十六 家庭教師探し
「本当に……よいのだな?」
解放されたミラージュの、それが去り際に残した言葉だった。
シルヴィアは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
辺境伯は複雑な表情だったが、セドリックはにこにこして手を振っていた。
妖精が姿を消すと、セドリックはメイドに付き添われて子ども部屋に戻され、応接にはシルヴィアと辺境伯の二人だけが残された。
「さて、それでは説明してもらおう」
口を開いた伯爵の表情は、心なしか強張っているように見えた。
「ご子息に魔力があるだろうことは、早い段階で予測できていました。
伯爵もご存じとは思いますが、現在わが国は、魔導士の養成に力を入れております」
シルヴィアの前置きに、伯爵もうなずいた。
「その件については、二十年も前から女王陛下が何度も口にしておられた。
陛下は実権を握られて以来、経済官僚の反発を押し切って軍の拡張を進めてこられた。
帝国の脅威が日々深刻になる以上、それは当然のことだ。
しかし、いたずらに規模を拡大するだけでは、とてもあの軍事大国には対抗できない」
「そうですね。もともとわが国は召喚士の力に頼り過ぎていましたから」
「ああ、軍の定数に合わせて召喚士も増やせるのなら、それで問題はない。
だが、現実はどうだ? すべての国民を検査しても、召喚士の適性を持った子どもは年に十人も見つからない。
大きな戦力となる国家召喚士に至っては、二年に一人生まれればいい方だ。
国軍十万人体制の目標には、とても間に合わないのは明らかだ。
それならば帝国やケルトニアのように、魔導士を量産して戦力の要とするしかないのだ。陛下の取り組みは、むしろ遅すぎるくらいだった」
「魔導院に魔導士課程が新設されたのは十年余り前、私がまだ在学中のことでした。
科が違うとはいえ、合同の授業もありましたし、同じ寮で生活する仲間です。私のルームメイトも魔導士の候補生でした。
ですから、魔導士の適性を持つ者がどんな人種かは、よく知っているつもりです。
彼らはおしなべて知能が高く、特に計算能力が常人とはかけ離れています」
「セドリックもその範疇に入るということか?」
「ざっくり言えば、そのとおりです。まぁご子息の場合、極端過ぎるのですが……。
それと彼が谷から帰った後、疲労で眠り続けたという話も、その傍証となりました。
魔導士は魔力切れを起こすと身動きができなくなり、昏睡状態に陥ります。
セドリック様は試練だと騙され、犯人に限界近くまで魔力を奪われたに違いない。
私はそう考え、そこから事件の構図を考えていきました」
「なるほどな……。それで、セドリックはこの先どうなるのだ?」
「ご子息のことは、すでに軍に報告しております。
遠からずケイト・モーリス少佐が、この屋敷を訪ねてくると思います。
彼女は人材発掘の担当者で、自身も優れた魔導士です。
ご子息に魔導士の適性ありと判断されれば、その道へ進むよう勧誘が行われるでしょう」
「具体的には?」
「十二歳をもって、王都の魔導院に入学することになります。
魔導院は全寮制ですから、十八歳までお会いすることもできなくなります。
卒業時に正式な魔導士の資格が与えられれば、自動的に軍務に就くこととなるでしょう。
もちろん、これは強制ではありませんし、まだ五年近くの時間があります。
それまでにご子息とよく話し合い、決断されればよろしいのです」
辺境伯は深い溜息をついた。その顔には、苦笑いが浮かんでいる。
「話し合う――か、結果など見えているがな」
「と、申されますと?」
「私はあれの父親だぞ?
あの小さな身体には、抑えきれないほどの好奇心が詰まっている。
今はたまたま、勉学がその捌け口になっているに過ぎないのだ。
その目の前に、魔導という未知の餌をぶらさげてみろ。あっという間に喰いつき、夢中になるのが目に見えている。
断言するが、そのケイトとかいう女が帰った瞬間に、あれは私に懇願するだろう。
手に入る限りの魔導書を取り寄せてくれと。
そして、魔導院に入学するまでには、いっぱしの魔導士気取りになっているはずだ」
「つまり、説得は無駄だと?」
「君は何か勘違いしているようだ。
わが伯爵家は、あまたの武人を輩出してきた家系だぞ?
息子が軍人として国家に奉仕することは、名誉以外の何ものでもない」
「ですが、ご子息は唯一の跡取りですよね?」
「何も軍人になったからといって、必ず死ぬと決まったわけではあるまい?
たとえそうであったとしても、私は息子を誇りに思うだろう。
もともとこの家は、甥を養子にして継がせるつもりだった。どうということはない」
「でも、魔導院に入ったら、もうまともに会えなくなるのですよ。
この広いお屋敷に一人というのは、お淋しいのではありませんか?」
「私を侮辱するつもりかね?
君も貴族の娘なら、矜持というものを理解しているはずだがな」
「失礼いたしました」
これ以上、この問題に口を挟むのは、明らかに悪手であった。
シルヴィアは話題を変えた。
「取りあえず、事件は一応の解決を見ました。
ご子息の護衛と事件の調査という任務は、終了したものと承知いたします」
「うむ、その点については大いに感謝している」
「残る私の役目は家庭教師だけなのですが、上からは最低でも一か月は務めるよう言われております。
そうなると、残る期限は二週間ほどとなります。代わりの目途は、つきそうでしょうか?」
伯爵は再び溜息をついた。
「その条件を出したのは私だからな、もちろん分かっている。
だが正直に言って、まったく見通しが立っていない。
大学出の人物で、家庭教師をしている者などめったにいないのだ。
ましてや、こんな何もない田舎で住み込みとなれば、いくら高給を出してもなり手がいない」
「もう少し、条件を緩めてはいかがでしょう?
大学出というのは、さすがに……」
「分かっている。だがその辺の教師に、あれを教えることができるだろうか?
君も実際に相手をしているのだから、私の言う意味が理解できるはずだ」
「まぁ、確かにそうですね」
シルヴィアは苦笑せざるを得ない。優秀すぎる生徒にも限度というものがある。
セドリックの教師が務まるのなら、大学の教壇にだって立てるだろう。
「その点、臨時とはいえ君はよくやっているよ。
何しろ、あのセドリックが認めているのだからね」
「それはどうも。
あの、差し出がましいのですが、イレーネさんに戻ってもらうことは、難しいのでしょうか?
彼女が辞めたのは、ミラージュが見せた幻影のせいです。
その原因が取り除かれたのですから、事情を話せば分かってもらえると思うのですが……」
「それはそうなのだが、複雑な事情があってね。
まぁ、私も家庭教師探しに本腰を入れるつもりだ。明日にでも白城市に発とう。
息子のことは頼むぞ」
伯爵はイレーネが辞めた〝事情〟とやらには、触れてほしくないらしい。
やや強引な話の幕引きに、シルヴィアは「お任せください」と、引き下がるしかなかった。
翌朝、辺境伯は馬車を仕立てさせ、供に一人のメイドを連れ、白城市に向けて旅立った。
見送るセドリックと使用人たちには、こう言い残した。
「一週間の予定だが、場合によっては数日延びるかもしれない」
それに対して、セドリックはくったくのない笑みを浮かべた。
「どうかお心のままに。僕は父上を信じています」
* *
ざあっという音とともに、雨の音が聞こえた。
イレーネは読みかけの本に栞を挟んで立ちあがり、外の様子を窺った。
二階の窓からは、急な夕立に降られて右往左往する、通りの人々が見下ろせる。
ふいに風が吹き込み、イレーネの顔に雨粒が打ちつけらた。
彼女は慌てて鎧戸を下ろした。
部屋が薄暗くなったので、ランプをテーブルの上に移し、エプロンのポケットからハンカチを出した。
顔についた水滴を拭ってから椅子に座り、湿ったハンカチを広げた。
ありきたりな白い木綿生地だが、可愛らしいレースの縁飾りがあり、隅には彼女のイニシャルが刺繍されている。
それは去年の誕生日に、セドリックが贈ってくれたものだった。
「夕飯、何にしようかしら?」
彼女はぼんやりとつぶやき、小さな台所の方に目をやった。
まだ竈に火も入れていなかった。暗く寒そうで、当然ながら誰もいなかった。
ここは白城市にある、アパートメントの一室である。
石造りのしっかりとした建物だが、独身者向けの小さな部屋が並んでいる。
それでも狭く感じないのは、彼女の家財が極端に少ないからだ。
イレーネがこの部屋に越してきてから、もう四か月が経つ。
霧谷屋敷を辞し、生まれ故郷の白城市に戻ってすぐに契約したのだ。
もちろん、実家には最初に顔を出した。
老いた両親は温かく彼女を迎えてくれた。
家庭教師を辞めたことを打ち明けても、両親はそれほど驚かずにむしろ喜んだ。
娘が昔のように、一緒に暮らしてくれると思ったからだろう。
だが、彼女は翌日には不動産屋を訪ね、三日目には部屋を決めてしまった。
別に両親と不仲というわけではない。
だが、彼女が結婚する際にちょっとしたごたごたがあり、イレーネは親の援助を受けないと決めてしまった。強情な性格は生まれつきである。
そのため、不幸な事故で夫と子を亡くし、寡婦となった時も、裕福な実家には一切頼らなかった。
夫はそれなりの財産を遺してくれたし、三年近い家庭教師生活のおかげで、生活には余裕があった。
なにしろ霧谷屋敷は田舎である。お金の使いようがない上に、家賃も食費もかからない。しかも、伯爵家が提示した報酬は、相場の数倍であった。
したがって、今の彼女は慌てて職を探す必要がない。
もちろんその気になれば、大学出という学歴である。家庭教師の口などいくらでも見つかるはずだった。
それなのに、この四か月というもの、イレーネは何もせずに漫然と時を過ごしていた。
どうしてもセドリック以外の子を、教える気にならなかったのだ。
初めて四歳の彼に会った時、彼女は心底驚いた。
見るからに賢そうな少年は、読み書きどころか、すでに四則計算まで覚えていたのだ。
セドリックに教えるということは、乾いた砂漠に水を撒くようなものだった。
あっという間に水差しは空となり、少年は貪欲に次の一杯を要求し続けた。
イレーネは、張った乳房を吸われるような強烈な快感を覚え、その虜となってしまった。
夢中になって持てる知識を教え込んだ結果、彼女は怪物を育て上げたことに気づいて恐怖した。
それでも、教えるのを止めることはできなかったのだ。
あの眩しいような才能を、あの痺れるような快感を知ってしまった今、どうしてほかの子に教えるという気を起こせるだろう?
テーブルの上には、ハンカチが広げられたままだったが、その脇に水滴がぽつんと落ちた。
うつむいたイレーネの目から涙が溢れ出し、鼻先に雫が溜まっている。
彼女は両手で顔を覆い、かすれた声でつぶやいた。
「どうして……あんなことをしてしまったのかしら」
* *
辺境伯が白城市の南門を潜ったのは、翌日の夕方であった。
途中の町で一泊して、二日で着いたのだから早い方だ。
馬車は大通りをゆっくりと進み、中心部にほど近い立派な宿の前で止まった。
ここは白城市における伯爵の定宿で、馬車の紋章を見た若い衆がすぐさま駆け寄り、積まれた荷物を運び出す。
世話係のメイドを連れて宿の中に入ると、待っていた主人夫妻が深いお辞儀をした。
「これはこれは、クリスト伯爵様。珍しい時期にお越しでございますな」
「うむ、予約もせずに申し訳ないが、部屋は用意できるか?」
「もちろんでございます。ただいまご案内いたします」
「いや、私は所要があって、それを済ませてくる。
一時間もかからずに戻るから、ミーナはその間に荷物を片付けておいてくれ。
終わったら、自分の部屋(高級宿には使用人専用の部屋があった)で休んでよい」
辺境伯はメイドにそう言いつけ、一人で外に出ていった。
彼の目的地は、宿から徒歩で十分ほどしかかからない。
そこは老舗の洋装店で、伯爵家が代々贔屓にしているところだった。
伯爵が扉を開けて中に入っていくと、応対に向かおうとした若い女店員を押しのけ、店主がすっ飛んできた。
「おお、何ということだ!
伯爵様がわざわざ足をお運びになるとは、もったいないことでございます」
「トマスも息災そうで何よりだ。
もう閉めたのではないかと不安だったが、間に合ったようだな」
「とんでもないことでございます。
最近は不景気でございますから、日がとっぷり暮れるまで見苦しく粘っている始末でして。
――それで、本日は何かお求めでしょうか?」
「いや、すまんが野暮用だ。ちょっと教えてほしいことがあってな。
トマスは同業者には詳しいか?」
「はい、それはもう、古いだけが取り柄でございますから、それなりの業者でしたら存じております。
誰の店でしょうか?」
「それが、名前は知らないのだ。
古着の輸入と卸を手がけていて、かなり手広く商いをしているようだ」
店の主人の表情に困惑の色が浮かんだ。
何しろ王国では、昔から古着の流通が一大産業となっている。
帝国から(最近はケルトニアからも)大量の古着を輸入し、それを選別、補修して卸す。それを小売商が都市住人に、行商人が農民に売り届けるのだ。
国内最大の商業都市である白城市には、それこそ掃いて捨てるほどの業者が存在していた。
「あの、伯爵様。大変申し訳ないですが、それだけでは……」
「話は最後まで聞け」
辺境伯は苦笑いを浮かべ、せっかちな店主を戒めた。
そして、こう付け加えたのだ。
「その商人には三十代になる娘がいる。それが女の身で大学を出ているのだ。
名はイレーネという」