五 濃霧
シルヴィアは一瞬で我に返り、口元を押さえて頭を下げた。
「ご無礼いたしました」
「いえ、別に……それより、僕の顔に何かついていましたか?
鏡は見てきたつもりなんですが」
「階段の踊り場の肖像画――その女性にあまりによく似られていましたゆえ、つい」
「ああ、僕の母上ですね。
母は僕を生んだ時に亡くなったので、全然記憶がないんですよ。
だから、ああして絵が残っているのはありがたいですね。
皆がそっくりだと言ってくれるのですが……僕は男ですから、複雑な気分です」
最後の一言は、いかにも男の子らしい反発だった。
セドリックは肖像画にそっくりだったが、男子だということは顔を見ればひと目で分かる。
ただ、父親が長身でがっちりしているの対し、彼は七歳という年齢を考慮に入れても、小柄な印象を受けた。そこも母親似なのだろう。
「挨拶を済ませたのなら、もう座りなさい」
伯爵が声をかけると、セドリックはぴょこんとお辞儀して、自分の定位置へと戻った。
父親の横、シルヴィアとは向かい合う席である。
全員が席につくと、すかさずメイドが入ってきて、湯気のあがるスープの皿を配膳した。
その動作が起こす風で蝋燭の光が揺らぎ、手にした銀のお盆がきらきらと輝いた。
* *
晩餐は和やかな雰囲気で、滞りなく終わった。
辺境伯とシルヴィアは、当たり障りのない話題しか口にせず、セドリックは口出しせず、大人しく二人の会話に耳を傾けていた。
料理の素材は素朴なもの――村で穫れた野菜に、ウサギやイノシシの肉、そして焼きたてのパンである。
腕のよい料理人がいるらしく、その味付けは心に染み入るような滋味に溢れていた。
特にソースは絶品で、シルヴィアは思わず皿に残ったソースを、パンで掬い取りたい衝動にかられたくらいだ。
食器の皿が下げられ、入れ替わりに干し果実を混ぜ込んだケーキと紅茶が出された。
その時になって、ようやくカー君の入室が許された。
彼はメイドたちの奮闘によって、見事に洗いあげられていた。
普段は身体を鎧のようにぴったり覆っている剛毛が、昔のようにふんわり膨らみ、体積が一割増しになっている。
食事の間中、食堂の外の廊下で待機させられていたカー君は、すこぶる不機嫌であった。
このままだと、どんな無作法をやらかすか、分かったものではない。
常に一緒にいるシルヴィアには、それがすぐに分かった。
彼女は恥ずかしさに頬を赤くして、辺境伯に頼み込んだ。
「私の幻獣を紹介する前に、彼にもケーキを相伴させてください。
できれば、その……ハチミツをたっぷりかけて」
伯爵は笑ってそれを許可し、セドリックは初めてみる奇妙な生き物に、目が釘付けになっていた。
カー君はメイドが床に置いてくれた皿から、ケーキを一口で呑み込み、満足そうに喉を鳴らした。
単純な彼が機嫌を直したのを見て、シルヴィアは改めて自分の幻獣を披露した。
「私が召喚した幻獣、カーバンクルのカー君です。
カー君、お二人にご挨拶なさい」
カー君は『いいの?』という表情で、シルヴィアの方を振り向く。
女主人がうなずいたのを確認し、カー君は軽く頭を下げてみせた。
『ええと、初めまして。僕たちカーバンクルは、こう見えて精霊族なんです。
だから、個別の個体に名前がありません。
カー君っていうのは、シルヴィアが呼びやすいようにつけた愛称みたいなもんです。
センスが今ひとつですけど、笑わないであげてください』
彼は言い終わると、もう一度頭を下げた。
辺境伯親子は口をあんぐりと開け、信じられないという目で顔を見合わせた。
だが、彼らの背後に控えているメイドたちは、顔色ひとつ変えていない。
「セドリック、今のが聞こえたか?」
「はい、父上。はっきり聞こえましたが、耳からではなく、頭の中で響いたような気がします」
「ふむ……同じだな。お前たちはどうだ?」
辺境伯は振り返ってメイドに訊ねたが、彼女は困惑した表情を浮かべた。
「あの……何も音はしなかったように思いますが?」
伯爵はメイドの表情から、答えの予測がついていたようだ。
今度はシルヴィアの方に顔を向ける。
「召喚士は自分の幻獣がいかに奇怪な化け物であっても、人と同様に会話を交わすことができると聞くが、今のがそれなのか?
しかも、私と息子にだけ聞かせるなど、そんな芸当まで……」
『ふふん!』
カー君は得意そうに目を閉じ、天井を仰いだ。
『その気になれば、誰にだって話せますよ。
でも、普段はシルヴィアから止められているんです。関係ない人を驚かせないように、ってね。
もしお望みなら、メイドのおばちゃんたちにも聞かせますよ。
僕の身体の洗い方について、少しばかり意見したいと思ってましたから』
「余計なことはしなくていいの!」
シルヴィアが拳でカー君の鼻面を殴った。
「ぴいっ!」
悲鳴を上げたカー君の大きな顔を、セドリックが抱きかかえて庇った。
「乱暴は駄目です!」
シルヴィアを見上げる少年の顔は真剣で、どこか父親を思わせた。
彼はいつの間にか席を立ち、テーブルを回ってカー君に近寄っていたのだ。
セドリックはカー君の顔を両手で挟み、間近でその目をじっと見つめた。
彼の仕草には、微塵の恐れも窺えない。
「ねえ、君は僕たちの言葉が分かるんだよね?」
『もちろん』
「君は精霊族だって言ったね?
僕の読んだ本には、精霊は定まった形を持たず、見る者の心に浮かんだ姿になるって書いてあった。
君もそうなの?」
『う~ん、確かにそういう種族もいるね。
実際、僕らカーバンクルも、取り込んだ魔石の種類と数によって、どんどん姿を変えるんだ』
「そうなんですか?」
セドリックがシルヴィアの方を見た。
彼女は溜息交じりに答えた。
「ええ、そうよ。
カー君も召喚した時は仔狐みたいで、とっても可愛かったわ。
信じられないでしょうけど、抱いて歩けたのよ。
どうしてこんな、図体のデカいトカゲ顔に育ったのかしら?」
『酷いなぁ。堂々として威厳がついたと言うべきだよ。
ほら、誰かが『龍みたいだ』って言ってたでしょ?」
「僕、もっとシルヴィアさんやカー君とお話ししたいな。
訊きたいことがたくさんあるの!」
少年の色違いの瞳は、興奮できらきらと輝いていた。
「心配しなくていいわ。
私ともカー君とも、明日からは好きなだけお話しできてよ。
お父様から聞いていなかった?
滞在中、私はセドリック様の家庭教師をすることになっているの。
そのうち私の顔を見ただけで、逃げ出したくなるかもよ?」
その後のお茶は、カー君とセドリックも交えたくだけた話となった。
しばらくして、セドリックはメイドに急かされて、自分の部屋に戻った。
もう子どもが寝る時間を、とっくに過ぎていたのである。
セドリックが退室すると、辺境伯とシルヴィアは小さくうなずきあい、同時に席を立った。
メイド長がお辞儀の際に、ちらりと伯爵の顔を窺う。
「書斎だ。呼ぶまで誰も入れるな」
彼はそうつぶやき、メイド長の脇を通り過ぎていった。
その後にシルヴィアとカー君が続いたが、彼らの後を追う者はいなかった。
* *
伯爵の書斎は、まさに〝読書のための部屋〟であった。
三方の壁には、背の高いマホガニー製の書棚が並び、歪んだガラスを通して、ぎっしり並べられた背表紙が見えた。
絨毯が敷かれた床の中央には、装飾を排した机と椅子、その脇には安楽椅子と丸テーブルがあった。
机の上には眼鏡、ペン立てとインク壺、メモ用の反故紙の束が乱雑に置かれ、あとは本だけがあった。
机の上にも、丸テーブルにも、床の上にも、空いた平らな場所には何冊かの本が積まれ、そのいくつかは頁が開かれたままだった。
『マリウス様の机の上と、タメを張るわね』
シルヴィアはヒールで本を踏まないよう、スカートを摘まみ上げ、足場を慎重に選ばなければならない。
「散らかっていて済まんな。
シルヴィア嬢は、そこの椅子にかけてもらおう」
伯爵は安楽椅子を指し示し、自分は机の椅子を丸テーブルの反対側に置いた。
テーブル上の本は、床の空いている場所へ無造作に下ろす。
彼は器用にステップを踏んで、小さな食器棚からガラス瓶と丸いグラスを持ってきた。
カー君の方は困ってしまった。書斎に入りたくても、その大きな身体では、本を踏んでしまいそうだった。
彼は入口から首を伸ばして中を窺った。
部屋は広く、天井も高かった。床は本だらけだったが、カーテンの閉められた窓側は床板が剥き出しで、そこだけは何も置かれていなかった。
カー君はぐっと身体を沈め、思い切って部屋の中に飛び込んだ。
身体が入口を抜けると翼を広げ、二、三度羽ばたいて滑空し、ふわりと窓際の床に無事着地した。
伯爵は感心してカー君に微笑みかけた。
「見事なものだな。
カーバンクル殿にも迷惑をかけてしまったが、私はすぐ手の届くところに、気に入った本があるのが好きなんだよ。
メイドたちは掃除好きだから、この部屋も狙っているのだが、ここは私の城だからね、どうにか死守しているところだ。
だが改めて見ると、この有様は我ながら酷いな」
『気にしなくていいですよ、伯爵さま』
カー君が鷹揚にうなずいてみせた。
『こういうのは馴れているんです。
シルヴィアも自分のベッドや周囲の床に、下着を脱ぎ散らかしていますから。
それで家主さんからいつも叱られているんです。
しかもですね、自分で散らかしておいて、僕がうっかり踏んづけるとすんごく怒るんです。
この間も透けすけでえっちなズロースを、僕が踏んだって大騒ぎしたんですけど、僕が知るわけな――』
「このケダモノっ!」
シルヴィアはカー君を遮り、反射的に手近の本を掴んでぶん投げた。
カー君は飛んできた本を器用に口で受け止め、そっと床に下ろした。
『駄目だよシルヴィア、伯爵さまの大切なご本を投げちゃ』
「きゃあーーーーっ! ごっ、ごごご、ごめんなさい!!」
辺境伯はシルヴィアの暴挙を咎めない代わりに、咳き込むほど大笑いをしてくれた。
* *
どうにか落ち着くと、辺境伯はグラスに注いだ琥珀色の液体を口にし、深い溜息をついた。
シルヴィアのグラスにも、同じものが少量注がれていたが、彼女は口をつけない。
立ち上る香りで分かる、これはケルトニア酒だ。
飲めないというわけではないが、彼女にはきつすぎて好みではない。
「君の言いたいことはよく分かる。
息子を狙う怪物とは何か、なぜそんな状況になったのか……。
まずはそのことだろう?」
シルヴィアは黙ってうなずいた。
彼女の座る安楽椅子は背もたれの角度が深いので、背筋をぴんと伸ばしていなければならない。
「できるだけ、分かりやすく話すつもりだが……あまり自信がないな。
話の途中でも構わないから、疑念があったら訊ねてくれ」
辺境伯は、そう前置きして話し始めた。
「今から三か月ほど前のことだ。
私は朝が早い方でね、雨さえ降っていなければ、庭に出て剣を振るのを日課にしている。
その日はよく晴れていたが、霧が深かかった。
谷からあふれ出た霧は森を呑み込み、この屋敷もすっぽりと包んでいた」
「庭に出てみると、視界は三メートルがいいところだった。
まぁ、多少は濡れるが、稽古には差し障りがない。
私はいつものように、素振りと型を繰り返していた。
目の前に立ち込める乳色の霧に敵の姿を思い描き、そこに向けて無心で剣を振り、突き出していたのだ」
「ところが、私の想像上の敵の姿の背後に、大きな影が現れた。
本当に突然で、予兆はなかった。もちろん、物音ひとつ聞こえなかった。
深い霧ではっきりと姿が見えないが、尋常でない大きさだけは把握できた」
「大きいって、どれくらいだったのですか?」
シルヴィアが訊ねた。
「身の丈がおよそ四メートルほどあったと思う。
私は反射的に剣先を向け、『何者だ!?』と怒鳴った。
言葉が通じるとは思わなかったんだがね、意外なことに相手はすぐに答えたのだ」
『私の名か……人間であるお前には難し過ぎるな。
それよりも、もっと近くに来い。その目で直接見た方が、私が何者か理解しやすいだろう。
心配するな、お前に危害を加えるつもりはない』
「それは、とんでもない大声だった。私は頭が割れるかと思ったよ。
思わず剣を取り落とし、両手で耳を覆ったが、耳は何ともない。痛くもないのだ」
伯爵は、ちらりと窓際に伏せているカー君の方を見た。
「そうだ。先ほどの君の幻獣と同じだ。
そいつは私の頭の中に、直接語りかけていたのだ」
「正直に言うが、私は恐怖を覚えた。
私が前にしている大きな影が、何かとんでもない怪物だと思えてきたからだ。
だが、私はこの屋敷の、そしてこの領地の主人だ。
怖いと叫んで逃げ出しては、先祖に顔向けできないではないか」
「剣を拾い上げる手が震えているのを、覚られないように必死だった。
そして、私は慎重に足を踏み出した。
一歩ごとに、大きな影は濃くなっていく。実際に私が進んだのは、せいぜい五メートル程度だったと思う。
ようやく、ぼんやりした影が具体的な形を取り始めた」
「その時、ふいに風が吹いて、少しだけ霧が流れた。
おかげで相手の姿がはっきり見えた。
何だったと思う?」
シルヴィアは黙って首を振った。
分かるわけがない。この質問はネタばらしの前振りに過ぎない。
辺境伯はケルトニア酒を一口に含み、にやりと笑って見せた。
「龍だ」