九 魔素
翌朝、シルヴィアは夜明けとともに起床した。
――と言いたいところだが、彼女は低血圧で朝がめっぽう弱い。
そのため、前日のうちに伯爵家のメイドに頼んで起こしてもらったのだ。
メイドたちは屋敷に住み込みで、夜明け前に起きるのが日常だったから、二つ返事で引き受けてくれた。
彼女たちにしてみれば、貴族のお嬢様を叩き起こすことを許されたのであるから、少し意地悪な悦びを感じたのだろう。
母親のような年齢のメイドに、情け容赦なく毛布を剥ぎ取られ、お尻を思い切り平手で叩かれた結果、ようやくシルヴィアは起床した。
本来ならこうした役目は、常に一緒にいるカー君が務めるべきだが、彼にはシルヴィアを叩き起こす適当な手段を持たない。
小気味いい音を立て、シルヴィアの尻をひっぱたくメイドを眺めながら、カー君は人間の手が羨ましいと切実に思った(もちろん、シルヴィアには内緒だ)。
冷たい水で顔を洗い、ようやく脳が働き出したシルヴィアは、いつもの軍服を着こみ、カー君を連れて庭に出た。
使用人の男性が、飛行用の装具と服を倉庫から出し、カー君への装着を手伝ってくれた。
シルヴィアが着用する飛行服は、寂寥山脈に住むドワーフたちが作ってくれたものだ。
油で鞣した分厚い皮革製で、防寒・防風・防水性に優れている。
下半身には〝チャップス〟という同じ革製のズボンカバーを着ける。
後は飛行帽を被り、顔を大きなスカーフで覆い、防塵眼鏡を着ければ完成だ。
革ジャケットには、前後四か所に金属の太い輪が付いている。
カー君の身体に固定された椅子にはベルトがついていて、その先端のカラビナ(固定具)をこれに引っかけ、落下を防いでいるのだ。
難点は非常に重いことで、衣服だけで重量は五キロを超していた。
装具やシルヴィアの体重を含めると、カー君の負担は百キロ近くになり、彼がしばしば不平を洩らす原因となっている。
ただし、カー君はそれを『シルヴィアがまた太ったせいだ』と主張するので(もちろん故意)、シルヴィアと喧嘩になるのが〝お約束〟となっていた。
すべての用意を整えると、カー君は黒い翼を広げた。
鳥のそれよりも蝙蝠の皮膜に近く、身体に比べるとそれほど大きくない。
傍らで見物していた使用人は、あれで本当に空を飛べるのかと訝しんだほどだ。
だが、カー君が二、三度羽ばたくと、シルヴィアを乗せた身体はふわりと浮き上がり、ぐんぐん上昇を始めた。
呆気に取られて見上げる使用人を残し、十分な高度を稼いだカー君は森を目指した。
この日の屋敷に霧は流入しなかったが、谷は霧を吐き出し、森を包んでいた。
ちなみにこの谷は、地図上では〝ワイト渓谷〟となっている。
だが昨夜、辺境伯はずっと〝霧谷〟と呼んでいたから、それが現地名なのだろう。
したがって、シルヴィアも屋敷に滞在中、その名で呼ぶことにした。
カー君は森の外周を大きな円を描いて飛び、だんだんとその輪を縮めながら、高度を下げていった。
当然、谷の上空を横切ることになるのだが、最初の横断でカー君は『うわぉ!』と驚いた叫び声を上げ、ぐんと高度を上げた。
急激な上昇で、シルヴィアの上体が圧し潰され、空っぽの胃袋から酸っぱい液が上がった。
「ちょっと、どうしたのよ? あたし、飛び上がれなんて命令してないわよ!
谷から危険を感じたの?」
怒鳴るシルヴィアに、カー君は慌てて否定した。
『違う違う! わざとじゃないんだよ。
変だなぁ……もう一回やってみるね』
カー君はぐるりと半周し、再び谷の上空に差しかかった。
すると、カー君は『おわっ!』と叫んで、いきなり上昇した。
地上からの高度は五十メートルほどだったが、一気に二十メートルほど飛び上がったのだ。
シルヴィアは重力加速度で上体を潰され、〝ぐえっ!〟とカエルのような呻き声を上げた。
「ちょっと勘弁してよ! 何なのこれ?」
『うんうん、分かったよ。この谷、〝魔素〟が凄く濃いんだ』
「魔素って……どっかで聞いたことがあるわね。
思い出した! 龍が飛ぶのに必要な何かだ。あんたもその影響を受けるの?」
『そうみたい。僕が飛ぶ時には、地上の精気(生物の生命力)を利用するよね?』
カー君は谷を避けるように森の外周に戻った。
『龍たちがいう魔素っていうのは、それに魔力を足したようなものなんだ』
「へえ……この谷で魔導士が集会をしているのかしら?」
『茶化さないでよ。
君たちが〝幻獣界〟って呼ぶ僕や龍たちの故郷は、魔力に満ちているんだよ。
生き物とは関係なく、あらゆる地形が当たり前に魔力を放出してるんだ。
そうじゃなきゃ、龍みたいな魔法生物は生まれないでしょ?』
「でも、前にエイナを乗せたことがあるけど、あんた変にならなかったじゃない?
ケイトさんが言ってたけど、エイナって馬鹿みたいに大量の魔力を持っているはずよ」
『えーとね、人間の魔導士は、魔力を体内に溜め込んでいるんだよ。
魔法を使う時だけ大量の魔力を放出して、普段はほとんど外に洩らさないの。
だけど驚いたなぁ! 人間の世界にも魔素を出す自然があって、それが僕にも影響するなんて……』
「理屈は分かったけど、なんで急上昇したの?」
『僕が飛ぶための燃料が、瞬間的に供給過剰になる――って言えば分かるかな?
谷の上空だと、シルヴィアの体重が気にならないくらいに身体が軽くなるんだよ』
「なぜ、あたしの体重を引き合いに出すの? 殴るわよ!」
『そういうのは殴る前に言ってよ、痛いなぁ。
とにかく横切るんじゃなく、谷に沿う方向で降りてみようよ。それなら、急な上昇は防げるはずだよ』
「潰されないなら何でもいいわよ」
カー君は川に沿う方向で進入し、谷の始まりからゆっくりと高度を下げていった。
* *
着陸してみると、上から見たほど霧は深くなく、五メートル程度の視界が利いた。
固定ベルトを外して地面に降りたシルヴィアは、物珍しそうに周囲を見渡した。
谷底を流れる川はそう大きくなく、流れも穏やかだった。
深く切り立った斜面は剥き出しの岩で、植物はほとんど生えていない。
一方のカー君も、彼女と同じようにきょろきょろしていた。
『うわぁ~! 故郷の空気みたいだ。凄い魔素だね、シルヴィア?』
「そう? あたしには何も感じられないけど」
『えええ~っ! うそぉ!!
人間って、そこまで鈍感なんだ』
「うっさいわね! あたしは魔導士じゃないんだから、魔力なんて分かんないわよ」
『ねえねえ、そんなことよりこの谷、妖精がうじゃうじゃいるよ!』
「本当? あたしには全然見えないけど?」
『うん、妖精は姿を隠すのが上手いからね。見えなくて当然だよ』
「妖精の霊格はどのくらい?」
『高くないよ。どこにでもいる、ごくありふれた種族だね。
この魔素の濃さといい、この谷はどこかで幻獣界とつながっているんじゃないかな?
きっとたまたま迷い出た妖精が、ここで自然繁殖したんだと思うよ。
小さな妖精は霧と水と森が大好きだから、ここは快適な環境なんだ。
夜の間は谷で魔素を吸収して、昼間は森で遊びながら子孫を増やすんだね』
「妖精が森であれをしてるの?」
『妖精は交尾をしないんだよ、シルヴィアのすけべ!
彼らが踊った葉っぱや草の上に朝露ができると、その中から生まれてくるんだよ。
魔導院じゃ、そんなことも教えないの?』
「誰がすけべよ! 幻獣の繁殖方法まで教えるわけないでしょ。
それより、この谷の妖精が屋敷を覗いたり、物を盗んだっていう可能性はある?」
『ないね。
ここの妖精たちは知能が低いから、人間が何か命令しても理解できないんだよ。
それに彼らは森から出たがらないし、身体も凄く小さいから、金属の腕輪なんて重くて運べないね』
「そうかぁ……」
『この谷が別の世界とつがっているとしたら、王国の人間の祖先が出てきたって話、案外本当なのかもね』
「あたしたちが幻獣人の子孫? そんなわけないないでしょう」
『そうかな? だって、王国以外に召喚士っていないんでしょう?
君たちは召喚術も魔法の一種だって言うけど、結局は個人の特性に頼っているじゃない。
それが王国人にしか表れないのって、変だと思わない?
遥かな昔、異世界から転移した記憶が、王国人の魂に記憶されていて、それが先祖返りみたいに出現したのが召喚士――。
そう考えたら、つじつまが合うと僕は思うね』
「凄いわカー君。今日のあんた、賢く見えるかも!」
『あ、馬鹿にしてるな?
僕が黄色い魔石を食べて、知能が上がってたこと、忘れたんじゃないでしょうね?』
「ああ、そんなこともあったわね。
それよりも、セドリック君が試練を受けたっていう、岩に行ってみましょう」
シルヴィアとカー君は川沿いの荒れた一本道を、奥に向かって歩いていった。
カー君が着陸したのは谷の中央付近で、二重岩はそう遠くないはずだ。
二十分ほど歩くと、その場所は簡単に見つかった。
平べったい葉っぱのような形をした巨大な岩が、二枚重なっていて確かに目立つ。
岩の長辺は三メートル近くあるが、高さは二メートルほどで、子どもでもよじ登れそうだった。
岩のすぐ側の斜面には、セドリックの話に出てきた洞窟があった。
覗いてみると、奥の方は土砂で埋まっていると分かる。
「あんたの言う異世界への通路って、ここ?」
『う~ん、そんな気配は感じないな。魔素が特別濃いわけでもないしね』
「洞窟が埋まっちゃったから、断絶したってこと?」
『あのねぇ、通路っていうのは例え話なの。物理的な道は必要ないんだよ』
「あら、だってオークやゴブリンを吐き出しているサクヤ山には、実際に底なしの穴があるって話よ。
ユニ先輩も見たことがあるんだって」
『うるさいなぁ、場合によるんだよ。
とにかく、今は通路が閉じているの。
もしつながっていたら、魔素が大量に流れ込んでくるはずだもの。
でも、この谷に満ちている魔素からして、閉じっ放しじゃなく、時々は開いてるんじゃないかな?
きっと、すごく不安定なんだよ』
「妖精以外の幻獣の存在は感じる?」
『いいや。でも、霊格の高い妖精や精霊だったら、もっと高度な隠形が使えるから、断言はできないね』
シルヴィアはカー君と会話を交わしながら、二重岩の隙間を覗き込み、手を伸ばして探ってみた。
当り前だが、宝物は隠されていなかった。
彼女は〝ぱんぱん〟と手の埃を払って振り向く。
「よし、ひとまず名所観光は終了ね。屋敷に戻りましょう。
この時間なら朝食に余裕で間に合うわ。あたし、お腹ぺこぺこだわ」
『頼むから、それ以上太らないでね。飛ぶのも疲れる――』
カー君の言葉が終わらぬうちに、シルヴィアの鉄拳が彼の鼻面に飛んだ。
「ぶつわよ!」
『そういうのは、殴る前に言ってよぉ!』
* *
シルヴィアは無事に朝食(七時)に間に合った。
重い飛行服は脱いだが、軍服姿で食堂の席についた彼女を、セドリックはきらきらした目で見詰めている。
王国では、軍人かよほどの変わり者でない限り、女性のズボン姿など拝めないからだ。
シルヴィアは少年の崇拝を込めた視線に気づかない振りをして、つつましやかに食事を終えた。
本当は肉入りのスープをお代わりしたかったが、カー君の許しがたい暴言に、乙女心はいたく傷ついたのだ。
* *
八時半、シルヴィアはセドリックの子ども部屋をノックした。
今から彼女は、少年の家庭教師である。
セドリックの部屋は、きれいに整頓されていた。
おもちゃ類は見当たらず、二つの大きな棚に、ぎっしりと本が詰まっている。
シルヴィアの実家には十五歳の弟がいるが、彼の乱雑な部屋を思い出すと溜息が出る。セドリックはまだ七歳なのだ。
部屋の中央には四角いテーブルが据えられ、椅子が対面で用意されていた。
窓側のセドリックの方には六冊の本が積まれ、傍らにノートが広げられていた。
シルヴィアを招き入れたセドリックは、片膝をついて手を差し出した。
彼女の手を戴いて、手の甲にキスをする(振り)つもりらしい。初対面の時にも見せた、令嬢に対する礼儀である。
シルヴィアは彼の手を握ると、そのまま引っ張ってセドリックを立ち上がらせた。
そして、ぶんぶんと手を振って、にっこりと笑いかけた。
「それは一度でいいわ。前の先生にはどうしていたの?」
「えっと、言葉であいさつするだけでした。
先生はすてきな女ですけど、女性として扱われるのを嫌がっていました」
「あたしもそうよ。
それと、これからはあなたをセドリックと呼ぶわ。
セドリックもあたしを、ええと年上だから、〝シルヴィアさん〟と呼んでちょうだい」
「僕はいいですけど、〝シルヴィア先生〟では駄目ですか?」
「う~ん、まぁいいか。聞いてると思うけど、あたしは次の先生が見つかるまでの〝臨時〟なの。
だから、短い間かもしれないけど、上手くやっていきましょう」
「はい、僕たち〝上手くやれる〟と思います!」
セドリックは明るい笑顔で答えた。
『何ていい子なの!』
シルヴィアは内心で涙ぐむほど感動していたが、顔には出さないよう努めた。
冷静で美しい(重要)女教師に、ちょっとした憧れがあったのだ。
二人は向かい合って席に着いた。
「まず、最初にセドリックの勉強が、どこまで進んでいるか知りたいわ」
するとセドリックは、ノートの脇に積んである本の束を押し出した。
「これはイレーネ先生がお辞めになった時、僕のために残してくださった教科書です。
栞を挟んでいるところまでは、イレーネ先生から教わりました」
シルヴィアは本を手に取り、奥付と栞を挟んだ頁を確認した。
多くは高等学校の一年で使用する教科書で、国語だけが高等小学校の三年向け、逆に数学は高校三年向けだった。
見事にセドリックの得手不得手が分かる。
「数学の教科書だけ、栞がないのはなぜ?」
セドリックは頬を赤らめて口ごもった。
「えっと、ごめんなさい。
イレーネ先生に教わったのは、二年生用の途中まででした。
その後は一人でも進めたので……つい」
シルヴィアは呻き声をこらえて天井を仰いだ。
そういえば、エイナもこんな感じだった。
魔導院で首席を譲らなかったシルヴィアだが、こと数学に関してはエイナの独壇場だったのだ。
もちろん、召喚士科では数学でも彼女が一位だった。
魔導科の生徒たちは例外なく数学が得意で、特に暗算力が飛び抜けていた。
だから両科を合わせてしまうと、シルヴィアは十位以内に入るのがやっとだったのだ(全教科を総合すれば、やはりシルヴィアが首席だったが)。
ふと部屋の壁を見ると、何枚かの紙がピンで留めてあった。
そこには高度な数学の公式が、びっしりと書き込まれていた。
シルヴィアは平静を装いながらも、心で嘆かずにはいられなかった。
『辺境伯、あなたのご子息は〝歳の割に賢い子〟なんかじゃありません。
本物の〝天才〟です』