十 個人授業
「勉強の進み具合は分かったわ。
でも、イレーネ先生が辞めて、三か月近く経つのよね。
その間はどうしていたの?」
「教科書の先を予習していました。
ただ、教科書に載っている問題には、答えが付いていないんです。
だから数学を除くと、合っているかどうかが分からなくて、あんまり前に進まないの。
それで、先生が作ってくださった問題集をやっていました。これは一番最後に答えの頁があって、答え合わせが楽しかったです」
「どうして数学だけは別なの?」
「数学の場合は、解き方を知っているかどうか、その時点で結果が出るんですよ。
解き方が分かる問題は絶対に間違えませんから、答え合わせが必要ありません。
そうじゃない問題は、僕の知らない公式があるせいです。
新しい公式は教科書を見れば載っていますから、それを暗記すれば大抵は解決しますね」
「それで壁に公式を貼っているの?」
「はい」
「でも、あんなにたくさん覚えるのは、その……面倒くさくない?」
セドリックはきょとんした顔を見せた。
「どうしてですか? 楽しいですよ。
公式を発見した人は、とても凄いと思います。僕も大人になったら、そうなりたいんですよ。
イレーネ先生がおっしゃってましたけど、数学の世界には〝未解決の命題〟がたくさんあるそうなんです。
僕はそれに挑んでみたいし、解決して学会に発表できたらと思うと、背筋がぞくぞくします」
恐らくセドリックは、本当にそんな大数学者になるんだろう……シルヴィアはそう思わざるを得なかった。
「あたしは数学の公式を見るだけで、おぞましさでぞくぞくするけどね」
「シルヴィア先生は、ひょっとして数学が嫌いなんですか?」
少年の目には、驚きと憐憫の色が浮かんでいた。
「嫌いじゃないけど、好みでもないわ。
あたしの場合、どっちかっていうと文系が得意なのよ。国語とか歴史とかね。
イレーネ先生は、理数系が得意だったんじゃない?」
「そうです。だから、僕たちは最初から馬が合ってたんですよ」
「セドリックはいろんな言葉を知ってるのね。
えーと……じゃあ、数学に関しては、あたしが教える必要はないのかしら?」
「そんなことはありません!」
セドリックはぶんぶんと首を振った。
「たまになんですけど、公式を使っても上手く解けない問題があるんです。
いくら考えても分からなくて、そういうのは保留して飛ばしていました。
だから新しい先生が来たら、真っ先にそこを教えてもらおうって思ってたんだ!」
一生懸命すぎて、セドリックの言葉遣いに素が出たのを、シルヴィアは微笑ましく思った。
「分かったわ。せっかくの初日だもの。今日はその宿題をやっつけましょう」
少年はにこにこして、二年生用の教科書も棚から出してきた。
そして、ぱっと問題が載っている頁を開き、「最初はこれです」と言って、シルヴィアの方へ向けた。
きっと、何度も繰り返しその頁を開いたせいで、本に癖がついてしまったに違いない。
どれどれと覗き込んだシルヴィアは、内心で『ははぁ~ん』と思った。
それは、ある方程式を利用して解く問題だが、代数に数を当てはめる前に、別の式を使って値を変換する必要があるのだ。
シルヴィアも学生時代に似たような問題に出くわし、教師に解法のコツを教えてもらった記憶がある。
魔導院が使っていた教科書にも、そんなことは説明されていなかったので、彼女は憤慨して教師に詰め寄ったものだ。
『教科書がそこまで親切だったら、わしら数学教師が失業してしまうだろう?』
六十代半ばの老教師は、そう言って笑っていた。
シルヴィアは鉛筆を手にして、セドリックのノートに短い公式を書き込んだ。
「この公式は知ってる?」
「もちろんです。高等小学校(中学)で教わりますね」
少年は『馬鹿にするな』という口調で答えた。
シルヴィアは『君は本当なら、小学二年生なのよ』と、内心で突っ込まずにいられない。
「この公式に、問題のこれとこれを当てはめて、数値を変えるのよ。
そうすればきれいに割り切れて、答えが導き出されるでしょ?
まぁ、ちょっとした発想の転換よね」
「あっ、ずるい!
こっちの公式は近似値を使ってます。ごまかしですよ!!」
「しょうがないわよ。そうしなきゃ、いつまで経っても答えが出てこないんだから」
「そんな変換式を使っていいなんて、教科書のどこにも書いてないです!
卑怯です、不親切です、男らしくないです!!」
「だって、変換式は〝すでに習っている〟っていう前提だもの。
教科書がそんなことまで注意してくれるなら、教師はいらないでしょ?
セドリックは、あたしを失業させる気?」
シルヴィアは、人差し指で少年の額をつんと突きながら、心の中で老教師に感謝を贈っていた。
セドリックが解けなかった問題は、どれも似たような〝引っかけ〟問題で、シルヴィアは笑って解説ができた。
種明かしをされた少年は、顔を真っ赤にして怒ることもあったが、それ以外は素直に感心した。
そして猛烈な勢いで、シルヴィアの言葉をノートに書き取るのだった。
* *
午前の三時間はあっという間に過ぎた。
子ども部屋の扉をノックして顔を覗かせたメイドが、「昼食の用意ができています」と伝えてくれた。
セドリックは名残惜しそうにノートを閉じた。
彼の頬はバラ色に紅潮し、いかにも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「やっぱり、先生に教わるっていいですね! 一人よりもずっといいですね!!」
くったくのない笑顔は、彼が七歳の少年だということを思い出させてくれる。
『ああ、この子は本当に勉強が好きなんだ……』
セドリックの教育に熱中したというイレーネの気持ちが、シルヴィアにも少し理解できた。
昼食の席で、辺境伯が息子に「どうだった?」と訊ねると、セドリックは「楽しかった!」と即答した。
伯爵はその答え方だけで、すべてを察したようだった。
昼食が終わると、少しの休憩を挟んで、すぐに午後の部が始まった。
午前は丸ごと数学に費やしたので、今度はそれ以外の教科だ。
そこでも、セドリックは山ほどの質問を用意していた。
例えば、歴史の教科書に「○○年、××において、王国はサラーム教国の侵攻を受け、三か月後にこれを撃退した」と記述していたとしよう。
普通の生徒なら、これを暗記するだけである。起こった事実に、年と場所を紐づければいいのだ。
もちろん教科書には、紛争の原因や関係した人物などが、簡単に説明されていた。
ところが、セドリックの質問はその背景に及んだ。
「どうしてこの戦争を事前に防げなかったのでしょう? 原因となった問題は、前から分かっていたわけですよね?
同盟を結ぶルカ大公国が、参戦しなかったのはなぜですか?
敵が退くまで三か月も要したのは、わが国の防衛体制に問題があったのではないでしょうか?」
歴史上の事件は、当時の外交関係、軍事上の問題、国の財政と密接に連動している。
だからそれを知らなくては、真の理解とは言えない。この少年は、それを直感的に知っていたのだ。
セドリックが苦手とする国語、特に文学の読解となると、シルヴィアの得意分野であるから、教え方に熱が入った。
どうやら前任のイレーネ女史は、この分野だけは苦手だったらしく、教科書的な解説でお茶を濁していたらしい。
セドリックの「どうしたら読解力が上がるのでしょう?」という質問に、女史は「本をたくさん読みなさい」と答えたという。
もともと本好きな彼は、そのアドバイスを実行したかったが、何しろ忙しくて時間がない。
一日六時間の勉強のほかに、朝夕には剣術を中心とした稽古があり、これは伯爵が直接教えていた。
週に二回は礼儀作法を学ぶ時間もあった。
そして、何といってもセドリックはまだ七歳なので、大人のような夜更かしが許されなかった。
これでは、まとまった読書時間を確保するのは難しい。
イレーネ女史の教育に熱が入ったこの二、三年は、村の子どもたちとも遊べなくなったらしい。
セドリックは一度だけ、父親に消灯時間の延長を願い出たが、あっさりと却下された。
それ以来、彼はひと言も不満を口にしなかったそうだ。
* *
家庭教師も三日目となると、シルヴィアの方もようやく勝手が分かってきた。
理数系の分野は、セドリックが迷って立ち止まった時に、進むべき方向を指し示すだけでよい。
彼が文系を苦手とするのは、物事の本質を知ろうとするこだわりのせいである。
それに気づいたシルヴィアは、自分がいる間に持てる技術を教えようと決心していた。
各三時間の勉強時間には、途中に十五分程度の休憩を入れる決まりとなっていた。
時間になると、メイドがお茶とお菓子を運んでくるので、夢中になっている二人もそれと気づくことができる。
情報収集をしているシルヴィアにとって、この休憩は絶好の機会であった。
セドリックが毎月受けている儀式について、シルヴィアは何も知らないというのが建前だ。
彼女は何気ない会話から、必要な情報を引き出すべく苦心していた。
この日も、二人は運ばれたお菓子を頬張りながら会話に興じていた。
話題はどうしても、前任のイレーネ女史に向かいがちであった。
「イレーネさんって、どんな人だったの?」
「凛々《りり》しい方でした」
セドリックは即答したが、それが説明不足であることに気づいたらしく、少し考え込んでから言い直した。
「シルヴィア先生みたいに背は高くなかったですけど、とても姿勢がいいんです。
いつも背筋をぴんと伸ばして、顔を上げているものですから、見えない敵に立ち向かっている感じがしましたね。
もしシルヴィア先生をご覧になったら、ズボンを羨ましがったと思いますよ」
シルヴィアの頭に痩せて骨ばった、きつい顔つきの女性のイメージが湧き上がった。
セドリックはそれを察したのか、慌てて弁明した。
「でも見た目は女らしい、きれいな人でしたよ。それに、とても優しかったです。
僕を褒める時には、頭を撫でたり、ぎゅっと抱きしめてくれました。
もし、お母様が生きていらしたら、こんな感じなのかなぁって、いつも思っていました」
シルヴィアが想像図の作り直しにやっきになっている間に、少年はさらに言葉を続けた。
「父上も、イレーネ先生のことを好きだったんだと思います。
もしかしたら、本当のお母様になってくれたかもしれないって思うと、帰ってしまわれたのがとても残念です」
シルヴィアは手にしていた紅茶のカップを、かちゃりと音を立ててテーブルに戻した。
恋の話とは聞き捨てならない。例え証言者が七歳の子どもであってもだ。
辺境伯は六十代というのが信じられないほど、引き締まったよい身体をしていたし、顔立ちも渋く整っていた。
イレーネ女史は三十代半ばと聞いていたから、一人っ子のセドリックを兄にしてやることも可能だろう。
夫と子どもを失った寡婦と、妻が遺した子どもを育てる男やもめの二人が、同じ屋根の下で暮らしているのだ。
恋が芽生えても不思議ではない。いや、そうあるべきだ!
シルヴィアの好奇心は、いやが上にも盛り上がった。
彼女は努めて冷静を装いながら訊ねた。
「どうしてそう思ったの?」
「父上は先生をよく散歩に誘っていましたし、二人とも食事の時には、楽しそうに話していましたから。
それで、一年ちょっと前、僕が六歳を迎えたお正月のことなんですけど」
「ふんふん」
「いつも新年には、白城市で大舞踏会があって、国中の主だった貴族が集まるんです。
父上は必ず招待されますから、毎年一人で出席されます」
その舞踏会なら、シルヴィアもよく知っていた。
彼女の実家でも、伯爵としての体面を保つために出席していたのだ。
「でも去年に限って、父上はイレーネ先生に一緒に行かないか? って誘ったんですよ」
『よおっし!』
シルヴィアは声を出すのを堪えて、ぐっと拳を握りしめる。
「夕食後のお茶を飲みながらだったんですけど、先生もまんざらでもなかったと思うんです。
かなり迷いながら『でも、私はそのような場に出るような、ドレスを持っておりません』と言いました。
これって、ちゃんとしたドレスがあったら、『行ってもいい』ってことですよね?」
「あたしもそう思うわ! それで、伯爵は何とおっしゃったの?」
「父上は『それなら心配ない。家には妻の着ていたドレスがそのまま残っている。
少し直せば、君でも十分着られるはずだ』と言ってしまったんです。
先生の表情が一瞬で固くなったのを、僕は今でも覚えています。
駄目です、父上は女心というものを全然分かっていません!
お母様のことを持ち出すのも最悪ですけど、服のサイズに触れたのがとどめでした」
シルヴィアはがっくりと肩を落とした。
これでは彼女の大好物であるロマンスを、泥水の中に突き落としたも同然である。
「父上もすぐに失敗に気づいたようでしたが、もう時すでに遅しです。
いったん機嫌を損ねた先生は、もの凄く頑固ですからね。
父上は、もう舞踏会の話を蒸し返しませんでした。あの状況において、最善の判断でしたね。
さらに賢明なことに、父上は僕をダシに使いました。
『今年はセドリックを連れていくつもりだ』――自分は貴族同士の付き合いで忙しいから、僕をいろいろな名所に連れて行ってほしいと懇願したんです。
何しろ白城市は、イレーネ先生が生まれ育った街ですからね」
「先生はなかなか『うん』と言いませんでしたが、父上は僕の社会勉強のためだと強調しました。
シルヴィア先生もご存じでしょうけど、新年にはペタンという大きな劇場で、王都の有名劇団が特別公演をするのが恒例なんです。
座つきの演出家が有名な召喚士で、毎年観客の度肝を抜く仕掛けを披露するとあって、なかなか席が取れないんですって。
その招待券を、なんと女王陛下からいただいたのだそうです。
自分は行けないが、息子にはどうしても観せてやりたい。これはよい情操教育になると思う――そう訴えたんです。
イレーネ先生は、僕の教育が絡むと弱いことを、父上は知っていたのですね。
それで、先生はとうとう陥落しました。三人で五日間の旅行をすることになったんです。
なかなかの策士だと思いませんか?」
シルヴィアの萎びた好奇心は、再び頭をもたげた。
それと同時に、セドリックの話には何か引っかかるものがあった。
彼女は六歳で魔導院に入れられて以来、ずっと寮生活で、外にはめったに出られなかった。
卒業してすぐに軍に入り、これまで忙しくしていたから、観劇とは無縁の人生だった。
だが不思議なことに、セドリックの言う王都の有名劇団は、どこかで聞いたことがあった。
だが、それを思い出す前に、休憩時間は終わってしまった。
メイドが片付けのために部屋に入ってくるのが、その合図だった。
勉強が再開されると、もう考え事をしている暇はない。セドリックはそれほど油断できない生徒だったのだ。
* *
結局、シルヴィアの記憶が掘り起こされたのは、ベッドに潜り込んでしばらく経ってからだった。
真っ暗な部屋で、突然がばっと跳ね起きた彼女に、眠っていたカー君が驚いて頭を上げた。
『おしっこ?』
シルヴィアはカー君を無視した。それどころではなく、思考がもの凄い勢いで回転し始めたのだ。
ばらばらだったパズルのピースが次々と嵌まっていき、ひとつの絵が浮かび上がってきたのだ。
「ユニ先輩よ!」