十五 処遇
「僕に魔力……それってつまり、僕は魔導士になれるってことですか?」
セドリックも呆然とした表情を見せた。
事件の説明どころではなくなりそうで、シルヴィアは慌てて軌道修正を図る。
「ええと、その件に関しては、ちょっと複雑なんです。
今まで黙っていたことは謝りますが、後で伯爵と二人きりで詳しい説明をするつもりです。
それをご子息にどう話すかは、父親である伯爵が決めることになるでしょう。
私の言う意味、分かりますか?」
辺境伯はハッとしてうなずいた。
ことはセドリックの将来にも関わることだ。場合によっては、明かさない方がいい話もあるだろう。
「承知した。この問題はいったん置いておこう。
妖精殿、話の邪魔をして悪かった。続けてくれ」
ミラージュはふんと鼻を鳴らし、少し見下したような笑いを浮かべた。
『龍の世界にもいろいろあってな、彼らには正統といわれる種族がある。
黒龍、白龍、赤龍、蒼龍の四族で、それこそが〝本物の龍〟なんだそうだ。
それ以外の……そうだな、緑龍や黄龍、東洋龍などは一段下に見られている。
正統四種には、彼らの能力を高めるための糧とするため、特別に育てられた種族が仕えている。
緑龍たちにはそれが与えられないから、魔力を持つエルフや人間、ドワーフなどを襲って喰う事件が絶えないのだ』
ぎょっとした表情を浮かべる辺境伯を見て、妖精は少し気分をよくしたようだった。
彼女が見せた幻影の脅しが、確実に効いているという証拠だったからだ。
『喰うというのは比喩的な意味だ。本当に頭からボリボリと噛み砕くわけではない。
相手から精神だけを引き剥がし、それを吸収するということだな。
私がこの少年を見つけたと報告したところ、緑龍は当初、彼を食わせろと要求してきたのだ。
龍が言うように、少年が脳内に思い描く母親の幻で騙し、谷まで連れ出すことは可能だったと思う。
だが、私が故郷に帰るために、無関係な人間の命を奪うのは、さすがに気が引けてなぁ……』
『それで、私は緑龍と何度も交渉し、少年の魔力を大量に捧げることで、どうにか納得させたのだ。
父親を脅して月に一度少年を谷に呼び寄せ、私が彼の魔力を限界ぎりぎりまで吸い取って帰す。
私は次の朔に、その魔力を緑龍に捧げる――それを一年続ければ、緑龍の力は確実に増すということだ。
お前たち人間にしてみれば、気の長い話に思えるかもしれないが、数千年の寿命を持つ龍にとっては何でもない。
結局その計画は、こうして水泡に帰してしまったがな……』
「ということは、契約が中断したことを知った緑龍が、霧谷に出現してセドリックを襲うとは考えられないか?」
辺境伯が強張った表情で訊ねた。それは、彼が最も恐れる結末である。
だが、ミラージュは笑みを浮かべて首を横に振った。
『それはない。龍たちには厳しい掟があるからだ。
彼らに仕え、最終的に吸収される人間もどきの種族は、エルフが人工的に生み出したものだ。
その代償として、龍族は魔力を持つ知的生命を襲わないと誓約した。
理不尽な話だが、正統四族の龍は自分たちだけがその恩恵に浴しながら、その他の龍族にも誓約を順守させたのだ。
それに反発して守らぬ者もいるが、多くは見つかって殺されてしまう。相手が異世界の人間なら、確実に露見するだろう。
緑龍はそれくらいの損得勘定ができないほど、馬鹿ではないのだよ』
* *
『さて、私の話はこれでお終いだ。
何か知りたいことがあるなら、遠慮なく訊くがいい』
真っ先に手を上げたのは、シルヴィアである。彼女には、どうしても確かめたいことがあったのだ。
「伯爵宛の脅迫状は、あんたが届けたの?」
『そうだ。郵便受けが見張られていても、認識阻害をかければ造作もないことだ』
「その封筒や便箋はどうやって手に入れたの?
そもそも妖精のあんたは、人間の文字が書けないでしょう?」
『封筒と便箋は、近くの街道を通りかかった行商人から拝借したものだ』
「盗んだってことね?」
『そうともいう』
「じゃあ、脅迫文は誰が書いたの?」
シルヴィアがさらに迫る。これは人間の協力者がいなければ、成しえないことなのだ。
『そうだな……。その手紙は保管しているのか?』
「当然でしょう」
『ならば、持ってきてみろ。実際に見てもらった方が話が早い』
辺境伯はシルヴィアの視線にうなずき、立ち上がって部屋を出ていった。
そして数分後に戻ってきて、テーブルの上に三通の封筒を並べた。
『その手紙とやらを見せてみろ』
「これを見て、何が分かるというのだ?」
伯爵はそう言いながら、封筒から折りたたまれた便箋を引き出し、それを広げた。
だがその瞬間、彼の手は凍りついたように動きを止めた。
それは最初の脅迫文で、何度となく読み返したもの――のはずだった。
『はて、私には何も書いていないように見えるがな』
妖精がくすくすと笑い、辺境伯とシルヴィアは顔を見合わせ、改めて便箋に目を落とした。
目の前にあるのは、インクの染みひとつない真っ白な便箋だったのだ。
「どういうこと? 説明してちょうだい!」
険しい表情でシルヴィアが妖精に詰め寄る一方で、伯爵は慌てて他の手紙を確かめた。
広げられた二番目も三番目も、何も書かれていない白紙の便箋だった。
ミラージュは愉快そうな笑い声を上げた。
『どうもこうもない。お前は私を誰だと思っているのだ?
私は龍だろうと人間だろうと、何でも出すことができる。
手紙の幻影を見せるくらい、造作もないと思わないか?』
「でっ、でも! 元になる手紙を見なければ、幻は出せないんじゃないの?」
『そのとおりだ。
だから私は、自分が伝えたい意志を封じた紙の幻影を作った。
その意思を感じ取ったお前たちが、勝手に文字化して認識しただけだ』
「そんなことが……」
『なぜできないと思う? 理屈は通っていると思うがな。
ほら、もう一度手紙を見てみろ』
シルヴィアが便箋に視線を戻すと、そこには見覚えのある筆跡で、脅迫の文章が鮮やかに浮かび上がっていた。
『実際の便箋に幻影を重ね合わせるのは、そう難しい技術ではない。
幻影には実体がないから、触られればすぐにバレるのが弱点だが、これなら完璧に騙せるだろう?』
「……」
シルヴィアは黙り込んだ。言いたいことはあったが、今はその時ではないような気がしたのだ。
しばらくの沈黙の後、辺境伯が再び質問した。
「私の息子は、母親そっくりの人物を見たと言っていたが、それも君が見せた幻なのか?」
『そうだ。こんな感じだな』
ミラージュがそう答えると同時に、伯爵の眼前に忽然と女性が姿を現した。
それは階段の踊り場に掲げられている、セドリックの母アンジェリカの姿そのものだった。
身に着けたドレスや装身具も絵そのもので、幼さを宿した柔らかな笑顔も、見事に再現されている。
「お久しぶり。あなたもお元気そうですね」
その幻は落ち着いた声を出して、軽く膝を曲げるカーテシーと呼ばれる礼をしてみせた。
辺境伯は口を半開きにしたまま、目を丸くしている。よほどの衝撃だったに違いない。
だが、その言葉は予想外のものだった。
「君は……アンジェリカではない。何者だ?」
その幻影は、シルヴィアの目には肖像画そっくりに見えた。
セドリックも同じ思いらしく、父親に訝し気な視線を送った。
その一方、ミラージュは伯爵の反応に納得したようだった。
『ほう、そうか……なるほどな。
この女は、そなたの息子が頭の中で描いていた姿だ。
いわば、空想の人物だな。やはり、実際とは違いがあるのか?』
「ああ、アンジェリカはもっと小柄だったし、顔はそっくりだが、雰囲気に微妙な違和感を覚える。
第一、声が全然違う。あれはもっと高い、小鳥がさえずるような喋り方をする。
さっきの声は、……そう、まるでイレーネ女史のようだった」
アンジェリカは、セドリックを産み落として間もなく亡くなった。
したがって、少年はその生の声を聞いたことがない。姿は肖像画で想像できても、声の方はどうしようもないのだ。
そのため想像上の母親の声が、何年も側にいて慈しんでくれた、家庭教師のイレーネに似てしまったのは、むしろ当然のことであった。
「もういい、不愉快だ」
辺境伯は嫌悪感を隠さなかった。
ミラージュは苦笑いを浮かべ、偽りのアンジェリカを消し去った。
「では、セドリックが持ち帰った証拠の品は、君が持ち出したのかね?」
『そうだ』
「他はともかく、最初の腕輪を入れていた箱には、鍵がかかっていたはずだが?」
『私がどれだけ準備に時間をかけたと思っている?
この屋敷のことは半年以上、子細に観察してきたのだ。鍵のありかを探るのは、そう難しくはなかったぞ』
「イレーネ女史を追い出したのも、君の仕業か?」
『ああ、あの家庭教師は邪魔だった。
いつも少年の側にいて、私が近づこうとすると無意識に割って入るのだ。
人間の中には、時々勘の鋭い者がいるものだが、あの女もそうだった』
「それで、彼女を脅したのだな?」
辺境伯の言葉には、少し怒気が混じっていた。
『最初は深夜に目覚めさせ、恐ろしい姿の怪物に〝出ていけ!〟と脅させた。
だが、女は怯えはしたものの、夜が明けると平然としていた。
困った私は眠っている女の頭の中を探り、その心の傷を探り出した。
女を後悔とともに苛んでいたのは、もう何年も前に亡くした夫と子どもであった。
私はその姿を見せつけ、女を詰ってやった。
〝この家に取り入って、母親に収まるつもりか?〟とな……』
「何という残酷なことを……」
伯爵が呻き、セドリックは思わず下を向く。
『こういうやり方は、私としても本意ではなかった。
だから、やったのはたった一度きりだ。
しかし、これが予想外に効いたのだ。女は沈み込むようになり、次第に元気をなくしていった。
そして家庭教師を辞め、都会に帰ってしまったのは、お前たちも知ってのとおりだ。
その際、もう一つ意外だったのは、そなたの態度だ』
ミラージュはそう言って、辺境伯を指さした。
「私が……何をしたというのだ?」
『違う。お前は何もしなかっただろう?』
「そんなことはない、私は引き留めたぞ!」
『ああ、上辺だけの言葉ならな。〝息子のために残ってくれ〟だったか?
だが、その頃の私は、女の頭の中をいつも探っていたから、よく分かるのだよ。
あの女は、心の片隅でもっと違う言葉を期待していたぞ。その意味は分かるな?
なぜ、それを言ってやらなかった?』
「それは……」
妖精の言葉は、伯爵の心に深く刺さったようであった。
シルヴィアには、何となくこの会話の意味が分かったが、ここで口を挟むほど、彼女は馬鹿ではなかった。
『さて、ほかに質問はあるか? 私はすべてに答えたつもりだ。
そこの召喚士が言う、魔導院とやらに連行したいのなら、好きにするがいい。
どうせ故郷に帰る望みは断たれたのだ。私は自分の身に何が起ころうとも、もう露ほども関心がない』
辺境伯は疲れた表情で首を左右に振り、シルヴィアの方を見た。
嫌な役目が回ってきたものである。
「分かりました。では、明日一日だけお休みをいただきます。
王都にミラージュを送り届けてまいります。
彼女は再び封印し、カー君に監視をさせましょう。そのうえで――」
「待ってください!」
それまでほとん喋らなかったセドリックが、突然シルヴィアの話を遮った。
「どうしたの?
いろいろと驚くような話ばかりだったけど、あなたはもうベッドに入る時刻よ」
「だからその前に、僕は父上に話をしなければなりません」
「何だ、言ってみろ」
辺境伯は真剣な息子の表情に、少し戸惑っているように見えた。
「父上は『嘘は人として最も恥ずべき罪だ』と、僕に厳しく言い聞かせていたはずです。
それなのに、父上は僕に嘘をつきました」
「だからそれは、お前の身を案じてのことだと説明したし、きちんと謝ったではないか」
「その事情は僕も理解しています。でも、それで父上が嘘をついたという事実は覆りません。
ですから、父上は僕に償いをすべきだと思います」
「ふむ……では、私は何をしたらいいのだ?」
「僕の願いをひとつ、聞いていただきます」
「よかろう、約束しようではないか。ただし、私にできることであれば、だがな」
「簡単です。僕の願いとは、この妖精を故郷に帰してあげることです」
辺境伯もシルヴィアも、そしてミラージュまでもが、驚いてセドリックの顔を見詰めた。
「な……何を馬鹿なことを言っている!
嘘というならこの妖精こそ、お前を騙して利用しようとしたではないか?」
「彼女は脅すだけで、誰にも危害を加えませんでした。
もちろん、父上に心配をかけたり、村の人が警備をするはめになったり、それとイレーネ先生には酷いことはしました。
でもそれは、故郷に帰りたくて必死だったからと思えば、許してあげられると思うんです」
「それはそうかもしれんが……。私たちにそこまでする義理はないと思うぞ」
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず――父上が教えてくださった俚諺です。
それこそ貴族のあるべき態度だと、おっしゃったのは父上ではありませんか?」
「だが、そのためには……」
「はい。残りの九か月もこれまでと変わらず、儀式を行えばいいのですよね?
別に魔力を吸われるといっても、ちょっと疲れるだけで、次の日に寝坊すれば元気になれるんです。
僕の方はどうってことありません。
それにこの妖精は、仮初ではあっても、僕にお母様を会わせてくれたんですよ?
王都に送って実験材料にされるなんて、父上だって寝覚めが悪いのではありませんか?」
辺境伯は何か言い返そうとしたが、やがて溜息をついて肩を落とした。
そして、苦笑いを浮かべながら、シルヴィアの方を見た。
「聞いてのとおりだ。
私はセドリックに願いを叶えると約束してしまった。
君の骨折りには感謝するが、この妖精を解放してやってほしい」
シルヴィアは、この妙に堅苦しい父子に微笑みかけた。
「私もそれでよいと思います。
どう、ミラージュ? あんたも異存はないわよね?」
妖精は少し首を傾げ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「不満があるわけないだろう。
それにしても……人間とはおかしな生き物だな」