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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
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六 生贄

 シルヴィアは一瞬、絶句して目を見開いた。

 辺境伯がその反応に満足の表情を浮かべたのが、妙に腹立たしかった。


「ええと、ドレイク様がこの屋敷を訪れたということですか?」

 むすっとした表情で、ようやくシルヴィアが切り返す。


 龍――。

 この世界に生きる人なら、老人から子どもまで誰もが龍を知っている。

 もっとも、それは英雄譚やお伽噺に登場する、空想上の怪物としてである。


 だが、この王国の人々にとって、それは紛れもない現実であった。

 東北の蒼城、そして南の赤城の地下には、それぞれに龍が棲んでいる。

 彼らはめったなことでは人間世界に干渉しないが、王国の危機には守護神として出撃し、圧倒的な力で敵を蹂躙するのである。


 霧谷屋敷の位置を考えれば、東北の蒼城市はあまりに遠い。

 それに対して、南の赤城市は比較的近いといえる。

 辺境伯が龍と遭ったというなら、それは〝赤龍ドレイク〟のことだ――シルヴィアがそう考えたのは、当然であった。


 しかし、辺境伯は首を横に振った。

「いや、ドレイク様でもグァンダオ様(蒼龍)でもなかった。

 私が見た龍は、緑色の鱗で全身が覆われていたからな」


 王国民以外の人々が、龍の存在を半ば信じていないのは、目撃例が極端に少ないからだ。

 五十年か百年に一度は『龍を見た』という証言が上がるが、たいていは続報がなく、やがて忘れ去られてしまう。

 直近では十数年前、コルドラ山脈の麓に広がる帝国領の開拓村で、白龍が現れたという噂が流れた。

 しかし、この噂も一時的なもので、その後はぱったりと途絶えてしまった。


「それは……本当なら一大事ではありませんか!

 どうして軍に対して、はっきり龍だと報告しなかったのですか?」

「そう慌てるな。私の話を最後まで聞けば、理由はおのずと分かるはずだ」


 そう言われると、シルヴィアも黙らざるを得ない。

 彼女は浮かしかけた腰を安楽椅子に戻し、傾斜した背もたれに身体を預けた。

 意識はドレスを着た貴族の令嬢から、軍人のそれへと完全に切り替わっていた。

『じっくり聞こうではありませんか』――そんな態度である。


 そんなシルヴィアに対し、辺境伯はことの次第を語り始めた。


      *       *


 緑龍を前にした辺境伯が、驚愕したことは言うまでもない。

 本物の龍が目の前にいることもそうだが、それが人間の言葉を話しているのが、どうしても信じられないからだ。

 だが、立ち尽くす彼の頭の中には、次の声が響いてきた。


『私がやってきたのは、お前に要求があるからだ。

 お前には一人息子がいるな? あれを私に差し出せ』


 伯爵の表情には、わずかに恐怖が浮かんでいたが、それが龍の言葉によってすっと消えた。

 彼の混乱は収まり、身体の奥底から熱い力が湧いてきた。


「セドリックを渡せだと? 断る!

 父親に対して、わが子を生贄に差し出せとは……龍よ、よく恥ずかしげもなく言えたものだな?

 私は誇り高き辺境伯十六代当主、ネロ・クリストである!

 息子の代わりにわが剣を、とくと味わうがいい!!」

 彼は手にしていた剣を、ぴたりと正眼に構えた。


 緑龍の目を、半透明の瞬膜が忙しく往復した。

『お前の息子を喰う……とは言っていなかったと思うがな。

 第一そんな〝なまくら〟では、私の鱗に傷ひとつ付けられんぞ?

 まぁ、落ち着け。お前の子を――ああ、セドリックというのだったな、貰い受けるかどうかは、まだ決まっておらんのだ』

「何だと?」


『確かにセドリックは、人間の子にしてはなかなかに優秀らしい。

 だが頭の良さだけでは、我が贄としてふさわしいか即断できん。

 私は今後、一年をかけてそれを見定めるつもりだ』

「勝手なことを!」


『何とでもほざくがよい。

 私は自分が決めたことを粛々と進めるだけだ。

 この一年の期限は、来年四月のさく(一日のこと)としよう。

 それまでの間、月に一度でよい。濃霧の日にセドリックを霧谷に一人で寄こすのだ。

 見張りや護衛など、一切付けてはならんぞ。必ず一人で来させよ。

 どんな濃霧であろうと、息子は無事に帰してやるから心配するな。

 それと、セドリックには私のことはもちろん、一切の事情を明かすな。

 伯爵家の男子に課せられた修業だ、とでも言っておけばよいだろう』


『言うまでもないが、軍にも言うではないぞ。

 息子をよそに避難させるなどは論外だ。

 もしこれらの条件に背けば、その時点でお前に与えた一年の猶予は吹き飛ぶものと思え。

 その時は資格の有無を問わずにこの屋敷を襲い、セドリックは連れ去る』


『お前が私の言いつけに従う限り、一年の期日が来るまで、もう私は姿を現わさぬ。

 何か質問があれば聞こう』


「息子を喰うのでなければ、その身はどうなると言うのだ?」

『肉体は滅び、精神だけが私の一部となる。

 つまり、お前の息子は永遠に近い龍の寿命を手に入れ、私の中で生き続けるのだ。

 悪い話ではあるまい?』


「月に一度、谷に行かせるのは、セドリックの資質を試すのが目的か?」

『いかにも。とはいえ、何か過酷な試練を課すようなことはしない。

 私が遣わした眷属と、問答をする程度だ』


「その結果、資格がないと判断されたら、息子はどうなる?」

『何も起きないし、私も二度と現れない。これまでの日常に戻るだけだよ』


「お前の目的は何だ?

 こんなことをして、どんな利益があるというのだ?」

『ああ、それを説明するのは複雑過ぎて、ちと難しいな。

 簡単に言えば、龍としての高みを目指すため――と思ってくれていい』


「息子を奪われた私はどうなる?」

『ああ、無論ただで済まそうとは思っていないぞ。

 龍というものは金銀宝物を集めてでる性質がある、と知っておろう?

 お前には、この国の女王でも羨むほどの財宝を与えよう』


「そんなことは聞いていない!

 セドリックは我が伯爵家唯一の跡取りだ。

 そのことを問うているのだ」

『おぬし、まだ老け込む歳でもあるまい。また若い後添えを貰って、子を生ませればよいではないか?

 そうでなければ、甥を養子に迎えるか? 以前はそのつもりだったのだろう?』


「ずい分とうちの事情に詳しいな。龍は覗き見、盗み聞きも得意なのか?」


 だが、緑龍はその挑発には乗らなかった。


『ほかに質問はなさそうだな』

 とつぶやくと、龍は身体と不釣り合いに小さな翼を広げて羽ばたいた。

 音もなく巨大が浮かび上がったかと思うと、身体はどんどん上昇し、濃い霧に紛れてすぐに見えなくなってしまった。


      *       *


「つまり、ご子息の身の安全を図るため、軍には龍のことを伏せた、と?」

「それも……あるのだがな」


 辺境伯は気の進まない様子で、再び口を開いた。

「龍が飛び去った後、私はしばらく呆然としていた。

 とっくに朝稽古が終わる時間なのに、私が戻らないことを心配したメイドが、様子を見に庭にやってきたのだ。

 もうずい分と時間が経ったらしく、朝霧はすっかり晴れて、青空が広がっていた。


「『旦那様、どうかなされましたか?』

 そう訊かれた私は、メイドに訊ね返した。

 『ハナ(メイドの名)、この庭を見て何か気づくことはないか?』」


「すると、彼女は困った顔をして答えた。

 『何か……と申されましても、いつもどおりの美しいお庭にしか見えませんけど』

 とね」


「いいかね、もし私に息子を差し出せと要求してきた龍が、実在していたとしたら、私の庭はどうなる?

 頭を上げた時の高さが四メートル、体長は間違いなく十メートルを超していただろう。

 体重に至っては、動物園で見るゾウ何頭分に当たるのか、想像もつかない。

 そんな巨体が芝生に座り込んで、私と二十分も会話をしていたのだ。

 芝生が元どおり、というわけにはいかんだろう?」


「だが、芝生に圧し潰された形跡は見られなかった。

 地面の凹みも、飛び立とうと踏ん張った時の足跡すら、残っていなかったのだ。

 屋敷の使用人は誰一人として、龍が庭に降りた音も、飛び立った音も聞いていない。

 後で村の者たちに訊ねてみたが、その時間に空を飛んでいたのは、カラスくらいだったと言っていた。

 要するに、私の見聞きしたことを裏付ける証拠が、何ひとつ存在しなかったのだよ」


「もし、私が軍に正直に報告していたらどうなる?

 龍の出現と聞けば、軍は総力を挙げて調査を行うだろう。

 息子の命がかかっている事情を話せば、気づかれぬよう隠密に行動してくれたはずだ。

 その結果、彼らは何を手に入れる? 物証も目撃者も見つからず、あるのは私の証言だけなのだぞ。

 私が調査員だったら、『クリスト伯爵は、濃霧に巻かれて正気を失い、夢でも見たに違いない』と結論づける。

 だから龍とは言わず、曖昧にぼかしたのだよ。理解してくれたかね?」


 シルヴィアは無言でうなずいた。彼女が調査員だとしても、同じ結論を出すだろう。


「そんなわけで、私は自分が見たものを自分で疑う、という迷路に陥ってしまった。

 思い悩む日々を過ごすうちに、あっという間にひと月近い時が流れた。

 ある日の午後、私は執務室で国に提出する納税書類をまとめていた。

 三時になって、メイドがコーヒーと菓子を持って、部屋に入ってきた。

 これはいつものことだったが、少し違っていたのは、机の上に並べられた皿の脇に、一通の封書が置かれたことだった」


「まぁ、こんな片田舎でも、週に何通かは手紙がくるから、特別珍しいというわけではない。

 私は何も不審に思わず手に取ったが、表書きを見て顔をしかめた。

 そこには〝ネロ・クリスト伯爵様〟という宛名だけで、住所が書かれていなかったのだ。

 村の者が出したのならあり得ることだが、彼らだったらそんな面倒なことはせずに、直接言いに来るはずだ。

 それに筆跡がきれい過ぎる上、封筒の紙も上質のものだった。

 予想どおり、裏返しても差出人はない」


「私はナイフで封を切り、中から折りたたまれた一枚の便箋を出した。

 それを広げた時、私の表情は凍りついていたと思う。

 そこにはたった三行、こう書いてあったのだ」


『明日の朝は濃霧となる。

 約束どおり、セドリックを谷に寄こすのだ。

 息子の命が大切なら、くれぐれも余計なことをするな』


「私は震える手でその手紙を引き出しにしまい、鍵をかけた。

 とうとうやってきた!

 やはり、私が見た龍は幻ではなかったのだ!!」


「ちょ、ちょっと待ってください!」

 たまりかねたシルヴィアが、伯爵の話を遮った。


「それっておかしくないですか?

 相手は緑龍ですよね、龍が手紙を書きますか?

 龍がペンや便箋、封筒を持っているんですか?

 龍がこっそりやってきて、ポストの中に手紙を入れたんですか?」


 辺境伯は首を左右に振り、懐から紙片を取り出し、シルヴィアに差し出した。

 広げてみると、彼が言ったとおりの文言が書かれていた。

 便箋は白く厚みのある高級紙で、筆跡は美しく、やや丸みを帯びた女性的な印象だった。

 どう見ても、一定の教養を積んだ人間の字であった。


「これを書いたの、どう見たって人間ですよ。

 そもそも、龍が脅迫状を出すなんてあり得ますか?」

「私もそう思った。この事件の背後には、人間がいる。

 何者かが怪物を操って、セドリックの誘拐を目論んでいる……とね。

 だが、それはそれで謎が深まる。

 何故、そんな面倒なことをする?

 一年という時間をかけることに、何の意味がある?」


 もちろん、シルヴィアには答えることができない。

 辺境伯は話を続けた。


「とにかく時間がなかった。

 私はセドリックを呼び、明日の朝、一人で霧谷に行くように命じた。

 これは当家に伝わる伝統で、家の跡取りとなる男子が、度胸と精神を鍛えるための儀式だ。

 霧の中で不思議なことが起こるかもしれないが、決して恐れず堂々としているのだ。お前に危害が加えられる心配はないのだから……とね。

 情けないことに、私は緑龍が提示した言い訳を、そのまま拝借せざるを得なかった」


「息子は初めこそ驚いたが、すぐにこの〝儀式〟を面白がった。

 もともとセドリックにとって、森や谷は幼いころからの遊び場だったのだ。

 ここは一応、中央平野だから、森に危険な動物は棲んでいないからね」


「翌朝は手紙の予言どおり、物凄い濃霧だった。

 私やメイドたちが心配する中、セドリックは昼食と水筒を入れた鞄を肩にかけ、意気揚々と出かけていった。

 息子を送り出した私の心境は、君にも想像できるだろう?

 私にできることは、セドリックの無事な帰還を、ひたすら神に祈り続けることだけだった。

 ありがたいことに、セドリックは昼過ぎ元気に帰ってきた。

 彼の頬は紅潮し、明らかに興奮していた」


「私はすぐにセドリックを子ども部屋に連れていき、誰も近づくなと人払いをした。

 そして、息子に谷でどんなことが起きたのかを訊ねた。

 かすまでもない。彼の方も、それを話したくてうずうずしていたのだ」


「セドリックは目を輝かせ、予想外のことを口にした」


『父上! 僕、お母様とお話ししてきた!』

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― 新着の感想 ―
本当に怪談モノみたいになってきたな……
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