四十一 突撃
通信魔導士の最期は、別動隊の工作員も目撃していた。
彼らはいく分見通しの良い場所まで出ると、フランツの方に向かって大きく手を振った。
敵と間違われて、重力魔法でカエルのように潰されたくはないからだ。
フランツの方でも手を振り返す。
こちらは『もう魔法は解除した』という意思表示である。
それを確認しても、工作員たちは死んだ若者のように、うっかり駆け出すことはしなかった。
彼らは前後左右を警戒しながら慎重に進み、その手には装填済みの連弩が握られていた。
フランツが陣取っていたのは、木の生えていない低い丘の上である。
巨木の存在を無視できれば、そこそこ見通しがよい代わりに、敵からも見つけやすい。
工作員たちはフランツのもとにたどり着くと、すぐさま展開して、周囲に向け連弩を構える。
丘の上には、リーダー格の男だけが登ってきた。
「糞! さっきの攻撃で手の内は知られちまった。あの役立たず、くたばった後まで迷惑かけやがって!
だがまぁ、オオカミどもは警戒して、簡単には突っ込んでこないだろう――と言っても、お前らが気を抜くわけはないか……難儀な奴らだな。
それより、何で戻ってきた?」
「中尉殿こそ、あの土壁は何ですか?」
工作員の男の目には、森の巨木を何本も呑み込んだ、巨大な土壁が映っていた。
フランツは忌々しそうに吐き捨てる。
「敵の魔導士が突然こっちに向かってきた。お前が言っていた、オオカミ使いの召喚士も一緒だ。どうやら、俺たちの偽装はバレたらしい。
魔導士と召喚士は、現在壁の向こうで俺のチビどもと交戦中だ。お前の方は?」
「敵の別動隊と遭遇しました。奴らも我々と同じことを考えたようです。
交戦の結果、三人に中等傷以上を与えましたが、成果の確認はできていません。
こちらは、オオカミにひとり殺られました。
敵魔導士が動いたのは、我々と接触したという情報が伝わったせいでしょう」
「糞ったれ! そっちもオオカミかよ!
それで? この後はどうする気だ!?」
「このルートはもう駄目です。
現時点で二人を失ったのも痛いですが、うち一名が通信魔導士というのが致命的です。
ですから、別ルートでの侵入を模索するより、本土まで撤退して態勢を立て直すつもりです」
「そうか……」
フランツは、ふんと鼻息を洩らした。
「つまり、尻尾を巻いて逃げ帰り、課長に向かって『通信魔導士が死んだので、代わりを調達してください』と要求するわけだ。
課長がどんな言葉で労ってくれるのか、実に見物だな。
課長の野郎、絶対に『護衛につけてやったフランツは、昼寝でもしていたのか?』って訊いてくるぞ。そうなったらお前、どう答えるつもりだ?」
「事実を報告するだけです」
工作員はあくまで冷静だった。
「そいつは……うん、ちょっとばかりマズいな。
最低でも、敵の魔導士と召喚士の首を土産に持って帰る必要がある、ってことだな」
「あの壁は、ゴブリン戦と同じ手ですか?」
フランツは黙ってうなずいた。
工作員は聳える土壁に目をやる。ゴブリンの時よりも、さらに高く長い壁だ。恐らく中で暴れているゴーレムの数も多いのだろう。
「それで、戦況は?」
「じりじり押してはいるが、簡単じゃねえな。
俺のチビどもはとびきり頑丈だし、火にも氷にも強いんだが、敵の魔導士が予想どおりに強い。
まだ若い姉ちゃんなんだが、撃ってくる魔法に馬鹿みたいな魔力をのせてくるんだ。普通の魔導士なら、一発で魔力切れを起こすレベルだぞ。
何しろあのチビどもが、気絶させられるくらいだ」
「気絶……って、ゴーレムがですか?」
「デカいダメージを喰らうと、再生するまで操作不能になるって意味だ。
少しの間だけだから、それ自体は心配ないんだが、精霊の機嫌がかなり悪くなっている。
こいつは、早めに決着をつけないとマズいな。魔力消費は痛いが、チビどもを二手に分けて攻めるか……」
フランツの答えは、独り言に近くなっていた。
彼は目の前の工作員を見ていなかった。ゴーレムが送ってくる、壁の向こう側の状況に没頭していたのだ。
「おい、待て! 何だありゃ? 何をする気だ!?」
フランツが突然、大きな声を上げ、工作員は自分が怒鳴られたように、一瞬身構えた。
彼には壁の向こうが見えないから、まったく訳が分からない。
「どうされました? 中尉殿」
「いや、その……魔導士の姉ちゃんが、いきなりズボンを下ろしたんだよ」
「尿意でしょうか?」
「んな訳あるか! おいおい、上着まで脱いでヘソを出したぞ。
もう下履き一丁だ。若い娘のくせに、なんて破廉恥な……」
「もしかして、色仕掛けなのでは?」
「馬鹿かお前は! ゴーレムに通用するわけないだろう!?
ん? ……うわっ!」
「どっ、どうしました? 状況を、状況をもっと詳しく!」
工作員も男であるから、若い娘が脱いでいると聞けば、ついつい食い気味になる。
「ズロースを……下げやがった」
「おおっ、ついにやりましたか!
それでっ! どんな感じですか?」
「うむ、髪と同じで真っ黒だな。だが喜べ、あまり毛深くはないぞ!」
「それはよいですな!」
フランツは集中しようと、無意識のうちに顔を両手で覆っていた。
映像を少しでも明瞭にしようと、人差し指と中指で両の目頭と目尻を押さえたのだ。
その動きがゴーレムたちに伝わり、彼らに同じ行動を取らせたのだが、フランツはそのことに気づいていなかった。
だが、エイナはそれを『自分を侮辱するために、わざとからかっている』と受け取ってしまった。
そのため彼女は激怒し、絶対零度魔法に吸血鬼の能力まで上乗せした。制御不能の暴走状態に陥ったのだ。
フランツの脳内に浮かんでいた映像が、突然ホワイトアウトした。
強烈な光で目が眩んだような感覚である。
「うわっ!」
彼は反射的に目を覆った(意味のない行動である)。
「どうしました、中尉殿!
今度は何が、何が見えたのですか!!」
工作員の男はフランツの上着を掴み、がくがくと揺すぶった。
「いい年をした大人が、思わず目を覆って絶句するとは、そこまで凄い真似を!?
若い娘が、口に出せない部分まで曝け出したのですか?
けしからん! 実にけしからんです!!」
フランツはこめかみを押さえ、縋りついてくる工作員を、煩そうに突き離した。
「違う! 視覚情報が途切れたんだ。
あの姉ちゃん、また強烈な魔法を撃ったらしい。まったく……どんだけ魔力があるんだよ?」
ゴーレムは自分の目に入ってくる映像を送ってくるが、音までは聞こえない。
それは単純な話で、フランツが彼らの型を造った時、耳をつけなかったからである。
耳があれば音が、鼻をつけてやれば臭いまでが伝わる(それがゴーレムを人型にする理由である)のだが、フランツはあえてそれをしなかった。
魔力の節約という意味もあるが、自分の五感以外からの情報が脳に大量入ってくると、処理が追いつかなくなるからだった。
彼は自分の目から入ってくる情報に意識を切り替えた。
頭の中でぶつっと何かが断裂する感覚がして、酷い頭痛が起きる。
ゴーレムと感覚を共有する行為は、あまり身体にとってよいことではないらしい。
フランツは正面の土壁を睨みながら、黙り込んでしまった。
冷静さを取り戻した工作員が横から訊ねる。
「ゴーレムがまた気絶したのですか?」
フランツはしばらく答えなかった。
やがて、彼は独り言のように言葉を洩らした。
「そのはずなんだが……。
おかしい、土の精霊の反応がない。
精霊なんだから、気絶しようにも意識なんて存在しねえ。まさか……逃げたのか?」
彼は顎の無精髭を片手で撫でながら、思考の渦に沈んでいった。
その意識を引き揚げるように、工作員がフランツの袖を引いた。
「何だよ、うるせぇな!」
振り返るフランツの顔を、工作員は全く見ていなかった。
彼の視線は、前方の壁に釘付けになっていたのだ。
つられて顔を上げたフランツの目に、信じられない光景が映った。
全魔力の大半をつぎ込んで築いた土壁が、崩壊を始めていたからだった。
最初のうち、壁は自重に耐えきれずに崩れたように見えた。
壁を構成する黒土は、固く凍りついていたため、まるで岩壁が崩落しているようだった。
やはり、土の精霊が逃げ出したのだ。
フランツは確信するとともに、敵の魔法の威力に戦慄せざるを得なかった。
そして、追い討ちをかけるように、説明のつかない現象が起きた。
壁の高さが二、三メートルになっても、崩壊の連鎖が止まらないのだ。
しかも、落ちてくる凍った塊りが、下ではなく斜め方向に転がっている。
まるで壁の直下に目に見えない障壁があって、降ってくる土塊を弾いているように見える。
わずか数分で、高さ六、七メートルもあった土壁が、幅十メートルにわたって消滅し、地面が剥き出しとなった。
強制的に開かれたその門を通して、壁の向こう側の景色が見えた。
それは、真っ白に凍りついた死の世界だった。
置物のように立ったまま、地面に張りついているゴーレムたちの足元を、白い蒸気を上げる液体が流れていた。
それは、地上二、三メートルの、何もない空間から降り注ぐ雨であった。
その液体は門外にまで流れ出し、触れた地面を一瞬で凍らせていった。
フランツは工作員の男から、王国の女魔導士とカーン少将の戦いのあらましを聞いていた。
だから未知の大魔法によって、大気が液状化したことも知っている。
だが、実際にこの目で見るまでは、とても信じられない――そう思っていたのだ。
それがいま、目の前で起きていることだった。
やがて立ちこめる白い水蒸気を通して、敵の女魔導士の姿がぼんやりと見えてきた。
いや、正確に言うと、二頭の巨大なオオカミに跨った人影が二人見えているだけであって、そのどちらが魔導士なのかは判別できない。
「もうちょっと水蒸気が薄くなってくれればなぁ……。確か、黒髪の方が魔導士だったはずだ。
さすがもう服を着ちまったんだろうが……糞もったいない!」
* *
黒灰色のライガに跨ったユニ、真っ白で若いロキに騎乗したエイナの二人は、ぴったり横並びのままで走り出した。
彼らの固い肉球は、凍結した地面を何時間でも走ることができたが、エイナの魔法で限界以上に凍りついた大地を走るのは、さすがに命がけだった。
特に液体窒素で濡れた地面を踏めば、致命的なダメージを負ってしまう。
そのため、オオカミたちは足場が安全なのか瞬時に判断し、跳躍するたびに方向を変えていた。
フランツたちには、それが狙撃を避けるために、ジグザグに走っているように見えた。
工作員たちの判断は早い。彼らは一斉に連弩を構えた。
「俺と二番は白いオオカミを狙う。三番と五番は灰色の方をやれ!」
リーダー格の男が短い指示を飛ばした。
彼ら工作員は、お互いの名前を知っていたとしても、あえて番号で呼びあっていた。
指揮官をする男が一番なのは、容易に想像がつく。コンラッドの部隊と遭遇した際、殺されたのが四番なのだろう。
一番が『オオカミを狙う』と言ったのは、魔導士に矢を射かけても自動防御が発動するからだ。それにオオカミの方が的が大きい。
彼我の距離は三十メートルほどなので、ほぼ必殺の距離であった。
「射っ!」
号令と同時に、かしゅん、かしゅん、かしゅん、という乾いた作動音が響いた。
それぞれの連弩から、短い矢が三本連続して発射され、オオカミたちに向けて吸い込まれていく。
しかし、その矢はオオカミの一メートルほど手前で、見えない壁に弾かれてしまった。
戦況を見守っていたフランツの口角が、わずかに上がった。
「物理防御を張ったか」
彼の右手がさっと上がった。
それは魔導士が魔法を放つ時の動作だったが、ただそれだけで、何も起こらなかった。
フランツの前に並んでいた工作員たちが、怪訝な表情で振り返る。
「糞っ! やっぱり駄目か。
精霊が逃げ出したせいで、魔法が発動しねえ!」
彼は歯をぎりぎりと嚙みしめ、唸るような声を絞り出した。
エイナが物理防御を展開しているのなら、魔法攻撃に対しては無力のはずだ。
フランツが重力魔法で敵を圧し潰そうと試みたのは、当然の対抗策である。
しかし、土系統の重力魔法は、土の精霊の助力なしには成立しないのだ。
フランツの立つ丘の周囲からは、ちゃんと土の精霊の気配が感じられる。
それなら、敵がもっと接近したところで、もう一度魔法攻撃を仕掛ければいい。
彼は気を取り直し、工作員たちに声をかけた。
「おい、お前ら。もっと俺の傍にくっつけ。加重魔法の巻き添えを喰うぞ」
重力で敵を圧し潰す攻撃は、〝加重魔法〟と呼ばれる。
これは範囲魔法なのだが、その範囲の設定が大雑把であった。
もちろん、厳密に計算して術式を組めば、もっと精度を上げられるのだが、今そんな余裕があるはずがない。
門を抜けたオオカミは、数秒で森を駆け抜け、フランツたちに襲いかかってくるはずだ。
奴らは防御障壁を張っているから、その勢いで激突すれば、フランツと工作員はその壁に弾き飛ばされることになる。
相当の衝撃を受けるだろうから、立ち直る前にオオカミに襲われれば、万事休すである。
実際、彼らの近くの茂みには、ミナと応援で到着したジェシカとシェンカが、じっと機を窺っていたのだ。
だが、フランツの予想は外れていた。
最後の大跳躍をして、こちら側の地面に降り立ったオオカミたちは、猛然とした勢いで突入を開始した。
白いオオカミの首のあたりから、人間の片手が伸びたのが見えた。
その手の先に、白く輝く光球が浮かんでいたのだ。