八 二度目
「な、何だか怪談じみてきましたね」
シルヴィアは引き攣った笑いを浮かべた。
辺境伯も苦笑して、空になったグラスにケルトニア酒を注いだ。
「どうせなら、腕輪と一緒にドレスも無くなっていたら、事件の犯人一味が盗んだのだと納得できるのだがね」
「話を元に戻そう。
再三言うが、セドリックが嘘をついているようには見えなかった。
息子はすべてを話し終えると、自分の義務を果たしたと安堵したのだろう、紅潮していた顔が元に戻った。
いや、むしろ普段よりも顔色が悪いような感じだった」
「話の中で、身体が重くてだるかったと言っていたので、少し心配だった。
それで、まだ三時ころだったが、私は息子にベッドで休むよう促した。
セドリックは素直に服を脱ぎ、下着のままでベッドに潜り込むと、あっという間に眠りに落ちた。やはり、よほど疲れていたのだろう。
夕食の時間になり、メイドが起こしにいったのだが、息子は死んだように眠り続け、目を覚まそうとしなかった。
事情を知らないメイドは、『こんなことは今まで一度もなかった』と騒ぎ立て、医者を呼ぶよう訴えてきた。
しかし私はそれを退け、明日まで様子をみることにした」
「結局、セドリックが起きたのは、翌日の昼過ぎだった。
彼は突然目を開けて起き上がると、ベッドの側でつきっきりだったメイドを突き飛ばす勢いでトイレに駆け込んだ。
おろおろして厠の前まで追いかけてきたメイドが、出てきた息子に体調を訊ねると、
『うん、寝過ぎてちょっとだるいだけ。別に何ともないよ。
それより、お腹が空いているんだけど、食べるものないかな?』
と答えたそうだ」
「手つかずだった昼食がすぐに温められて出されると、セドリックは猛烈な勢いでたいらげ、お代わりまで要求した。
二皿目の料理を頬張る元気な姿を見て、運んできたメイドはその場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。
セドリックはメイドが大げさだと言って、笑っていたよ」
「その後は何事も起こらず、穏やかな日常が戻ったが、私は気が気でなかった。
考え抜いた末、私は村人に屋敷の警護を依頼することにした。
村の者たちは快く応じてくれたよ。
百人近い男たちが十人の班を作り、交替で昼夜の警備をしてくれることになった。
多額の報酬を約束したこともあろうが、村の者たちはセドリックを、自分たちの子どものように思ってくれていたのだ。実にありがたい話だ」
「セドリックが谷に行ってから日が経つにつれ、私は落ち着かなくなった。
三週間を過ぎると、村人たちには見張りの強化、特に郵便受けに近づく人物に気をつけるように頼んだ。
だが、その警戒を嘲笑うように、またしてもあの書状が投函されていたのだ」
「封筒と便箋の紙質、筆跡とも、前回とまったく同じだった。
書かれていた内容もほぼ同じで、次の日は濃霧になるから、セドリックを谷に向かわせろ。
危険がないことは、前回で理解しただろうから、今度も一人で寄こせ。
約束を破ったら、息子は戻らないものと思え――そんな感じだった」
「翌日は予告どおり、早朝から濃霧がすべてを覆い尽くしていた。
セドリックは少しも恐れることなく、一人で出かけていった。
その後ろ姿を見送ると、私は妻の部屋に入り、クローゼットの扉を開け放って肖像画の衣装を見張ることにした。
もちろん、妻の宝飾品はすべて点検し、なくなった物がないことも確認した」
「結局、午後になってセドリックが帰ってくるまで、妻のドレスが消えることはなかった。
私は息子と二人きりとなり、その日の出来事を聞き出したが、内容は前回と似たようなものであった。
違っていたのは、アンジェリカにそっくりだという女に抱きしめられた後、今回はいろいろ言葉を交わしたことだった。
話の内容は、勉強のこと――学校には行っているのか? 今はどこまで勉強が進んでいるのか? そんなことが主だったそうだ」
「女の質問に、セドリックが『数学が得意だし、好きだ』と答えると、その女は次々に問題を出してきたそうだ。
暗算で答えるには難しい計算式も多かったと言っていたから、女自身もそれなりの頭を持っているのだろうな」
「もう一つ、前回と違ったのは、持ち帰る証拠の品だった。
今度は妻のブレスレッドではなく、私の私物だった」
辺境伯はそう言うと上着のポケットに手を入れ、丸テーブルの上にペーパーナイフを置いた。
やや黒ずんだ銀製のナイフで、いかにも年代物という感じがした。
「これは父上の形見だ。父上は祖父から受け継いだと言っていたから、一体どのくらい昔からわが家にあったのか、見当もつかない。
前日に届いた書状も、このナイフで封を切ったばかりだが、無くなったことには気づかなかった。
もしかすると、夜中に足が生えて、谷まで歩いていったのかもしれんな」
「違ったのはその二点だけだ。話し終わったセドリックが昏睡し、丸一日泥のように眠りこけたことも一緒だ。
その時からもう三週間が過ぎた。近いうちにまた手紙が届き、三度目の試練の日が来るだろう。
警備の村人たちが神経質になっているのもそのせいだ。
君への手荒い歓迎については、私に免じて許してやってほしい」
* *
書斎には沈黙の時が流れていた。
シルヴィアは深く考え込み、カー君にいくつか意見も求めたようだった。
辺境伯は辛抱強く、シルヴィアが口を開くのを待ってくれた。
五分以上経って、ようやくシルヴィアが顔を上げた。
「クリスト伯がはじめ遠戚のアラン少佐に相談し、私の派遣を依頼されたのは、空を飛べるからですね?
ご子息の安全を考えれば、後をつけるわけにはいかない。
ですが、上空を飛んでいるだけなら、尾行には当たらないという理屈ですか」
伯爵はうなずいた。
「それもある。
ただ、そもそもの発端となった緑龍の存在が、私にはどうしても気にかかるのだ。
龍は去る時に翼を羽ばたかせ、飛び立っていった。
彼は一年後まで姿を現わさないと言ったが、それは私に対しての誓約だ。
本当に龍がこの件に関わっているのなら、谷に現れる可能性がある。
息子に気づかれないように空を飛んでいたとしたら、濃霧に覆われた谷底から見えるはずがない。
君とカーバンクルなら、それを監視できるはずだ。
それに万が一、息子が危険な目に遭った場合には、即座に救いにいけるだろう」
「了解しました。
とにかく、少し整理してみましょう。
これまで分かっている限り、この事件に関わっているのは、伯爵が見たという緑龍、そして二人の人間です。
案内の男は声だけの確認ですが、女の方は姿も見せています。
女は相当の教養があるようですから、彼女が脅迫状を書いた可能性があります。
この女は、亡くなられた奥様そっくりに扮装し、肖像画に描かれたドレスまで用意するという周到さです。
そして、いつの間にか投函された脅迫状、屋敷から消えたブレスレッドとペーパーナイフ。
これらのことから、犯人はこの屋敷内を熟知しており、自由な出入りが可能だと考えられます。
普通に考えれば内部の犯行、つまり使用人の誰かが犯人に懐柔、あるいは脅迫されたと見るべきです」
「それはないな」
伯爵は言下に否定した。
「うちの使用人は、全員村の出身で、私は彼らを子どもの時からよく知っている。
それに、一番新しい者でも、この屋敷に入ってもう八年になる。
敵に協力する者など断じていない。私が自信をもって保証しよう」
「気分を害されたのなら謝ります。
ただ、私はあらゆる可能性を否定しないつもりです。
そういう意味では、侵入者が人間以外であることも、考慮に入れています。
現に、辺境伯は緑龍をご覧になっているわけですから」
「村人に警備を依頼してからは、人間であろうと幻獣だろうと、気づかれずに屋敷に近づくことは困難だ。
だが、その幻獣が空を飛べたとしたらどうだ?」
「それも、私が選ばれた理由の一つですね?」
伯爵がうなずいたのを見て、シルヴィアは深く息を吐き、胸の前で合掌した。
「さっそく明日から調査にかかります。
それと、私はセドリック様の家庭教師を務める予定でしたよね」
「その方が警護をしやすいだろうし、側にいることで、いろいろ聞き出せることもあるだろう?」
「前の家庭教師の方は、どうされたのですか?」
「三か月前に辞めて、故郷に帰ってしまった。
セドリックは学校に行っていない。そのことは知っているかね?」
シルヴィアは無言でうなずいた。
「小学校は町にあって遠いのだが、馬車で送り迎えすればどうということもない。
問題はセドリックの学業が進み過ぎていたことだ。
学校では飛び級も考えたようだが、息子のレベルを考えると、高等小学校に入れなければならない」
「そんなに……」
シルヴィアが思わず感嘆の声を洩らした。
高等小学校は小学校卒業者で、原則十三歳から十五歳までの子が通う学校だ。
それが事実なら、セドリックは周囲の子どもたちより、六年以上進んでいることになる。
「セドリックは六歳で、入学したばかりだった。
いくら賢くても、そんな小さな子どもを高等小学校に放り込めるか?
私は通学させるのを諦め、入学前と同じく屋敷で家庭教師について学ばせることにした。
家庭教師はイレーネという名の独身女性で、大学を卒業した才媛だ」
「女性で……大学を卒業したのですか!?」
リスト王国に大学は二校しか存在しない。
王都の国立大学は創立百年に満たないが、白城市の私立大学は三百年以上の伝統を持っていた。
イレーネ女史は、その私立大学の卒業生だという。
高等教育機関への進学率が極めて低い王国で、大学は狭き門で学力だけでなく、家に資産がなければ入学できなかった。
進学者は圧倒的に男子であり、女子の割合は三%程度だった。
「イレーネ女史は教育熱心だったし、子ども好きで息子のよき話し相手になってくれた。
セドリックは乾いた砂が水を吸うように、教えられたことをどんどん吸収していった。
女史は息子の才能に夢中になってしまい、必要以上に高度な内容まで教え込んでしまった。
そのせいで学校に通えなくなってしまったのだが、彼女は少しも後悔せず、むしろ誇らしげであった。
よほど自分の生徒を自慢に思っていたのだろう」
「イレーネ女史はセドリックを学校から取り返し、教育熱に拍車がかかったようだった。
六歳の間に、高等小学校の教育課程をあらかた叩き込んでしまった。
私は正直やりすぎだと思ったのだが、当のセドリックがまったく勉強を嫌がらず、むしろ喜んでいたので、口が出せなかった」
辺境伯の話を聞いているうちに、シルヴィアの自信はどんどん崩れていった。
彼女だって、魔導院の十二年間で一度も首席を譲ったことのない才女である。
さすがに大学レベルとはいかないが、七歳の子どもを教えるくらい、どうということはないと思っていたのだ。
「それが、どうしてお辞めになられたのですか?」
「辞めたのは三か月前だと言っただろう? 私が緑龍と遭った少し前の話だ。
女史は細身だがいたって健康な人物で、屋敷にきて以来、風邪ひとつひかなかった。
それが、辞める一か月前くらいから元気がなくなり、食事も進まなくなって次第にやつれていった。
何より、ちょっとした音にも大げさに驚き、ひどく怯えるようになったのだ。
理由を訊いても、彼女は頑として口を閉ざしていた。
そして突然『これ以上はもう無理です! どうか辞めさせてください』と言ってきたのだ。
私は驚いて慰留したし、セドリックも『先生、行かないで!』と泣きすがったが、彼女の決意は変わらなかった」
「それって、もしかして……」
「ああ。その時は訳が分からなかったが、後になってみれば、一連の事件と関りがあるとしか思えない。
セドリックの勉強時間は、毎日午前・午後ともに三時間ずつだ。
イレーネ女史は、息子が起きている時間の半分を、一緒に過ごしていたことになる。
おそらくそれが邪魔で、何らかの手段で脅したのではないだろうか」
「だから、たまたま遊びに来た友人の娘である私が、新しい家庭教師が見つかるまでの〝つなぎ〟を依頼されたという設定なのですね?」
「家庭教師を探しているのは事実だからね。
もし君まで邪魔になって、再び脅しにかかるなら、少なくともその手口が明らかになる。
君も軍人なら、少々の脅しには屈しないだろうしね」
「そのつもりです」
シルヴィアは微笑んだ。
「ああ、それともう一つ、これは単なる好奇心だのですが……」
「構わんよ、言ってみたまえ」
「あの肖像画を描かれた時、奥様はおいくつだったのですか?」
「ああ、セドリックを身籠る前の年だから、三十四歳の時だな」
シルヴィアは思わず息を呑んだ。
それを見た辺境伯は、苦笑いを浮かべた。
「まぁ、驚くのも無理はない。
アンジェリカを知らない者は、あの絵を見ると妻の娘時代を描いたものだろうと言うからね」
「はい。私もよくて二十歳、下手をしたらそれより下かと思いました。
よほど……」
「画家の腕がよかった、そう言いたいのかな?
否定はしない。一流の肖像画家を王都から招いて描かせたからね。
ただ、画家に作為はなかったのだよ。
彼は見たままの妻をキャンバスに留めてくれた。私は今でも感謝しているのだ」
「今日のところは、これだけ聞けば十分です。
明日は朝食前に谷を見てくるつもりなので、そろそろ失礼します」
シルヴィアはそう言って、安楽椅子から立ち上がった。
* *
シルヴィアに用意されたのは、イレーネ女史が使っていた部屋だった。
辺境伯の書斎を辞したシルヴィアは、その部屋に向かいながら、後ろをついてくるカー君に頭の中で問いかけた。
『で、どうだった』
『うん、少なくともあの部屋にいた間中、近づいたり覗き見するような奴はいなかったね。
僕は特別感覚が鋭いから、信じてくれていいよ』
『別に疑ってないわよ。
とにかく、あんたはこの屋敷にいる間、昼寝と甘いもの好きの呑気な獣を演じながら、幻獣の存在を探ってちょうだい。
幻獣がこんな陰謀に加担するとしたら、裏で操っているのは召喚士ってことになるわ。
召喚士の数なんて限られているもの。おのずと容疑者は絞られるはずよ』
シルヴィアの表情には、自信が戻ってきていた。