二 家庭教師
「マリウス様にこんなことは言いたくないのですが、その冗談はまったく笑えませんね」
「いや、別に冗談ではないのだよ?」
「では、私に子どもの家庭教師をしろと、本気でおっしゃっているのですか?」
「君、魔導院では学業優秀だったのだよね?」
「まぁ、自慢じゃありませんが、十二年間一度も首席を譲ったことはありません。
ですが、学業は不断の努力の結果ですよ。
いくら私が一日や二日勉強を見たからといって、成績の向上は期待できないと思いますけど」
「それはそうだろう。
だから辺境伯も『しばらく貸してほしい』と言ったんだろうね」
「しばらく……って、どのくらいですか?」
「短く見積もっても、一か月といったところかな? いやいや待て、言いたいことは分かる。
もちろん参謀本部としても、君が長期間不在になるのは困るんだよ。
だから白虎帝には、派遣は最長でも三か月だと釘を刺しておいたよ」
マリウスは『どうだ』と言わんばかりの顔だ。
シルヴィアは溜息しか出なかった。
「一か月も骨休めができるのは、個人的にありがたいです。
ですが、それでは業務が回らないでしょう。
私が伝令業務だけではなく、アラン少佐のお手伝いもしているって、マリウス様もご存じですよね。
伝令業務は伝書バトで代行できても、そっちはどうするのですか?」
「それに関しては、少佐から『自分に関しては心配無用、シルヴィアには依頼に応じてほしい』との上申書が届いている」
「は? どうして少佐がこの件を知っているのですか?
いえ、ちょっと待ってください!
アラン少佐の姓って、クリストでしたよね。ひょっとして、クリスト辺境伯って……」
「いや、少佐の実家ではないよ。
彼は貴族ではないしね。アランの家は分家で、辺境伯は本家筋に当たるのだそうだ。
どうやら、本家から相談を受けた少佐が君を推薦したらしい。
つまり、これはシルヴィアの師匠、アラン少佐の頼みでもあるということになる」
シルヴィアはぬるくなったお茶を喉に流し込み、気持ちを落ち着かせた。
参謀副総長は依頼だ何だと言っているが、ここは軍である。実質的には命令なのに、やけに回りくどかった。
疑問は残るがどうせ断れないのら、快く承諾して丸く収めるのが、大人の女(シルヴィアはそう自認していた)というものである。
「分かりました。家庭教師などやったことはありませんが、最善を尽くします」
「おお、君ならそう言ってくれると思っていたよ!」
両手を広げて喜ぶマリウスの姿は、胡散臭さを際立たせた。
「……で、裏は何ですか?」
「何のことかな?」
「惚けないでください!
私も詳しいわけではありませんが、クリスト伯は国家召喚士を私物化するほど、傲慢な人物ではないはずです。
しかも、白虎帝だけではなく、アラン少佐にまで根回している。
一番怪しいのは、マリウス様がこの依頼を断っていないことです。
何か裏があると考えるは当然でしょう」
美しい眉毛を逆立てるシルヴィアを、マリウスは満足げな表情で見つめた。
「うんうん、君も少しは国家召喚士らしくなってきたね。
もちろん依頼を受けてくれたら、その辺は説明するつもりだったよ」
「試しましたね?」
シルヴィアの一言は、副総長の耳に届かなかったらしい。
「君が推測したとおり、家庭教師というのは偽装でね、本当の任務はご子息の護衛だ。
ただし、子どもにそのことを気づかせるな――これが辺境伯の第一条件なんだよ。
家庭教師なら、日中ずっと側についていても不自然ではないだろう?」
「それだったら、お付きのメイドでもよくないですか? 辺境伯のご子息なら、側仕えがいて当然です」
「セドリック君は賢い子だと言ったが、勘もいいらしい。
貴族の娘で軍人の君がメイドに化けても、簡単に見破ってしまうくらいにね」
「お言葉ですが、家庭教師でも同じでしょう?」
「君の家はグレンダモア伯爵家だろう? 親同士が懇意だと説明すればいい。
シルヴィアは長期休暇を取得中の国家召喚士で、風光明媚なクリスト伯の領地を見に遊びに来たことになっている。
辺境伯は友人の娘が、魔導院の首席卒業者と知って、臨時に家庭教師を頼み込んだ……という設定だ。
どうだね? 完璧じゃないか」
「国家召喚士が長期休暇を取るって、どういう冗談ですか?」
「何を言う。制度上は事前に申請を行い、最長三か月まで休暇取得が可能だ。軍の服務規定に書いていただろう?
国の将来を担う少年に、軍は明るく楽しい、福祉もしっかりとした職場だと印象付けるのだ。
そういう地道な広報も、軍人に課せられた責務だと習わなかったのかね?」
「その申請とやらが通った事例があるなら、是非ご教示願いたいですね」
「無論あるとも。蒼龍帝のところの副官、ええとプリシラだったかな?
彼女も国家召喚士だが、一か月の休暇を取ったはずだ。君とエイナも連絡係として関わったはずだよ」
「ああ、あれですか……」
シルヴィアは軽い溜息をついた。
プリシラ先輩は蒼龍帝の信頼が厚い。新米に過ぎないシルヴィアとは立場が違う。
「まぁ、その話はもういいです。
それより、辺境伯のご子息は誰に狙われているのですか?」
「敵の正体は詳しく分かっていない。
辺境伯の話では『この世のものではない怪物』だそうだ」
「幻獣……ということですか?」
「だとしたら、背後に召喚士がいる可能性がある。当然座視できない話だ。
ただ、辺境伯の話を信じるなら、その怪物は空を飛べるらしい」
「空を? 俄かには信じがたいですね。
ああ! それで……私、というわけですか?」
王国には現在、召喚士とその幻獣が百五十組以上存在する。
召喚士はすべて国立魔導院の卒業生で、その幻獣も国に登録されている。
そのうち飛行能力を持つ幻獣は、アラン少佐のロック鳥とシルヴィアのカーバンクルだけである。
二人が国家召喚士と認定されていることでも分るが、空を飛べる幻獣は王国の至宝といってよい。
となれば、子どもを狙っている怪物は召喚された幻獣ではなく、異世界からの訪問者ということになる。
事故による偶然の転送が起きたのか、自らの意思で渡ってきたのかは不明だが、飛行能力があるとなれば、軍としても調査をしないわけにはいかない。
なるほど、これはのほほんと伝令をしている場合ではない。
シルヴィアは、ようやくマリウスと軍部の意図が呑み込めた。
ただし、それならば〝飛行能力を持つ幻獣の情報〟から話を始めるべきだ。
その上で、『調査のため、家庭教師として辺境伯の屋敷に潜入・調査せよ』と命じればいい。
どうして、いきなり家庭教師から話を始めるのだろう?
もちろん、シルヴィアにはその答えが分かっている。
いかにもマリウスが考えそうなことだった。
『だって、シルヴィアが面喰らうだろう? そっちの方が面白いじゃないか』
* *
マリウスの執務室を辞したシルヴィアは、さまざまに考えを巡らせながら、自分の個室へと向かった。
配属からしばらくの間、彼女はエイナとともに大部屋の士官室で一つの机を共有し、片隅で小さくなっていた。
シルヴィアが国家召喚士に昇格すると、その扱いは一変し、個室が与えられたのである。
『ねえねえ、シルヴィア』
頭の中に声が響いた。
シルヴィアの隣りをのそのそ歩く、カー君のものだ。
召喚した当時は、小さくて可愛いふわふわの獣だったが、魔石とともに成長した結果、現在は体長が三メートルを超している。
カー君はシルヴィアの幻獣だから、当然のように一緒に行動していた。
今日だって、秘書室でクッキーのお相伴に預かったし、執務室では床に大人しく横たわり、マリウスの幻獣である火蜥蜴と遊んでいた。
シルヴィアは半ばうわの空で問い返した。
「どうしたの?」
『さっきゴーマ(火蜥蜴の名前)がね、変なことを言ったんだ』
「何て言われたの?」
『お前、同族っぽい匂いがする……だって。
失礼だと思わない? 僕はトカゲじゃなくて精霊族だよ』
「まぁ、カー君は最初から火を吹いたし、空を飛べるようになってから、顔や体つきが爬虫類っぽくなってきたものね」
『えー、そうかなぁ?』
「そうよぉ。昔はもっとキツネっぽくて可愛かったわ」
『あー、シルヴィアまでそんなこと言うの?
いいもん、最近お尻が大きくなって、重くなったことバラしちゃうからね!」
「ちょっ! あんた、なんてことを!!」
シルヴィアは慌てふためいてカー君の口を押さえ込み、きょろきょろと周囲を見回した。
書類を抱えた女性職員が、不思議そうな顔ですれ違っていった。
カー君と人間の会話は一種の精神感応で、音としては聴こえない。
今までの会話は、カー君とシルヴィアの間だけで交わされたものだ。
だが、困ったことに彼はその気になれば、不特定多数の人間にも思考を伝えることができる。
カー君とシルヴィアは四六時中一緒にいるから、体重以外もいろいろと恥ずかしい秘密を知られている。
彼と喧嘩をするのは得策ではない。
「前言撤回、あんたは今でも可愛いわよ。
クレアの店のアップルパイで手を打たない?」
『チョコクリームのせで!』
* *
机で埃をかぶっていた書類の山を見なかったことにして、シルヴィアは出発の準備に取りかかった。
軍人の身分を偽る必要がないなら、休暇中であっても制服着用は自然である。
ただ、貴族の家に一か月以上滞在する以上は、それなりの衣服を持参しなければ、実家の体面にも関わる。
彼女は許可を取って、午前中のうちにいったん下宿に帰った。
ロゼッタに事情を説明して、準備を手伝ってもらうつもりだった。
礼に適ったドレスを数着、それに合わせる宝飾類、靴、バックなどの小物を選ぶのは大変な作業なのだ。
この点では、豪商の娘であるロゼッタは、実に頼りになった。
もしエイナがいたとしても、田舎娘の彼女は何の役にも立たなかっただろう。
どうにか夕方までに荷物をまとめ、これをカー君専用の振り分け鞄に詰め込むのが、また一苦労だった。
辺境伯の屋敷に着いたら、まずアイロンを借りて皺を伸ばさねばならないだろう。
考えただけでも気が重くなった。
シルヴィアは『荷物が重い!』と不満を洩らすカー君をなだめ、ファン・パッセル家の中庭を飛び立ち、直接白城市に向かった。
本来なら参謀本部に戻り、最低でも総務に顔を出して出発を申告する必要があるのだが、その手続きはロゼッタが代行してくれた。
普通なら、一般人に許されることではない。
しかし、ロゼッタは退官して十数年が経つが、いまだに参謀本部の事務方に強い影響力を持っている。
何しろ総務、人事、経理の部課長たちは、新人のころ散々ロゼッタに世話になった者ばかりで、数々の弱味も握られていたのだ。
* *
白城市に着いたのは、夜の八時前だった。
緊急時には城壁を越え、白城の中庭に直接降りるのだが、今回はそういう任務ではない。
シルヴィアたちは白城市の西門の前に降り、きちんと入場手続きを済ませた上で、歩いて市街へ入った。
白城市は王国内でも、最多の人口を抱える大都市である。
商業都市らしく、その大通りには歴史ある名店がずらりと軒を並べ、多くの買い物客でごった返している。
ただし、それは昼間の話である。
夜になると、そうした目抜き通りの老舗は早々に店を閉め、人通りも嘘のようにまばらになっていた。
その代わり、この時間から賑わうのは、裏通りの飲食・歓楽街である。
この時代、人々の暮らしは太陽の出入りと連動するのが常識であった。
すなわち、夜明けとともに起き、日没になれば眠る。
ランプの燃料となる油は高価だったから、夜遅くまで起きているのは浪費に他ならなかった。
しかし、四古都をはじめとする都会だと話が違う。
街の住人や、地方からのお上りさんは、昼間のように明るく照らされた狭い通りに繰り出し、食事や酒、あるいは大きな声では言えない遊びを楽しんだ。
シルヴィアも若い娘であるから、そうした誘惑にかられないでもない。
だが、今は任務中である。彼女は賑わう裏通りを無視して、もっと静かな宿屋街に向かった。
白城市にはもう何十回となく来ているから、馴染みの宿屋ができていた。
白銀亭という宿はシルヴィアのお気に入りで、小さいが家庭的で居心地のよい宿だった。
飛び込みでも、彼女の顔を見れば部屋を都合してくれたし、カー君の扱いにも馴れている。
その夜も、遅い時間に入ってきたシルヴィアを笑顔で迎えてくれ、すぐに温かい湯を準備してくれた。
入浴後には、温め直した女将自慢の手料理が待っていた。
腹を膨らませたシルヴィアは、柔らかなベッドに潜り込み、慌ただしい一日を終えたのであった。
* *
翌日は、朝一番で宿の清算を済ませ、白城に向かった。
シルヴィアを辺境伯へ派遣するという案件は、白虎帝を通して参謀本部に寄せられたものなので、まずは要請受諾の申告をしなければならない。
昨夜に大門を通過したことで、シルヴィアが市内に入った情報は、すでに白城に伝わっていた。
そのためか、白虎帝への面会を申請すると、あまり待たされることなく通してもらえた。
現在の白虎帝は、ノエル・アシュビーという若者だった。
彼は魔導院の三学年上だったから、シルヴィアにとっては九年間、同じ学び舎で過ごした先輩――というより、むしろ家族に近い感覚であった。
シルヴィアは謁見の間ではなく、ノエルの執務室へと招かれた。
儀礼的な挨拶ではなく、突っ込んだ話をしようという、白虎帝の意思の表れである。
シルヴィアとしても、それは望むところだった。