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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
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五 濃霧

 シルヴィアは一瞬で我に返り、口元を押さえて頭を下げた。


「ご無礼いたしました」

「いえ、別に……それより、僕の顔に何かついていましたか?

 鏡は見てきたつもりなんですが」


 

「階段の踊り場の肖像画――その女性にあまりによく似られていましたゆえ、つい」

「ああ、僕の母上ですね。

 母は僕を生んだ時に亡くなったので、全然記憶がないんですよ。

 だから、ああして絵が残っているのはありがたいですね。

 皆がそっくりだと言ってくれるのですが……僕は男ですから、複雑な気分です」


 最後の一言は、いかにも男の子らしい反発だった。

 セドリックは肖像画にそっくりだったが、男子だということは顔を見ればひと目で分かる。

 ただ、父親が長身でがっちりしているの対し、彼は七歳という年齢を考慮に入れても、小柄な印象を受けた。そこも母親似なのだろう。


「挨拶を済ませたのなら、もう座りなさい」

 伯爵が声をかけると、セドリックはぴょこんとお辞儀して、自分の定位置へと戻った。

 父親の横、シルヴィアとは向かい合う席である。


 全員が席につくと、すかさずメイドが入ってきて、湯気のあがるスープの皿を配膳した。

 その動作が起こす風で蝋燭の光が揺らぎ、手にした銀のお盆がきらきらと輝いた。


      *       *


 晩餐は和やかな雰囲気で、滞りなく終わった。


 辺境伯とシルヴィアは、当たり障りのない話題しか口にせず、セドリックは口出しせず、大人しく二人の会話に耳を傾けていた。


 料理の素材は素朴なもの――村で穫れた野菜に、ウサギやイノシシの肉、そして焼きたてのパンである。

 腕のよい料理人がいるらしく、その味付けは心に染み入るような滋味に溢れていた。

 特にソースは絶品で、シルヴィアは思わず皿に残ったソースを、パンで掬い取りたい衝動にかられたくらいだ。


 食器の皿が下げられ、入れ替わりに干し果実を混ぜ込んだケーキと紅茶が出された。

 その時になって、ようやくカー君の入室が許された。


 彼はメイドたちの奮闘によって、見事に洗いあげられていた。

 普段は身体を鎧のようにぴったり覆っている剛毛が、昔のようにふんわり膨らみ、体積が一割増しになっている。


 食事の間中、食堂の外の廊下で待機させられていたカー君は、すこぶる不機嫌であった。

 このままだと、どんな無作法をやらかすか、分かったものではない。

 常に一緒にいるシルヴィアには、それがすぐに分かった。


 彼女は恥ずかしさに頬を赤くして、辺境伯に頼み込んだ。

「私の幻獣を紹介する前に、彼にもケーキを相伴させてください。

 できれば、その……ハチミツをたっぷりかけて」


 伯爵は笑ってそれを許可し、セドリックは初めてみる奇妙な生き物に、目が釘付けになっていた。

 カー君はメイドが床に置いてくれた皿から、ケーキを一口で呑み込み、満足そうに喉を鳴らした。

 単純な彼が機嫌を直したのを見て、シルヴィアは改めて自分の幻獣を披露した。


「私が召喚した幻獣、カーバンクルのカー君です。

 カー君、お二人にご挨拶なさい」


 カー君は『いいの?』という表情で、シルヴィアの方を振り向く。

 女主人がうなずいたのを確認し、カー君は軽く頭を下げてみせた。


『ええと、初めまして。僕たちカーバンクルは、こう見えて精霊族なんです。

 だから、個別の個体に名前がありません。

 カー君っていうのは、シルヴィアが呼びやすいようにつけた愛称みたいなもんです。

 センスが今ひとつですけど、笑わないであげてください』


 彼は言い終わると、もう一度頭を下げた。

 辺境伯親子は口をあんぐりと開け、信じられないという目で顔を見合わせた。

 だが、彼らの背後に控えているメイドたちは、顔色ひとつ変えていない。


「セドリック、今のが聞こえたか?」

「はい、父上。はっきり聞こえましたが、耳からではなく、頭の中で響いたような気がします」


「ふむ……同じだな。お前たちはどうだ?」

 辺境伯は振り返ってメイドに訊ねたが、彼女は困惑した表情を浮かべた。


「あの……何も音はしなかったように思いますが?」

 伯爵はメイドの表情から、答えの予測がついていたようだ。

 今度はシルヴィアの方に顔を向ける。


「召喚士は自分の幻獣がいかに奇怪な化け物であっても、人と同様に会話を交わすことができると聞くが、今のがそれ(・・)なのか?

 しかも、私と息子にだけ聞かせるなど、そんな芸当まで……」


『ふふん!』

 カー君は得意そうに目を閉じ、天井を仰いだ。


『その気になれば、誰にだって話せますよ。

 でも、普段はシルヴィアから止められているんです。関係ない人を驚かせないように、ってね。

 もしお望みなら、メイドのおばちゃんたちにも聞かせますよ。

 僕の身体の洗い方について、少しばかり意見したいと思ってましたから』


「余計なことはしなくていいの!」

 シルヴィアが拳でカー君の鼻面を殴った。


「ぴいっ!」

 悲鳴を上げたカー君の大きな顔を、セドリックが抱きかかえて庇った。

「乱暴は駄目です!」


 シルヴィアを見上げる少年の顔は真剣で、どこか父親を思わせた。

 彼はいつの間にか席を立ち、テーブルを回ってカー君に近寄っていたのだ。


 セドリックはカー君の顔を両手で挟み、間近でその目をじっと見つめた。

 彼の仕草には、微塵の恐れも窺えない。


「ねえ、君は僕たちの言葉が分かるんだよね?」

『もちろん』


「君は精霊族だって言ったね?

 僕の読んだ本には、精霊は定まった形を持たず、見る者の心に浮かんだ姿になるって書いてあった。

 君もそうなの?」

『う~ん、確かにそういう種族もいるね。

 実際、僕らカーバンクルも、取り込んだ魔石の種類と数によって、どんどん姿を変えるんだ』


「そうなんですか?」

 セドリックがシルヴィアの方を見た。

 彼女は溜息交じりに答えた。


「ええ、そうよ。

 カー君も召喚した時は仔狐みたいで、とっても可愛かったわ。

 信じられないでしょうけど、抱いて歩けたのよ。

 どうしてこんな、図体のデカいトカゲ顔に育ったのかしら?」

『酷いなぁ。堂々として威厳がついたと言うべきだよ。

 ほら、誰かが『龍みたいだ』って言ってたでしょ?」


「僕、もっとシルヴィアさんやカー君とお話ししたいな。

 訊きたいことがたくさんあるの!」

 少年の色違いの瞳は、興奮できらきらと輝いていた。


「心配しなくていいわ。

 私ともカー君とも、明日からは好きなだけお話しできてよ。

 お父様から聞いていなかった?

 滞在中、私はセドリック様の家庭教師をすることになっているの。

 そのうち私の顔を見ただけで、逃げ出したくなるかもよ?」


 その後のお茶は、カー君とセドリックも交えたくだけた話となった。

 しばらくして、セドリックはメイドに急かされて、自分の部屋に戻った。

 もう子どもが寝る時間を、とっくに過ぎていたのである。


 セドリックが退室すると、辺境伯とシルヴィアは小さくうなずきあい、同時に席を立った。

 メイド長がお辞儀の際に、ちらりと伯爵の顔を窺う。


「書斎だ。呼ぶまで誰も入れるな」

 彼はそうつぶやき、メイド長の脇を通り過ぎていった。

 その後にシルヴィアとカー君が続いたが、彼らの後を追う者はいなかった。


      *       *


 伯爵の書斎は、まさに〝読書のための部屋〟であった。

 三方の壁には、背の高いマホガニー製の書棚が並び、歪んだガラスを通して、ぎっしり並べられた背表紙が見えた。

 絨毯が敷かれた床の中央には、装飾を排した机と椅子、その脇には安楽椅子と丸テーブルがあった。


 机の上には眼鏡、ペン立てとインク壺、メモ用の反故紙の束が乱雑に置かれ、あとは本だけがあった。

 机の上にも、丸テーブルにも、床の上にも、空いた平らな場所には何冊かの本が積まれ、そのいくつかは頁が開かれたままだった。


『マリウス様の机の上と、タメを張るわね』

 シルヴィアはヒールで本を踏まないよう、スカートを摘まみ上げ、足場を慎重に選ばなければならない。


「散らかっていて済まんな。

 シルヴィア嬢は、そこの椅子にかけてもらおう」

 伯爵は安楽椅子を指し示し、自分は机の椅子を丸テーブルの反対側に置いた。

 テーブル上の本は、床の空いている場所へ無造作に下ろす。

 彼は器用にステップを踏んで、小さな食器棚からガラス瓶と丸いグラスを持ってきた。


 カー君の方は困ってしまった。書斎に入りたくても、その大きな身体では、本を踏んでしまいそうだった。

 彼は入口から首を伸ばして中を窺った。

 部屋は広く、天井も高かった。床は本だらけだったが、カーテンの閉められた窓側は床板が剥き出しで、そこだけは何も置かれていなかった。


 カー君はぐっと身体を沈め、思い切って部屋の中に飛び込んだ。

 身体が入口を抜けると翼を広げ、二、三度羽ばたいて滑空し、ふわりと窓際の床に無事着地した。

 伯爵は感心してカー君に微笑みかけた。

「見事なものだな。

 カーバンクル殿にも迷惑をかけてしまったが、私はすぐ手の届くところに、気に入った本があるのが好きなんだよ。

 メイドたちは掃除好きだから、この部屋も狙っているのだが、ここは私の城だからね、どうにか死守しているところだ。

 だが改めて見ると、この有様は我ながら酷いな」

『気にしなくていいですよ、伯爵さま』


 カー君が鷹揚にうなずいてみせた。

『こういうのは馴れているんです。

 シルヴィアも自分のベッドや周囲の床に、下着を脱ぎ散らかしていますから。

 それで家主さんからいつも叱られているんです。

 しかもですね、自分で散らかしておいて、僕がうっかり踏んづけるとすんごく怒るんです。

 この間も透けすけでえっちなズロースを、僕が踏んだって大騒ぎしたんですけど、僕が知るわけな――』

「このケダモノっ!」

 シルヴィアはカー君を遮り、反射的に手近の本を掴んでぶん投げた。


 カー君は飛んできた本を器用に口で受け止め、そっと床に下ろした。

『駄目だよシルヴィア、伯爵さまの大切なご本を投げちゃ』

「きゃあーーーーっ! ごっ、ごごご、ごめんなさい!!」


 辺境伯はシルヴィアの暴挙を咎めない代わりに、咳き込むほど大笑いをしてくれた。


      *       *


 どうにか落ち着くと、辺境伯はグラスに注いだ琥珀色の液体を口にし、深い溜息をついた。

 シルヴィアのグラスにも、同じものが少量注がれていたが、彼女は口をつけない。

 立ち上る香りで分かる、これはケルトニア酒だ。

 飲めないというわけではないが、彼女にはきつすぎて好みではない。


「君の言いたいことはよく分かる。

 息子を狙う怪物とは何か、なぜそんな状況になったのか……。

 まずはそのことだろう?」


 シルヴィアは黙ってうなずいた。

 彼女の座る安楽椅子は背もたれの角度が深いので、背筋をぴんと伸ばしていなければならない。


「できるだけ、分かりやすく話すつもりだが……あまり自信がないな。

 話の途中でも構わないから、疑念があったら訊ねてくれ」


 辺境伯は、そう前置きして話し始めた。


「今から三か月ほど前のことだ。

 私は朝が早い方でね、雨さえ降っていなければ、庭に出て剣を振るのを日課にしている。

 その日はよく晴れていたが、霧が深かかった。

 谷からあふれ出た霧は森を呑み込み、この屋敷もすっぽりと包んでいた」


「庭に出てみると、視界は三メートルがいいところだった。

 まぁ、多少は濡れるが、稽古には差し障りがない。

 私はいつものように、素振りと型を繰り返していた。

 目の前に立ち込める乳色の霧に敵の姿を思い描き、そこに向けて無心で剣を振り、突き出していたのだ」


「ところが、私の想像上の敵の姿の背後に、大きな影が現れた。

 本当に突然で、予兆はなかった。もちろん、物音ひとつ聞こえなかった。

 深い霧ではっきりと姿が見えないが、尋常でない大きさだけは把握できた」


「大きいって、どれくらいだったのですか?」

 シルヴィアが訊ねた。


「身の丈がおよそ四メートルほどあったと思う。

 私は反射的に剣先を向け、『何者だ!?』と怒鳴った。

 言葉が通じるとは思わなかったんだがね、意外なことに相手はすぐに答えたのだ」


『私の名か……人間であるお前には難し過ぎるな。

 それよりも、もっと近くに来い。その目で直接見た方が、私が何者か理解しやすいだろう。

 心配するな、お前に危害を加えるつもりはない』


「それは、とんでもない大声だった。私は頭が割れるかと思ったよ。

 思わず剣を取り落とし、両手で耳を覆ったが、耳は何ともない。痛くもないのだ」


 伯爵は、ちらりと窓際に伏せているカー君の方を見た。

「そうだ。先ほどの君の幻獣と同じだ。

 そいつは私の頭の中に、直接語りかけていたのだ」


「正直に言うが、私は恐怖を覚えた。

 私が前にしている大きな影が、何かとんでもない怪物だと思えてきたからだ。

 だが、私はこの屋敷の、そしてこの領地の主人だ。

 怖いと叫んで逃げ出しては、先祖に顔向けできないではないか」


「剣を拾い上げる手が震えているのを、覚られないように必死だった。

 そして、私は慎重に足を踏み出した。

 一歩ごとに、大きな影は濃くなっていく。実際に私が進んだのは、せいぜい五メートル程度だったと思う。

 ようやく、ぼんやりした影が具体的な形を取り始めた」


「その時、ふいに風が吹いて、少しだけ霧が流れた。

 おかげで相手の姿がはっきり見えた。

 何だったと思う?」


 シルヴィアは黙って首を振った。

 分かるわけがない。この質問はネタばらしの前振りに過ぎない。


 辺境伯はケルトニア酒を一口に含み、にやりと笑って見せた。


「龍だ」

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見たんか!!お前、あの龍を見てしもたんか!!
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