十八 散歩
朝食の食器を洗い終わると、イレーネはいつもの椅子に座った。
目の前のテーブルには、昨日読んだ手紙がそのままになっていた。
質の悪い事務用便箋には、そっけないお役所文書が記されている。
『帝国の大学への留学は、現状の両国関係を鑑みると許可しがたい』
彼女が大学で学んでいたのは、物理化学であった。
他の分野でもそうだが、特にこの方面ではイゾルデル帝国が進んでおり、世界の最先端の研究が行われていた。
イレーネは帝国に留学して勉強をし直そうと、旅券を発行する外務部へ照会の手紙を出していた。
それがその回答だったのだ。
半ば予想していたこともあり、不許可はそうショックではなかった。
何より留学の動機が〝逃げ〟に過ぎないと自覚していたからだ。
「どうして、あんなことをしたのだろう?」
彼女は茶色い便箋をぼんやりと見詰め、飽きずに独り言を繰り返していた。
* *
イレーネがクリスト辺境伯と初めて会ったのは、霧谷屋敷に越してきた時である。
家庭教師の応募は書類で審査され、白城市での面接も同家の執事が担当していた。
伯爵は六十歳の手前(当時)だと聞いていたが、実際に会ってみると、もっと若々しい印象だった。
口髭を蓄えた顔つきは精悍で、背が高く肩幅は広い。胸板も分厚かった。
息子の方は天使のような容貌で、身体も小さかったので、母親似なのだろう。
伯爵はなかなかに多忙で、月の半分は王都や白城市に出かけていた。
屋敷にいる時も村人に農業技術を教えたり、生活の相談に乗ったりしていた。
ただ、どんなに忙しくても、食事は全員でというのが決まりであった。
伯爵にとっては、これが息子との触れ合いの時間であった。
イレーネが来る以前は、伯爵がセドリックに勉強を教えていたから、それがなくなった今、食事の団欒を楽しみにしていたのだ。
食卓にはイレーネの席も用意された。彼女は〝家族〟として遇されたわけである。
そのため伯爵は彼女が孤立しないよう、何かと語りかけてきた。
彼は貴族として十分な教養を積んでおり、機知に富んだ会話は楽しいものだった。
ただし、それはあくまで気遣いによるもので、ごく一般的な話題であった。
イレーネが越してきて数日後、荷物も片付き落ち着いた彼女は、朝食前に散歩に出かけるようになった。
最初の内は、迷ったり危ない目に遭わないよう、伯爵自らそれに付き合ってくれた。朝は使用人たちも忙しいからだ。
一週間が経って、イレーネが道に慣れてくると、彼女は「もう一人で大丈夫」と、自分から付き添いを断った。
それ以降は散歩の距離を少しずつ延ばし、毎朝二時間近くかけて歩くようになった。
理由は運動不足の解消のためである。
イレーネは頬や手がふっくらとしていて、胸も大きかった。
そのため別に太ってもいないのに、娘時代から体形を気にしていたのだ。
甘い物好きなのに、積極的に手を出さないのもそのせいだった。
日々の授業を通して、彼女とセドリックの仲は深まっていった。
食事時の父子の会話にも、自然とイレーネの話題が増えてくる。
そうなると、伯爵も以前とは違う興味を持って、彼女を見るようになった。
投げかけられる話題も、政治や国際情勢といった、一般的には女性が不得手な分野に及んでいった。
ところが、これに対してイレーネは堂々と応じ、自分の見解を主張してみせた。
伯爵は驚きながらもひどく喜んだ。こんな話相手は、この田舎にはいなかったのだ。
そのうちに伯爵は、しばしば息子そっちのけで、イレーネとの会話に熱中するようになった。
普通ならこうした場合、子どもは疎外感から怒り出すものだが、セドリックはにこにこして二人の話に聞き入っていた。
この早熟な天才児は、難しい会話を理解して、自分なりに咀嚼していたのかもしれない。
そしてある朝、いつものようにイレーネが朝の散歩に出かけようと屋敷を出ると、外には伯爵が待っていた。
「たまには私も付き合おう」
彼はそう言って、当たり前の顔をして一緒に歩き出した。
最初はぎこちなかったが、伯爵はイレーネの歩幅に合わせてゆっくりと歩き、気軽に話しかけてきた。
「散歩といえば、フレドリック・アッシャーの小説に『真夜中の散歩』という作品があるのだが、君は読んだことがあるかね?」
「はい。アッシャーは好きなので、大体は読んでいます。『真夜中の散歩』は中でも一番気に入っていますわ」
「ほう、それは意外だな。君は理系だから、あまり文学には興味はないと思っていた」
「確かに専門ではありませんけど、読書は子どもの頃から好きでした」
「なるほど。では、あの小説で破滅の道に進もうとする主人公を、身を挺して止める少女がでてくるだろう?
なぜ彼女は、危険を顧みずにそんな行動を取ったのだろう?」
「それは……少女の同情心か、あるいは秘めた恋心があったからではないですか」
「うむ、世間一般の解釈はそうだね。だが、私は違うと思っている。
彼女は主人公の妹で、彼が兄だということを知っていた。
そしてあのやり取りの中で、主人公もそのことに気づいたのだ」
イレーネは思わず笑ってしまった。
「ずいぶん大胆な仮説ですのね。そんなことは書かれていなかったと思いますけど?」
「もちろんそうだ。だが小説の醍醐味は、文章の間から隠された真実を探り出すことにある――私はそう思うのだ」
そして伯爵は、自分がそう考えるに至った根拠を一つひとつ説明してみせた。
何気ない描写のあれこれが実は伏線であり、登場人物の言動につながっている。
そうでないなら、必要性のないエピソードを、作者がわざわざ挿入したことになってしまう。
「決定的なのが、少女が主人公の宝冠を外した時の言葉だ。
『あなたにはこんなものより、白い花の方がよく似合います』
彼女は呪いで指を焼き焦がしながらそう言ったが、なぜ宝冠より花で、しかも白と限定するのだ?」
「それは……確かに唐突ですね」
「最初の方で、主人公が少年の頃の夢を見る箇所があっただろう?
顔も思い出せない幼い妹が、彼の頭にシロツメクサの花冠を載せるという記憶だ。
少女の言葉はその記憶を呼び起こし、主人公は忘れていた妹の顔を思い出した。
――そう考えれば、その後の二人の会話が、違った意味に受け取れるはずだ」
伯爵の解説は明快で論理的であった。
なるほどそう解釈すれば、都合よく見える二人の行動に必然性が生まれる。
それは、新しい景色が開いたような感動だった。
「もっとも、これは私の妄想、あるいは詭弁に過ぎない。
作者はもう亡くなっているから、確かめようがないからね。
だが、こうした読み方を考えるのは楽しいだろう?」
「ええ、本当に!」
イレーネは、すっかり伯爵の話に引き込まれていた。
その後も伯爵は、彼女の知らない小説について面白おかしく紹介し、その本を貸してやろうと約束した。
次の日の朝には、イレーネはやや興奮気味に借りた本の感想を語り、伯爵はまたしても〝行間を読む〟ことで、新たな視点を提示してみせた。
こうして、伯爵が屋敷にいる間には、二人が一緒に散歩をするのが当たり前になってしまった。
歩きながらの話題は、文学に限らず多岐にわたったが、伯爵の話術は素晴らしく、時にイレーネが笑いすぎて歩けなくなることもあった。
そして、伯爵が出張で屋敷を留守にすると、イレーネは彼の帰りを待ち焦がれるようになったのである。
* *
ところがこの習慣は、ほんの些細なきっかけで突然終わってしまった。
それは去年の十二月、夕食が済んでお茶を飲んでいた時である。
新年を迎える時には、伯爵は白城市で開催される、大きな舞踏会に出席することになっていた。
それは毎年のことで、彼は十日ほど屋敷を空けることになる。
イレーネはいつもセドリックと留守番をしていたので、少し淋しい新年であった。
ところが伯爵は、セドリックの七歳の祝いに、今年は白城市に連れていくと言い出したのだ。
そしてもっと驚いたことに、伯爵はその旅にイレーネを誘ったのである。
白城市では、舞踏会のほかにも新年を祝う催しが連日開催されるので、伯爵は多忙である。
その間、白城市で生まれ育ったイレーネにセドリックを任せるので、市内を案内してほしいというのが、表向きの理由である。
「君も白城市は久しぶりだろう。どうかね、気晴らしに舞踏会に出てみないか?」
イレーネは突然の申し出に驚いたが、内心では嬉しく鼓動が高まった。
彼女はその動揺を表に出すまいと、ためらう振りをした。
「でも私、そのような場所に着ていくようなドレスを持っておりませんもの」
「ああ、それなら心配ない。
家には妻のドレスがそのまま保管してある。少し直せばまだ着られるだろう」
伯爵のひと言でイレーネの表情が凍りつき、セドリックは『うわぁ』と顔を覆ってしまった。
「伯爵様が商人の娘を連れていったら、貴族の奥方やご令嬢がどう思うでしょう。
それとも、私を笑いものにして楽しむのが趣向なのでしょうか?」
「そんなことは言っていない!」
「ではどういうおつもりで、私に恥をかけと?」
「なぜそのように悪く取るのだ? 君らしくもないぞ」
「ええ、そうでしょうとも。どうせ私は礼儀も知らない、卑しい出自ですもの!」
「君は自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
「ええ、分かっておりますとも!
私、気分がすぐれませんので、これで失礼いたします!」
イレーネは目に涙を浮かべ、席を立ってしまった。
* *
その夜、寝る前のセドリックが父の書斎を訪ねてきた。
伯爵はケルトニア酒を飲みながら、珍しくパイプを吹かしていた。
彼は紫煙を吐きながら、息子の憮然とした表情を眺めた。
「どうした、何か不満そうだな?」
「当たり前です。僕は父上を見損ないました」
「なぜだ? 私は非難されるようなことをしていないぞ」
「イレーネ先生をお誘いしたのは上出来でした。でも、その後がいけません」
「ドレスのことか?
だが、新年まで一か月を切っているのだぞ。
アンジェリカのドレスを直して着るのが、一番現実的だろう」
「父上は女心を分かっておられません。お母様のお古を勧めるなんて、侮辱でしかありませんよ。
明日にでも白城市に先生を連れていけば、トマスさんの店なら大至急で間に合わせてくれるはずです。
『ドレスは新年の祝いとして贈らせてほしい。懇意の店に仕立てさせるから、明日にでも出かけよう。君がどんな生地を選ぶのか、私も楽しみだよ』
父上はそう言うべきでした。そのくらいのお金は何でもないでしょう」
「当たり前だ。
だが……そうか。いつもトマスを屋敷に呼んでいたが、こちらから出向くという手があったか。
確かに時間は大幅に節約できる。仕立てあがったドレスも、白城市で受け取れば十分間に合いそうだ。
だが、トマスの店に連れて行くのはいいが、立ち合うのはかえって失礼だろう。
正直言って、女物の生地選びなど私は門外漢だ」
「父上ともあろう方が情けない。そこが大事なんです。
いいですか、女性は自分の好みで生地を選びます。そこに男性の意見など入る余地がありません」
「それなら、ますます私は不要ではないか?」
「違うのです。女性は必ず『これ、どうかしら?』と訊ねてくるものなのです。
ここで興味がない顔をしてはいけません。分からなくとも『うん、似合うではないか。君の美しさが引き立つな』と答えておけばよいのです。
それが本命の生地なら、女性は喜んで『あなたがそう言うのなら、これにしようかしら』と決めることになります」
「それが本命でなければ、どうするのだ?」
「その時は、『そうかしら? 私はこちらも似合うかなと思うのですけど……』と必ず言ってきます。
そこですかさず『おお、そうだね! 言われてみれば、こちらの方がずっといい』と返せばめでたしです」
「お前は……どこでそんな知識を覚えてくるのだ?」
六歳のわが子に指導される父親ほど、情けない存在はないだろう。
だが、吐いた唾は呑み込めない。
すでにイレーネは機嫌を損ねてしまった。今さら謝ったところで、彼女が白城市行きを承知するとは思えなかった。
これまでの三年で、イレーネの性格は伯爵もセドリックも理解していた。
彼女は意志が強く、強情で頑なだったのだ。
「……で、こうなった以上、私はどうしたらいいと思う?」
「素直に謝って、時が解決してくれることを祈るしかありませんね。
いくらイレーネ先生が頑固でも、半年も経てば軟化するでしょう」
「そうだといいがなぁ……」
伯爵は溜息とともに煙を吐き出した。
* *
このちょっとした諍いがあっても、父子とイレーネが囲む食卓に表面上の変化は表れなかった。
三人は何事もなかったかのように談笑したが、新年のことは決して話題に上がらなかった。
影響が出たのは散歩の方である。
翌朝、いつものようにイレーネが散歩のために屋敷を出ると、そこに伯爵の姿はなかった。
さすがに昨日の今日で、二人きりになるのは彼もきまりが悪く、〝ずる休み〟をしたのだ。息子の『素直に謝れ』という忠告は、無駄になってしまった。
これが第二の悪手で、自分も悪かった、伯爵の態度によって謝ってもよい――そう思っていたイレーネは、ますます意固地になった。
さらに翌々朝になると、伯爵がそわそわしながらイレーネを待っていた。
だが、彼女は伯爵の同行を冷たい態度で拒絶した。
「私のような下賤な者に、お付き合いをされなくても結構でございます」
今日の散歩で誠実に謝罪しようと決心していた伯爵も、この言いようには我慢がならなかった。
彼は辺境伯の現当主として、人一倍高いプライドを持っていたのだ。
次の日から、イレーネを待つ伯爵の姿は見られなくなってしまった。
一週間も経たないうちに、二人とも自分の選択した行動を、激しく後悔するようになった。
だが、お互いのプライドが歩み寄りの邪魔をした。
悶々とする日々は半年にも及び、最悪のタイミングでミラージュの工作が始まってしまった。
この頃になると、イレーネも伯爵に対する愛情をはっきり自覚していた。
その一方で、これは亡くなった夫と息子への裏切りではないか――という思いが彼女の心を苛んでいた。
そんな中でミラージュが見せた幻影は、想定以上の効果を及ぼした。
イレーネは自分でも驚くほどに感情的となり、辞職を申し出て霧谷屋敷を飛び出してしまった。
「どうして、あんなことをしてしまったのだろう?」
彼女が一人の部屋で繰り返していた後悔は、そこにあったかもしれない幸せを、自ら捨てて逃げたことを指していたのだ。
* *
イレーネがテーブルに頬杖をつき、溜息を洩らしていると、扉をノックする音がした。
『誰だろう?』
この家のことを知らせたのは、両親だけである。
二人は娘のことを理解しているから、そっとしておいてくれるはずである。
彼女は警戒の色を露わにし、扉の向こうに訊ねた。
「どなたですか?」
「……私だ」
返ってきたのは、何度も頭の中で反芻した懐かしい声だった。