表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
245/359

十一 王都

 翌朝、例によって年配のメイドに叩き起こされたシルヴィアは、ひりひりするお尻を押さえながら、階下に向かった。

 手には空になった水差しを持っている。喉が渇いていたので、厨房で水をもらうつもりなのだ。


 階段の踊り場で、いつものように美しい肖像画を見上げてから、下に降りようとすると、ちょうど若い(といっても三十代だが)メイドが上がってくるのと鉢合わせになった。


「ああ、ちょうどよかった! シルヴィア様、旦那様が至急の用事で来てほしいそうです」

「え? でもあたし、まだ着替えてないけど――」


「旦那様はとてもお急ぎでした。それで構いませんから、こちらへ!」

 メイドはシルヴィアの手を取り、強引に引っ張っていく。

 彼女は顔は洗いはしたものの、まだ寝巻のままで、その上にガウンを羽織っただけで出てきたのだ。

 貴族の令嬢としては、大変よいお行儀である。


 シルヴィアは伯爵の執務室だという部屋に案内された。

 メイドは「お連れしました」と言って彼女を中に放り込むと、ぱたんと扉を閉めてしまった。

 入ってみると、小さなテーブルを前にして、きちんと身なりを整えた辺境伯が座っていた。


「だらしない恰好をお見せして、申し訳ありません」

 胸元のガウンのあわせを掻き抱き、シルヴィアはまず自分の無作法を詫びた。

 しかし、伯爵はあまり気にしていないようだった。

「構わん、かせたのはこちらだ。それより早く席に着きたまえ」


 シルヴィアが用意されていた椅子に座ると、目の前のテーブルには封を切った封書と便箋が置かれていた。

 彼女はそれに見覚えがあった。

 初日の夜に、辺境伯から見せられた脅迫状と同じものだ。


「今朝、届いた。

 警備の者が郵便受けの前で番をしていたのだが、いつの間にか入っていたらしい」


 シルヴィアは黙って折られた便箋を開き、文面を読んだ。

「明日は霧が出るから、いつものようにセドリックを一人で谷に向かわせろ。

 家庭教師が上空を飛ぶのもなしだ」

 書かれていたのは、たったの二行だった。


「カー君」

 シルヴィアが呼ぶと、ドアの近くに座っていた彼女の幻獣が近寄ってきた。

 そして、顔の前に差し出された封筒と便箋の匂いを、かわるがわる嗅いだ。


「どう?」

『石鹸の匂いだね。その香料が強くて、ほかの微かな匂いを隠しちゃっている。

 ユニのオオカミたちだったら、ちゃんと嗅ぎ分けられるだろうけど、僕には無理だな』


「『ユニさん』でしょ、気安く呼び捨てにしないでちょうだい!

 つまり、妖精の匂いはしないってことね?」

『う~ん、そうだねぇ……確証はないけど、石鹸に隠れているのは人間の匂いのような感じがするね』


「カーバンクルは何と言っているのだね?」

 伯爵が通訳を求めて訊ねた。


「幻獣の匂いは特に感じないそうです。

 はっきりしているのは石鹸の香りで、カー君は人間の匂いじゃないかと言っています」

「要するに、何も分らんということか」


「おっしゃるとおりです」

「では、君はどうするつもりだね? 上空を飛行するのは禁止だそうだ。

 家庭教師のことといい、相変わらずわが家の事情に通じている犯人だな」


「セドリック様は、これまでと同様に谷に向かわせてください。多分、今回も危険はないでしょう。

 それより、明日は勉強が休みということになりますね?」

「休みは明後日までだ。退屈かね?」


 シルヴィアは首を振った。

「いいえ、ちょうどよかったです。

 私も二日間お休みをいただいて、いったん王都に戻ろうと思います。

 いろいろと確かめたいこともありますし……。

 でも、ご安心ください。遠からずこの事件は解決してみせますから」


 辺境伯は驚いたように顔を上げた。

「解決って……まだ君は、ほとんど何もしていないではないか?」

「あら、名探偵は安楽椅子に揺られて、煙草をくゆらしながら謎を解くのが定番ですわ。

 カー君に言わせると、あたしの脳細胞はピンク色だそうですから、自分で動く必要がありますけど」

「それが、王都に戻る用事というわけか。

 内容は……いや、教えてくれるほど、君は甘くないな」


「ええ、お楽しみは最後に取っておくべきです」

 彼女はにこやかに微笑んだ。

 そして、手紙を封筒の中に入れて伯爵に返し、椅子から立ち上がった。


「では、これで失礼します。

 セドリック様にこんなはしたない姿を見られたら、大変ですもの」


 シルヴィアは、いかにも余裕に満ちた女探偵を演じた気になっていた。

 しかしその言葉に対し、辺境伯は横を向き、露骨に視線を外してみせた。

 シルヴィアは、はっと気づいた。


 椅子から立ち上がる時に、彼女は上体をかがめたのだ。

 それは自然な動きであったが、いまシルヴィアは寝巻とガウン姿である。胸を押さえつけるコルセットも着けていなかった。

 たわわに垂れた乳房が襟元から覗き、恐らく伯爵には丸見えだっただろう。


「……!」

 シルヴィアは慌てて胸元を押さえ、顔を真っ赤にして部屋を出ていった。


      *       *


 辺境伯は朝食後に、セドリックに明日が儀式であることを告げた。

 その日の午前と午後の授業では、シルヴィアは何も探ろうとせず、少年の方もいつもと変わらなかった。

 ただ、明日が休みになることは、セドリックの方から伝えてきた。


「シルヴィア先生。実は明日と明後日、僕は父上に言いつけられた用事があって、勉強はお休みになるんです」

「ええ、伯爵から聞いているわ。

 あたしもちょうど済ませたい用事があってね。王都に行ってくるつもりよ」


 セドリックは少し羨ましそうな表情を浮かべた。

「先生は空を飛べていいですね。

 僕の親戚に、先生と同じ国家召喚士のアラン少佐って人がいるんですけど、ご存じですか?」

「もちろん。あたしのお師匠さまよ」


「そうなんですか。

 アランおじさんも大きな鳥を召喚して、空を飛んでいるでしょう?

 一度だけお会いした時に、僕も乗せてほしいってお願いしたんですよ。

 おじさんは『そのうちにな』って言ってましたけど、とっても忙しいみたいで、まだ実現していないんです」

「そうね、少佐にその暇はないと思うわ。

 ……うん、分かった。あたしが弟子として、代わりにその願いを叶えてあげるわ。

 新しい先生が見つかって、あたしが帰ることになったら、セドリックをカー君に乗せてあげる」


「本当ですか!?」

 セドリックは目を輝かせた。


「ええ、約束するわ。ね、カー君もいいでしょ?」

 シルヴィアは、窓際の床で気持ちよさそうに眠っている、カーバンクルに声をかけた。


『ああ、いいよ。

 僕の飛行能力はそう高くないから、シルヴィアを乗せるだけでも、本当は結構大変なんだ。

 でも、セドリックは友達だし(実際、二人は妙に仲がよかった)、誰かと違って軽いから、大丈夫そうだもんね』


 セドリックの頭の中に、カー君の声が響いた。

 カー君は目を閉じて、眠っているような振りをしていたが、ずっと幻獣の接近を警戒していたのだ。


 その鼻先すれすれに、投げつけられたペンが突き刺さった。

「〝誰か〟って、誰よ!?」


      *       *


 翌日は手紙の予言どおり、夜明けからもの凄い濃霧となった。

 セドリックは前二回と同じように、一人で意気揚々と出かけて行った。

 違っていたのは、辺境伯と一緒に心配そうに見送る人たちの中に、シルヴィアが加わっていたことだった。


 セドリックを送り出すと、今度はシルヴィアが出かける番だった。

 庭では、すでに用意を整えたカー君が待機していた。

 用意とは、シルヴィアが座るための小さな椅子、あぶみと手綱、荷物を入れる振り分け鞄の装着である。


 シルヴィアは馴れた仕草でカー君の背中によじ登った。

 飛行服の金輪に固定用のベルトを引っかけ、踵で軽く合図をすると、翼を広げたカー君がふわりと浮かび上がる。

 屋敷の人々が見守る中、シルヴィアたちもセドリック同様、濃霧の中に消えていった。


      *       *


 空に上がると、周囲は嘘のように晴れ渡っていた。

 下を見ると、一面が雲のような霧に覆われて、家の屋根すら見えなかった。


 シルヴィアは手綱を引き、威勢のよい声を出した。

「目指すは王都リンデルシア。さあ、行くわよ!」


 カー君は何度か羽ばたいて方向を変え、西北に向けて飛び始めた。

 同時に、ぼそっと感想を洩らした。


『今の台詞セリフ、なんか主人公っぽくてかっこいいね』

「でしょう!」

『だけど、何で座らないのさ?』


 カー君の指摘どおり、シルヴィアは小さな座椅子から腰を浮かせていたのだ。

 足をかけた鐙で踏ん張れば、確かに座らなくてもいいが、不安定で危険である。


「うっ、うるさいわね!」

 返事をしないシルヴィアの頭の中に、カー君の納得したような声が響いてきた。


『ああ、そうか。今朝は特別早かったから、起こしにきたメイドさんも大変だったもんね。

 シルヴィアが目を覚まさないから、お尻を叩かれ過ぎて腫れてるんでしょ?』


      *       *


 出発が朝早かったせいもあって、王都には昼前に到着した。

 シルヴィアたちは、正門に当たる東大門の前に着陸すると、正規の手続きを済ませた。

 まずは王都の中心に聳える王城に向かい、城内の参謀本部に出頭しなければならない。


 シルヴィアは顔なじみの衛兵に挨拶をして、参謀本部がある南塔に入った。

 何かと面倒なので総務には顔を出さず、直接マリウスの秘書官室に向かう。

 扉をノックすると、すぐに可愛らしい声の応答があった。


 中に入ると、書類が積まれた机から顔を上げたエイミーが、花の咲いたような笑顔を見せた。

「あら、シルヴィア!

 久しぶりだけど……思ったより早いのね。もう事件は解決したの?」

「いいえ、道はまだ半ばですよ。今回はいろいろ調べものがあって、一時帰還ってところです。

 マリウス様に経過報告をしたいのですが、今日明日中に時間が取れるでしょうか?」


「ええと、ちょっと待ってね」

 エイミーは書類の束を押しやり、下から使い込んだ手帳を引っ張り出して開いた。


「うん、ちょっと遅いけど、夕方の五時半からだったら空いているわ。

 予約を入れとく?」

「お願いします。

 それと、ケイト少佐の予定って分かります?」


 この年の春、参謀本部内には魔導士の募集・育成と、運用の研究を統括する部署が発足した。

 ケイトはその責任者に就任し、大尉から少佐に昇進していた。

 ちなみに、シルヴィアは国家召喚士に昇格した際に、作戦本部直属となったが、エイナはいまだにケイトの部下である。


「う~ん、出張の話は聞いてないから、多分いるんじゃないかしら?」

「そうですか、では行ってみます」

 シルヴィアはエイミーに「またね」と手を上げ、秘書官室を出た。


 ケイトの部屋はひとつ下の階にある。

 扉には真新しい木札が掲げられ、そこには「魔導推進部長」と記されていた。


 シルヴィアがノックすると、扉越しに「どうぞ」という懐かしい声が聞こえた。

 彼女は中に入り、扉を閉めて向き直ると敬礼した。

「シルヴィア・グレンダモア少尉、ご報告したい件があって参上いたしました」


 机に向かっていたケイトも立ち上がって、「ご苦労」と答礼を返し、シルヴィアを応接の椅子に誘った。

「久しぶりね。あなたは任務で長期出張中と聞いたけど、もう終わったの?」


 ケイトが先に座るのを待って、シルヴィアも応接の椅子に腰を下ろす。

「いえ、まだ途中です。今日は中間報告に来ただけで、明日には戻るつもりです」

「そう。でも、あなたが報告する相手は、私じゃないでしょう? どういうこと?」


「実は……」

 シルヴィアはセドリックのことを話した。

 わずか七歳でありながら、高校課程まで進んでいる天才であること。

 中でも、数学には異常なまでの執着を持っていること。

 そして、最後に自分が抱いている見解を付け加えた。


 ケイトは興味深げな表情で、彼女の報告を聞いていた。

「確かに面白そうな子ね。調べてみる価値はありそうだわ。

 だけど、すぐには時間が作れないのよね。ちょっとしたごたごたで、このところ忙しいのよ。

 あなた、いつまで伯爵邸に滞在するの?」

「マリウス様から『最低でも一か月』と命じられましたから、あと三週間はいるつもりです。

 事件そのものは、来週中に片づきそうなんですけど」


 ケイトは小首を傾げた。その仕草が、ぞくぞくするするほど色っぽかった。

 彼女はなかなかの美人だが、どちらかというと細身で、胸や尻も小さい方だ。

 それなのに、誰もが振り返るほどの艶っぽさがあった。


『きっとカニングさん(ケイトの愛人)のせいだ』

 シルヴィアはそう考えていた。ケイトに比べれば、自分はまだまだ子どもだと思い知らされる。


「どうしたの、ぼうっとして?」

 不思議そうな問いかけに、シルヴィアは我に返った。


「いえ、ちょっと最近いろいろ考えることがあって……その、失礼しました!」

「変なね。

 話を元に戻すけど、事件が解決しても帰るなって、どうしてなの?」


「その、自分はセドリックの家庭教師を務めておりまして、勝手に放り出すわけにはいかないのです。

 辺境伯は大物ですから、軍としても義理を欠けないのだと思います」

「シルヴィアが家庭教師!?」


 ケイトが呆れたような声をあげた。

「大丈夫なの?」

「お言葉ですが、自分はこれでも魔導院の首席卒業者です」


「いえ、そうじゃなくて。セドリック君って、美少年なんでしょう?」

「はぁ……」


「変なことを教えちゃだめよ」

「いたしません!!」


      *       *


 三十分ほどでケイトの部屋を辞したシルヴィアは、今度は王立図書館に向かった。

 図書館は参謀本部がある王城に隣接しており、城から直接行けるようになっていた。


 王立図書館は国内最大の蔵書数を誇っており、その日も多くの人々が訪れていた。

 貸し出しは行っていないから、すべてが閲覧希望者である。


 シルヴィアは賑わっているカウンターを通り過ぎ、奥の小さな一画に向かった。

 そこは図書館に併設されている公文書館の受付だった。

 シルヴィアは係員に身分証明書を提示し、閲覧を希望する資料名を告げた。


「黒龍野会戦の報告書を見せてください」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ