六 生贄
シルヴィアは一瞬、絶句して目を見開いた。
辺境伯がその反応に満足の表情を浮かべたのが、妙に腹立たしかった。
「ええと、ドレイク様がこの屋敷を訪れたということですか?」
むすっとした表情で、ようやくシルヴィアが切り返す。
龍――。
この世界に生きる人なら、老人から子どもまで誰もが龍を知っている。
もっとも、それは英雄譚やお伽噺に登場する、空想上の怪物としてである。
だが、この王国の人々にとって、それは紛れもない現実であった。
東北の蒼城、そして南の赤城の地下には、それぞれに龍が棲んでいる。
彼らはめったなことでは人間世界に干渉しないが、王国の危機には守護神として出撃し、圧倒的な力で敵を蹂躙するのである。
霧谷屋敷の位置を考えれば、東北の蒼城市はあまりに遠い。
それに対して、南の赤城市は比較的近いといえる。
辺境伯が龍と遭ったというなら、それは〝赤龍ドレイク〟のことだ――シルヴィアがそう考えたのは、当然であった。
しかし、辺境伯は首を横に振った。
「いや、ドレイク様でもグァンダオ様(蒼龍)でもなかった。
私が見た龍は、緑色の鱗で全身が覆われていたからな」
王国民以外の人々が、龍の存在を半ば信じていないのは、目撃例が極端に少ないからだ。
五十年か百年に一度は『龍を見た』という証言が上がるが、たいていは続報がなく、やがて忘れ去られてしまう。
直近では十数年前、コルドラ山脈の麓に広がる帝国領の開拓村で、白龍が現れたという噂が流れた。
しかし、この噂も一時的なもので、その後はぱったりと途絶えてしまった。
「それは……本当なら一大事ではありませんか!
どうして軍に対して、はっきり龍だと報告しなかったのですか?」
「そう慌てるな。私の話を最後まで聞けば、理由はおのずと分かるはずだ」
そう言われると、シルヴィアも黙らざるを得ない。
彼女は浮かしかけた腰を安楽椅子に戻し、傾斜した背もたれに身体を預けた。
意識はドレスを着た貴族の令嬢から、軍人のそれへと完全に切り替わっていた。
『じっくり聞こうではありませんか』――そんな態度である。
そんなシルヴィアに対し、辺境伯はことの次第を語り始めた。
* *
緑龍を前にした辺境伯が、驚愕したことは言うまでもない。
本物の龍が目の前にいることもそうだが、それが人間の言葉を話しているのが、どうしても信じられないからだ。
だが、立ち尽くす彼の頭の中には、次の声が響いてきた。
『私がやってきたのは、お前に要求があるからだ。
お前には一人息子がいるな? あれを私に差し出せ』
伯爵の表情には、わずかに恐怖が浮かんでいたが、それが龍の言葉によってすっと消えた。
彼の混乱は収まり、身体の奥底から熱い力が湧いてきた。
「セドリックを渡せだと? 断る!
父親に対して、わが子を生贄に差し出せとは……龍よ、よく恥ずかしげもなく言えたものだな?
私は誇り高き辺境伯十六代当主、ネロ・クリストである!
息子の代わりにわが剣を、とくと味わうがいい!!」
彼は手にしていた剣を、ぴたりと正眼に構えた。
緑龍の目を、半透明の瞬膜が忙しく往復した。
『お前の息子を喰う……とは言っていなかったと思うがな。
第一そんな〝なまくら〟では、私の鱗に傷ひとつ付けられんぞ?
まぁ、落ち着け。お前の子を――ああ、セドリックというのだったな、貰い受けるかどうかは、まだ決まっておらんのだ』
「何だと?」
『確かにセドリックは、人間の子にしてはなかなかに優秀らしい。
だが頭の良さだけでは、我が贄としてふさわしいか即断できん。
私は今後、一年をかけてそれを見定めるつもりだ』
「勝手なことを!」
『何とでもほざくがよい。
私は自分が決めたことを粛々と進めるだけだ。
この一年の期限は、来年四月の朔日(一日のこと)としよう。
それまでの間、月に一度でよい。濃霧の日にセドリックを霧谷に一人で寄こすのだ。
見張りや護衛など、一切付けてはならんぞ。必ず一人で来させよ。
どんな濃霧であろうと、息子は無事に帰してやるから心配するな。
それと、セドリックには私のことはもちろん、一切の事情を明かすな。
伯爵家の男子に課せられた修業だ、とでも言っておけばよいだろう』
『言うまでもないが、軍にも言うではないぞ。
息子をよそに避難させるなどは論外だ。
もしこれらの条件に背けば、その時点でお前に与えた一年の猶予は吹き飛ぶものと思え。
その時は資格の有無を問わずにこの屋敷を襲い、セドリックは連れ去る』
『お前が私の言いつけに従う限り、一年の期日が来るまで、もう私は姿を現わさぬ。
何か質問があれば聞こう』
「息子を喰うのでなければ、その身はどうなると言うのだ?」
『肉体は滅び、精神だけが私の一部となる。
つまり、お前の息子は永遠に近い龍の寿命を手に入れ、私の中で生き続けるのだ。
悪い話ではあるまい?』
「月に一度、谷に行かせるのは、セドリックの資質を試すのが目的か?」
『いかにも。とはいえ、何か過酷な試練を課すようなことはしない。
私が遣わした眷属と、問答をする程度だ』
「その結果、資格がないと判断されたら、息子はどうなる?」
『何も起きないし、私も二度と現れない。これまでの日常に戻るだけだよ』
「お前の目的は何だ?
こんなことをして、どんな利益があるというのだ?」
『ああ、それを説明するのは複雑過ぎて、ちと難しいな。
簡単に言えば、龍としての高みを目指すため――と思ってくれていい』
「息子を奪われた私はどうなる?」
『ああ、無論ただで済まそうとは思っていないぞ。
龍というものは金銀宝物を集めて愛でる性質がある、と知っておろう?
お前には、この国の女王でも羨むほどの財宝を与えよう』
「そんなことは聞いていない!
セドリックは我が伯爵家唯一の跡取りだ。
そのことを問うているのだ」
『おぬし、まだ老け込む歳でもあるまい。また若い後添えを貰って、子を生ませればよいではないか?
そうでなければ、甥を養子に迎えるか? 以前はそのつもりだったのだろう?』
「ずい分とうちの事情に詳しいな。龍は覗き見、盗み聞きも得意なのか?」
だが、緑龍はその挑発には乗らなかった。
『ほかに質問はなさそうだな』
とつぶやくと、龍は身体と不釣り合いに小さな翼を広げて羽ばたいた。
音もなく巨大が浮かび上がったかと思うと、身体はどんどん上昇し、濃い霧に紛れてすぐに見えなくなってしまった。
* *
「つまり、ご子息の身の安全を図るため、軍には龍のことを伏せた、と?」
「それも……あるのだがな」
辺境伯は気の進まない様子で、再び口を開いた。
「龍が飛び去った後、私はしばらく呆然としていた。
とっくに朝稽古が終わる時間なのに、私が戻らないことを心配したメイドが、様子を見に庭にやってきたのだ。
もうずい分と時間が経ったらしく、朝霧はすっかり晴れて、青空が広がっていた。
「『旦那様、どうかなされましたか?』
そう訊かれた私は、メイドに訊ね返した。
『ハナ(メイドの名)、この庭を見て何か気づくことはないか?』」
「すると、彼女は困った顔をして答えた。
『何か……と申されましても、いつもどおりの美しいお庭にしか見えませんけど』
とね」
「いいかね、もし私に息子を差し出せと要求してきた龍が、実在していたとしたら、私の庭はどうなる?
頭を上げた時の高さが四メートル、体長は間違いなく十メートルを超していただろう。
体重に至っては、動物園で見るゾウ何頭分に当たるのか、想像もつかない。
そんな巨体が芝生に座り込んで、私と二十分も会話をしていたのだ。
芝生が元どおり、というわけにはいかんだろう?」
「だが、芝生に圧し潰された形跡は見られなかった。
地面の凹みも、飛び立とうと踏ん張った時の足跡すら、残っていなかったのだ。
屋敷の使用人は誰一人として、龍が庭に降りた音も、飛び立った音も聞いていない。
後で村の者たちに訊ねてみたが、その時間に空を飛んでいたのは、カラスくらいだったと言っていた。
要するに、私の見聞きしたことを裏付ける証拠が、何ひとつ存在しなかったのだよ」
「もし、私が軍に正直に報告していたらどうなる?
龍の出現と聞けば、軍は総力を挙げて調査を行うだろう。
息子の命がかかっている事情を話せば、気づかれぬよう隠密に行動してくれたはずだ。
その結果、彼らは何を手に入れる? 物証も目撃者も見つからず、あるのは私の証言だけなのだぞ。
私が調査員だったら、『クリスト伯爵は、濃霧に巻かれて正気を失い、夢でも見たに違いない』と結論づける。
だから龍とは言わず、曖昧にぼかしたのだよ。理解してくれたかね?」
シルヴィアは無言でうなずいた。彼女が調査員だとしても、同じ結論を出すだろう。
「そんなわけで、私は自分が見たものを自分で疑う、という迷路に陥ってしまった。
思い悩む日々を過ごすうちに、あっという間にひと月近い時が流れた。
ある日の午後、私は執務室で国に提出する納税書類をまとめていた。
三時になって、メイドがコーヒーと菓子を持って、部屋に入ってきた。
これはいつものことだったが、少し違っていたのは、机の上に並べられた皿の脇に、一通の封書が置かれたことだった」
「まぁ、こんな片田舎でも、週に何通かは手紙がくるから、特別珍しいというわけではない。
私は何も不審に思わず手に取ったが、表書きを見て顔をしかめた。
そこには〝ネロ・クリスト伯爵様〟という宛名だけで、住所が書かれていなかったのだ。
村の者が出したのならあり得ることだが、彼らだったらそんな面倒なことはせずに、直接言いに来るはずだ。
それに筆跡がきれい過ぎる上、封筒の紙も上質のものだった。
予想どおり、裏返しても差出人はない」
「私はナイフで封を切り、中から折りたたまれた一枚の便箋を出した。
それを広げた時、私の表情は凍りついていたと思う。
そこにはたった三行、こう書いてあったのだ」
『明日の朝は濃霧となる。
約束どおり、セドリックを谷に寄こすのだ。
息子の命が大切なら、くれぐれも余計なことをするな』
「私は震える手でその手紙を引き出しにしまい、鍵をかけた。
とうとうやってきた!
やはり、私が見た龍は幻ではなかったのだ!!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
堪りかねたシルヴィアが、伯爵の話を遮った。
「それっておかしくないですか?
相手は緑龍ですよね、龍が手紙を書きますか?
龍がペンや便箋、封筒を持っているんですか?
龍がこっそりやってきて、ポストの中に手紙を入れたんですか?」
辺境伯は首を左右に振り、懐から紙片を取り出し、シルヴィアに差し出した。
広げてみると、彼が言ったとおりの文言が書かれていた。
便箋は白く厚みのある高級紙で、筆跡は美しく、やや丸みを帯びた女性的な印象だった。
どう見ても、一定の教養を積んだ人間の字であった。
「これを書いたの、どう見たって人間ですよ。
そもそも、龍が脅迫状を出すなんてあり得ますか?」
「私もそう思った。この事件の背後には、人間がいる。
何者かが怪物を操って、セドリックの誘拐を目論んでいる……とね。
だが、それはそれで謎が深まる。
何故、そんな面倒なことをする?
一年という時間をかけることに、何の意味がある?」
もちろん、シルヴィアには答えることができない。
辺境伯は話を続けた。
「とにかく時間がなかった。
私はセドリックを呼び、明日の朝、一人で霧谷に行くように命じた。
これは当家に伝わる伝統で、家の跡取りとなる男子が、度胸と精神を鍛えるための儀式だ。
霧の中で不思議なことが起こるかもしれないが、決して恐れず堂々としているのだ。お前に危害が加えられる心配はないのだから……とね。
情けないことに、私は緑龍が提示した言い訳を、そのまま拝借せざるを得なかった」
「息子は初めこそ驚いたが、すぐにこの〝儀式〟を面白がった。
もともとセドリックにとって、森や谷は幼いころからの遊び場だったのだ。
ここは一応、中央平野だから、森に危険な動物は棲んでいないからね」
「翌朝は手紙の予言どおり、物凄い濃霧だった。
私やメイドたちが心配する中、セドリックは昼食と水筒を入れた鞄を肩にかけ、意気揚々と出かけていった。
息子を送り出した私の心境は、君にも想像できるだろう?
私にできることは、セドリックの無事な帰還を、ひたすら神に祈り続けることだけだった。
ありがたいことに、セドリックは昼過ぎ元気に帰ってきた。
彼の頬は紅潮し、明らかに興奮していた」
「私はすぐにセドリックを子ども部屋に連れていき、誰も近づくなと人払いをした。
そして、息子に谷でどんなことが起きたのかを訊ねた。
急かすまでもない。彼の方も、それを話したくてうずうずしていたのだ」
「セドリックは目を輝かせ、予想外のことを口にした」
『父上! 僕、お母様とお話ししてきた!』