十一 王都
翌朝、例によって年配のメイドに叩き起こされたシルヴィアは、ひりひりするお尻を押さえながら、階下に向かった。
手には空になった水差しを持っている。喉が渇いていたので、厨房で水をもらうつもりなのだ。
階段の踊り場で、いつものように美しい肖像画を見上げてから、下に降りようとすると、ちょうど若い(といっても三十代だが)メイドが上がってくるのと鉢合わせになった。
「ああ、ちょうどよかった! シルヴィア様、旦那様が至急の用事で来てほしいそうです」
「え? でもあたし、まだ着替えてないけど――」
「旦那様はとてもお急ぎでした。それで構いませんから、こちらへ!」
メイドはシルヴィアの手を取り、強引に引っ張っていく。
彼女は顔は洗いはしたものの、まだ寝巻のままで、その上にガウンを羽織っただけで出てきたのだ。
貴族の令嬢としては、大変よいお行儀である。
シルヴィアは伯爵の執務室だという部屋に案内された。
メイドは「お連れしました」と言って彼女を中に放り込むと、ぱたんと扉を閉めてしまった。
入ってみると、小さなテーブルを前にして、きちんと身なりを整えた辺境伯が座っていた。
「だらしない恰好をお見せして、申し訳ありません」
胸元のガウンのあわせを掻き抱き、シルヴィアはまず自分の無作法を詫びた。
しかし、伯爵はあまり気にしていないようだった。
「構わん、急かせたのはこちらだ。それより早く席に着きたまえ」
シルヴィアが用意されていた椅子に座ると、目の前のテーブルには封を切った封書と便箋が置かれていた。
彼女はそれに見覚えがあった。
初日の夜に、辺境伯から見せられた脅迫状と同じものだ。
「今朝、届いた。
警備の者が郵便受けの前で番をしていたのだが、いつの間にか入っていたらしい」
シルヴィアは黙って折られた便箋を開き、文面を読んだ。
「明日は霧が出るから、いつものようにセドリックを一人で谷に向かわせろ。
家庭教師が上空を飛ぶのもなしだ」
書かれていたのは、たったの二行だった。
「カー君」
シルヴィアが呼ぶと、ドアの近くに座っていた彼女の幻獣が近寄ってきた。
そして、顔の前に差し出された封筒と便箋の匂いを、かわるがわる嗅いだ。
「どう?」
『石鹸の匂いだね。その香料が強くて、ほかの微かな匂いを隠しちゃっている。
ユニのオオカミたちだったら、ちゃんと嗅ぎ分けられるだろうけど、僕には無理だな』
「『ユニさん』でしょ、気安く呼び捨てにしないでちょうだい!
つまり、妖精の匂いはしないってことね?」
『う~ん、そうだねぇ……確証はないけど、石鹸に隠れているのは人間の匂いのような感じがするね』
「カーバンクルは何と言っているのだね?」
伯爵が通訳を求めて訊ねた。
「幻獣の匂いは特に感じないそうです。
はっきりしているのは石鹸の香りで、カー君は人間の匂いじゃないかと言っています」
「要するに、何も分らんということか」
「おっしゃるとおりです」
「では、君はどうするつもりだね? 上空を飛行するのは禁止だそうだ。
家庭教師のことといい、相変わらずわが家の事情に通じている犯人だな」
「セドリック様は、これまでと同様に谷に向かわせてください。多分、今回も危険はないでしょう。
それより、明日は勉強が休みということになりますね?」
「休みは明後日までだ。退屈かね?」
シルヴィアは首を振った。
「いいえ、ちょうどよかったです。
私も二日間お休みをいただいて、いったん王都に戻ろうと思います。
いろいろと確かめたいこともありますし……。
でも、ご安心ください。遠からずこの事件は解決してみせますから」
辺境伯は驚いたように顔を上げた。
「解決って……まだ君は、ほとんど何もしていないではないか?」
「あら、名探偵は安楽椅子に揺られて、煙草をくゆらしながら謎を解くのが定番ですわ。
カー君に言わせると、あたしの脳細胞はピンク色だそうですから、自分で動く必要がありますけど」
「それが、王都に戻る用事というわけか。
内容は……いや、教えてくれるほど、君は甘くないな」
「ええ、お楽しみは最後に取っておくべきです」
彼女はにこやかに微笑んだ。
そして、手紙を封筒の中に入れて伯爵に返し、椅子から立ち上がった。
「では、これで失礼します。
セドリック様にこんなはしたない姿を見られたら、大変ですもの」
シルヴィアは、いかにも余裕に満ちた女探偵を演じた気になっていた。
しかしその言葉に対し、辺境伯は横を向き、露骨に視線を外してみせた。
シルヴィアは、はっと気づいた。
椅子から立ち上がる時に、彼女は上体を屈めたのだ。
それは自然な動きであったが、いまシルヴィアは寝巻とガウン姿である。胸を押さえつけるコルセットも着けていなかった。
たわわに垂れた乳房が襟元から覗き、恐らく伯爵には丸見えだっただろう。
「……!」
シルヴィアは慌てて胸元を押さえ、顔を真っ赤にして部屋を出ていった。
* *
辺境伯は朝食後に、セドリックに明日が儀式であることを告げた。
その日の午前と午後の授業では、シルヴィアは何も探ろうとせず、少年の方もいつもと変わらなかった。
ただ、明日が休みになることは、セドリックの方から伝えてきた。
「シルヴィア先生。実は明日と明後日、僕は父上に言いつけられた用事があって、勉強はお休みになるんです」
「ええ、伯爵から聞いているわ。
あたしもちょうど済ませたい用事があってね。王都に行ってくるつもりよ」
セドリックは少し羨ましそうな表情を浮かべた。
「先生は空を飛べていいですね。
僕の親戚に、先生と同じ国家召喚士のアラン少佐って人がいるんですけど、ご存じですか?」
「もちろん。あたしのお師匠さまよ」
「そうなんですか。
アランおじさんも大きな鳥を召喚して、空を飛んでいるでしょう?
一度だけお会いした時に、僕も乗せてほしいってお願いしたんですよ。
おじさんは『そのうちにな』って言ってましたけど、とっても忙しいみたいで、まだ実現していないんです」
「そうね、少佐にその暇はないと思うわ。
……うん、分かった。あたしが弟子として、代わりにその願いを叶えてあげるわ。
新しい先生が見つかって、あたしが帰ることになったら、セドリックをカー君に乗せてあげる」
「本当ですか!?」
セドリックは目を輝かせた。
「ええ、約束するわ。ね、カー君もいいでしょ?」
シルヴィアは、窓際の床で気持ちよさそうに眠っている、カーバンクルに声をかけた。
『ああ、いいよ。
僕の飛行能力はそう高くないから、シルヴィアを乗せるだけでも、本当は結構大変なんだ。
でも、セドリックは友達だし(実際、二人は妙に仲がよかった)、誰かと違って軽いから、大丈夫そうだもんね』
セドリックの頭の中に、カー君の声が響いた。
カー君は目を閉じて、眠っているような振りをしていたが、ずっと幻獣の接近を警戒していたのだ。
その鼻先すれすれに、投げつけられたペンが突き刺さった。
「〝誰か〟って、誰よ!?」
* *
翌日は手紙の予言どおり、夜明けからもの凄い濃霧となった。
セドリックは前二回と同じように、一人で意気揚々と出かけて行った。
違っていたのは、辺境伯と一緒に心配そうに見送る人たちの中に、シルヴィアが加わっていたことだった。
セドリックを送り出すと、今度はシルヴィアが出かける番だった。
庭では、すでに用意を整えたカー君が待機していた。
用意とは、シルヴィアが座るための小さな椅子、鐙と手綱、荷物を入れる振り分け鞄の装着である。
シルヴィアは馴れた仕草でカー君の背中によじ登った。
飛行服の金輪に固定用のベルトを引っかけ、踵で軽く合図をすると、翼を広げたカー君がふわりと浮かび上がる。
屋敷の人々が見守る中、シルヴィアたちもセドリック同様、濃霧の中に消えていった。
* *
空に上がると、周囲は嘘のように晴れ渡っていた。
下を見ると、一面が雲のような霧に覆われて、家の屋根すら見えなかった。
シルヴィアは手綱を引き、威勢のよい声を出した。
「目指すは王都リンデルシア。さあ、行くわよ!」
カー君は何度か羽ばたいて方向を変え、西北に向けて飛び始めた。
同時に、ぼそっと感想を洩らした。
『今の台詞、なんか主人公っぽくてかっこいいね』
「でしょう!」
『だけど、何で座らないのさ?』
カー君の指摘どおり、シルヴィアは小さな座椅子から腰を浮かせていたのだ。
足をかけた鐙で踏ん張れば、確かに座らなくてもいいが、不安定で危険である。
「うっ、うるさいわね!」
返事をしないシルヴィアの頭の中に、カー君の納得したような声が響いてきた。
『ああ、そうか。今朝は特別早かったから、起こしにきたメイドさんも大変だったもんね。
シルヴィアが目を覚まさないから、お尻を叩かれ過ぎて腫れてるんでしょ?』
* *
出発が朝早かったせいもあって、王都には昼前に到着した。
シルヴィアたちは、正門に当たる東大門の前に着陸すると、正規の手続きを済ませた。
まずは王都の中心に聳える王城に向かい、城内の参謀本部に出頭しなければならない。
シルヴィアは顔なじみの衛兵に挨拶をして、参謀本部がある南塔に入った。
何かと面倒なので総務には顔を出さず、直接マリウスの秘書官室に向かう。
扉をノックすると、すぐに可愛らしい声の応答があった。
中に入ると、書類が積まれた机から顔を上げたエイミーが、花の咲いたような笑顔を見せた。
「あら、シルヴィア!
久しぶりだけど……思ったより早いのね。もう事件は解決したの?」
「いいえ、道はまだ半ばですよ。今回はいろいろ調べものがあって、一時帰還ってところです。
マリウス様に経過報告をしたいのですが、今日明日中に時間が取れるでしょうか?」
「ええと、ちょっと待ってね」
エイミーは書類の束を押しやり、下から使い込んだ手帳を引っ張り出して開いた。
「うん、ちょっと遅いけど、夕方の五時半からだったら空いているわ。
予約を入れとく?」
「お願いします。
それと、ケイト少佐の予定って分かります?」
この年の春、参謀本部内には魔導士の募集・育成と、運用の研究を統括する部署が発足した。
ケイトはその責任者に就任し、大尉から少佐に昇進していた。
ちなみに、シルヴィアは国家召喚士に昇格した際に、作戦本部直属となったが、エイナはいまだにケイトの部下である。
「う~ん、出張の話は聞いてないから、多分いるんじゃないかしら?」
「そうですか、では行ってみます」
シルヴィアはエイミーに「またね」と手を上げ、秘書官室を出た。
ケイトの部屋はひとつ下の階にある。
扉には真新しい木札が掲げられ、そこには「魔導推進部長」と記されていた。
シルヴィアがノックすると、扉越しに「どうぞ」という懐かしい声が聞こえた。
彼女は中に入り、扉を閉めて向き直ると敬礼した。
「シルヴィア・グレンダモア少尉、ご報告したい件があって参上いたしました」
机に向かっていたケイトも立ち上がって、「ご苦労」と答礼を返し、シルヴィアを応接の椅子に誘った。
「久しぶりね。あなたは任務で長期出張中と聞いたけど、もう終わったの?」
ケイトが先に座るのを待って、シルヴィアも応接の椅子に腰を下ろす。
「いえ、まだ途中です。今日は中間報告に来ただけで、明日には戻るつもりです」
「そう。でも、あなたが報告する相手は、私じゃないでしょう? どういうこと?」
「実は……」
シルヴィアはセドリックのことを話した。
わずか七歳でありながら、高校課程まで進んでいる天才であること。
中でも、数学には異常なまでの執着を持っていること。
そして、最後に自分が抱いている見解を付け加えた。
ケイトは興味深げな表情で、彼女の報告を聞いていた。
「確かに面白そうな子ね。調べてみる価値はありそうだわ。
だけど、すぐには時間が作れないのよね。ちょっとしたごたごたで、このところ忙しいのよ。
あなた、いつまで伯爵邸に滞在するの?」
「マリウス様から『最低でも一か月』と命じられましたから、あと三週間はいるつもりです。
事件そのものは、来週中に片づきそうなんですけど」
ケイトは小首を傾げた。その仕草が、ぞくぞくするするほど色っぽかった。
彼女はなかなかの美人だが、どちらかというと細身で、胸や尻も小さい方だ。
それなのに、誰もが振り返るほどの艶っぽさがあった。
『きっとカニングさん(ケイトの愛人)のせいだ』
シルヴィアはそう考えていた。ケイトに比べれば、自分はまだまだ子どもだと思い知らされる。
「どうしたの、ぼうっとして?」
不思議そうな問いかけに、シルヴィアは我に返った。
「いえ、ちょっと最近いろいろ考えることがあって……その、失礼しました!」
「変な娘ね。
話を元に戻すけど、事件が解決しても帰るなって、どうしてなの?」
「その、自分はセドリックの家庭教師を務めておりまして、勝手に放り出すわけにはいかないのです。
辺境伯は大物ですから、軍としても義理を欠けないのだと思います」
「シルヴィアが家庭教師!?」
ケイトが呆れたような声をあげた。
「大丈夫なの?」
「お言葉ですが、自分はこれでも魔導院の首席卒業者です」
「いえ、そうじゃなくて。セドリック君って、美少年なんでしょう?」
「はぁ……」
「変なことを教えちゃだめよ」
「いたしません!!」
* *
三十分ほどでケイトの部屋を辞したシルヴィアは、今度は王立図書館に向かった。
図書館は参謀本部がある王城に隣接しており、城から直接行けるようになっていた。
王立図書館は国内最大の蔵書数を誇っており、その日も多くの人々が訪れていた。
貸し出しは行っていないから、すべてが閲覧希望者である。
シルヴィアは賑わっているカウンターを通り過ぎ、奥の小さな一画に向かった。
そこは図書館に併設されている公文書館の受付だった。
シルヴィアは係員に身分証明書を提示し、閲覧を希望する資料名を告げた。
「黒龍野会戦の報告書を見せてください」