一 辺境伯の依頼
「シルヴィア、朝ですよ。起きなさい!」
鈴を転がすような美しい声とは裏腹に、ロゼッタの行動は容赦がなかった。
羽毛の掛け布団と厚いフェルトの毛布が勢いよくめくられると、寝巻のシルヴィアはダンゴムシのように身体を丸め込んだ。
ロゼッタは突き出された丸いお尻をぺちんと平手で叩き、襟首を掴んで彼女をベッドから引きずり出した。
「ううっ、ロゼッタさん、寒いですぅ~!」
哀れな声で抗議するシルヴィアに、美しい家主は冷酷に宣言した。
「顔を洗って歯を磨いたら、ただちに着替えて食堂に降りてらっしゃい。
十分待っても来なかったら、朝食は抜きだと覚悟しなさい!」
「ううう~っ……」
シルヴィアはべそをかきながらベッドから降り、部屋の隅にある小さな洗面所へ向けて、のろのろと足を運んだ。
これが、エイナが蒼城市に向けて出発してからというもの、毎日繰り返される〝朝の儀式〟であった。
そもそもシルヴィアを起こすのは、魔導院時代から続くエイナの役目であった。
シルヴィアは低血圧で朝が苦手だったので、エイナは老婆を介護するように辛抱強く、そして優しく起こしてくれた。
ロゼッタも優しい女性なのだが、自身が完璧超人であったので、乱れた生活態度にはことのほか厳しかったのだ。
寝惚け眼で食堂に降りてきたロゼッタは自分の席につき、出された朝食をもそもそと食べ始めた。
出来立てのスープが身体を温め、熱いコーヒーのカフェインが効いてくると、ようやくまともに思考が働きだした。
「今日もまた出張なの?」
メイドが二杯目のコーヒーをカップに注ぐと、ロゼッタが何気なく訊ねた。
と言うのも、シルヴィアは毎日のように、どこかの都市に飛んでいたからだ。
* *
帝国の場合、魔導士による通信網が整備されており、遠距離でも情報伝達に苦労をしなかった。
しかし王国は魔導士の養成に手をつけたばかりで、とてもそこまでの余裕がない。
王国では最速の通信手段が伝書バトで、早馬がこれに次ぐというのが現状だった。
参謀本部には、飛行能力に優れたロック鳥を使役するアラン少佐が所属してる。
緊急時の連絡や人員輸送には、彼とピート(ロック鳥の名前)が動員されるのだが、何しろ少佐は多忙であった。
帝国軍の移動や、密入国の監視は必須で、地図製作の資料となる測量も、地味だが軍事的に重要な任務だった。
アラン少佐は、帝国の魔導士も手が出せない一千メートル近い高空を、連日五百キロ以上も飛んでいた。
上空の薄い空気と冷たい風にさらされ、長時間の飛行と地上観察を続けるのは、生身の人間にとっては大変な負担である。
彼は参謀本部所属でありながら、任務の性質上、帝国に隣接する黒城市を拠点にしていた。
伝令として使いたくても、おいそれと王都に呼び戻すことはできなかったのだ。
そんな状況で、単なる二級召喚士に過ぎないシルヴィアの幻獣が、突如として飛行能力を手に入れたのである。
参謀本部が狂喜したのは当然であった。
シルヴィアとカー君は、ただちにアラン少佐の元に派遣され、一か月に渡る厳しい指導を受けた。
カー君の飛行能力は、鳥類型幻獣のロック鳥に遠く及ばなかったが、国内の伝令役としては十分に役に立った。
参謀本部は特例でシルヴィアを国家召喚士に昇格させ、彼女とカー君を遠慮なく酷使したのである。
ちなみに、カー君と伝書バトを比較すると、飛行速度はおおむね四十キロ前後で、ほぼ同じようなものであった。
しかし、伝書バトには二つの弱点があった。
第一は、信頼性の問題だった。
空では猛禽類の脅威に常にさらされ、夜は飛ばずに眠るので(これも弱点)、イタチ類に襲われることがあった。
他にも稀ではあるが迷うことがあり、その原因は解明されていない(地磁気・低周波など、様々な説がある)。
このため、保険として手紙(馬車で運搬される)を出すのが常識で、特に重要な情報の場合は、同時に早馬を走らせたので、実に非効率であった。
第二の問題点は、伝達できる情報量である。
伝書バトの足には、通信文を入れるための小さな金属管が装着されている。
入れられる通信文には限りがあり、小さな文字でぎっしりと書き込んでも、複雑な内容までは伝えられない。
幻獣であるカー君にはこれらの問題がない。
空に敵は存在せず、夜間でも問題なく飛ぶことができた。
分厚い書簡や、ある程度の物資も運搬可能で、緊急時にはシルヴィアに加えて一人なら人間も乗せられた。
アラン少佐はもう三十半ばで、見た目は美青年であったが、驚くほど頑健な精神と肉体を持っていた。
それでも彼は人間である。過酷な任務の積み重ねが、健康を損ねない保証はない。
シルヴィアとカー君の存在は、アラン少佐の〝安全装置〟という側面もあった。
したがって、黒城市での修業を終え、参謀本部に戻ったシルヴィアの日常は、勢い多忙なものとなったのだ。
* *
「それが、奇跡的に今日は予定が入っていなくて、溜まっている事務仕事をすることになっているんです」
「まぁ、よかったじゃない。実際、あなたは女の子なのに、働きすぎなんですもの。
マリウス様も少しは気を遣うべきだわ」
ロゼッタは現参謀副総長に苦言を呈したが、『その点、アリストア様はご立派だったわ!』と言いたいのが見え見えだった。
マリウスの前任者であるアリストアは、ロゼッタが長年仕えた軍の指導者であると同時に愛人でもあり、彼女はその忘れ形見の一人息子を、女手ひとつで育てていたのだ。
「では、行ってまいります!」
「はい、しっかりお勤めなさい」
シルヴィアは口元をナプキンで拭って席を立ち、そそくさと玄関に向かった。
ロゼッタの『アリストア様は……』が始まると、話が長くなることを知っていたからだ。
* *
参謀本部は二つある王城の尖塔のうち、南棟を丸ごと占有している。
シルヴィアは石造りの重厚な建物に足を踏み入れ、受付の小さな窓口に顔を近づけた。
「おはよう!」
「ああ、シルヴィアさんか。おはよう、今日も美人だね」
塔の警備と受付は、近衛軍の兵士が務めており、その顔ぶれは毎日変わる。
とはいえ、配属されて一年も過ぎるとお互い顔見知りとなり、身分証の確認も省略されるのが実情だった。
シルヴィアは長身でスタイルがよく、人目を惹く美貌を誇る上に、貴族の娘でありながら、気さくな性格だった。
彼女が参謀本部に配属されると、近衛兵の間ですぐ噂が広がったのも当然だった。
その結果、彼らは南塔の警備や受付の当番を、心待ちにするようになった。
そして、シルヴィアと気の利いた会話を交わした者は、週末の酒保で座の主役となることが約束されたのである。
もちろんシルヴィアの方も、そんな男どもの視線を意識していた。
彼女は近衛兵の賛美を当然のように受け取り、とびきりの笑顔をその代価として与える。実に気前のよいサービスであった。
受付を後にすると、総務の事務室に顔を出すのが通例である。
重要な呼び出しがある場合は受付で伝えられるのだが、緊急性のない用事は総務や人事から言い渡されるからだ。
総務の扉を開けると、ちょうどカウンターに顔なじみのエリザベスが立っていた。
「ベティ(エリザベスの愛称)、おはよう」
「あら、シルヴィア。今日は早いのね?
エイナがいないのに遅刻しないなんて、あなたも成長したのかしら」
シルヴィアは大げさな溜息をついた。
「ああ、エイナが健在だった頃が懐かしいわ。
ベティだって知っているでしょ、うちの家主は寮母よりも厳しいのよ?」
「勝手にルームメイトを殺さないの。
まぁ、ロゼッタさんは怠け者には容赦ないものね。あんたにはいい薬だわ」
「それで、何かあたしに伝言はあるの?
今日は久しぶりに書類整理に専念するんだから、お昼の誘いは勘弁してちょうだい」
「男どもからのお誘いは六件ね。全部却下しておくわ。それ以外の伝言は、ひとつだけよ」
「誰から?」
「マリウス様よ。『九時に執務室に出頭せよ』ですって!」
シルヴィアは天井を仰いで呻いた。
「ああ、あたしの事務時間が……」
エリザベスは思わず吹き出した。
「軍隊あるあるよ、諦めなさい。使ってもらえるうちが華なんだから」
* *
シルヴィアは九時十分前に秘書官室の扉を叩き、エイミー秘書官からお茶をご馳走になった。
お茶うけに添えられたクッキーは、家主のロゼッタが早朝手ずから焼いたもので、これを届けるのはエイナの役目だったが、今はシルヴィアが引き継いでいる。
シルヴィアは九時ぴったりに扉をノックし、隣りの執務室に入った。
参謀本部を率いるのは、当然ながら参謀総長である。
ただしこの地位は名誉職で、引退間近の軍高官や、軍籍を持つ王族や門閥貴族が務めるのが慣例になっている。
全軍を指揮する実際の責任者は、三人いる参謀副総長の首席で、現在はマリウス・ジーンがその任に就いている。
首席参謀副総長の執務室は、豪華だが重厚な設えで、厚いカーテンのせいでやや薄暗かった。
その窓際には執務机が据えられているが、その大きさが尋常ではない。
並みの事務机に比べ面積が倍以上あり、その広い机上には、書類の束が高く積み上げられ、雪崩を起こしそうになっていた。
別にマリウスが怠け者だということはなく、むしろ彼の事務処理能力は高かった。それでも捌ききれないほど、大量の仕事が集まってくるのだ。
ロゼッタに言わせると、この惨状は歴代副総長に宿命づけられた〝伝統〟なのだそうだ。
シルヴィアが机の前に進み出て申告を済ませると、書類の束の横からマリウスが顔を覗かせた。
「ああ、来たか。まぁ、かけてゆっくりしたまえ」
彼はシルヴィアに応接に座るよう指示すると、大きく背伸びをして欠伸をした。
退屈な事務処理から一時的にでも解放されるのが、とても嬉しそうな表情だった。
首をこきこき鳴らしながら、自分の対面に座るマリウスを見て、しかしシルヴィアは早くも身構えていた。
『おかしい……』
緊急の伝令が発生したのであれば、彼女を机の前に立たせたまま命令すればいい。
マリウスは合理的な人間だ。いくら自分が息抜きをしたくても、ひよっこのシルヴィアを座らせて説明するほど暇ではないはずだ。
マリウスがソファに身を沈めると、すかさず秘書室に通じる扉がノックされ、エイミーがお茶を運んできた。
華やかなバラの香りのする紅茶は、クッキー同様、貿易商であるロゼッタの家から届けられるものだ。
特定の豪商から軍の指導者に、私的な貢物が日常化しているのはどうかと思うが、ロゼッタが秘書時代に築いた人脈に対する支配は絶大で、まったく問題視されなかった。
秘書官が下がり、シルヴィアがカップを皿の上に戻すと、マリウスが用件を切り出した。
「わざわざ呼びだしたのは他でもない。
まぁその、君に頼みたい、ちょっとした仕事があるんだ」
ますます怪しかった。
『頼みたい』とはどういうことだ? 命令ではないのか?
「あのぉ……どういった任務でしょうか?」
だが、マリウスはすぐには答えない。
「君は〝辺境伯〟を知っているかね?」
「はい、まぁ一応、私の実家も貴族ですから」
* *
シルヴィアはグレンダモア伯爵家の娘である。
伯爵は決して低い家柄ではなく、王族が名乗る公爵、地方の有力領主である侯爵に次ぐ地位である。
何か村かの領地を管理するのが普通で、今の時代はそう裕福ではないが、子爵や男爵といった下級貴族とは、格式が段違いだった。
今から三百五十年ほど前の話である。
誕生からまだ歴史の浅い王国は、南のサラーム王朝(現在は分裂して存在しない)と数次にわたる戦争を繰り広げていた。
王国が統一された際に、赤城市を含む南部を併合したのが原因で、サラームは奪われた領土を奪還しようとしたのだ。
何度目かの大きな戦争で王国は劣勢に立たされ、拠点の赤城市も陥落の危機に陥った。
当時の赤城市では、まだ赤龍が召喚されておらず、赤龍帝も存在しなかったのだ。
事態に窮した王は国中に檄を飛ばし、各地の有力貴族に参戦を呼びかけた。
大貴族は体面を繕う程度の協力だったが、下級貴族の中には、手兵を率いて奮戦する者が多かった。
彼らの活躍もあって、サラームの侵略はどうにか退けられた。
しかし、問題となったのは戦後の論功行賞である。
抜群の戦功を挙げた下級貴族八家は、家格を伯爵に引き上げられた。
当然、それに見合う領地が与えられてしかるべきだったが、王家にはその余裕がなかった。
莫大な戦費で国庫は払底し、収入の元となる直轄領を分けるなど不可能だったのだ。
今次の戦争は防衛戦であったから、敵の占領地を与えることもできない。
そこで、王家が苦し紛れに考え出したのが、辺境を領地として分け与えることだった。
当時はまだ、辺境開拓が始まっておらず、辺境すなわち未開の大森林であった。
かくして、辺境を領地とする八つの伯爵家は〝辺境伯〟と呼ばれるようになったのである。
それから長い年月が経ち、このうち五つの伯爵家は没落し、家が絶えてしまった。
残る三家も青息吐息の状態だったが、辺境の開拓が彼らの光明となった。
初めは国が主導して、細々と始まった辺境開発だったが、やがて民間資本が参入するようになった。
大貴族や豪商が莫大な資金を投じた結果、開発は軌道に乗り、国の税制優遇策とあいまって大きな利益を生み出すに至った。
ところが、開発対象となった辺境西部の森林は、多くが辺境伯の領地だったのだ。
家が絶えた五家の領地は国庫に返納されていたが、存続する三家の領地だけでも相当なものである。
資本家たちは、開発の果実を独占するためにも、辺境伯の領地を買い取らざるを得なかった。
もちろん現状はただの原生林であるから、その買値は二束三文だったが、何しろ大面積だから莫大な金が動いた。
結果として三家の辺境伯は、国内でも指折りの大貴族として命脈をつないだのである。
* *
「それで、辺境伯がどうかしたんですか?」
「うん、実は白城市のクリスト辺境伯が、君をしばらく貸してほしいと言っているらしい。
しかもこれが、白虎帝を通しての正式要請なんだよ」
「それはまた、ずい分大げさですね。
そんなに急ぎの伝令なら、私を呼ぶ前に伝書バトを使った方が早かったでしょうに」
「いや、仕事の内容は伝令じゃないんだ」
「じゃあ、何か荷物の運搬ですか?」
「それも違う。いいか、落ち着いてよく聞いてくれ。
辺境伯には七歳になる長男がおられる。セドリックという名で、なかなか優秀な子らしい」
「はぁ……」
「君にはそのセドリックの、家庭教師をやってもらいたいのだ」
「はぁ!?」