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魔導士物語  作者: 湖南 恵
第七章 辺境伯の息子
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四 晩餐

 クリスト辺境伯が住む霧谷屋敷は、第一軍管区の南端、赤龍帝が支配する第三軍管区との境界にほど近い場所にあった。


 午前中のうちに白虎帝のもとを辞し、白城を飛び立ったシルヴィアは、四時間半の飛行で屋敷の上空に到着した。

 上から見ると、館の黒い瓦屋根と広々とした芝生の緑が目に入る。


 そこから東の方向、二百メートルほど離れたところから森が始まり、数キロ先まで続いていた。

 そして、その森を二分するように渓谷が走っていた。

 伝承では、この谷の底から這い出てきた人間が、王国の基となった部族なのだそうだ。


 森や屋敷の周辺に、霧の発生は認められなかった。

 霧が出るのは明け方から午前中にかけてが多い。今は午後だから、雲に浮かぶという景色は見られなかった。


 それにしても、森の中央を走る亀裂は奇妙だった。

 渓谷を流れる川はあまり大きくなく、霧谷屋敷の南を通って森に入り、そこから渓谷が始まっている。

 森自体が緩やかな丘状になっており、それを切り裂くように谷ができているのだ。

 そして森を抜けると、また平凡な川になって流れていく。


『普通だったら、高台の森を迂回して流れるはずよね。

 まるで誰かが強引に森を切り開いて、無理やり川を通したみたいだわ』

 シルヴィアはカー君に屋敷の上空を旋回させながら、首を捻っていた。


 渓谷は狭く、中心部ではかなり深そうだった。その斜面には緑がほぼ見られない。

 伝承が生まれるくらいだから、相当古い渓谷だろう。傾斜がきついので大きな木は無理でも、灌木や雑草くらいは生えそうなものである。

 それなのに、昨日今日開鑿(かいさく)したように、赤茶けた岩石が剥き出しとなっていて、生傷のように痛々しい感じがした。


『こうして見ると、なんだか女性の《《あそこ》》みたいよね……』

 シルヴィアの頭に、突飛な連想が浮かんだ。

 確かに森を陰毛に見立てれば、そう思えないでもない。

 それならば、赤子が通る通路(膣)を奥に秘めていても、おかしくはない理屈だ。

 昔の人たちはそう感じ、人間が亀裂の奥底から這い出てきたと考えたのだろうか。


 シルヴィアは赤面し、首を振ってはしたない空想を頭から振り払った。

 そして、カー君の首を叩いて着地を命じた。


      *       *


 カー君は回転しながらゆっくりと高度を下げ、広い芝生の庭にふわりと着地した。


「化け物! とうとう襲ってきやがったか!!」

「女、何者だ! 貴様が坊ちゃんを狙っているのか!?」


 カー君の着地と同時に、周囲から十人前後の男たちが飛び出し、その周りを取り囲んだ。

 屈強な男たちは、全員が手にピッチフォーク(干し草を持ち上げる農具)を構えていた。

 伯爵が息子の護衛のため、領地の村人を雇っているのだろう。


 エイナは落ち着いて身体を固定するベルトを外すと、彼らに向かってよく通る声を発した。

「私は参謀本部所属、国家召喚士のシルヴィア・グレンダモア少尉だ。

 そして、私の父はグレンダモア伯爵――辺境伯とは古い知己の間柄である。

 私が霧谷屋敷を訪れることは、辺境伯も承知のこと。何卒伯爵にお取次ぎを願いたい!」


 彼女はそう言うとカー君の背中から滑り降り、両手を挙げて敵意のないことを示した。

 取り囲んでいた男たちは互いに顔を見合わせていたが、一人が主人に報告しようと屋敷に向かって駆け出した。


 男たちは物騒な農具を下ろさなかったが、その表情からは緊張の色が薄まっていた。

 一人が好奇心を抑えきれず、言葉をつっかえながら訊ねた。


「召喚士ってことは、その変な生き物は幻獣なのか?」

「そうです。カーバンクルという種族で、私はカー君と呼んでいます」


 彼らは再び顔を見合わせ、小声で話し合った。


「俺、幻獣を見るの、生まれて初めてだ」

「俺もだよ。それにしてもデカい獣だ……馬より大きいんじゃないか」

「こいつら、空を飛んできたよな? 幻獣が空を飛ぶなんて、聞いたことがねえ」

「王都や白城市に行くと、こうした怪物がうようよしているって話だぞ」


 王国民なら、誰でも召喚士や幻獣の存在を知っている。

 ただ、その姿を実際に見たことがある者はそう多くない。

 この地のような片田舎であれば、なおさらである。


 シルヴィア自身、魔導院入学のため王都に連れてこられた時、初めて幻獣を見た。

 人出の多い大通りの向こうから、のしのしとトラが歩いてきたのだ。

 いかにも恐ろし気な面構えで、二本の巨大な牙が長く伸びていた(サーベルタイガーだった)。


 驚いたのは、人々がこの獣に道を譲るものの、逃げようとはしないことだった。

 王都の市民はこのトラが幻獣で、決して人間に危害を加えないということを熟知していたのだ。

 そんなことを知らない六歳のシルヴィアは、一瞬で硬直し、次いで金切り声を上げてヒステリーを起こした(ついでに洩らしてしまった)。

 彼女が昔を思い出して微笑んでいると、屋敷からさっきの男が出てきた。


 男は両手で頭上に丸を作り、シルヴィアの口上が正しいことを伝えた。

 シルヴィアを囲んでいた男たちは、安堵の表情を浮かべて、やっとピッチフォークを下ろし、鋭い切っ先を芝生に刺した。


「召喚士さん、悪く思わないでくれ。

 何せ、今この屋敷では面倒ごとが起きていて、みんなピリピリしているんだ」

 詫びる男の一人に、シルヴィアはとろけるような笑みで許しを与えた。


「事情は伺っております。

 今日からは私とカー君が、セドリック様をお守りいたします」


 その一言で、男たちの表情があからさまに明るくなった。

 十分な報酬が与えられるとしても、正体不明の化け物と戦うのは怖いはずだ。

 さらに、今は収穫の最盛期である。働き手の男たちを差し出した村では、悲鳴を上げていることだろう。


 男たちの先導で、シルヴィアとカー君は屋敷の正面へ回った。

 霧谷屋敷は、石造り総二階建ての立派な建物だった。

 かなりの歴史が感じられ、壁には一面にツタが這い、早くも赤く色づき始めていた。


 玄関の重厚な扉は開け放たれ、数人のメイドたちが左右に分かれてこうべを垂れていた。

 シルヴィアたちがその間を進んでも、彼女たちはかしこまったまま動かない。


 メイドたちだって、幻獣を見るのは初めてだろう。体長三メートルを超す得体のしれない獣(しかも悪魔のような翼まである)を前にして、恐怖を覚えないはずがない。

 しかし彼女たちは、醜態をさらして主人に恥をかかせるくらいなら、喰い殺された方がまし、という強烈な覚悟を持っていたのだ。


 よほど教育が行き届いてるのだな――同じ貴族の娘であるシルヴィアは、感心せざるを得なかった。

 実家にいるメイドたちにこんな態度が取れるのか、怪しいものである。


 メイドたちの間を抜けてホールに入ると、そこにはクリスト辺境伯とおぼしき人物が待ち構えていた。

 白虎帝から『六十代前半』と聞いていたが、それより十歳以上若く見える。

 背が高く、胸板の厚いがっちりした体形は、日頃の鍛錬を怠っていない証拠だった。


 ただしその表情には、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 特に眉間に深く刻まれた皺に、父親の苦悩が窺えた。


 シルヴィアは彼の少し手前で、カーテシーと呼ばれる淑女の挨拶をした。

 片足を斜め後ろに引き、もう片方の膝を軽く曲げる作法だ。

 ただこの世界では、同時に頭も下げるのが正式とされている。

 膝を曲げる際には、両手でスカートを摘まむものなのだが、シルヴィアはズボン姿なので、その真似でお茶を濁した。


「グレンダモア伯爵家の娘、シルヴィアでございます。

 高名なクリスト辺境伯におめもじできて、とても嬉しゅう存じます」


 伯爵の表情がわずかに和らぎ、口の端に笑みが浮かんだ。

「君のことは、アランからよく聞いている。

 若いが優秀な女性で、参謀本部の期待の星だというではないか。

 君――ああ、失礼でなければ〝シルヴィア〟と呼んでもいいかね?

(「もちろんでございます」)

 今回は、私の我儘を聞いてくれたことに、心から感謝する。

 私はシルヴィアを軍人や召喚士としてではなく、友人の娘として歓待するつもりだ。ここをご実家だと思って、気兼ねなく過ごしてほしい」


「過分なお心遣い、感激の至りでございます」

 シルヴィアの礼儀に適った応えに、伯爵は軽くうなずき、控えていたメイドに指示を出した。


「お嬢様をお部屋にご案内しなさい。湯は張ってあろうな?

 まずは旅の埃を落とし、夕餉までくつろいでいただきなさい」

「かしこまりました」


 答えたのは一番年配の女性で、彼女がメイド長のような立場らしい。

 ちなみに、メイドたちの多くが年配者で、一番若そうな者でも三十代半ばという感じだった。


 恐らく全員が古くから屋敷に勤め、高齢などの理由で引退しない限り、若いメイドを雇わないのだろう。

 この辺りは純粋な田舎なので、辺境伯の屋敷に仕えることは女性にとって名誉であり、かつ高給が約束されていたのだ。


 メイド長が部下たちに、それぞれの役割を申しつけている間に、伯爵は彼女たちに聞こえないようシルヴィアに顔を近づけ、小声でささやいた。


「セドリックには晩餐の時に引き合わせる。

 詳しい打ち合わせは、夜に私の私室で行う。いいね?」


 シルヴィアは無言でうなずいた。


      *       *


 シルヴィアが案内された部屋は、贅を凝らした客室だった。

 広々とした室内には天蓋つきのベッドが置かれ、家具調度類は一目で特注品と分かる、豪華で年季の入ったものばかりだ。

 壁や天井には、落ち着いた色合いの小花模様の壁紙が張られ、よい匂いを放つ切り花が花瓶に活けられていた。


 シルヴィアはメイドたちに手伝ってもらい、カー君の振り分け鞄から荷物を出し、さっそく圧縮されて皺になった衣服のアイロンがけを頼んだ。

 ちなみにこの時代のアイロンは、中におこした炭を入れる方式である。


 鞄や座椅子など、体を締めつけるベルトから解放されたカー君は、やれやれという表情で床にぺたんと伏せた。ひと眠りする魂胆である。

 しかし、シルヴィアの非情な命令で、彼は庭に連行され水洗いの刑に浴することになった。

 当然、カー君は正当な抗議を行ったが、彼の女主人は聞く耳を持たなかった。


 厄介者を片付けたシルヴィアは、メイドの案内で浴室に向かった。

 タイル張りの防水の床に磁器製の湯船、そこににたっぷりと湛えられたお湯。

 まさにこの世の天国である。


 湯船は内側が乳白色、外側には美しい花が描かれ、優美な猫脚には金メッキが施されている。

 シルヴィアの実家にだって、これほど贅沢な湯船はなかった。


 彼女は時間をかけてお湯を堪能し、体の汚れを流したばかりか、髪までも洗ってもらった。

 〝もらった〟というのは、メイドが洗ったということである。

 これがエイナなら、『とんでもない!』と言って断固拒否しただろうが、シルヴィアはメイドに世話をされることに慣れていた。

 彼女たちに裸を見られ、体を触られても、まったく恥ずかしいと思わなかったのだ。

 この辺は、育ちの違いとしか言いようがない。


 風呂から上がると、部屋に戻って着替えの時間だ。

 下着を新しいものに替え、アイロンがかかったばかりで、まだほの温かいドレスに袖を通す。

 その前にコルセットで胴を思いきり締めつける必要があり、これもメイドに手伝ってもらわねばならない。


 選んだドレスは、舞踏会に着ていくほど派手ではないが、きちんとした訪問着である。

 もちろん、軍服でも構わないのだろうが、今夜の晩餐は初めてセドリックに紹介される場であるから、貴族の娘としての体面を選んだのだ。


 この時代、一般に女性は肌を露わにすることを病的に嫌っていた。

 特に素足を見せたり、体の線が分かるようなデザインはもってのほかであった(その意味では、軍服は〝はしたない〟恰好である)。


 その割に、上流階級の子女が纏うドレスは、極端に胸元を露出していた。

 コルセットで乳房を持ち上げ、強調された膨らみを半分近くも見せるのである。

 なぜ、そんな恰好をふしだらだと批判しないのか、誰も不思議に思わなかったのである。

 当然、今夜のシルヴィアも、豊かな胸の谷間を惜しげもなくさらしていた。


 ドレスに合う靴とアクセサリーを選び、念入りな化粧を施しているうちに、あっという間に時間は過ぎ、晩餐の用意が整ったという連絡がきた。

 大きな姿見で自分の容姿を確認したシルヴィアは、「よし!」と一言気合を入れて部屋を出たのである。


      *       *


 時間はすでに六時を回っており、十月間近のこの時期では、もう外は暗くなっていた。

 廊下に出ると、壁には火の入ったランプがかけられていた。

 しずしずと階段を降りていくと、途中の踊り場の壁にかけられた大きな絵が目に飛び込んできた。

 最初に登ってきた時にも気づいていたが、じっくり見る暇がなかったのだ。


 改めて眺めると、それは美しい女性の肖像画であった。

 透き通った金髪の豊かな髪に、バラ色の頬、唇は小さいがぽってりとして、真っ赤な紅で彩られていた。

 一番の特徴は大きな瞳で、左右で色合いが違っていた。どちらも青いのだが、右目は緑に近いのだ。


 どうみても二十歳そこそこの若い娘である。

 伯爵の後妻は三十歳を過ぎて嫁いできたというから、あるいは昔に亡くなったという先妻なのかもしれない。


 階下に降り、広い食堂に案内されると、そこはきらきらと輝いていた。

 明かりはランプではなく、燭台に立てられた蠟燭である。

 今では珍しい、昔ながらの食卓だった。


 真っ白なテーブルクロスの中央に秋の花がたっぷり飾られ、三つの席には皿とカトラリー、そしてナプキンが並べられていた。

 一点の曇りなく磨かれた銀器や艶やかな陶磁器が、蝋燭の黄色い光を反射していたのだ。

 それはシルヴィアにとって、懐かしさで胸が締めつけられるような、穏やかな光景であった。


 主人の席には、すでに辺境伯が着席していた。

 シルヴィアが一礼し、メイドが引いてくれた椅子に腰をおろす。


「先ほど息子を呼びにやった。じきに来るだろう。

 ワインは大丈夫かね?」

「一杯だけでしたら」


 伯爵がうなずき、すかさずメイドがグラスに真っ赤な液体を注いでくれた。

 グラスに手を添えたりするのは無作法なので、シルヴィアは澄まして座っている。

 準備が整ったところで、ようやくグラスの脚に手を伸ばす。次は互いの健康を祝すところだったが、そこへメイドに付き添われた子どもが入ってきた。


 少年は父親とお揃いの上品そうな衣装を着ていた。

 そしてすぐには席に着かず、テーブルを回ってシルヴィアの方にやってきた。

 もちろん、シルヴィアも席から立ち上がり、一歩横に動いて彼を待った。


 二人が向かい合うと、少年は片膝をついて差し出されたシルヴィアの手を取り、唇を近づける(本当にキスをするわけではない)。


 彼は館の後継ぎという立場であるが、シルヴィアを客人、そして大人の令嬢として敬意を示したのだ。

 とても七歳の子どもとは思えない、淀みなく洗練された所作であった。


 少年は立ち上がると顔を上げ、シルヴィアに向かって微笑んだ。

「セドリック・アレクシス・オズワルド・モーガン・クリストです。

 お嬢様のような美しい方にお会いできて、とても光栄に思います」


 シルヴィアはこの時、初めて少年の顔をまともに見た(相手が名乗るまでは目を伏せるのが礼儀だった)。

 もちろん、彼女も名乗り返さないといけない場面だ。

 それなのに、シルヴィアはとんだ無作法をしでかした。


「あっ!」

 思わず小さな叫び声を上げてしまったのだ。


 さらさらの金髪、バラ色の頬、小さいが少し肉厚の唇、そして右目だけが緑がかった青い瞳。

 セドリックという少年は、どう見ても肖像画の娘と瓜二つの顔をしていたのだ。

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