した罪だ。

 その後の半年、互いの仲が冷えたことで、私は十分に報い受けたつもりでいたが、それは間違いだった」

「え?」


「君が霧谷屋敷を出ていってからが、本当の罰だったのだ。

 私は思い知らされた。

 君が屋敷にいるということが、私にとって無上の悦びだった。

 君の柔らかく優しい声、目が糸のように細くなる笑い顔、上品な物腰と仄かな香り。

 それがどれだけ私を和ませたのか、君は知るまい。

 つまらない意地を張った挙句、私はそのすべてを失ってしまった。

 私が今ここにいるのは、君に心から謝罪をして、もう一度屋敷に戻ってくれること、そして二度とどこへも行かないよう、懇願するためだ」


 伯爵は身を乗りだし、イレーネのふっくらとした手を握りしめた。

 その手は氷のように冷たく、小さく震えていた。


 だが、彼女は伯爵の手を振りほどかなかった。

 顔が見られないように下を向き、小さな声でささやいた。

「その罰ならば、私も受けました……」

 うつむいた彼女の顔から、涙がぽたりと落ちた。


「私だって、元に戻りたいです!

 でも私は、あなたとセドリックを裏切り、逃げてしまった。

 私は自分が許せません」


 伯爵はイレーネの指先を、温めるようにさすり続けた。

「どうだろう、私たちはすべてを忘れ、最初からやり直せないだろうか?

 私は君を、息子の新しい家庭教師として屋敷に迎えよう。

 そして、君との距離を少しずつ縮めていくのだ。最初は、朝の散歩から始めよう。

 君に話したいと思っていたことが、山のように溜まっている。

 それを消化するだけでも、一年はかかるだろう」


 イレーネは、涙に濡れた顔をようやく上げ、微笑んでみせた。

「それでしたら、私の方が溜め込んでいますわ。

 女のお喋りを甘く見てはいけませんわよ」


 伯爵も笑い返し、彼女の手を握ったままだったことに気づき、慌てて立ち上がった。

「よし、話は決まった。

 では、しばし私に付き合ってもらおう。外に馬車を待たせてあるのだ」


      *       *


 ミーナは馬車の中で、やきもきしながら待っていた。

 伯爵が花束を抱えて出ていってから、もう一時間半は経っている。

 いったい二人きりで、何を話し、何をしているのだろう?

 抑えきれない好奇心が彼女をさいなんだ。許されるなら、イレーネの部屋の扉に耳を押しつけたかった。


「あ、来た!」

 ようやく伯爵が建物から出てきた。しかも、その後ろからイレーネがついてくる。

『さすがは伯爵様、よくやられました!』

 彼女は馬車の窓から身を乗り出し、手を振りたい衝動にかられた。


 御者が踏み台を置いて扉を開け、伯爵が手を取ってイレーネを先に乗せる。

 馬車は四人掛けなので、彼女はミーナの隣りに座った。

 伯爵がその対面に腰を下ろすと、すぐに馬車が動き出す。


「まあ先生、お久しぶりですね。また会えてうれしゅうございます」

 ミーナが満面の笑顔でイレーネを歓迎する。

「あら、ミーナさん。あなたがお供なのね。

 その節は、ちゃんとご挨拶もできませんでした。許してちょうだい」


「気になさらないでください。

 それより伯爵様、先生をお連れなさったということは、このまま霧谷屋敷に帰るのですね?」


 もちろんミーナは、イレーネをからかっただけなのだが、当の本人は慌てた。

「そっ、それはいくら何でも!

 私、まだ荷物もまとめていませんし、部屋の解約もしなくては……」


 向かい合う伯爵は笑い出した。

「いくら君の帰りを待ち焦がれていても、さすがにそんな無茶は言わない。

 さっき言っただろう? 私たちは初めからやり直すのだと。

 まぁ、行先については楽しみにしていたまえ」


 馬車は閑静な裏通りから、再び大通りに戻った。

 しばらくして止まったのは、立派な石造りの店舗の前だった。

 女二人は知らなかったが、ここはクリスト家御用達のトマスの店である。


「ミーナも降りて、ミレーネ女史を手伝っておあげなさい」

 伯爵はそう言うと馬車を降り、さっさと先にいってしまった。


 女たちは不安そうに後に続いたが、すぐにここが洋装店だと気づいた。

 伯爵の姿を見つけた主人のトマスが、例によってすっ飛んでくる。

「これはこれは辺境伯様! 連日のお越し、ありがとうございます」

「うむ、昨日は迷惑をかけて済まなかった。おかげで助かったぞ。

 彼女がくだんのイレーネ女史だ」


 伯爵がイレーネを紹介すると、トマスは彼女の手を取って、甲に口づけする真似をした。

「これはお初にお目にかかります。この店の主人をしております、トマスと申します。

 お父様とは何度かお会いしておりますが、噂どおりにお美しいお嬢様でいらっしゃいますな」


 トマスは新しい服の注文があるたびに霧谷屋敷を訪ねていたが、イレーネはセドリックの子ども部屋か、自室にいたので、顔を合わせるのは初めてだったのだ。


 イレーネは戸惑いながらトマスと挨拶を交わすと、訴えるような目で背の高い伯爵を見上げた。

 伯爵は笑ってうなずき、トマスの方に向き直った。


「彼女のことは、私とセドリックの家族だと心得てくれ。

 実はその彼女のドレスを仕立ててほしいのだ。

 新年に恒例の大舞踏会があるだろう? あれに出るためのものだ」

「左様でございますか、かしこまりました!

 それでは、今日のところはデザインの打合せと、生地選び、あとは採寸までですな」

 トマスはにこにこ顔で準備に取りかかった。


 イレーネは話の展開についていけない。

「あの、伯爵様。それはどういうことでしょう?」

「やり直すというなら、ここからだろう?」

 彼は悪戯っぽく笑い、片目をつむってみせた。


 戸惑うイレーネであったが、個室に案内され、そこに大量のデザイン画と生地見本が広げられると、すぐに夢中になった。


 トマスの説明を聞きながらデザイン帳をめくり、生地を次々に肩に当てては、大きな姿見を覗き込んだ。

 二時間近くがあっという間に過ぎ、ようやく候補が数点に絞られると、彼女は初めて伯爵の意見を求めてきた。


 辺境伯はセドリックの忠告を忘れていなかった。

 いかにも興味ありげな態度を貫き、「どうかしら?」と訊ねられると、手放しで褒めた。

 しかし最初の選択は当て馬であったらしく、イレーネは伯爵の賛辞に首を傾げた。


「もちろんこれも素敵ですわ。でも、私にはこちらの方が似合う気がするのですが、どう思われますか?」

 彼女が当ててみせた生地は、落ち着いた濃緑色で、銀糸の細かい刺繍が散らばめられていた。

 どうやら、これがイレーネの本命らしい。息子の言ったとおりの展開である。


 当然、伯爵は全面的に賛成した。

 彼女は大いに満足したらしく、ふっくらとした頬をピンク色に染めて微笑んだ。

 そして、今度は生地に合わせた小物選びに取りかかった。

 ドレスを新調する場合、靴やバック、アクセサリーの類も揃えるのが常識なのだ。


 この日、辺境伯は女の服選びの恐ろしさを、とくと味わったのである。

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ドヤ顔でダンディ全開にする伯爵かわいいw
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