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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
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九 魔素

 翌朝、シルヴィアは夜明けとともに起床した。

 ――と言いたいところだが、彼女は低血圧で朝がめっぽう弱い。

 そのため、前日のうちに伯爵家のメイドに頼んで起こしてもらったのだ。


 メイドたちは屋敷に住み込みで、夜明け前に起きるのが日常だったから、二つ返事で引き受けてくれた。

 彼女たちにしてみれば、貴族のお嬢様を叩き起こすことを許されたのであるから、少し意地悪なよろこびを感じたのだろう。


 母親のような年齢のメイドに、情け容赦なく毛布を剥ぎ取られ、お尻を思い切り平手で叩かれた結果、ようやくシルヴィアは起床した。

 本来ならこうした役目は、常に一緒にいるカー君が務めるべきだが、彼にはシルヴィアを叩き起こす適当な手段を持たない。

 小気味いい音を立て、シルヴィアの尻をひっぱたくメイドを眺めながら、カー君は人間の手が羨ましいと切実に思った(もちろん、シルヴィアには内緒だ)。


 冷たい水で顔を洗い、ようやく脳が働き出したシルヴィアは、いつもの軍服を着こみ、カー君を連れて庭に出た。

 使用人の男性が、飛行用の装具と服を倉庫から出し、カー君への装着を手伝ってくれた。


 シルヴィアが着用する飛行服は、寂寥山脈に住むドワーフたちが作ってくれたものだ。

 油でなめした分厚い皮革製で、防寒・防風・防水性に優れている。

 下半身には〝チャップス〟という同じ革製のズボンカバーを着ける。

 後は飛行帽を被り、顔を大きなスカーフで覆い、防塵眼鏡を着ければ完成だ。


 革ジャケットには、前後四か所に金属の太い輪が付いている。

 カー君の身体に固定された椅子にはベルトがついていて、その先端のカラビナ(固定具)をこれに引っかけ、落下を防いでいるのだ。


 難点は非常に重いことで、衣服だけで重量は五キロを超していた。

 装具やシルヴィアの体重を含めると、カー君の負担は百キロ近くになり、彼がしばしば不平を洩らす原因となっている。

 ただし、カー君はそれを『シルヴィアがまた(・・)太ったせいだ』と主張するので(もちろん故意)、シルヴィアと喧嘩になるのが〝お約束〟となっていた。


 すべての用意を整えると、カー君は黒い翼を広げた。

 鳥のそれよりも蝙蝠コウモリの皮膜に近く、身体に比べるとそれほど大きくない。

 傍らで見物していた使用人は、あれで本当に空を飛べるのかといぶかしんだほどだ。

 だが、カー君が二、三度羽ばたくと、シルヴィアを乗せた身体はふわりと浮き上がり、ぐんぐん上昇を始めた。


 呆気に取られて見上げる使用人を残し、十分な高度を稼いだカー君は森を目指した。

 この日の屋敷に霧は流入しなかったが、谷は霧を吐き出し、森を包んでいた。


 ちなみにこの谷は、地図上では〝ワイト渓谷〟となっている。

 だが昨夜、辺境伯はずっと〝霧谷〟と呼んでいたから、それが現地名なのだろう。

 したがって、シルヴィアも屋敷に滞在中、その名で呼ぶことにした。


 カー君は森の外周を大きな円を描いて飛び、だんだんとその輪を縮めながら、高度を下げていった。

 当然、谷の上空を横切ることになるのだが、最初の横断でカー君は『うわぉ!』と驚いた叫び声を上げ、ぐんと高度を上げた。

 急激な上昇で、シルヴィアの上体が圧し潰され、空っぽの胃袋から酸っぱい液が上がった。


「ちょっと、どうしたのよ? あたし、飛び上がれなんて命令してないわよ!

 谷から危険を感じたの?」

 怒鳴るシルヴィアに、カー君は慌てて否定した。

『違う違う! わざとじゃないんだよ。

 変だなぁ……もう一回やってみるね』


 カー君はぐるりと半周し、再び谷の上空に差しかかった。

 すると、カー君は『おわっ!』と叫んで、いきなり上昇した。

 地上からの高度は五十メートルほどだったが、一気に二十メートルほど飛び上がったのだ。

 シルヴィアは重力加速度で上体を潰され、〝ぐえっ!〟とカエルのような呻き声を上げた。


「ちょっと勘弁してよ! 何なのこれ?」

『うんうん、分かったよ。この谷、〝魔素〟が凄く濃いんだ』


「魔素って……どっかで聞いたことがあるわね。

 思い出した! 龍が飛ぶのに必要な何かだ。あんたもその影響を受けるの?」

『そうみたい。僕が飛ぶ時には、地上の精気(生物の生命力)を利用するよね?』

 カー君は谷を避けるように森の外周に戻った。


『龍たちがいう魔素っていうのは、それに魔力を足したようなものなんだ』

「へえ……この谷で魔導士が集会をしているのかしら?」


『茶化さないでよ。

 君たちが〝幻獣界〟って呼ぶ僕や龍たちの故郷は、魔力に満ちているんだよ。

 生き物とは関係なく、あらゆる地形が当たり前に魔力を放出してるんだ。

 そうじゃなきゃ、龍みたいな魔法生物は生まれないでしょ?』

「でも、前にエイナを乗せたことがあるけど、あんた変にならなかったじゃない?

 ケイトさんが言ってたけど、エイナって馬鹿みたいに大量の魔力を持っているはずよ」


『えーとね、人間の魔導士は、魔力を体内に溜め込んでいるんだよ。

 魔法を使う時だけ大量の魔力を放出して、普段はほとんど外に洩らさないの。

 だけど驚いたなぁ! 人間の世界にも魔素を出す自然があって、それが僕にも影響するなんて……』

「理屈は分かったけど、なんで急上昇したの?」


『僕が飛ぶための燃料が、瞬間的に供給過剰になる――って言えば分かるかな?

 谷の上空だと、シルヴィアの体重が気にならないくらいに身体が軽くなるんだよ』

「なぜ、あたしの体重を引き合いに出すの? 殴るわよ!」


『そういうのは殴る前に言ってよ、痛いなぁ。

 とにかく横切るんじゃなく、谷に沿う方向で降りてみようよ。それなら、急な上昇は防げるはずだよ』

「潰されないなら何でもいいわよ」


 カー君は川に沿う方向で進入し、谷の始まりからゆっくりと高度を下げていった。


      *       *


 着陸してみると、上から見たほど霧は深くなく、五メートル程度の視界が利いた。

 固定ベルトを外して地面に降りたシルヴィアは、物珍しそうに周囲を見渡した。

 谷底を流れる川はそう大きくなく、流れも穏やかだった。

 深く切り立った斜面は剥き出しの岩で、植物はほとんど生えていない。


 一方のカー君も、彼女と同じようにきょろきょろしていた。

『うわぁ~! 故郷の空気みたいだ。凄い魔素だね、シルヴィア?』

「そう? あたしには何も感じられないけど」


『えええ~っ! うそぉ!!

 人間って、そこまで鈍感なんだ』

「うっさいわね! あたしは魔導士じゃないんだから、魔力なんて分かんないわよ」


『ねえねえ、そんなことよりこの谷、妖精がうじゃうじゃいるよ!』

「本当? あたしには全然見えないけど?」


『うん、妖精は姿を隠すのが上手いからね。見えなくて当然だよ』

「妖精の霊格はどのくらい?」


『高くないよ。どこにでもいる、ごくありふれた種族だね。

 この魔素の濃さといい、この谷はどこかで幻獣界とつながっているんじゃないかな?

 きっとたまたま迷い出た妖精が、ここで自然繁殖したんだと思うよ。

 小さな妖精は霧と水と森が大好きだから、ここは快適な環境なんだ。

 夜の間は谷で魔素を吸収して、昼間は森で遊びながら子孫を増やすんだね』

「妖精が森であれ(・・)をしてるの?」


『妖精は交尾をしないんだよ、シルヴィアのすけべ!

 彼らが踊った葉っぱや草の上に朝露ができると、その中から生まれてくるんだよ。

 魔導院じゃ、そんなことも教えないの?』

「誰がすけべよ! 幻獣の繁殖方法まで教えるわけないでしょ。

 それより、この谷の妖精が屋敷を覗いたり、物を盗んだっていう可能性はある?」


『ないね。

 ここの妖精たちは知能が低いから、人間が何か命令しても理解できないんだよ。

 それに彼らは森から出たがらないし、身体も凄く小さいから、金属の腕輪なんて重くて運べないね』

「そうかぁ……」


『この谷が別の世界とつがっているとしたら、王国の人間の祖先が出てきたって話、案外本当なのかもね』

「あたしたちが幻獣人の子孫? そんなわけないないでしょう」


『そうかな? だって、王国以外に召喚士っていないんでしょう?

 君たちは召喚術も魔法の一種だって言うけど、結局は個人の特性に頼っているじゃない。

 それが王国人にしか表れないのって、変だと思わない?

 遥かな昔、異世界から転移した記憶が、王国人の魂に記憶されていて、それが先祖返りみたいに出現したのが召喚士――。

 そう考えたら、つじつまが合うと僕は思うね』

「凄いわカー君。今日のあんた、賢く見えるかも!」


『あ、馬鹿にしてるな?

 僕が黄色い魔石を食べて、知能が上がってたこと、忘れたんじゃないでしょうね?』

「ああ、そんなこともあったわね。

 それよりも、セドリック君が試練を受けたっていう、岩に行ってみましょう」


 シルヴィアとカー君は川沿いの荒れた一本道を、奥に向かって歩いていった。

 カー君が着陸したのは谷の中央付近で、二重岩はそう遠くないはずだ。


 二十分ほど歩くと、その場所は簡単に見つかった。

 平べったい葉っぱのような形をした巨大な岩が、二枚重なっていて確かに目立つ。

 岩の長辺は三メートル近くあるが、高さは二メートルほどで、子どもでもよじ登れそうだった。


 岩のすぐ側の斜面には、セドリックの話に出てきた洞窟があった。

 覗いてみると、奥の方は土砂で埋まっていると分かる。

「あんたの言う異世界への通路って、ここ?」

『う~ん、そんな気配は感じないな。魔素が特別濃いわけでもないしね』


「洞窟が埋まっちゃったから、断絶したってこと?」

『あのねぇ、通路っていうのは例え話なの。物理的な道は必要ないんだよ』


「あら、だってオークやゴブリンを吐き出しているサクヤ山には、実際に底なしの穴があるって話よ。

 ユニ先輩も見たことがあるんだって」

『うるさいなぁ、場合によるんだよ。

 とにかく、今は通路が閉じているの。

 もしつながっていたら、魔素が大量に流れ込んでくるはずだもの。

 でも、この谷に満ちている魔素からして、閉じっ放しじゃなく、時々は開いてるんじゃないかな?

 きっと、すごく不安定なんだよ』


「妖精以外の幻獣の存在は感じる?」

『いいや。でも、霊格の高い妖精や精霊だったら、もっと高度な隠形おんぎょうが使えるから、断言はできないね』


 シルヴィアはカー君と会話を交わしながら、二重岩の隙間を覗き込み、手を伸ばして探ってみた。

 当り前だが、宝物は隠されていなかった。

 彼女は〝ぱんぱん〟と手の埃を払って振り向く。


「よし、ひとまず名所観光は終了ね。屋敷に戻りましょう。

 この時間なら朝食に余裕で間に合うわ。あたし、お腹ぺこぺこだわ」

『頼むから、それ以上太らないでね。飛ぶのも疲れる――』


 カー君の言葉が終わらぬうちに、シルヴィアの鉄拳が彼の鼻面に飛んだ。

「ぶつわよ!」

『そういうのは、殴る前に言ってよぉ!』


      *       *


 シルヴィアは無事に朝食(七時)に間に合った。

 重い飛行服は脱いだが、軍服姿で食堂の席についた彼女を、セドリックはきらきらした目で見詰めている。

 王国では、軍人かよほどの変わり者でない限り、女性のズボン姿など拝めないからだ。


 シルヴィアは少年の崇拝を込めた視線に気づかない振りをして、つつましやかに食事を終えた。

 本当は肉入りのスープをお代わりしたかったが、カー君の許しがたい暴言に、乙女心はいたく傷ついたのだ。


      *       *


 八時半、シルヴィアはセドリックの子ども部屋をノックした。

 今から彼女は、少年の家庭教師である。


 セドリックの部屋は、きれいに整頓されていた。

 おもちゃ類は見当たらず、二つの大きな棚に、ぎっしりと本が詰まっている。

 シルヴィアの実家には十五歳の弟がいるが、彼の乱雑な部屋を思い出すと溜息が出る。セドリックはまだ七歳なのだ。


 部屋の中央には四角いテーブルが据えられ、椅子が対面で用意されていた。

 窓側のセドリックの方には六冊の本が積まれ、傍らにノートが広げられていた。


 シルヴィアを招き入れたセドリックは、片膝をついて手を差し出した。

 彼女の手を戴いて、手の甲にキスをする(振り)つもりらしい。初対面の時にも見せた、令嬢レディに対する礼儀である。


 シルヴィアは彼の手を握ると、そのまま引っ張ってセドリックを立ち上がらせた。

 そして、ぶんぶんと手を振って、にっこりと笑いかけた。

「それは一度でいいわ。前の先生にはどうしていたの?」


「えっと、言葉であいさつするだけでした。

 先生はすてきなひとですけど、女性として扱われるのを嫌がっていました」

「あたしもそうよ。

 それと、これからはあなたをセドリックと呼ぶわ。

 セドリックもあたしを、ええと年上だから、〝シルヴィアさん〟と呼んでちょうだい」


「僕はいいですけど、〝シルヴィア先生〟では駄目ですか?」

「う~ん、まぁいいか。聞いてると思うけど、あたしは次の先生が見つかるまでの〝臨時〟なの。

 だから、短い間かもしれないけど、上手くやっていきましょう」


「はい、僕たち〝上手くやれる〟と思います!」

 セドリックは明るい笑顔で答えた。


『何ていい子なの!』

 シルヴィアは内心で涙ぐむほど感動していたが、顔には出さないよう努めた。

 冷静で美しい(重要)女教師に、ちょっとした憧れがあったのだ。


 二人は向かい合って席に着いた。

「まず、最初にセドリックの勉強が、どこまで進んでいるか知りたいわ」


 するとセドリックは、ノートの脇に積んである本の束を押し出した。

「これはイレーネ先生がお辞めになった時、僕のために残してくださった教科書です。

 しおりを挟んでいるところまでは、イレーネ先生から教わりました」


 シルヴィアは本を手に取り、奥付と栞を挟んだ頁を確認した。

 多くは高等学校の一年で使用する教科書で、国語だけが高等小学校の三年向け、逆に数学は高校三年向けだった。

 見事にセドリックの得手不得手が分かる。


「数学の教科書だけ、栞がないのはなぜ?」

 セドリックは頬を赤らめて口ごもった。


「えっと、ごめんなさい。

 イレーネ先生に教わったのは、二年生用の途中まででした。

 その後は一人でも進めたので……つい」


 シルヴィアは呻き声をこらえて天井を仰いだ。

 そういえば、エイナもこんな感じだった。

 魔導院で首席を譲らなかったシルヴィアだが、こと数学に関してはエイナの独壇場だったのだ。

 もちろん、召喚士科では数学でも彼女が一位だった。


 魔導科の生徒たちは例外なく数学が得意で、特に暗算力が飛び抜けていた。

 だから両科を合わせてしまうと、シルヴィアは十位以内に入るのがやっとだったのだ(全教科を総合すれば、やはりシルヴィアが首席だったが)。


 ふと部屋の壁を見ると、何枚かの紙がピンで留めてあった。

 そこには高度な数学の公式が、びっしりと書き込まれていた。

 シルヴィアは平静を装いながらも、心で嘆かずにはいられなかった。


『辺境伯、あなたのご子息は〝歳の割に賢い子〟なんかじゃありません。

 本物の〝天才〟です』

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更新ありがとうございます! >シルヴィアの実家には十五歳の弟がいるが、彼の乱雑な部屋を思い出すと溜息が出る。 『第一章 王立魔導院』 「九 ルームメイト」より >家には上にお兄様が二人とお…
ファンタジーでミステリー好きですよ(^^)d 犯人は今までの登場人物の中にいる!のか....? セディくん、有望な魔導士のたまごだとして、 龍の加護を得た魔法使いとか、また勝手にワクワクしてます。あ…
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