七 試練
「私は驚いて息子に訊ねた。
『待ってくれ、お前は何を言っている?
頼むから、私に理解できるように話してくれないか』とね」
「親の私が言うのも何だが、あれは頭のよい子だ。
子どもにしては、かなり要領を得た説明をしてくれた。
シルヴィア嬢には、そのままを伝えよう。おそらく嘘はついていないと思う」
辺境伯はそう前置きして、セドリックの冒険譚を語り始めた。
* *
父上は私に「怖がるな、伯爵家の跡取りに恥じぬ行動を取れ」と言われました。
僕もそう見えるよう振舞ったつもりけど、本当のことを言うと少し怖かったんです。
だって、霧が普段よりもずっと濃くて、二、三メートル先が見えないんだもの、仕方ないと思いませんか?
森まではとにかく足元を見て、道から逸れないようにしたから大丈夫だったけど、森に着いてからは途方に暮れました。
森の中には道がないことを、父上もご存じですよね?
でも、僕は父上の言葉を頭の中で繰り返しながら、思い切って進んでいきました。
谷に降りる道はよく知っていますから、大体の方角は合っていたと思うんですよ。
でも、十分と進まないうちに、僕はもう迷っていました。
僕は立ち止まりました。引き返そうにも、帰り道すら分かりませんでした。
『このまま突っ立っていても、問題は解決しないぞ。
きっと、これも試練のひとつなんだ』
僕は勇気を出して再び歩き出しました。もちろん、当てずっぽうです。
そうしたら、正面の白い霧の中から、不意に声が聞こえてきたんです。
「違う、そっちじゃない。右だ、右へ進め」
いえ、お母様じゃないですよ。第一、僕は声すら知らないですからね。
それは、大人の男の人の声だったんですよ。
僕は「誰?」と問いかけましたが、返事はありませんでした。
とにかく、言われた方向に進んだんですが、その後も僕は何度も道を間違えたみたいです。
でも、そのたびに男の人の声がして、正しい方向に案内してくれました。
それで、僕は『ははぁん』と思いました。
声の主は、きっと村の誰かなんだ(屋敷の人だったら、すぐに分かりますもの)。
僕が森で迷わないように、父上が村の人に頼んでくれたんだなって。
それで、僕はすっかり怖くなくなりました。
落ち着いて周りに注意を払えるようになり、見覚えのある形の木に気づくようになったんです。
それからはあまり迷わず、どうにか谷に降りる坂道までたどり着きました。
谷の底に降りると、いっそう霧が濃くなってきました。
視界は一メートルもなかったと思います。
だけど、そこからは曲がりくねっていても、川沿いの細い一本道ですから、もう迷う心配はありません。
ただ、霧の先からは、相変わらず声がかかってきます。
「足元に亀裂がある。飛び越すんだ」
「この先は傾斜していて滑りやすいぞ」
そんな感じで、何度も注意してくれました。
でも、不思議だと思いませんか?
声の聞こえ方からすると、僕を案内してくれる人は、ほんの二、三メートル先にいたと思うんです。
それでも霧が濃くて、僕には影すら見えませんでした。
じゃあ、その人はどうして僕が見えるんでしょう?
どうして自分は迷わないでいられるんでしょう?
だけど、僕が何度話しかけても、その人は返事をしてくれません。
もちろん、それがこの儀式のルールだってことくらい、僕にだって分かりましたよ。
度胸試しなんだから、僕は一人で行かなきゃいけない。
案内人なんて、本当は存在しないんだから、姿を見せたり、質問に答えちゃいけないに違いありません。
『案内してくれるおじさんは、きっと森で猟をしている狩人なんだ。だから僕よりも目がいいし、ずっと森や谷に詳しいんだろう。
でも、村にそんな人っていたかしら?』
『そういえば、父上は谷に行けと命じられたけど、谷のどこまで行けばいいんだろう?
僕が怖くなって逃げ帰らず、ちゃんと目的地まで行った証拠がなくちゃいけないよね。
何か特別なものを持ち帰る……とかが条件なのかな?』
歩きながらいろいろ考えごとをしていたら、また霧の先から声がかかりました。
「止まりなさい」
それは、さっきまでとは違う声でした。
今度は、女の人の声だったんです。
「もう数歩進むと、左手に大きな岩があります。
その岩に登るのです」
手を伸ばして慎重に前に進むと、霧の中から大きな影が見えました。
近寄ってみると、平べったい岩が二つ、重なっています。
この岩のことは、よく知っていました。
僕や村の子どもたちは、『お供え岩』って呼んでいますけど、もちろん父上もご存じですよね?
その先の斜面に、ご先祖様が出てきたっていう、洞窟がある場所です。
ご先祖様は、地上に出られたことを神に感謝するため、二重岩の上で羊を生贄に捧げたそうですね。
自分がどこにいるのかがやっと分って、僕はかなり安心しました。
同時に、ここが度胸試しの目的地に違いないと確信したんです。
ここはご先祖様ゆかりの場所なんですから、考えてみれば当然でした。
父上から儀式の話を聞いた時、どうしてすぐに思い当たらなかったのか、自分に腹が立ったくらいです。
僕は岩によじ登りました。岩の上は平らで結構広いんですよ。
村の子たちと、遊びで何度も登ったことがありますからね。
僕は岩の上に立って、霧に向かって訊ねました。
「言われたとおりにしました。次はどうしたらいいのですか?」
多分それまでの案内人と同じだろうと思っていたら、女の人はちゃんと答えてくれたんです。
「そこに座りなさい。
あなたは伯爵家の継嗣として、ある〝試練〟を受けなければなりません。
その覚悟はありますか?」
「もちろんです!」
僕は即答して、岩の上で胡坐をかきました。
何となく、その方が余裕がありそうに見える気がしたんです。
『きっと僕を驚かせるつもりなんだ。でも、僕は怖がったりしないぞ!
獰猛なオオカミが襲ってくるのか、いや、毒蛇や大サソリかもしれない。
でも、僕は不敵な笑いを浮かべて動じないんだ』
僕は心の中でそう決意して、何が起きるのか待ち構えていました。
父上が『お前に危害が加えられる心配はない』と言ったのを、僕はちゃんと覚えていました。
僕が森で迷うことを心配して、こっそり案内人までつけてくれたんですから、絶対に大丈夫なはずです。
でも情けないことに、僕は悲鳴を上げるところでした。
いきなり僕の両目が手で塞がれ、耳元でささやかれたからです。
「あなたに与えられた試練とは、これから何が起きようと、絶対に振り向いてはならないということです」
その声は、霧の先から聞こえてきた女の声と同じでした。
誓ってもいいです。その瞬間まで、岩の上には僕一人しかいませんでした。
いくら濃霧でも、誰かが登ってくればすぐに気づきます。
でも間違いなく、耳たぶに唇が触れそうなほど近くから、声が聞こえました。
甘い吐息まで感じたくらいです。
「これからあなたの目から手を離します。よいですね、真っ直ぐ前を向いていなさい」
再びくすぐったいささやき声が聞こえ、僕の両目を塞いでいた手が離れ、同時に耳から唇の気配も遠ざかりました。
僕はどきどきしながら、何をされるのだろうと待ち構えたんです。
だけど、やっぱり驚いてしまいました。
その女の人は、僕の背中にぴったりと身体をつけ、後ろからぎゅっと抱きしめてきたんです。
温かな体温といい匂い、圧しつけられたおっぱいからは、とくんとくんと心臓の音が伝わってきました。
頭の上に、女の人の顎が乗っているのも分かりました。
僕は言われたとおり、まっすぐ前を向いていましたが、振り向かずにいられたのは奇跡だったと思います。
女の人は僕を抱いたまま、何もしゃべらずにじっとしていました。
僕はもう七歳で、赤ちゃんではありませんから、正直ちょっと恥ずかしかったです。
だけど、何だか心がぽかぽかして、とても懐かしい気持ちになったのも本当です。
しばらく経ってから、少しだけ目を下に向けてみました。
僕のおなかに回された、女の人の両腕が見えました。
『あれ、何だろう? どこかで見たことがある……』
最初はぼんやりとそう思っていたんですが、すぐに思い出しました。
『肖像画のお母様が着ている服だ!』
物心がついてから、毎日何度となく見詰めていた絵です。間違えるはずがありません。
生地の色やふくらみ、袖口のレース模様まで、ぴったり一緒でした。
ふっくらとした白い小さな手、ピンクの爪の色から指輪のデザインまで、絵に描かれたとおりです。
「どうして……。
あなたは、僕のお母様なんですか?」
思わず訊いてしまいましたが、女の人は何も答えてくれませんでした。
そのまま不思議な時間が続き、僕は少し落ち着いてきました。
お母様は僕を産んですぐに亡くなりました。
屋敷の裏にある先祖代々の墓地に小さなお墓があって、僕は数えきれない回数、そこでお祈りをしました。
お母様はあのお墓の下で眠っています。
一度死んだ人間が生き返ったとしたら、それは呪われた生ける屍や食人鬼のはずです。
僕のお母様が、そんな化け物になるはずがありません。
だから、いま僕を抱きしめている女の人は、お母様であるはずがないのです。
お母様の部屋は、今でも生きていらしたままになっています。
僕は知っています。
父上が、お母様が着ていたドレスや宝飾品を何一つ処分せず、時々それを眺めながら寂しそうにお酒を飲んでおられることを。
だから、この女の人が着ているドレスや指輪は、父上がお貸しになられたに違いありません。
この女の人が、村の若いお姉さんたちじゃないことは、言葉遣いですぐに分かりました。
屋敷のメイドたちの変装なら、もっと簡単に見破る自信があります。
僕は父上が、白城市の舞台女優を呼んで、お母様を演じさせたんじゃないかと疑いました。
でもいくら大切な儀式でも、僕を驚かすためでも、そこまでやるでしょうか?
考えるほど、分からなくなってきました。
どのくらい時間が経ったのか分かりません。でも、一時間では済まなかったと思います。
じっと身動きをせず、座ったままだったからかもしれませんが、次第に身体がだるくなってきました。
最初は眠くなったのかな、と思いましたが、そうでもないようです。
身体中の力が抜け、一日中遊んだ後みたいに疲れた感じがしました。
もうこれ以上は耐えきれない、そう思った時のことです。
僕の頭に乗っていた女の人の顎が離れ、耳の後ろに顔が近づいた気配がしました。
「今日はここまでです。でも、儀式はこれで終わったわけではありませんよ。
これから一年をかけて、毎月一度あなたはここに通うことになります。
ここで見たこと聞いたことは、あなたのお父様以外、誰にも話してはいけません。
これは伯爵家にだけ伝わる秘密の儀式なのですから。分かりましたね?」
「はい。名誉にかけて誓います」
「よい子です。私が離れたら、もう動いても振り向いても構いません。
この岩を降りたら、岩と岩との隙間を探してごらんなさい。
ブレスレッドが見つかるはずですから、それを持って帰ってお父様に渡しなさい。
それを見れば、あなたが立派に試練をやりとげたと分かってもらえるでしょう」
そのささやきが終わると、女の人が僕から離れたことが感じられました。
僕はすぐさま後ろを振り向きました。
女の人はこちらを向いたまま、霧の中に呑まれていくところでしたが、ほんの一瞬、その顔を見ることができました。
ドレスや指輪まで肖像画のとおりなのですから、きっと顔立ちも似ているだろう……そう予想はしていました。
ですが、その予想は見事に裏切られました。
〝似ている〟ではなく、その人は肖像画のお母様そのものだったのです。
まるで絵画に生命が与えられ、額縁の中から抜け出してきたようでした。
「待ってください! それ以上下がると危ないです!!」
僕は大声で叫びました。
女の人はこちらを向いて後ずさっていましたから、岩から落ちてしまうと思ったのです。
その時には、女の人の姿は霧に包まれていて、赤い唇が微笑んだのが最後でした。
僕は慌てて、四つん這いのまま岩の縁まで進みました。
そこから手を伸ばしても空を掴むだけ、下を覗き込んでも人影は見つかりません。
もちろん、地面に飛び降りたような音も聞こえませんでした。
肖像画から抜け出したお母様は、本当に霧の中に消えてしまったのです。
僕はしばらく呆然としていましたが、霧を眺めていても何も起きません。
もうここには用がないことが、はっきりしたのです。
岩を降りようとしてみると、思った以上に疲れていることが分かりました。
手足が鉛のように重く、少し動いただけで息が切れるんです。
どうにか地面に降りると、さっそく二重岩の隙間に手を入れて探ってみました。
ブレスレッドはすぐに見つかりました。
少し古びていましたが、金色の表面に美しい細工が彫られています。
そのブレスレッドに見覚えはありませんでしたが、何となくお母様の遺品なんじゃないか……そんな気がしました。
酷く疲れていたので、僕はすぐに帰るのを諦め、その場でお弁当を食べることにしました。
食べ終えてしばらく休んでいると、どうにか体力が回復してきました。
僕はのろのろと立ち上がり、家に向かって歩き出しました。
帰り道でも、迷いそうになるとまた男の人の声がして、正しい道を教えてくれました。
森を出るころには、あれだけ濃かった霧もだいぶ薄くなっていて、あとは迷うことなく戻ってきた――というわけです。
* *
「セドリックは話し終えると、肩から下げた鞄の中からブレスレッドを取り出し、私に手渡してくれた。
それが、これだよ」
辺境伯はそう言って、金色の腕輪を丸テーブルの上に置いた。
宝飾品好きなシルヴィアは、ひと目見るなり分かった。
独特の唐草模様の意匠は、白城市にある有名な宝飾店のものに違いない。
そのシリーズは非常に高価で、シルヴィアの家のような貧乏貴族では、おいそれと手を出せない代物だった。
伯爵は残っていたケルトニア酒を呷ると、空になったグラスをことんとブレスレッドの脇に置いた。
「息子の言ったとおりだった。
これは、アンジェリカ……ああ、亡くなった妻の名だ。彼女と婚約した時、私が贈ったブレスレッドだ。
特注の一品物で、裏に私と彼女の名が彫ってあるから間違いない」
彼は肩を落とし、深い溜息をついた。
「妻が一番大切にしていた品だ。
あれが亡くなってから、誰も部屋から持ち出した者はいないはずだった。
私はすぐさま妻の部屋に行って、宝石箱を確認した。
錠を外して蓋を開けてみると、そこにあるはずのブレスレッドは消えていた。
それはそうだろう。たった今、自分の息子から手渡され、私が握りしめていたんだから」
そして、彼はこうも付け加えた。
「ああ、それと肖像画を描かせた時のドレスだがな。
そっちはちゃんと、クローゼットの中にかかっていたよ」