三十七 魔法戦
「変だ、敵の魔導士が動いたぞ。ゆっくりとだが、こっちに向かってくる」
フランツ中尉がつぶやいたのは、目的地まで約四キロ、徒歩で一時間半の地点だった。
もちろん、足は止めたりしない。
通信魔導士のリチャードが、不安そうな表情を浮かべた。
「工作員たちの動きに気づいたのでしょうか?」
「その可能性は低いだろう。あいつらの位置は、俺たちとそれほど変わらないはずだ。
敵が罠を仕掛けているとしても、まだ引っかかるような距離じゃない」
「でも、敵の魔導士が動いたということは、待ち伏せを諦めたということですよね?」
通信魔導士の指摘に、フランツも渋々うなずいた。
「まぁ、結局はそういうことになるな。だが、どうやって気づいた?
俺たちをつけ回している連中と連絡が取れている――というなら分るが、奴らがそんな手段を持っているとは考えられん」
「そもそもの話、本当に我々は追跡を受けているのでしょうか?」
「何だ手前、俺の勘を信じねえのか?」
「自分が信じるのは、この目で見たものだけです」
「この野郎! いや……だが、待てよ」
フランツは急に黙り込んだ。
彼の頭の中で、思考がもの凄い勢いで回転する。
中尉が〝誰かに見られている〟感覚を覚えたのは、工作員たちと二手に別れるよりも前のことだ。
その時点で、目的地からは十キロほど離れていたはずだ。
そして、尾行術の訓練を受けている工作員たちですら、そのことに気づいていなかった。
つまり、相手も素人ではない――ということになる。
だが、そんな特殊部隊を森の奥地に、当てもなく配置しておくだろうか?
自分たちが今日、ここを通ると分かっているのなら、もっと前に大部隊で包囲しているはずだ。
なぜ敵魔導士は、待ち伏せという作戦を捨てた?
それはつまり、敵が監視者から情報を受け取っているということだ。
双方に通信魔導士がいるなら分かるが、どうやって情報を伝えているのだ?
結局のところ、先ほどリチャードと交わした議論に戻ってしまう。
だが、そのリチャードは『この目で見たものだけ』しか信じない、と言った。
フランツは戦場で培った自分の勘に自信を持っていたが、監視者の姿を見たわけではない。
そこまで考えたところで、中尉の頭にある考えが浮かんだ。
そうだ! 監視と追跡をしているのが人間ではない――としたらどうだ?
工作員の話では、この森にはオオカミ使いの召喚士が住んでいるらしい。
オオカミなら臭いを探り、工作員が使っているルートに、網を張ることも可能だろう。
もともとこの森で暮らしているのだから、長期にわたる監視態勢を敷くのも容易いはずだ。
そしてオオカミの足なら、短時間で情報を魔導士のもとへ届けられる……いや、そもそも彼らは幻獣である。
召喚士と幻獣は、自在に意志の疎通ができると聞く。
奴らが特殊な通信手段を持っていたとしても、何ら不思議ではない。
「こいつは……ひと筋縄ではいかないか」
長い沈黙を破り、フランツが洩らした言葉の意味を、通信魔導士は理解できなかった。
* *
「敵魔導士が停止しました!」
ロキの毛並みに必死でしがみつきながら、エイナが叫んだ。
「こっちの動きに気づいたってこと?」
怒鳴り返すユニの方も、上体を伏せてライガと一体になっている。
「向こうも感知魔法を使っているでしょうから、当然ですね。
でも、突然こちらの速度が上がったことで、敵は混乱しているはずです。
向こうがオオカミの存在に思い至る前に、一気に距離を縮めましょう!」
「もうこうなったら、ハヤトとトキを突っ込ませる?」
「まだです!
敵が停止したのは、迎撃の準備のためだと思います。
私なら、呪文詠唱の隙をついた奇襲を防ぐため、対物理の防御結界を張っておきます」
「じゃあ、いつならいいの?」
「敵と対峙したら、私が先制攻撃をかけます。
敵がどんな魔法で対応してくるかは分かりませんが、いずれにしても物理防御は解くことになります。
そこを狙ってください!」
「了解!」
それで二人の会話は終わった。
激しく揺れるオオカミに乗ったまま会話を続ければ、舌を噛む恐れがあって危険なのだ。
人間が歩けば一時間半の距離でも、本気を出したユニのオオカミの脚なら、二十分とかからない。
感知魔法で相手の位置は掴んでいるが、それとは関係なしに、敵との距離が急速に詰まっていると、粟立つ肌が教えてくれていた。
* *
イゾルデル帝国は、大国ケルトニアとの間で百年に及ぶ戦争を続けていた。
帝国は早くから魔導士を戦力として軍に組み入れ、彼らは戦場で猛威を振るった。
ケルトニアも遅まきながら魔導士を採用し、これに対抗するようになった。
しかし、魔導士同士で直接的な戦闘が起きることは、極めて稀であった。
魔法という暴力で殴る相手は、あくまで一般兵である。
もちろん、偶然に魔導士同士が遭遇してしまうことはあった。
その場合、お互いが対魔法用の防御障壁を展開し、戦闘が発生しない膠着状態に陥るだけであった。
魔導士は貴重、かつ希少な戦力であるため、自身の安全を図ることを第一とする。
そう教育されるから、当然の結果である。共倒れの危険を冒して攻撃し合うなど、愚の骨頂であった。
だが今、広大な原生林の奥地で、その馬鹿げた戦いが始まろうとしていた。
エイナは敵魔導士との間隔を、三十メートルまで詰めていた。
代表的な攻撃魔法であるファイボールの場合、その射程は二、三百メートル(エイナの場合はその倍以上)あるから、極端な近距離で対峙したことになる。
普通の戦場なら狂気の沙汰であるが、ここは巨木が林立する森の中である。
相手の姿を視認できなければ、攻撃魔法など撃てないのだ。
確かに感知魔法で敵を把握しているから、数百メートル離れた位置からの攻撃は可能である。
だが、感知魔法は障害となる巨木の配置など教えてくれない。
馬鹿正直に魔法を撃っても、途中で樹木に当たるのがオチで、相手に届くわけがなかった。
ちなみに、魔導士は同時に二つの魔法を使えないのが常識だが、感知魔法はその例外であった。
これは、感知魔法が精霊の力を借りない、無属性魔法であるが故の特性である(その代わり魔力消費が大きいのが難点)。
それだけの距離まで近づいて、両者はやっと互いの姿を認めることができた。
フランツは、エイナの顔とスタイルをじっくり確認しようと、樹幹の隙間に目を凝らした。
一方エイナの方は、中年男の容姿に何の興味もなかったので、いきなり腕を前に突き出し、攻撃魔法を放った。
接近する前に唱えておいたファイアボールである。
ファイアボールは、通常の攻撃魔法の中で最も威力があり、殺傷力が高い。
そして、術者の力量次第で魔法の軌道を操ることができたから、相手が巨木の陰に隠れても、回り込んで攻撃ができる。
エイナがこの魔法を選択したのは当然である。
白く輝く光の球は巨木をすり抜けながら、真っ直ぐに飛んでいった。
もちろん相手だって馬鹿ではないから、黙って焼き殺されるはずがなく、それは承知の上である。
恐らく、敵は対魔法用の防御障壁を張って、相手の攻撃魔法を無効化するだろう。
そして安全な結界の中で、敵を殺すための呪文を唱えるはず――それがエイナの予想であった。
そこにオオカミを突っ込ませる。
魔法防御障壁は物理的な攻撃には無力であるから、敵魔導士を一瞬で噛み殺すことができるだろう。
ユニは打ち合わせどおり、エイナが魔法を放つのと同時に、ハヤトとロキに攻撃命令を出した。
二頭の巨大なオオカミは茂みを飛び出し、フランツの背後から猛然と飛びかかった。
見事な作戦であり、完璧な連係のはずだった。
だが、事態は予想外の方向に転がり出した。
まず、オオカミたちが飛び出したタイミングで、地面が大きく揺れた。
激しい縦揺れを伴う、直下型の地震であった。
エイナはほんの一瞬、敵から目を離して地面を見てしまった。
視線を戻すまで、一秒の半分もかからなかったはずだ。
それなのに、敵魔導士の背後には巨大な壁が出現していた。
高さ約五メートル、樹木に隠れてどこまで続いているのか、見当もつかなかった。
エイナは急変した状況に理解が追いつかず、ユニは頭の中で反響するハヤトの怒号に耐えかね、思わずしゃがみこんだ。
壁の正体は、すぐに明らかとなった。
エイナが放ったファイアボールは、地震の影響など受けずに飛び続けていた。
あと数メートルで敵に到達しようかというところで、突然地面が盛り上がったのだ。
大量の土が温泉のようにボコボコと湧き上がり、壁となって上に伸びていく。
「土系の魔導士か!」
エイナは敵の正体を覚ると同時に、ファイアボールの軌道を変えた。
魔法に慣性の法則など作用しない。突然出現した土壁に衝突する寸前だった光球は、直角に向きを変えて上昇に転じた。
まるで空に向けて伸びていく壁と、光の球が競争しているようだった。
だが、地上から五メートル辺りで、ファイアボールの方が力尽きた。
この魔法の軌道操作は、本来水平方向に動かすもので、上下動を想定していない。
エイナは落下してきた光球の支配権を取り戻すと、一か八かで土壁に向けて突っ込ませた。
たちまち爆発が起き、壁にめり込んだ球状の結界の中で、炎の渦が荒れ狂った。エイナの大魔力が引き起こす、物凄い規模の炎熱地獄であった
それでも、十数秒後には魔法の効果が切れ、火炎球は嘘のように突然消え去った。
土壁は健在であった。よほど分厚いのだろう、直径数メールの丸い窪みができただけであった。
凹みの表面は、土壌のガラス成分が融解した結果、てらてらと輝いていた。
ファイアボールが荒れ狂っている間に、土壁は生長を止めていた。
改めて見ると、蒼城市の大城壁を思わせるような巨大な壁で、その中には何本もの太い針葉樹が取り込まれていた。
「すごいわね~! あんな大質量の構造物を魔法で出せるんだ……」
ユニが感心したように声を上げた。エイナもその点では同感であった。
「敵は土系の魔導士だと思います。割と珍しい存在ですね」
「重力魔導士とは違うの?」
「重力魔導士も土系には違いないのですが、かなり専門化した職種なんです。
あの壁の向こうにいる男は、もっといろいろなことができるようです。
よほど精霊の扱いが上手いのでしょう、魔力だけでこんな壁は築けませんよ」
「ふぅん……。で、次はどうする? あんた得意の凍結魔法を試してみる?」
エイナは首を横に振った。
「無駄でしょう。土を凍らせることはできますが、かえって固くするだけで意味がありません」
「じゃあ、いったん撤退して、作戦を練り直す?」
「それを許してくれるほど、敵は優しくないみたいです」
エイナは苦笑いを浮かべ、ユ二の背後に視線を向けた。
ユニが振り返ると、いつの間にか彼女たちの背後にも壁ができていた。
「えっと……ひょっとしてあたしたち、閉じ込められた?」
「はい」
「参ったわね。この土壁って、向こうの魔導士が術を解けば消えてくれるの?」
「いえ、このまま残るはずです。ただ、魔力の供給が途絶えれば、自重で崩れてしまうでしょう。それでもこれだけの質量ですから、三、四メートルの高さにはなると思います。
登るのも降りるのも、相当危険で苦労しそうですね。まぁ、相手が攻撃もせずに帰ってくれるという、夢みたいな話が前提となりますけど」
「あんた、この壁を問題にしない攻撃魔法、何か持ってないの?」
「まぁ、ないことはないですけど……」
「だったら、試してみなさいよ!
あたし、敵が煙草を吸い終えたら攻撃してくる方に、銅貨を一枚賭けるわ」
「じゃあ私は、敵がこちらの悪あがきを、にやにや見物する方に、五枚賭けます」
気乗りがしないらしいエイナは、ユニのごついブーツで尻を蹴られ、仕方なく呪文を唱え始めた。
詠唱は比較的短時間で終わり、エイナは腕を大きく振った。
五本の指先から光の矢が出現し、勢いよく空に向けて飛んでいく。
「ああ、魔法の矢ね……」
それは、ユニでも知っている、有名な攻撃魔法だった。
文字どおり魔力で生成された光の矢で、貫通力が高くて射程も長いという特徴がある。
ファイアボールが、サシャ・オブライエンという天才魔導士によって開発されるまでは、マジックアローが攻撃魔法の主力であった。
ただし、この魔法はファイアボールのように、術者の操作を受けつけなかった。
上空に向けて撃ってしまえば、あとは放物線を描いて落ちるだけである。
普通の魔法は重力の影響を受けないが、マジックアローは本物の矢を模したものなので、律儀にも重力に従うのだ。
要するに、マジックアローは命中率が最悪だったのだ。
もちろん、術者の腕が優れていれば話は別であるが、一般的な魔導士の場合、一割にも遠く及ばないのが常識であった。
そのため、現在ではすっかり廃れてしまい、初心者用の訓練魔法になり下がっていた。
確かにこの魔法なら、六メートル以上ある土壁も、楽々飛び越すことができる。
エイナはとびきり優秀な魔導士だったので、そこそこの命中率も期待していいだろう。
だが、彼女自身は、この攻撃が通じるとは思っていなかった。
上空できらりと矢が光り、白い軌跡が自由落下を開始した。
土壁に遮られて相手の姿は見えないから、エイナは感知魔法に意識を集中させた。
もし何らかのダメージを与えられたなら、多少なりとも反応があるはずだ。
実際のところ、エイナの放った光の矢は、ちゃんとフランツの頭上に降り注いでいた。
ただ、彼は自分と通信魔導士の頭上に、土壁を応用した屋根を作っていたので、まったくの無傷だった。
「駄目……みたいです」
感知魔法の光点に変化がないことを確認し、エイナは申し訳なさそうに報告した。
ユニが何か下品な感想を述べようと口を開いた瞬間、傍らで寝そべっていたライガが、がばっと立ち上がった。
耳がぴんと立ち、鼻には皺が寄り、唇がめくれて牙が剝き出しとなっている。
オオカミの目は、彼女たちの退路を遮る巨大な壁に向けられていた。
ユニとエイナは、反射的にライガの視線を追って振り向いた。
そして、『信じられない』といった表情で、ユニが言葉を洩らした。
「何あれ……さっきまであんなのなかったわよね?」