表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
244/359

十 個人授業

「勉強の進み具合は分かったわ。

 でも、イレーネ先生が辞めて、三か月近く経つのよね。

 その間はどうしていたの?」


「教科書の先を予習していました。

 ただ、教科書に載っている問題には、答えが付いていないんです。

 だから数学を除くと、合っているかどうかが分からなくて、あんまり前に進まないの。

 それで、先生が作ってくださった問題集をやっていました。これは一番最後に答えの頁があって、答え合わせが楽しかったです」

「どうして数学だけは別なの?」


「数学の場合は、解き方を知っているかどうか、その時点で結果が出るんですよ。

 解き方が分かる問題は絶対に間違えませんから、答え合わせが必要ありません。

 そうじゃない問題は、僕の知らない公式があるせいです。

 新しい公式は教科書を見れば載っていますから、それを暗記すれば大抵は解決しますね」

「それで壁に公式を貼っているの?」


「はい」

「でも、あんなにたくさん覚えるのは、その……面倒くさくない?」


 セドリックはきょとんした顔を見せた。

「どうしてですか? 楽しいですよ。

 公式を発見した人は、とても凄いと思います。僕も大人になったら、そうなりたいんですよ。

 イレーネ先生がおっしゃってましたけど、数学の世界には〝未解決の命題〟がたくさんあるそうなんです。

 僕はそれに挑んでみたいし、解決して学会に発表できたらと思うと、背筋がぞくぞくします」


 恐らくセドリックは、本当にそんな大数学者になるんだろう……シルヴィアはそう思わざるを得なかった。

「あたしは数学の公式を見るだけで、おぞましさでぞくぞくするけどね」


「シルヴィア先生は、ひょっとして数学が嫌いなんですか?」

 少年の目には、驚きと憐憫の色が浮かんでいた。


「嫌いじゃないけど、好みでもないわ。

 あたしの場合、どっちかっていうと文系が得意なのよ。国語とか歴史とかね。

 イレーネ先生は、理数系が得意だったんじゃない?」

「そうです。だから、僕たちは最初から馬が合ってたんですよ」


「セドリックはいろんな言葉を知ってるのね。

 えーと……じゃあ、数学に関しては、あたしが教える必要はないのかしら?」


「そんなことはありません!」

 セドリックはぶんぶんと首を振った。

「たまになんですけど、公式を使っても上手く解けない問題があるんです。

 いくら考えても分からなくて、そういうのは保留して飛ばしていました。

 だから新しい先生が来たら、真っ先にそこを教えてもらおうって思ってたんだ!」


 一生懸命すぎて、セドリックの言葉遣いに素が出たのを、シルヴィアは微笑ましく思った。

「分かったわ。せっかくの初日だもの。今日はその宿題をやっつけましょう」


 少年はにこにこして、二年生用の教科書も棚から出してきた。

 そして、ぱっと問題が載っている頁を開き、「最初はこれです」と言って、シルヴィアの方へ向けた。

 きっと、何度も繰り返しその頁を開いたせいで、本に癖がついてしまったに違いない。


 どれどれと覗き込んだシルヴィアは、内心で『ははぁ~ん』と思った。

 それは、ある方程式を利用して解く問題だが、代数に数を当てはめる前に、別の式を使って値を変換する必要があるのだ。

 シルヴィアも学生時代に似たような問題に出くわし、教師に解法のコツを教えてもらった記憶がある。

 魔導院が使っていた教科書にも、そんなことは説明されていなかったので、彼女は憤慨して教師に詰め寄ったものだ。


『教科書がそこまで親切だったら、わしら数学教師が失業してしまうだろう?』

 六十代半ばの老教師は、そう言って笑っていた。


 シルヴィアは鉛筆を手にして、セドリックのノートに短い公式を書き込んだ。

「この公式は知ってる?」

「もちろんです。高等小学校(中学)で教わりますね」

 少年は『馬鹿にするな』という口調で答えた。

 シルヴィアは『君は本当なら、小学二年生なのよ』と、内心で突っ込まずにいられない。


「この公式に、問題のこれとこれを当てはめて、数値を変えるのよ。

 そうすればきれいに割り切れて、答えが導き出されるでしょ?

 まぁ、ちょっとした発想の転換よね」

「あっ、ずるい!

 こっちの公式は近似値を使ってます。ごまかしですよ!!」


「しょうがないわよ。そうしなきゃ、いつまで経っても答えが出てこないんだから」

「そんな変換式を使っていいなんて、教科書のどこにも書いてないです!

 卑怯です、不親切です、男らしくないです!!」


「だって、変換式は〝すでに習っている〟っていう前提だもの。

 教科書がそんなことまで注意してくれるなら、教師はいらないでしょ?

 セドリックは、あたしを失業させる気?」

 シルヴィアは、人差し指で少年の額をつんと突きながら、心の中で老教師に感謝を贈っていた。


 セドリックが解けなかった問題は、どれも似たような〝引っかけ〟問題で、シルヴィアは笑って解説ができた。

 種明かしをされた少年は、顔を真っ赤にして怒ることもあったが、それ以外は素直に感心した。

 そして猛烈な勢いで、シルヴィアの言葉をノートに書き取るのだった。


      *       *


 午前の三時間はあっという間に過ぎた。

 子ども部屋の扉をノックして顔を覗かせたメイドが、「昼食の用意ができています」と伝えてくれた。

 セドリックは名残惜しそうにノートを閉じた。


 彼の頬はバラ色に紅潮し、いかにも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。

「やっぱり、先生に教わるっていいですね! 一人よりもずっといいですね!!」


 くったくのない笑顔は、彼が七歳の少年だということを思い出させてくれる。

『ああ、この子は本当に勉強が好きなんだ……』

 セドリックの教育に熱中したというイレーネの気持ちが、シルヴィアにも少し理解できた。


 昼食の席で、辺境伯が息子に「どうだった?」と訊ねると、セドリックは「楽しかった!」と即答した。

 伯爵はその答え方だけで、すべてを察したようだった。


 昼食が終わると、少しの休憩を挟んで、すぐに午後の部が始まった。

 午前は丸ごと数学に費やしたので、今度はそれ以外の教科だ。

 そこでも、セドリックは山ほどの質問を用意していた。


 例えば、歴史の教科書に「○○年、××において、王国はサラーム教国の侵攻を受け、三か月後にこれを撃退した」と記述していたとしよう。

 普通の生徒なら、これを暗記するだけである。起こった事実に、年と場所を紐づければいいのだ。

 もちろん教科書には、紛争の原因や関係した人物などが、簡単に説明されていた。


 ところが、セドリックの質問はその背景に及んだ。

「どうしてこの戦争を事前に防げなかったのでしょう? 原因となった問題は、前から分かっていたわけですよね?

 同盟を結ぶルカ大公国が、参戦しなかったのはなぜですか?

 敵が退くまで三か月も要したのは、わが国の防衛体制に問題があったのではないでしょうか?」


 歴史上の事件は、当時の外交関係、軍事上の問題、国の財政と密接に連動している。

 だからそれを知らなくては、真の理解とは言えない。この少年は、それを直感的に知っていたのだ。


 セドリックが苦手とする国語、特に文学の読解となると、シルヴィアの得意分野であるから、教え方に熱が入った。

 どうやら前任のイレーネ女史は、この分野だけは苦手だったらしく、教科書的な解説でお茶を濁していたらしい。

 セドリックの「どうしたら読解力が上がるのでしょう?」という質問に、女史は「本をたくさん読みなさい」と答えたという。


 もともと本好きな彼は、そのアドバイスを実行したかったが、何しろ忙しくて時間がない。

 一日六時間の勉強のほかに、朝夕には剣術を中心とした稽古があり、これは伯爵が直接教えていた。

 週に二回は礼儀作法を学ぶ時間もあった。

 そして、何といってもセドリックはまだ七歳なので、大人のような夜更かしが許されなかった。


 これでは、まとまった読書時間を確保するのは難しい。

 イレーネ女史の教育に熱が入ったこの二、三年は、村の子どもたちとも遊べなくなったらしい。

 セドリックは一度だけ、父親に消灯時間の延長を願い出たが、あっさりと却下された。

 それ以来、彼はひと言も不満を口にしなかったそうだ。


      *       *


 家庭教師も三日目となると、シルヴィアの方もようやく勝手が分かってきた。

 理数系の分野は、セドリックが迷って立ち止まった時に、進むべき方向を指し示すだけでよい。

 彼が文系を苦手とするのは、物事の本質を知ろうとするこだわりのせいである。

 それに気づいたシルヴィアは、自分がいる間に持てる技術を教えようと決心していた。


 各三時間の勉強時間には、途中に十五分程度の休憩を入れる決まりとなっていた。

 時間になると、メイドがお茶とお菓子を運んでくるので、夢中になっている二人もそれと気づくことができる。


 情報収集をしているシルヴィアにとって、この休憩は絶好の機会であった。

 セドリックが毎月受けている儀式について、シルヴィアは何も知らないというのが建前だ。

 彼女は何気ない会話から、必要な情報を引き出すべく苦心していた。


 この日も、二人は運ばれたお菓子を頬張りながら会話に興じていた。

 話題はどうしても、前任のイレーネ女史に向かいがちであった。


「イレーネさんって、どんな人だったの?」

「凛々《りり》しい方でした」


 セドリックは即答したが、それが説明不足であることに気づいたらしく、少し考え込んでから言い直した。

「シルヴィア先生みたいに背は高くなかったですけど、とても姿勢がいいんです。

 いつも背筋をぴんと伸ばして、顔を上げているものですから、見えない敵に立ち向かっている感じがしましたね。

 もしシルヴィア先生をご覧になったら、ズボンを羨ましがったと思いますよ」


 シルヴィアの頭に痩せて骨ばった、きつい顔つきの女性のイメージが湧き上がった。

 セドリックはそれを察したのか、慌てて弁明した。


「でも見た目は女らしい、きれいな人でしたよ。それに、とても優しかったです。

 僕を褒める時には、頭を撫でたり、ぎゅっと抱きしめてくれました。

 もし、お母様が生きていらしたら、こんな感じなのかなぁって、いつも思っていました」


 シルヴィアが想像図の作り直しにやっきになっている間に、少年はさらに言葉を続けた。

「父上も、イレーネ先生のことを好きだったんだと思います。

 もしかしたら、本当のお母様になってくれたかもしれないって思うと、帰ってしまわれたのがとても残念です」


 シルヴィアは手にしていた紅茶のカップを、かちゃりと音を立ててテーブルに戻した。

 恋の話とは聞き捨てならない。例え証言者が七歳の子どもであってもだ。


 辺境伯は六十代というのが信じられないほど、引き締まったよい身体をしていたし、顔立ちも渋く整っていた。

 イレーネ女史は三十代半ばと聞いていたから、一人っ子のセドリックを兄にしてやることも可能だろう。


 夫と子どもを失った寡婦と、妻が遺した子どもを育てる男やもめの二人が、同じ屋根の下で暮らしているのだ。

 恋が芽生えても不思議ではない。いや、そうあるべきだ!

 シルヴィアの好奇心は、いやが上にも盛り上がった。


 彼女は努めて冷静を装いながら訊ねた。

「どうしてそう思ったの?」


「父上は先生をよく散歩に誘っていましたし、二人とも食事の時には、楽しそうに話していましたから。

 それで、一年ちょっと前、僕が六歳を迎えたお正月のことなんですけど」

「ふんふん」


「いつも新年には、白城市で大舞踏会があって、国中の主だった貴族が集まるんです。

 父上は必ず招待されますから、毎年一人で出席されます」


 その舞踏会なら、シルヴィアもよく知っていた。

 彼女の実家でも、伯爵としての体面を保つために出席していたのだ。


「でも去年に限って、父上はイレーネ先生に一緒に行かないか? って誘ったんですよ」

『よおっし!』

 シルヴィアは声を出すのをこらえて、ぐっと拳を握りしめる。


「夕食後のお茶を飲みながらだったんですけど、先生もまんざらでもなかったと思うんです。

 かなり迷いながら『でも、私はそのような場に出るような、ドレスを持っておりません』と言いました。

 これって、ちゃんとしたドレスがあったら、『行ってもいい』ってことですよね?」

「あたしもそう思うわ! それで、伯爵は何とおっしゃったの?」


「父上は『それなら心配ない。家には妻の着ていたドレスがそのまま残っている。

 少し直せば、君でも十分着られるはずだ』と言ってしまったんです。

 先生の表情が一瞬で固くなったのを、僕は今でも覚えています。

 駄目です、父上は女心というものを全然分かっていません!

 お母様のことを持ち出すのも最悪ですけど、服のサイズに触れたのがとどめでした」


 シルヴィアはがっくりと肩を落とした。

 これでは彼女の大好物であるロマンスを、泥水の中に突き落としたも同然である。


「父上もすぐに失敗に気づいたようでしたが、もう時すでに遅しです。

 いったん機嫌を損ねた先生は、もの凄く頑固ですからね。

 父上は、もう舞踏会の話を蒸し返しませんでした。あの状況において、最善の判断でしたね。

 さらに賢明なことに、父上は僕をダシに使いました。

 『今年はセドリックを連れていくつもりだ』――自分は貴族同士の付き合いで忙しいから、僕をいろいろな名所に連れて行ってほしいと懇願したんです。

 何しろ白城市は、イレーネ先生が生まれ育った街ですからね」


「先生はなかなか『うん』と言いませんでしたが、父上は僕の社会勉強のためだと強調しました。

 シルヴィア先生もご存じでしょうけど、新年にはペタンという大きな劇場で、王都の有名劇団が特別公演をするのが恒例なんです。

 座つきの演出家が有名な召喚士で、毎年観客の度肝を抜く仕掛けを披露するとあって、なかなか席が取れないんですって。

 その招待券を、なんと女王陛下からいただいたのだそうです。

 自分は行けないが、息子にはどうしても観せてやりたい。これはよい情操教育になると思う――そう訴えたんです。

 イレーネ先生は、僕の教育が絡むと弱いことを、父上は知っていたのですね。

 それで、先生はとうとう陥落しました。三人で五日間の旅行をすることになったんです。

 なかなかの策士だと思いませんか?」


 シルヴィアの萎びた好奇心は、再び頭をもたげた。

 それと同時に、セドリックの話には何か引っかかるものがあった。


 彼女は六歳で魔導院に入れられて以来、ずっと寮生活で、外にはめったに出られなかった。

 卒業してすぐに軍に入り、これまで忙しくしていたから、観劇とは無縁の人生だった。

 だが不思議なことに、セドリックの言う王都の有名劇団は、どこかで聞いたことがあった。


 だが、それを思い出す前に、休憩時間は終わってしまった。

 メイドが片付けのために部屋に入ってくるのが、その合図だった。

 勉強が再開されると、もう考え事をしている暇はない。セドリックはそれほど油断できない生徒だったのだ。


      *       *


 結局、シルヴィアの記憶が掘り起こされたのは、ベッドに潜り込んでしばらく経ってからだった。

 真っ暗な部屋で、突然がばっと跳ね起きた彼女に、眠っていたカー君が驚いて頭を上げた。


『おしっこ?』

 シルヴィアはカー君を無視した。それどころではなく、思考がもの凄い勢いで回転し始めたのだ。

 ばらばらだったパズルのピースが次々とまっていき、ひとつの絵が浮かび上がってきたのだ。


「ユニ先輩よ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ