三十六 救護
オオカミ姉妹が敵の接近に気づいた時点で、彼女たちは中継のミナを通してユニに報告していた。
この遭遇は、実働部隊である曹長以下の兵たちにとっても予想外だったが、作戦担当のユニとエイナにも衝撃であった。
第一報を受けたユニは、即座にエイナに事態の深刻さを伝えた。
「エイナ、まずいわ! あんたの部下たち、敵の工作員と鉢合わせになるみたい!」
「えと、あの、意味が分かりません! どういうことですか!?」
「どうやら敵に、まんまと騙されたようね。
向こうの魔導士も、感知魔法を使ったんじゃない?
その上で自分が囮となって、こちらの背後を突こうとしたみたい。
つまり、あたしたちと同じことを考えたってことね」
エイナは青ざめた。
「どうしましょう! 私の部下たちは、素人に毛が生えた程度の腕なんです。
敵の工作員と立ち合ったら、ひとたまりもありません。
そうだ、今すぐオオカミたちを増援に向かわせましょう!」
しかし、ユニは彼女の懇願をあっさりと否定した。
「いくらオオカミたちの足でも、もう間に合わないわ。
ここはあんたの部下と、ジェシカとシェンカを信じましょう!
それより、あんたはどうするの?
敵も感知魔法を使っているということは、こっちの位置もバレているってことよ。
待ち伏せは意味がないわ」
「確かにそうですが、こっちは迂回部隊同士が遭遇することを知っています。
でも、敵にはそれを知る手段がありません。
今は焦って動かずに、ジェシカたちの報告を待とうと思います」
エイナの判断を、ユニは嬉しそうに受け入れた。
「そうね。あたしも賛成よ。あんた、ずい分成長したわね」
「褒めても何も出ませんよ」
だが、オオカミ姉妹からの続報はなかなか届かなかった。
彼女たちは小隊の兵たちを援護して、命がけで敵と対峙していたから、落ち着いて連絡をする暇がなかったのだ。
小隊が負傷者を出して引き返し、続いて帝国側も撤退したことで、姉妹はやっと戦闘の結果を伝えることができた。
じりじりしながら待っていたユニは、ほぼ負け戦の報告に接し、みるみる表情を硬くした。
部下たちの安否を気も狂わんばかりに心配していたエイナが、それを見逃すはずがなかった。
「ユニさん! 部下たちは無事なのですか!?」
エイナはユニの両肩を掴み、がくがくと揺さぶった。
「ちょっとエイナ、落ち着きなさい! オオカミたちの遠距離通信は、大雑把なことしか伝えられないの。
あんたの部下は撤退したわ。敵も退いたみたいだから、痛み分けね。
向こうは五人、うち一人は殺害したけど、残りは残念ながら無傷。
こっちの方は……曹長さん以外、全員手傷を負っているけど、三人は敵の矢を喰らったみたい。
あたしは彼らの手当てに向かう。ロキとミナを残しておくから、あんたはここを動かないで!(すでにミナは戻っていた。敵との距離が接近して、中継役が不要となったためだ)」
「わっ、私も!」
腰を浮かしたエイナの肩を、ユニが押さえつけた。
「指揮官が狼狽えてどうする! しっかりしなさい!!
いい? あたしは十分な経験と知識があるの。下手な衛生兵より有能なんだから、ここは任せなさい!」
ユニはエイナを叱りつけると、ライガの背に飛び乗って、森の奥へと走り去っていった。
その後をヨミとヨーコが追っていった。
* *
コンラッドが率いる小隊は、敵から十分な距離を取ったところで、負傷者の応急手当てを行った。
と言っても、彼らが所持しているのは、軍から支給された救急キットだけである。
本格的な治療など不可能で、とにかく傷口を押さえて包帯を巻くしかない。
白兵戦で傷を負った連中はいずれも浅傷だったので、兵士同士で手当てをさせた。
矢を受けた三人のうち、腕を貫通したサムは包帯を巻いて、晒で腕を吊った。
ウォルシュは腿から矢を引き抜いて、傷口を力任せに縛った。
連弩の矢は、連射機構に引っかからないように、鏃に返しがない。
傷口が広がる恐れがないので、曹長は遠慮なく矢を引き抜いた。
ぽっかり空いた肉穴からは、たちまち血が流れ出たが、太い血管を傷つけていなかったのが幸運だった。
問題は三本の矢が胴体に突き刺さっているケヴィンだった。
曹長は難しい顔で首を振り、矢を抜くことを断念した。そんなことをすれば、内部の出血を止める手立てがないからだ。
曹長は二本の槍に蔦を渡して応急の担架を作り、ケヴィンを運ぶことにした。
* *
ユニと三頭のオオカミは、曹長たちが担架を完成させたタイミングで現れた。
彼らは思いがけない援軍に驚いたが、ちょっと考えれば、オオカミ姉妹からの連絡を受けたユニが駆けつけるのは当然である。
ベテランの曹長ですら、そこに思い至らなかったということは、それだけ余裕がなかったのだろう。
ユニはライガの背から滑り降りると、迷わず横たわっているケヴィンのもとに駆け寄った。
彼女は両膝をついて素早く傷口を調べ、次いで胸に耳を当て、息を確かめた。
そして、まったく躊躇わずに、胸に刺さったままの矢を両手で握り、いきなり引き抜いた。
続いて、腹に刺さった二本の矢も無造作に抜いて投げ捨てた。
後ろから覗き込んでいたコンラッドが驚き、止めようとして叫んだ。
「ユニ殿! そんなことをしたら出血が!!」
だが、ユニは振り返らず、低い声で応えた。
「出血しているように見える?」
彼女はケヴィンの軍服のボタンを外して開き、シャツをめくり上げて胸を露出させた。
そして、その上から水筒の水をかけ、タオルで丁寧に拭っていった。
乾いた血で汚れていた肌がきれいになり、三か所の矢傷が露わになる。
だが、その小さな傷穴からは、わずかな血が滲むだけであった。
曹長は呆然として、黙り込んでしまった。
一方、てっきり鮮血が噴き出すものと思っていた兵たちは、『信じられない』という目でユニを見た。
「どうやって止血したのですか?
ま、まさか、召喚士殿は治癒魔法が使えるとか……!?」
兵たちの半数は辺境の出身であり、ユニの薬師としての評判をよく知っていた。
彼女が下手な医者よりも、よほど頼りにされているのも常識である。
ただ、目の前で瀕死の戦友を救った手並みは、そんな彼らでも驚かざるを得ない。
ユニは血で赤茶色に汚れたタオルを裏返し、自分の手を拭きながら立ちあがった。
そして、吐き捨てるようにつぶやいた。
「治癒魔法? そんわけないでしょう。
よく見なさい、この子はもう死んでいるわ。まだ温かいから、息を引きとったのはついさっきね。
心臓が止まれば血も流れない。当たり前のことよ」
凍りつく兵士たちを無視して、ユニは巨木に寄りかかって座っている、残りの負傷者の方へと向かった。少なくとも、彼らは生きているのだ。
曹長だけが、黙ってケヴィンの衣服を元に戻してやった。
彼だけは、矢傷から血が湧き出さないのを見た瞬間、部下の死を覚ったのだ。
サムとウォルシュの傷口は小さかったので、ユニは縫う必要はないと判断した。
彼女は下手糞に巻かれた包帯を解き、塗られてあった傷薬を、ナガサ(山刀)の背でこそげとった。
そして代わりに、自分が調合した薬をたっぷりと塗り込め、新しい包帯を巻きなおした。
軍が支給している応急用の傷薬は、大した効果がない。それは兵士たちの間でもよく知られていた。
それに対してユニの薬は、強力な止血と化膿止めの効果がある。
第四軍の軍医ですら、ユニから高値で仕入れていると噂されていた。
ヨミとヨーコの胴体には、応急担架の槍がしっかりくくりつけられた。
ケヴィンの遺体は毛布にくるまれ、戦友たちの手でそっと担架に乗せられた。
ユニはジェシカとシェンカに細々とした指示を伝えた上で、兵たちから離れた場所にコンラッドを呼んだ。
「あたしは一足先に帰るわ。
あなたたちは怪我人を抱えてるんだから、急がずに戻ってちょうだい」
だが、曹長は首を横に振った。
「お言葉ですが、少なくとも自分と三人の兵は、まだ十分に戦えます。
我々は少尉殿の部下です。指揮官を一人で戦わせる気などありません!」
ユニはうんざりとした表情で溜息をついた。
「うん、曹長さんの気持ちは分かるんだけどね。
肝心のエイナが、一人で敵に向かっていっちゃったのよ。
さっき、ロキが困り果てて連絡してきたわ」
「それは……あまりに無茶な!」
「ねっ、そう思うでしょう? あのバカ娘、部下が怪我したって聞いて、頭に血が上ったのいかしら。
あたしとライガの足なら、まだ間に合うわ。
それに、今エイナとあなたたちが合流すると、いろいろまずいって分かるでしょ?」
ユニはちらりと担架の方に目を遣った。
曹長は俯いて唇を噛んだ。
「……ですね。分かりました。少尉殿のことを、よろしくお願いします」
彼が顔を上げた時には、もうユニの姿は消えていた。
* *
ユニを乗せたライガは、矢のように森の中を駆け抜けた。
エイナの位置は、ロキがライガに伝えてくる。
彼女は自分の足で移動しているらしい。ロキが騎乗を拒否したのかもしれない。
両者の距離は三キロ程度しか離れていなかったので、あっという間に追いつくことができた。
茂みの中から目の前に飛び出してきたユニに、エイナは驚いて立ち止まる。
彼女が何か言おうとする前に、ライガから滑り降りたユニが怒鳴りつけた。
「馬鹿! なんで勝手に動いたのよ!?」
「えと、あの……」
ユニの剣幕に、エイナは思わず口ごもった。
「部下の敵討ちでもするつもり?
ご立派な覚悟だけど、あんた一人で戦っているわけじゃないのよ!」
「ちょっ、ちょっと待って!
ユニさんこそ、落ち着いてください!」
エイナは慌てて手を前に出して、誤解だと言うように左右に振った。
「もう待ち伏せをする意味がないんですよね? だから、あえて動いたんです。
当然、オオカミたちが連絡するでしょうから、ユニさんが戻ってくると踏みました。一人で突出するほど、私も馬鹿ではありません。
それより! 部下の怪我はどうだったんですか!?」
ユニは大きく深呼吸して息を整え、落ち着こうとした。
「矢が当たった三人以外は軽傷だったわ」
「その三人とは誰ですか!?」
問い質されたユニは一瞬、言葉に詰まった。
彼女はまだ、エイナの部下たちの名前をちゃんと覚えていなかったのだ。
「ええと、背がひょろっと高くて、ボーっとした子が腿を射られてたわ。
背が低くてどん臭い子は、左腕貫通。二人とも、十日もあれば復帰でそうよ」
「ウォルシュとサムですね(ユニの説明で通じてしまった)!
重傷者は誰でした?」
「ほら、あんたに気やすく話しかけてた、ちょっと生意気な子がいたじゃない?」
「ケヴィンが!?」
エイナの声が悲鳴交じりに裏返った。
「ああ、そんな名前だったわね。
確かに彼は病院行きね。でも命に別状はないから、安心してちょうだい」
エイナは腰が抜けたように、その場にへたり込んだ。
ユニは思わず顔を歪めたが、幸いエイナには気づかれなかった。
「指揮官のあんたが、そんなざまでどうするの?
それより、動いた理由をちゃんと説明してちょうだい」
エイナは立ちあがって、自分の頬を両手でぴしゃりと叩いた。
「はい。帝国側が私の存在に気づきながら、罠を仕掛けたというユニさんの見立てには、私も同感です。
ただ、現時点では、敵魔導士はユニさんのことを知りません。私たちはその優位を利用すべきです。
ですが、撤退した工作員が魔導士と合流すれば、すべてバレてしまいます。
ですから、私たちはその前に敵魔導士を叩くべきだと考えました」
エイナの言い分は筋が通っていた。
彼女が冷静さを失っていないことに、ユニは内心で感心していた。
「分かったわ。いきなり怒鳴って悪かった。
エイナは罠に気づいたあげく、単独で突っ込んでくる間抜けを演じる。
敵魔導士の注意があんたに向いている隙に、オオカミたちに襲わせればいいんでしょう?」
「はい! 呪文を唱える暇さえ与えなければ、勝負にならないはずです」
二人の女はうなずき合い、それぞれのオオカミの背中に跨った。
* *
「ふぇっくしょん!」
突然、フランツが大きなくしゃみをした。
すぐ後ろをついてきていた通信魔導士は、「ひっ!」と叫んで飛び上がった。
「驚かさないでください、中尉殿」
通信魔導士はリチャードという、痩せて貧相な若者だった(彼は情報部員ではないので、ちゃんと名乗っていた)。
東部開拓民の息子で、東の果ての貿易港北カシルと、東部軍司令部のあるクレア港との間で、通信の中継を務めていた一人である。
どういう話のつけ方をしたのか分からないが、情報部が横車を押して引っこ抜いてきたらしい。
「ああ、悪かったな」
フランツは大きな音をさせて、洟をすすりあげた。
「風邪でも引かれましたか?」
心配など一切していない、上辺だけの質問だ。
「いや、どっかで誰かが、俺の噂をしてたんだろう。
それも、とびきりのいい女に間違いねえ」
「はいはい」
「あっ、手前、信じてねえな?
中尉はそう言って、自分のうなじを平手でぱちんと叩いた。
「何だかなぁ……さっきから、首の後ろの毛がチリチリと逆立つんだよ。
どっかの美女が、こっそり熱い視線を向けている証拠だろう?」
フランツ中尉は振り向いて、にやりと笑ってみせた。